2013年10月02日

磯部城址と溝呂木氏

上磯部の土塁
去る2013年9月24日に、神奈川県相模原市のボーノ相模大野セミナールームという会場で、武相歴史研究会主催の文化講演会「太田道灌を学ぶ」が盛大に行われました。太田資暁氏と山田真也氏の講演の後で、参加者から、相模原市の太田道灌関連史跡磯部城址について、種々質問や説明がありました。私は以前、磯部城址を調査したことがあるけれども、いろいろな疑問を残していました。今回の講演会を契機に、もう一度磯部城址へ行かなければならないという思いが強くなり、早速、初秋の晴れた日に、車を走らせて相模原市へ向かいました。
国道16号線あるいは129号線で相模原市に入り、相模川べりに来ると、磯部という地域があります。JR相模線の下溝駅から南東へ5百メートル程歩いても磯部地区へ来ることができます。相模川沿いの磯部頭首工(いそべとうしゅこう)公園から河岸段丘沿いに三段の滝まで、遊歩道すなわちさがみグリーンラインが整備されています。頭首工とは、あまり聞きなれない言葉であるけれども1.2メートル以下の堰(せき)のことです。
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(相模川の頭首工)
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(さがみグリーンライン)
このさがみグリーンラインに沿って、約60メートルの土塁跡があり、そこに相模原市教育委員会の説明板があります。図入りの、その説明板には次のように記されています。
『相模原市登録史跡 上磯部の土塁
この土塁は、長尾景春の反乱の際に、景春方の拠点「小沢城(こさわじょう)」の支城として築城された「磯部(いそべじょう)」に伴うものではないかと考えられています。発掘調査により、土塁の北側にかつて城堀があったことが確認されましたが、時期を決める遺物は出土していません。城の中心は、現在の御嶽神社(みたけじんじゃ)や能徳寺(のうとくじ)の付近と推測されています』
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(教育委員会の説明板)
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(土塁跡)
遊歩道の中頃に「磯部民俗資料館」があるので、訪問して館長に尋ねると、「磯部城については、教育委員会の説明以上のことはわかりません」とのことでした。
磯部頭首工公園のすぐ近くに、能徳寺という曹洞宗の寺があり、その裏の方にちょっとした土塁跡があります。そこから100メートルも歩くと御嶽神社があります。能徳寺の近くで仕事をしていた壮年に尋ねると、自宅の前をさして、「ここが磯部城の本丸跡です」と言って胸をはりました。近くに「堀の内」「大門」などという地名があるそうです。壮年はまた、近くの大山道石碑を教えてくれました。御嶽神社のそばの商店で買い物をして、店の主人と話をすると、「うちの先祖は磯部城で戦った」と誇らしげに語っていました。

長老の話・生きのびた溝呂木一族
さて私が数年前に磯部城址を訪問して以来、ずっと持ちつづけている疑問があります。それは、厚木市の溝呂木城(みぞろぎじょう)址と、相模原市の磯部城址のまわりに目立つたくさんの溝呂木家とが、どういう関係にあるかということです。
頭首工公園で車を降りて歩きまわると、すぐに数軒の溝呂木家が目につきました。いずれも旧家風の門構えの家です。私が見当をつけて、一軒の溝呂木家を訪問すると、長老風の壮年が現れました。その長老は幸いに歴史好きであったので、玄関前で小一時間も私との、素人歴史談義が弾みました。長老の話を要約すると、次のようなことです。
「溝呂木一族は現在、磯部の集落に20軒ある。江戸時代初期からの位牌があるが、室町時代の資料はない。言い伝えによると、先祖は室町時代に半農半武士の地侍で、まあ野武士の集団のようなものであった。最初に厚木の溝呂木城に籠ったが、太田道灌軍に攻められて支城の磯部城へ逃げてきた。のちに道灌軍が小沢城を攻めるとき、後詰めを断つため磯部城も攻めたので降参した。最初に溝呂木一族は、長尾景春方についたが、それは今の政治家が目先の利害のためにあちこちの親分の配下に入るのと同じようなことだった。磯部という一族もいたが、のちに故あって溝呂木に改姓した。だから、溝呂木でも家紋が違う」。
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(溝呂木氏の菩提寺能徳寺)
大山道石碑.JPG
(磯部の大山道石碑)
私は長老の話を聞いて、磯部城と溝呂木一族について、自分が推測していたことと完全に一致した、と思いました。そしてさらに推測が深まりました。
 
「太田道灌状」(1480年)にいわく、「相州には景春被官人溝呂木、在所を要害に拵(こしら)え候。(中略)三月十八日溝呂木要害へ差し遣はし候の間、自火せしめ没落」と。「太田道灌状」によると、溝呂木氏は長尾景春の家来となり、居住していた相模川べりに要害を築きました。しかし1477年(文明9)3月18日に道灌軍に攻められたので、城主溝呂木正重は要害に火をつけて逃亡した、ということです。厚木市の教育委員会の推定では、溝呂木城は、神奈川県厚木市厚木の三川(相模川、中津川、小鮎川)合流地帯にありました。そして私は、さらに次のように推測します。道灌軍が近づいてくると、溝呂木一族は戦うことを避け、城の搦め手から船で相模川を渡り、上流の磯部城へ逃亡したのです。
 また「太田道灌状」にいわく、「二宮の事かくの如く候の間、相州磯部の城は降参せしめ、小沢城は自落いたし候」と。1478年(文明10)4月11日に道潅は小机城を陥落させ、二宮(あきる野市)の陣で大石氏を懐柔して後詰めを断ち、相模川上流の小沢城(愛川町)攻略に向かいました。そうすると、磯部城は降参しました。文面から察すると、このときも、磯部城の溝呂木氏は、戦わずして道灌軍に降伏したようです。
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(磯部民俗資料館看板)  
三段の滝.JPG
(城址ちかくの相模川河川敷)
さきの長老の口ぶりからも、溝呂木氏は大義や義理には頓着せず、一族の利害のために、常に形勢のよい方へなびく嗅覚をもっていたようです。国人衆の多くが、そのような習性を持っていたことを、太田道灌はだれよりもよく知っていたので、所領安堵を約束しながら、緒戦における電光石火の速攻で、景春方優位の形勢を逆転していったのです。

相模川は、武蔵の荒川に比べると、なんとなくゆったりと流れ、流れの中に鮎釣りの男たちが散見されます。磯部城址から眺めると、広い流域のかなたに大山などがなだらかに連なって見えます。その佳景を見ていると、溝呂木一族はこの地で、戦をくぐりぬけながら、案外と優雅に生きのびたのではないかと思えてくるのであります。
上磯部の土塁は、相模原市登録史跡です。
磯部城址・上磯部の土塁=神奈川県相模原市磯部90番地他
 
posted by otadoukan at 05:25| Comment(27) | 磯部の土塁と溝呂木氏