2015年05月04日

道灌の銅像余話

1. 道灌の銅像は12体
太田道灌は文武両道かつ悲劇の名将であったので、いつどこでも庶民の人気が高く、その銅像は関東とその周辺に合計11体あるとされていました。その11体を、種類別に整理してみます。
狩姿の道灌像=東京国際フォーラム、川越市役所前、伊勢原市役所前、越生町の龍穏寺、東京都の新宿中央公園、佐久市立美術館 、
騎馬の道灌像=東京都墨田区の日暮里駅前、さいたま市岩槻区の芳林寺
文人の道灌像=さいたま市旧岩槻区役所跡地
猿を連れた道灌像=東伊豆町の熱川温泉
嗣法の道灌像=川越市の長福寺
道灌銅像のタイプはヴァライエティに富み、文武両道の多チャンネル武将、太田道灌の面目躍如というべきであります。
ところが最近、太田道灌の等身大銅像が、もう1体あることが判明しました。その銅像は現在、事情があって某所に保管されていて公表できません。やがて、太田道灌大河ドラマが実現した頃、忽然として世に現れると、私は期待しています

2.まぼろしの銅像に酷似のレプリカ発見
実は、さらにもう一体の太田道灌銅像の傑作がありました。それは、朝倉文夫氏の実兄渡辺長男氏が制作した、パブリックアートです。その道灌銅像は、1920年(大正9年)に、旧東京府庁舎の正面玄関前に設置されたけれども、1943年(昭和18年)に供出されて戦場に消え、石こうレプリカも戦災で焼失しました。下の写真は、昭和18年4月8日の読売新聞に掲載されたもので、そのキャプションに「東京府庁の正面玄関で決戦下の大東京を睨んでいた太田道灌と徳川家康の銅像が、こんど銅像仲間に率先して勇ましく出陣した。両銅像とも約170貫である」と記されています。

戦場に消えた、渡辺長男氏制作の太田道灌銅像の実物は、現在見るべくもありませんが、私は先日、それによく似た銅像のレプリカにお目にかかり、こころを騒がせています。
埼玉県越生町龍が谷に、太田道灌の子孫である吉澤明吉宅を訪問しました。春たけなわであったので、周囲の山からうぐいすの声が、心地よく聞こえていました。私が、留守番のおばあちゃんに「静かな所ですね」と言うと、おばあちゃんは「静かすぎます」とおっしゃいました。
初対面ではあったけれども、私が太田道灌のことをいろいろ話すと、おばあちゃんは私の意図を理解して、吉澤家に伝わる、いろいろなお宝を見せてくれました。
吉澤家の過去帳の冒頭には「太田道真五代孫太田新六郎康資長男太田駒千代、弟太田大炊の助(幼名六之助後覚左衛門)の子、吉澤覚之進資政より出づ」と記されています。吉澤家には、その他何種類かの系図があります。それらによると、太田康資の二男、大炊助は母方の姓を名乗り、吉澤覚左衛門として八王子城の北条氏照に仕えました。八王子城落城後に、吉澤覚左衛門は越生で帰農し、その子孫が今日に続いています。吉澤家の現当主は明吉氏で、先代は八郎氏、そのまた先代は七之助氏です。
吉澤七之助氏は、昭和11年7月27日の太田道灌公四百五十年祭に招かれ、そのとき「東京市広報」と記念品の「太田道灌銅像のレプリカ」を受け取りました。この銅像のレプリカを拝見したところ、昭和18年に供出されて戦場に消えた銅像とたいへんよく似ていますが、たしかにそうであるかどうかは確認できません。
道灌像と家康像.JPG 
供出される道灌像と家康像(昭和18年4月8日の読売新聞より・拙著「道灌紀行」より転載)
 
道灌銅像.JPG
吉澤家に伝わる、昭和11年の太田道灌銅像のレプリカ(約30cm)。

昭和11年7月27日に、吉澤七之助さんが受け取った「東京市広報」一面には、太田道灌像の写真とともに『道灌公銅像由来』と題して、下記のような説明文が記されています。
東京市報.JPG
昭和11年7月27日に、吉澤七之助さんが受け取った「東京市広報」、写真は太田道灌銅像。
《道灌稿銅像由来》
「市庁舎玄関にある太田道灌公像は明治四十四年徳川家康公像と共に現在の場所に安置されたものであって、家康公像は黒岩淡哉氏作であり、道灌公像は従来白井雨山氏作とされていたが昭和六年に至り岡崎雪声氏作と判明した。
 仰かも此の両像は明治四十一年本市が日本橋架設に際し装飾用として製作されることとなり道灌公像は雨山氏に家康公像は淡哉氏に依頼し同年此の両像が完成して上野博覧会に出陳された。然るに日本橋の装飾用とする計画が変更され道灌公像は其のまま美術学校倉庫に保管された。後に此の両像が市庁舎玄関を飾ることになったがその際、何故か道灌公像のみは雨山氏作の代わりに之を基本とし作った岡崎雪声氏作の道灌公像が納められたのである。此の事情は永い間世に出なかったが、先年帝展準備委員会の調査に依って故雨山氏作の道灌公像が市庁舎外に在ることが判り更に建畠大夢氏が調査した所雨山の道灌は、岡崎氏の女婿彫刻家渡辺長男(朝倉文夫氏兄)氏の所に現存することが判った。」
文中の白井雨山、岡崎 雪聲、建畠大夢について、筆者註を添えます。
○白井雨山( しらいうざん)
1864−1928、明治-大正時代の彫刻家。明治31年母校東京美術学校 (現東京芸大)の助教授となり、彫塑(ちょうそ)科を新設してその発展につとめる。37年教授。文人画にもすぐれた。
○岡崎 雪聲(おかざき せっせい)1854―1921、明治から大正の鋳造師、調金家。彫刻家の渡辺長男は娘婿。
○建畠大夢(たてはたたいむ)1880―1942、彫刻家、白井雨山の弟子。

「東京市報」の「道灌公銅像由来」によると、白井雨山の道灌像と岡崎 雪聲の道灌像があり、さらに戦場に消えた道灌像は渡辺長男作といわれています。そうすると、我々の知らない3体の道灌像があったことになり、越生吉澤家のレプリカはそれらのうちのどの銅像に符合するのか、話は複雑でミステリーめいています。その謎解きは後日にゆずります。

posted by otadoukan at 11:31| Comment(0) | 道灌の銅像余話