2015年11月02日

大森御陣・秩父御陣跡、新史料発見

1480年(文明12年)早春、上杉軍の本隊は、秩父の日野要害(熊倉城)にたてこもった長尾景春軍を攻めるため、日野要害を包囲しました。ちょうどその頃、上杉氏が都鄙の和合実現の仲介を果たすという、古河公方との約束実行を遅滞させたため、古河公方が業を煮やして「古河様御変改」すなわち景春軍の後詰めをする動きを見せました。国中(武蔵)はにわかに緊張したので道灌は、先に国中を安泰にしてから日野要害を攻めるよう、本陣すなわち大森御陣の上杉顕定へ進言したのです。しかし顕定は、道灌の提案を承認しませんでした。
「太田道灌状」(1480年)の第26段には、次のように記されています。
「郡内御陣御難儀之時、先被閣日野要害、国中可被成堅固、屋形大森御陣参被申候処、無御承引候」《(秩父)郡内の御陣が御難儀の時、先に、日野要害をそのままにされ、(武蔵)国中を堅固に成さるべく、屋形(顕定)の大森御陣へ参って申しましたところ、御承認ありませんでした》
その後道灌は、新田へ行って所用を果たそうとしたけれども、秩父御陣で顕定から、すぐに日野要害を攻略するよう命令されたので、攻撃を開始して6月24日に落城させました。
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(日野要害・熊倉城址、中央の山、道の駅「あらかわ」から)
「太田道灌状」第26段の後半には、次のようにも記されています。
「忠景相談、向新田可越利根川旨、令儀(議)候処、初者致同心、既に日限相定候処、自身者不可出候間、六月十三日秩父御陣参陣、此由申候。長尾孫五郎、相共可罷立旨覚悟候処、当御陣祇候、先日野城落居可急旨蒙仰候間、色々様々心尽仕候故、彼城被討落候事」
《忠景と相談し、新田へ向い利根川を越えようと、打ち合わせていたところ、(忠景は)初めは賛成し、既に日限を定めていたところ、自身は出発できないといってきたので、六月十三日に秩父御陣へ参陣し、此の事情を(顕定に)申しました。長尾孫五郎ともに出発しようと考えていたところ、当御陣へ祇候し、(顕定から)先に日野城攻撃を急ぐよう命令されたので、色々様々心を尽して、あの城が討ち落された事は、これは道灌の功ではありませんか。》
日野要害攻撃にさいして、即断速攻の道灌にしては、いつになく逡巡していました。それはおそらく、親類でもあり旧知の友でもあった景春を最終的に追い詰めることを、道灌はできるだけ後に延ばそうとしたと思われます。
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(熊倉城址、本郭址の土塁を歩く「荒川・山里自然館ツアーの一行)
第26段に記されている大森御陣と秩父御陣とは、前後の内容から考えて、同一の陣であると思われます。そしてその場所は、秩父市上影森の諏訪神社境内で、顕定はそこで、熊倉城の景春の動きを監視しながら指揮をとっていたと思われます。
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(樹齢700年の諏訪神社の古木)
その地は、荒川と浦山川による崖の上にある要害の地であり、境内を秩父往還道が通っていました。現在も神社の境内に樹齢七百年の巨木があるので、往時は樹木が多数あって大森と呼ばれた可能性があります。武甲山の影がこのあたりまで届いたので影森と呼ばれたそうです。地名の大森と影森が森の字を共有していることは、その関連性を示しています。ここから熊倉城は指呼の間であるから、上杉顕定は熊倉城攻略の対城として、この地を選んだ可能性があります。
江戸時代の文政年間に記されたといわれる「秩父風土記」の古城跡十九か所の項に、上影森が含まれています。近くの下影森に神原(じんばら)と呼ばれる平地があり、「新撰武蔵風土記稿」(1830年)には陣農原(じんのはら)と記されています。
さて最近、この大森御陣跡・諏訪神社説を裏付ける新資料が、秩父市の郷土史家山中雅文氏により提示されました。山中氏は、「絵図に埋もれた本陣土塁」と題するレポートで、秩父市影森の旧家関田家から荒川歴史民俗資料館に寄贈された「明治6年第七月武蔵国秩父郡上影森村地券下調絵図又下絵」等数枚の絵図を解析しています。それによると、明治初期には、諏訪神社東側の神原といわれているところに、長さ南北約300メートル、幅東西約1.5メートルの構築物がありました。また、近年までその近くに、「窪」また「字久保」という地名があり、土塁を作るために土を掘ったところと考えられる、ということです。そして「この構築物は文明12年2月、関東管領上杉顕定が、長尾景春籠る、秩父日野城征伐の拠点として築いた大森本陣の正面を守る防塁(土塁)の遺構と推定いたします」と結論付けています。
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(関田家絵図、左側の黒い部分が神原の土塁跡)
大森御陣があったと思われる場所は今、平坦な宅地に整地され、土塁や堀の遺構を認めることはできないものの、神原という地名が、昔のことすなわち陣原であったことを語っています。

2016年04月04日

奥三保へ(村山の陣から)

