2015年09月12日

清水河畔御陣場跡と倉賀野御陣跡

「太田道灌状」(1480年)には、榛沢御陣、清水河畔御陣場、倉賀野御陣、瀧御陣、秩父御陣、大森御陣などがでてきます。古河公方、関東管領が軍を率いて移動するさい、短期間滞在する場所を御陣と称しました。今日では、文書の中にその地名のみ伝えられ、遺構が残っていないこともあります。今回は、清水河畔御陣場跡と倉賀野御陣跡を探訪します。手掛かりはいずれも、現代に伝わる地名です。
1.清水河畔御陣場跡
「太田道灌状」の第15段には、上杉軍が道灌の作戦にしたがって清水河畔御陣場から用土が原の次郎丸に移動し、用土が原で景春軍に遭遇し、馬返しの策(足軽戦法)で大勝利をする場面が記されています。
「於清水河畔御陣場之事者、彼大河被成前候之間、其日も御滞留候者、可為御難儀旨存申払、次郎丸へ打立候間、被進御旗候。如案凶徒随其行候間、至用土原被返御馬、御眼前各摧手、討亡大軍」
《清水河畔の御陣場の事は、あの大河を前にしているので、(顕定が)その日も御滞在すれは危険になると思い、(顕定に)申しあげて陣払いをし、次郎丸へ向かったので、(顕定は)御旗を進められました。予想通り敵軍は、その作戦にはまったので、用土が原にきて(顕定は)御馬を返され、(上杉軍は顕定の)御眼前において各々の手をくだき、大軍を討ち亡ぼしました》
さて、清水河畔御陣場とはどこでしょうか。埼玉県本庄市の五十子陣跡から北東へ3キロもいくと、御陣場という地名の場所があります。今は、利根川縁の原野で、近くに浄水場などの施設があるだけです。利根川の流域は、氾濫により度々流路を変えているので、往時この辺りは清水河畔であったと推定します。今は、五十子陣跡の北方へ約5百メートルのあたりを流れる、小山川の支流に清水川の名前が残っています。今、御陣場に立つと背後は利根の大河で、かなたに坂東大橋がみえます。
御陣場.JPG 
(御陣場・本庄市)
その頃(文明10年)景春軍は梅沢(本庄市日の出町)に陣張りして五十子陣を占領していました。そして上杉軍は、御陣場に陣張りしていたので、景春軍に夜攻めされたら、大いに危険であったことはすぐわかります。道潅は、その事を上杉定正に説き、直ちに用土が原の次郎丸へ進軍したのでした。
  
2.倉賀野御陣跡
「太田道灌状」の第19段には、上杉軍が陣張りした倉賀野御陣の事が記されています。
「自倉賀野御陣、当方相分候而、此国へ被打出候時も、若干御抑留候しか共、当国無静謐者、御本意難有之由存、親候入道相談、修理太夫ヲ引立、正月二十四日河越江一日打懸著」
《倉賀野御陣より、当方(扇谷上杉方)が分かれて、この国(武蔵)へ出発したときも、(顕定が定正を)すこし引きとめたけれども、当国(武蔵》に平穏がなければ、御本意が達せられないと考え、親である道真に相談、修理太夫(定正)を引き立て、(文明10年)正月二十四日河越へ一日で着き 》
JR高崎線の倉賀野駅から南方へ約10分も歩くと、烏川(からすがわ)河畔の八幡宮のとなりに倉賀野城址が見えます。
倉賀野城は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れて中仙道が通過する交通の要地でありました。城は烏川(からすがわ)左岸の河岸段丘上に立地し、東西800m南北400mを城域としていました。 
倉賀野氏は鎌倉時代の治承年間(1177年〜1189年)に武蔵児玉党の支流である秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称しました。南北朝時代に倉賀野光行が館を改修し倉賀野城を築きました。室町時代に倉賀野氏は、関東管領山内上杉氏の配下になっていたので、倉賀野御陣は倉賀野城であったと思われます。
烏川.JPG    
(城址下の烏川)   
倉賀野城址.JPG
(倉賀野城址碑)
文明10年1月、広場場の対決を相引きにした両上杉氏は、白井城へ入ってから倉賀野御陣へ陣張りしました。1月24日道灌は、上杉定正を急がせて1日で河越城へ帰還し、そのあとすぐに豊島氏の平塚城攻撃にかかります。