2014年05月22日

太田道灌展(紙上)

今回は趣向をかえて、紙上にて「太田道灌展」をおこないます。これらの展示品の大部分は、特別のときにのみ拝見できるか、レプリカのみ拝見できるようになっています。いずれの場合も原則、写真撮影は許可されませんので、残念ながら写真を掲載することはできません。
展示品の(伝)の有無については、一般の扱いに準じ、厳密な考察をしてはいません。
各地の太田道灌銅像については、別途掲載していますので省いています。
追加、修正等の必要がある場合、本ブログのコメント欄にご記入いただければありがたく思います。                                                                                                                               太田道灌展(紙上)  展示品一覧
                    2014.5.21作成

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(東京都北区・靜勝寺・道灌堂の説明板)
(T) 道潅の木像と画像・現在の収蔵場所・住 所・備 考
1 太田道灌木像・靜勝寺・東京都北区・レプリカ3個
2 太田道灌木像・円福寺・東京都板橋区
3 武者絵・大慈寺・神奈川県伊勢原市
4 肖像画・埼玉県立歴史民俗博物館・埼玉県越生町・龍穏寺所有
5 英勝院木像・英勝寺・神奈川県鎌倉市
6 太田資頼法体画像・養竹院・埼玉県川島町
7 叔悦禅師画像・養竹院・埼玉県川島町
8 太田道灌公所用四面兜図・靖国神社・ 東京都千代田区

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(石岡市・総社神社の説明板)
(U) 道灌の遺品等・現在の収蔵場所・住 所・備 考
1 琵琶(千鳥)・福井市立郷土歴史博物館・福井県福井市
2 蘭奢待(らんじゃたい)・尾張徳川美術館 ・愛知県名古屋市・源頼政伝来 道灌所蔵
3 久国太刀・久国神社・東京都港区
4 漆皮軍配・常陸国総社神社・茨城県石岡市
5 漆皮軍配・亀ヶ岡八幡神社・東京都新宿区
6 鰐口(わにぐち)・本行寺・東京都荒川区
7 鉦(しょう)・本行寺・東京都荒川区・源持資の刻名あり
8 頬当て・日向薬師・神奈川県伊勢原市
9 伝・太田道灌鎧・鶴岡八幡宮・神奈川県鎌倉市・桔梗紋
10 伝・太田道灌鎧・草津太田家・ 滋賀県草津市
11 古天明霰釜・大園寺・埼玉県さいたま市
12 雲版・円福寺・東京都板橋区
14 太田資正遺品・大附家・埼玉県都幾川町・ 鞍、鐙、短刀、系図
15 紙本着色叔悦禅師頂相・養竹院 ・埼玉県川島町

(V) 文書と書簡・現在の収蔵場所・ 住 所・備 考
1 太田道灌状 松平家本・島原公民館図書部・長崎県島原市
2 太田道灌状 国学院大本・国学院大学・東京都渋谷区
3    太田道灌状 尊経閣文庫本・尊経閣文庫・東京都文京区 
4 江戸静勝軒詩序並江亭記等写・鎌倉国宝館・神奈川県鎌倉市
5 大田資武状・養竹院・埼玉県川島町
6 太田道灌禁制・宝生寺・横浜市中区
7 太田道灌書状・宝生寺・横浜市中区
8 太田道灌書状・保阪家・鎌倉市
8 太田道灌書状・東京都歴史文化財団・東京都墨田区
9 太田道灌書状・東京都歴史文化財団・東京都墨田区
10 太田道真書状・東京都歴史文化財団・東京都墨田区
11 花月百首(続群書類聚)・各地図書館
12 太田家記・国立公文書館・ 東京都千代田区
13 伝・道潅自筆和歌短冊 ・ 草津大田家・滋賀県草津市
14 武州江戸城歌合・国立公文書館 ・東京都千代田区
15 川越千句・埼玉県立博物館・埼玉県さいたま市
16 紅皿欠皿縁起・大聖院・ 東京都新宿区
17 太田道灌雄飛録・太田資暁氏・東京都武蔵野市

太田道灌の周辺の人物に関する遺品や関連文書は、たくさんありますが今回は、英勝院の像、太田資正の遺品、太田資武状等の限られたものにとどめました。
posted by otadoukan at 08:09| Comment(21) | 太田道灌展(紙上)

