2014年03月11日

二つの三芳野天神社と平川天満宮

この度あらためて、川越城とその周辺を調べてみました。その結果困ったことに、否、おもしろいことに、川越には、なにしおう「三芳野天神社」も「天神さまの細道」も二つあることがわかりました。天神社とは、菅原道真を祀った神社で、天満宮ともいわれて全国各地にあり、「通りゃんせ」の唄発祥の地も方々にあります。ちなみに河越城は江戸時代に入り、川越城と表記されるようになりました。

1・川越城の三芳野神社
川越城址へは、JR線川越駅あるいは西武新宿線本川越駅から、小江戸巡回バスに乗れば十数分で行けます。歩いても行ける距離です。川越城の本丸跡に三芳野神社があります。この神社の通称は、三芳野天神社です。この神社の由緒書の冒頭に次のように記されています。「平安時代のはじめ、大同年間(806〜810)の創建と伝え、三芳野十八郷の総社とし崇敬をあつめました。太田道灌は、河越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は、徳川幕府直営の社として庇護をうけた。」
塙保己一が編纂した群書類従に「河越記」という合戦記があります。これは、上杉氏時代の河越城に伺候していた、西脇という陣僧らしき人物が書いた記録です。その記録には、「この城は、太田道真の築城で、ここは三芳野の里である。昔、在原の業平が三芳野の田面の雁と詠んだのもここである。そして、北野の天神社がここに勧請された」との意味がしるされています。
その他いろいろな説があるけれども、私は、太田道真が主導して此処に河越城本丸を築き、天神社を勧請したと思います。道真は、歌の達者であったから、インテリジェンスの神ともいうべき天神にはとりわけ深い愛着を持っていたに違いありません。
この神社の参道が「通りゃんせ」の唄にある天神さまの細道といわれ、「わらべ唄発祥の所」の碑があります。参道の入り口に、在原業平の歌碑があり「我が方に、よると鳴くなる三芳野の 田面の雁をいつかわすれむ」と彫られています。
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(三芳野天神社) 
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(わらべ唄発祥の所の碑)
三芳野天神社=埼玉県川越市郭町2−13−1

2・的場の三芳野天神社
JR線の川越駅から川越線で西へ行くと二つ目の駅が的場です。的場駅から徒歩で国道114号線に出て、数分歩くと曹洞宗の的場山法城寺という寺があります。その寺に隣接して三芳野天神社があり、入口の法城寺の説明板に次のようにあります。
「三芳野天神社(天満宮)縁起
この神社の創立は、平安末期頃で、伊勢物語に出てくる入間の郡「三芳野の里」円墳三芳野塚の前に建てられたものである。菅原道真公が祀られており、別当は北條寺がつとめるようになった。中世になり、このご神体を今の河越城中にうつしたけれども、神慮が旧地を慕われたため、元和6年(1620)に再びこの寺の境内に移した。(後略)」 
別当とは、神仏習合の江戸時代に、神社を管理する任務を持った寺のことです。北條寺が法城寺になりました。
社の傍らに碑があり、「わらべ歌生れしと云う 三芳野の天神さまに ほそき道あり」と彫られています。
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(三芳野天神社) 
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(天神さまの細道の碑)
「新編武蔵風土記稿」の「的場村」の項に、三芳野塚の記述があります。また近くに霞が関遺跡があり、東山道武蔵路が通っていたので、存原業平が来たのは的場の三芳野である、という説もあります。

「通りゃんせ」の唄の、1930年(大正9年)作のレコードには、作詩・野口雨情と記されてけれどもはっきりしません。作曲は、本居長世とされています。本居長世は、本居宣長の6代目の義理の子孫で、「赤い靴」「七つの子」などたくさんの童謡を作詩しました。
ちなみに、私はまだ行ったことがありませんが、小田原市の菅原神社(山角天神社)にも「通りゃんせ発祥の碑」があるそうです。
「通りゃんせ」の唄は、その成立の過程が朦朧としていて、発祥の地も方々にあるので、太田道灌の山吹伝説に似ています。
三芳野天満宮=埼玉県川越市的場1902

3・道灌有縁の平河天満宮
東京メトロ半蔵門線の半蔵門駅から5分も歩くと、江戸三大天神の一つ、太田道灌建立の平河天満宮へきます。
太田道灌は、おそらくは河越城にならって、江戸城にも天満宮を建立したと思われます。道灌の心友万里集九の「梅花無尽蔵」(1506年)に次のようにしるされています。(現代語訳)
「江戸平川城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見ました。そして、その翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であると思い、文明十年に城内の北に、自らが施主となり、天満宮を建立しました」。
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(平河天満宮)  
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(合格祈願絵馬)   
その後道灌は、天満宮の周囲にたくさんの梅の木を植えたので、やがてそこが梅林坂と呼ばれ、今も江戸城址の東御苑にその名を残しています。
その後、徳川家康が江戸城拡張のため、この天満宮は平川門外へ移され、さらに1607年(慶長12年)2代将軍秀忠により貝塚(現在地)に移されました。その場所は、本社にちなみ平河町と名付けられました。
いまこの天満宮の境内では、紅白の梅が満開で、時節がら様々な学校の合格祈願の絵馬がところ狭しと掲げられています。
平河天満宮=東京都千代田区平河町1‐7‐5