2015年07月05日

河内御座・上杉氏亡命政権の跡

「太田道灌状」(1480年)の第2段は、上杉氏の亡命政権が発給した御證状についての道灌の弁明です。
「降人等事、道灌於執申人躰者御免。至所帯等も不可有相違之趣、河内御座之時分、御証状申請、涯分廻計略、招付御方候人躰、数輩事候歟。為一人全非自尊候」
《降参した者のうち、道灌が執りなした者は赦免されました。(顕定が)河内城にいた時分に、所領等も安堵されるように(道灌が)御證状を申し受けたので、できるだけ計略を廻らし、味方に招き入れた者が数人いるでしょうか。一人として、道灌の一存で決めたことは全くありません》
1477年(文明9年)1月18日に、長尾景春の急襲をうけ、山内、扇谷、越後上杉方の全軍は太田道真の軍を殿(しんがり)とし、五十子から利根川をわたって那波荘へ遁走しました。そしてさらに、管領上杉顕定の軍は阿内城すなわち河内御座へ至り、そこを亡命政権の拠点として盛んに御證状を発給しました。「松陰私語」(1509年)には「越後は白井に陣を張り、山内は阿内に陣を張り、川越(扇谷)は細井口に陣を張り」と記されています。阿内城は宿阿内城(しゅこうちじょう)とも呼ばれていました。宿阿内城すなわち河内御座とはどこにあったのでしょうか。上杉方が遁走したと思われるコースをたどり、宿阿内城址へいきます。
本庄市の五十子陣址から、国道17号線を少し北東へ走り、国道462号線で利根川へ向かうと、名にし負う、約1キロの坂東大橋があります。この辺りは河原が広く、徒歩で渡ることができそうです。これより下流は水量が多く、これより上流は急流となっています。もちろん、道灌の時代の利根川流路は、現在のものとはかなり違っていたものの、川幅や水量は似ていたと思われます。
 23章:那波城址本丸跡.JPG    
(那波城本丸址碑)
 那波城址碑.JPG
(那波城址碑)  
 那波城址碑 (2).JPG
(那波城址碑説明板)
坂東大橋を渡ってすぐ、左へ曲がり国道354号線に入ります。北西へ走って伊勢崎市堀口町にくると、第2中学校そばに那波城本丸跡の碑があります。さらに進み稲荷町へくると、名波小学校の敷地内に、巨大な、徳富蘇峰書の那波城址の石碑を見ることができます。あらかじめ学校へ依頼しておくと、教頭が案内してくれます。那波氏は、鎌倉時代から戦国時代まで、この地に根を張った豪族で、当時は上杉方についていた模様です。
国道354号線から県道13号線に入り、北上するとほどなく県道27号線との交差点にきます。その辺りが前橋市の亀里町で、定方医院をさがすとその近くですぐに、通称女体神社の鳥居が目に入ります。なまめかしいばかりの、真っ赤な鳥居には「女体大明神」の額がかかっています。そこが、宿阿内城の三の丸址です。
女体神社の後方に、立派な土塁が残っています。往時を語るものはこの土塁だけで、隣接する本丸跡と二の丸跡は、一面の畑となっています。本丸跡に、標示があり、城の見取り図とともに「力丸 宿阿内 城の跡(下川淵カルタ)」としるされています。近くの端気川(はけがわ)が城の防備となっていたようです。
 女体神社.JPG
(女体神社)
 土塁.JPG
(土塁跡)
 宿阿内城址.JPG
(本丸跡の標示)
1477年(文明9年)の1月から約4か月の間ここで、関東管領山内上杉顕定が、御證状を発給しながら不安な日々を送っていました。その年の5月に、豊島氏との激戦を終えた太田道灌が、ここへ両上杉氏を迎えにきました。道灌がいなければ、なにもできない上杉氏でした。一見なんの変哲もない所ではあるものの、この地に立って往時を思えば、悪戦苦闘しながらも必死になって上杉氏を支え続けた太田道灌の苦心が偲ばれて、幾分かの感慨が湧いてくるものです。