東京都の新宿から青梅街道を青梅へ向かって約1時間も走ると、線路のないことで有名な武蔵村山市へきます。武蔵村山市役所手前の(旧)青梅街道大曲というところですこし山側の中藤(なかとう)へいくと、龍華山清浄光院真福寺という真言宗の寺があります。この寺は、710年(和銅3年)に行基が創建したという古刹です。ここが太田道灌の村山の陣址であることは、すでに拙著「道灌紀行」で述べました。村山の陣から西へ約10キロいくと二宮城(あきる野市)があり、そこからさらに約20キロ南下すると津久井の城山(相模原市)へ至ります。さらにその南10キロの相模川沿いに、小沢城(愛川町)があります。
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(真福寺の山門)
1478年(文明10年)4月、道灌軍は磯部城(相模原市)を落城させ、つづいて小沢城を再度落城させ、長尾景春の後詰めがなくなったので4月11日に小机城(横浜市)もついに落城させました。小沢城の落ち武者、相模の本間近江守、海老名左衛門尉、甲州住人加藤たちの相甲連合軍が奥三保に立て籠もり、道灌軍に対抗しました。同年6月、道灌は、奥三保に立て籠もった景春の残党を攻めるため、村山に陣をとり、まず弟の資忠を進軍させました。資忠は仮陣をきづき、奮戦して海老名氏を打ち取りました。やがて本隊が進軍して相模と甲州の景春与党を粉砕しました。相模の景春与党が立て籠もった奥三保とはいったいどこなのでしょうか。
柳田国男著「地名の研究」によると、奈良・平安時代より、開墾した国の領地を「郷」または「保」と称しました。したがって「奥三保」(おくさんほ・おくみほ)の元々の意味は、山林地帯の3か所の国の開墾地です。あるいは「奥山保」と考えて山奥の国の開墾地です。
「奥三保」の史料上の初見は、鎌倉時代末期1323年(元享3年)です。鎌倉幕府第9代将軍北条貞時の13回忌供養として、鎌倉円覚寺内に法堂を建立するために必要な材木を、幕府の臣下でこの地を守る給主「相模国奥三保屋形山給主合田左衛門三郎入道と鳥屋山給主本間五郎左衛門尉」の二人に伐り出させた、という文書があります。
1559(永禄2年)の「小田原北条氏所領役帳」には、「奥三保已上17ヶ村の土貢。此の17ヶ村、田一向これ無し、いずれも山畠まで也」と書かれ、この地は田は無く、山や畑のみの村々であるとあります。他の「北条氏所領役帳」には、村名として「千木良村・沢井村・佐野川村・小渕村・与瀬村・日連・牧野村・青根・鳥屋村・青山村・若柳村・三ヶ木村・吉野村」の13ヶ村が記載され、この地域は旧津久井郡、津久井・相模湖・藤野・城山各町すなわち現在の相模原市緑区にあたります。

『新編相模国風土記稿』には「奥三保」について「其国の山家をさして奥三保と云へり聞く、されば本縣西北の方多くは林巒山嶽に接属せし村居なれば斯く唱へし事にや」とあり、「奥三保」とは神奈川県の西北部の山林山岳で囲まれた地帯という事になります。
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(宮ケ瀬湖)
早春のころ私は、津久井湖や宮ケ瀬湖の周辺を車で走り回ってみたものの、確かに田んぼを1枚も見つけることができず、起伏のある地形と複雑な道に閉口してしまいました。たまたま津久井町史編集室を見つけたので、編集者に景春与党の立て籠もった場所や太田資忠の仮陣の址を尋ねてみたものの、手掛かりはない、ということでした。
「武蔵名勝絵図」(1823年)には「奥三保これは津久井県上川尻の辺を云う」とあります。地理的に考えると、相模の本間氏、海老名氏と甲州の加藤氏等の合流地点として、城山の辺りに彼らが立て籠もったと考えることができます。そして多分、太田資忠の仮陣は、城山の北側で、村山の陣を背にしたところであったと思います。奥三保の戦は、その詳細はいまだ明らかではないものの、道灌にとって、相州と甲州の景春残党を一掃するための重要な一戦でありました。

 「太田道灌状」の第20段にいわく、
「二宮の事は此くの如く候之間、相州磯部の城は降参せしめ、小沢城は自落いたし候。(然りと)雖ども残党等奥三保に立て籠り候之間、道灌当国村山と申す所に陣を寄せ、同名図書助・同六郎両国より奥三保へ差し寄せ候処、本間近江守、海老名左衛門尉、甲州住人加藤其の外彼の国境の者相共に語り、去月十四日御方陣へ寄せ来り候処、搦手において図書助手を摧き勝利を得候。海老名左衛門尉討ち取り候由、夜中に村山陣へ告げ来り候間、未明に罷り立ち、同十六日甲州境を越し、加藤の要害へ差し寄せ打ち散し、鶴河所を始めとして放火せしめ(候)の間、其の儘相州東西静謐に仕り候。」
《二宮の事はこのようであったので、相州磯部の城は降参し、小沢城は自落いたしました。そうは言っても残党等が、奥三保に楯て籠っていたので、道灌は当国村山と申す所に陣を寄せ、同名図書助・同六郎で両国(相模と武蔵)より奥三保へ差し寄せたところ、本間近江守、海老名左衛門尉、甲州住人加藤その外彼の国境の者相共に語り、先月14日御方の陣へ寄せて来たので、搦手において図書助が手を摧き勝利を得ました。海老名左衛門尉を討ち取ったことを、夜中に村山陣へ告げて来たので、未明に出発し、同16日甲州境を越え、加藤の要害へ差し寄せて打ち散し、鶴河所を始めとして(近辺に)放火したので、其の儘相州の東西は静謐になりました。》
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(三増合戦場の碑)
 奥三保の南西端に宮ケ瀬湖があり、そのほとりに県立愛川公園があります。公園内に愛川町郷土資料館があり、小田原北条分限帳(小田原衆所領役帳)など珍しい資料が展示されています。資料館の学芸員の話では、ちょうどこのあたり、愛川町の半原は、奥三保の南の境界になるとのことでした。ここから東方へすこしいくと、1569年(永禄12年)の武田信玄と北条氏康の激戦地三増(みませ)合戦場があります。