2016年05月02日

吉良氏の世田谷城址

小田急線で新宿から五つ目の駅は豪徳寺です。豪徳寺駅から東急世田谷線に沿って10分も歩き、案内にしたがい左へ曲がると、豪壮な豪徳寺へきます。このあたりが吉良(きら)氏の世田谷城本丸址といわれ、そこに吉良氏が豪徳寺を建てました。豪徳寺は、江戸時代に井伊家の菩提寺となり、境内には井伊直弼はじめ井伊家歴代の墓所があります。
豪徳寺の参道を出て、左を見ると世田谷城址公園が見えます。そこには土塁や空堀が残り、世田谷区教育委員会の説明版に「吉良氏は太田道灌に与力した」と記されています。
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(豪徳寺本堂)
世田谷城址公園.JPG
(世田谷城址公園)
「太田道灌状」28段には、次のように記されています。
「当方に同心する御奉公衆並びに両国の一揆、その他当方家風中の忠節の事は、一々委しく申すに及ばず候。吉良殿様の御事は、最初より江戸城に御籠り候、彼の下知を以って城中の者共に動き、数ヵ度合戦し勝利を得せしめ候」
《当方に味方する(政知の)家臣たちと武蔵、相模の一揆、その他当方の家中の忠節をつくす者たちについて、一々委しくは申しません。吉良様の事は、最初から江戸城に籠城しました。彼の命令で城中の者たちは、ともに行動し、数回の合戦に勝利を得ました》

吉良氏は足利一門において名門とされ、分家の今川家とともに、足利将軍家の連枝としての家格を有しました。世田谷吉良氏はその庶流奥州吉良氏にあたり、はじめは鎌倉公方家に仕え、14世紀後半に吉良治家が世田谷城を構え、同地に土着しました。以後、扇谷上杉方の太田道灌に与力して活躍しました。「太田道灌状」の中で道灌は、吉良氏を吉良殿様と破格の敬称で呼んで処遇しています。
吉良氏は世田谷と横浜市の蒔田(まいた)を拠点としていたので「世田谷吉良殿」「せたがや殿」「蒔田御所」などと呼ばれ、道灌の詩友万里集九は「梅花無尽蔵」の中で「吉良閣下」という尊称で記しています。忠臣蔵の吉良氏は本宗家の吉良氏です。
1476年(文明8年)、道灌は駿河へ出陣し、今川家の内紛を収めました。その帰途、伊豆北条の堀越公方を訪ね、一部始終を報告するなどして誠意をつくしたので、吉良氏等の堀越公方家の御奉公衆の支援を受けたと思われます。吉良氏は名家ではあったものの戦に縁が薄く、なぜか先祖代々の武功が何も伝えられていません。「太田道灌状」によると、その吉良氏が江戸城の留守番をしながら、数回の合戦を指揮して勝利したということですから、道灌の人の配置が絶妙であったというべきです。
由来碑.JPG  
(世田谷城の由来を記した碑)
代官屋敷跡.JPG  
(代官屋敷跡)
世田谷城は経堂台地から南に突き出た舌状台地上に占地し、城域の三方を取り囲む様に麓を烏山川が蛇行し、天然の堀となっていました。この城で持続した吉良氏は後に、後北条氏と縁組をしてその配下に入りました。

世田谷城址公園から南へ500メートルも歩いて上町駅を越えると、ボロ市通りがあり、世田谷区郷土資料館と代官屋敷(都史跡)跡があります。この資料館には、吉良氏の詳しい説明資料と文書があるので必見です。さらにここには、思いがけなくも江戸氏の末裔木多見氏の資料も展示してあるので助かります。上町駅より北東へ少しいくと吉良氏の菩提寺勝光院があり、吉良氏代々の墓所(区史跡)があります。
世田谷城址公園=東京都世田谷区豪徳寺2丁目
世田谷郷土博物館・代官屋敷跡=東京都世田谷区世田谷1丁目
勝光院=東京都世田谷区桜1丁目
posted by otadoukan at 08:45| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)

