2014年07月15日

「太田道灌状」の中の気になる地名・成田陣

「太田道灌状」の中で、脇役ではあるものの、度々出てきて気になる地名があります。それは、成田陣です。成田陣へは、太田道灌や長尾景春などいろいろな人物が駆けこんでいます。

1.藤原氏の子孫・成田氏
成田陣へは、JR、秩父鉄道の熊谷駅から、少々の距離がありそうなので車でいってみました。国道17号線熊谷バイバスを北上すると、熊谷市内で上之(かみの)という交差点へきます。その交差点から、斜め南東の方向へ小路を入ると、約50メートル程で泰蔵院という寺の駐車場があり、その前に成田館跡すなわち成田陣跡の標柱と碑があります。標柱には次のように記されています。
「藤原鎌足の子孫藤原道宗の子である助高(資隆)が、大喜元年(一〇五三)に成田の地に館を構え、成田氏を名乗った。その後成田氏は、「関東八家」と称されるまでに勢力を拡大し、成田親泰が城主となるまでの四百余年この地に住み続けた」

成田陣標柱.JPG 
(熊谷市教育委員会が立てた標柱)

成田陣碑.JPG     
(成田館址の碑)
現在このあたりは畑や宅地となり、土塁や堀などの遺構は見あたりません。館跡の碑のとなりには、赤い屋根の大きな牛舎があるだけです。

2.去就に迷う成田氏  
「太田道灌状に曰く、「(文明10年)三月十日、河越より浅羽陣へ差し懸かり、追い散らし候の間、景春は成田御陣へ参り、千葉介と相談、馬を返して羽生峯に取り陣候。同十九日小机より同名図書助の一勢を相添え、河越へ越し、翌日二十日羽生陣へ向かい修理太夫馬を寄せる間、千葉介、景春一戦にも及ばず退散せしめ、成田御陣へ逃げ参り候」と。
これによると長尾景春は、太田道灌軍に追われてたびたび成田陣に逃げこんで自らの与党と談合におよんだようです。
また曰く、
「(文明10年7月)十七日に荒川を越し鉢形と成田の間に陣を取り候の処、夜中に簗田中務大輔方より申される如くは、上州において御申合され候首尾を以って、上下御一統有る可く候。(中略)然る間に修理太夫は森腰に陣を取り、道灌は其の儘成田へ陣を張り、榛沢へ御着を待ち請け奉り候」
成田陣と鉢形城の間は、約20キロもあるので、その間に陣を取るとは、今日の我々の感覚では奇妙な表現です。今日試みに、熊谷(成田陣跡)から寄居(鉢形城)までの国道140号線を走ってみると、メルクマールとなるような山も川もなく、街道筋の館や宿場の跡もありません。往時はこの地域には、ただ高萱の武蔵野の原が広がっていたので、あのような表現になったと思われます。
景春のみならず道灌もまた、成田陣を張ったとなると、成田氏の立ち位置は不可解になります。古河公方方と上杉方の中間の忍城と成田陣の去就は確かに不確かなものでした、そのことを示す次のような一節もあります・
忍城.JPG  
(現在の忍城址・行田市)
「忍城の雑説候う由粗(あらあら)申し来り候間、不慮の越度候ては、彌々難儀たるべき旨存じ、翌日二十九日久下へ陣を寄せ、成田下総守に力を付候之間、彼の城御無為に候。御不審に候えば、事の次いでに此の如く申す段成田に御尋ね有るべく候」(第24段)と。
太田道灌は、成田陣で第15代の成田下総守親泰を勇気づけ、忍城の忍大丞の寝返りをけん制したのでした。久下(くげ)という地名は、今も行田市にあり、成田陣から南方へ約4キロのあたりです。 成田親泰は、道灌没後の1489年(延徳元年)に、ここから約4キロの所にある忍大丞の館を襲撃して奪い取り、湿地の中に忍城を構築しました。近年、映画「のぼうの城」で有名になった名城です。

 成田氏の菩提寺、曹洞宗の太平山龍淵寺(りゅうえんじ)は、国道17号線熊谷バイパスの上之交差点から北方へ約50メートルのところにあります。その墓域に、成田家歴代と旧臣累代の供養塔や五輪塔などがあります。この寺には、成田氏17代の興亡を記した「成田記」が所蔵されていました。
龍淵寺.JPG     
(成田氏の菩提寺・龍渕寺)
成田氏供養塔.JPG
(成田家の供養塔)
成田陣跡は、熊谷市の指定文化財・記念物。史跡です。
成田陣跡・成田館跡=埼玉県熊谷市上之553
忍城=埼玉県行田市本丸17−23
龍淵寺=埼玉県熊谷市上之