2016年06月01日

渋川氏の蕨城址

東京都のJR山の手線の池袋あるいは田端から東北線に乗り換えて、約20分で蕨市につきます。駅の西口から西方へ徒歩約10分で、蕨城址公園にきます。城址の入り口に蕨市教育委員会の説明版がありいわく、
「蕨城は、南北朝時代に渋川氏が舘を構え、大永4年(1524年)に北条氏綱により攻撃され、破壊されたと言われています。江戸時代の初めには、徳川家の鷹狩り用の御殿(休憩地)として城跡が利用されました。江戸時代に記された絵図面によると東西が沼、深田に囲まれた微高地上に、幅約11.8mの囲堀と幅約8.2mの土塁をめぐらし、堀の内側の面積は約12,200uとなっています。
(中略)」また昭和36年(1961年)11月、本丸跡に文学博士諸橋轍次撰書の『蕨城址碑』が建立され、現在は蕨城址公園として整備されています」と。
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(蕨城本丸跡)

「太田道灌状」35段には、次のように記されています。
「渋川左衛門佐殿の御事は、板倉美濃守は最初より道灌に同心の儀をもって、相州所々にて合戦せしめ、御迎に参り、用土原においての御合戦の時も手を摧き、白井へも御共致し、御再興以後小机並びに相州奥三保、下総境根原合戦時も戦功他に異なり候、左衛門殿は白井御留守、相州並びに鎌倉辺りの所々において、ご自身太刀打たれ、御家風中で少々討ち死にし、御粉骨比類なく候処、御名字の地渋川庄今も相違せしむるの段、都鄙に聞え、誠に然るべからず存じ候」《渋川左衛門佐殿の事は、(家老の)板倉美濃守が最初より道灌に同心の行動をとって、相州の所々にて合戦をし、(顕定を河内御座へ)お迎に参り、用土原においての御合戦の時も相手を討ち、白井(城)へもお伴をし、ご再興以後も小机城並びに相州奥三保、下総境根原合戦の時も戦功が他に勝っています、左衛門殿は白井城に留って守り、相州並びに鎌倉あたりの所々において、ご自身太刀を振るって御家中で少々討ち死にし、ご粉骨比類ないところ、御名字の地渋川庄が今も安堵されていない事実が、都鄙に聞え、誠にあってはならないことと思います。》
 
渋川義鏡は、室町時代後期の武将。享徳の乱を鎮めるために室町幕府から関東に派遣された堀越公方足利政知の補佐役として、共に下向しました。関東(武蔵蕨郷、現在の埼玉県蕨市)に分家が存在していた事、渋川氏が足利氏一族でも家格が高い家柄であった事が理由ではないかといわれています。
渋川氏が関東に派遣された長禄元年は、この時代のひとつの節目となる年でした。江戸城と河越城の築城、五十子陣城の構築、堀越公方の関東下向など重要な出来事が目白押しです。
「太田道灌状」の一節「御名字地渋川庄干今令相違之段」の原注に「自山内渋川所領横領」とあるように、渋川氏は山内上杉家に所領を没収され、後に、扇谷上杉家とも対立して失脚しました。渋川氏は、太田道灌の与力として大活躍したことが裏目に出て、上杉氏の不興を呼んだと思われます。
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(蕨城址碑)        
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(「青春」の碑)
群馬県渋川市にあった渋川庄は、平安時代末期にもともと、出自不明の渋川氏が領していたものの、渋川氏が没落して欠所となっていました。その後斯波氏の一族がその地に拠り渋川氏を名のりました。その支族は蕨城に拠り栄えていました。
蕨城址の本丸跡に巨大な「蕨城址碑」があります。碑の裏面に、諸橋轍次撰の長い碑文が刻まれています。いわく「蕨城の歴史は貞治年間武蔵国司渋川義行ここに城居し長禄元年曽孫義鏡関東探題として鎮を定めてより二百余年代々渋川氏の拠るところとなる(後略)」と。

また道灌は「太田道灌状」35段に「相州並びに鎌倉辺りの所々に於いて」と、相州と鎌倉を立て分けて記しています。これが当時の一般的な認識であったとすると、道灌にかかわる「相州」の記述は、鎌倉ではなく伊勢原を指すことになり、道灌の出生地に関しても伊勢原である推測がなりたってきます。

またこの城址には、アメリカのアラバマ州の実業家サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman 1840〜1924)の詩「青春」(YOUTH)の詩碑があります。その中にいわく、
「(前略)Nobody grow old by merely living a number of years; people grow old only by deserting their ideals.(後略)《人は、年を重ねることのみで老いることはなく、人は、その志操を捨て去ることでのみ老いるのです≫》(尾崎孝訳)
蕨市出身の岡田義夫氏がこの詩の全文を翻訳したことにちなみ、英文と和文併記の詩碑がこの城址に建てられました。
蕨城址=埼玉県蕨市中央4-21
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2016年08月01日

道灌紀行余話(東伊豆町)

伊豆熱川温泉「道灌の湯」復活                                    
伊豆新聞の2016年7月9日号に次のように記されています。
『「道灌の湯」シンボルに、休止源泉再生へ、湯煙上げ夜は電照、熱川観光協。
東伊豆町の熱川温泉観光協会は、濁川河口にある同温泉発祥の湯で、現在利用を休止している源泉「道灌の湯」を再整備する。温泉を引き込んで湯煙を上げ、夜間はライトアップするなどして同温泉のシンボルとして再生する』
『地元には、江戸城を築城した室町時代の武将太田道灌が、天城に巻き狩りに来た際、川の河床から湧き出た温泉で湯あみする猿を見つけ、自らも湯に浸って疲れを癒したという伝説がある。熱川温泉の歴史は、道灌の湯の名で住民に尾古くから親しまれたこの第1号源泉から始まり、伊豆屈指の温泉場として発展してきた。(中略)同協会関係者は、「道灌の湯を熱川温泉の新しいシンボルとして再生し、湯煙立つ温泉やぐらとともに全国に発信したい」と意気込んだ。』
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(道灌湯の入り口に立つ太田道灌とサルの像)
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2017年01月01日

道灌紀行ニュース NO.4

大田道灌の新銅像が登場(越生町)                            
埼玉県越生町役場の玄関ロビーに、太田道灌の新しい銅像が登場しました。これは、第12体目の太田道灌銅像です。2016年12月5日朝8時30分より、越生町役場玄関ロビーにて、太田道灌銅像の除幕式がとり行われました。除幕式には、新井町長はじめ、町議会議長、観光協会長、教育長、埼玉県立越生高校の校長と美術科教諭、地元の代表などが出席しました。
この銅像は、従前より越生町の町長室に秘蔵されたいた、三枝惣太郎氏制作の小さな太田道灌像を原像とし、地元の埼玉県立越生高校美術科の六田教諭が制作したものです。80cm位の木製の台に立つこの銅像は、基盤の幅が110cmで、高さがあやい笠まで130cmであるので、やや小振りの太田道灌像です。
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(弓矢をもって踏ん張る道灌像)
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(若き日の道灌像・戸口訓男氏撮影)
この像は、弓を持った狩り姿であるものの、足を踏ん張り半身になって身構える、極めて躍動的な道灌像です。道灌像の表情はやや若く、その背後のガラスに山吹の里歴史公園の絵が焼き付けられています。したがってこの像は、道灌が若き日に、父道真のもとを訪れたときの情景をほうふつとさせる傑作です。越生町にまた観光名所が一か所増えて、めでたしめでたしというべきです。
ちなみに、原像の制作者である彫刻家の三枝惣太郎氏とは以下のような人です。
◆ 三 枝 惣 太 郎 【略 歴】
昭和9年 第15回帝展第三部彫刻部 初入選
昭和10年  東京芸術大学卒業
昭和16年  構造社会員となる
以来、帝展・文展・日展・新日展に連続出品(連続入選)
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(越生町役場町長室秘蔵の三枝惣太郎制作の太田道灌像の原像)
日展名古屋展中日賞受賞。
名古屋タイムス秀抜店 秀選展出品
紺綬褒章受賞
日展会友
日本美術家連盟会員
日本彫塑会会員
新構造社(絵画)会員
東海彫塑会会員
名古屋芸術大学美術学部名誉教授

追記
現在、東京国際フォーラムのガラスホール1階入り口で太田道灌銅像写真展(1月1日〜6日)が行われています。残念ながら、越生の道灌銅像写真は、今回間に合っていません。
また地下1階では、日本の城ギャラリーが行われています。1月6日13:30と15:30には、この場所に伊勢原甲冑隊が出撃しました。
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(東京国際フォーラムの太田道灌銅像写真展)
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(甲冑隊入城)
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(太田道灌の勝どき)
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(伊勢原甲冑隊)
posted by otadoukan at 00:00| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)