2016年09月01日

長井氏の片倉城址

JR横浜線の終点八王子から一つ手前の駅が片倉です。片倉駅から徒歩5分で片倉城址公園へきます。またJR八王子駅近くの横山町から国道16号線を南下すると、5分ほどで城址の入口へきます。健脚であれば、八王子駅から、街中を歩いても小一時間でくるでしょう。
この城址は今、東京都指定史跡片倉城址(公園)として手入れが行き届き、入り口の彫刻広場には、北村西望の彫刻とその関連の彫刻が林立して、文字通り芸術広場の雰囲気があります。
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(北村西望自刻像)
城中の住吉神社境内に東京都教育委員会の説明板があります。「新編武蔵風土記稿」(1830年)等によると、この城址の歴史は次のようです。平安時代中期以降、武蔵七党の一つ横山党がこのあたりを領していました。1213年(建保元年)、和田義盛挙兵の失敗により大江広元の領地となりました。室町時代に大江広元を祖先に持つ大江備中守師親あるいは長井時広が在城したといわれているものの諸説があります。
戦国時代にこの地は後北条氏の領地となり、1569年の三増峠(愛川町)の合戦のとき、北条氏照と氏邦は、この城から出陣して武田信玄の軍勢を追いました。
二の丸.JPG
(二の丸広場)
「太田道灌状」第33段には、次のようにあります。
「長井殿の事は、白井御座内に其色を顕し、在々所々において自身で太刀打たれ、家風数多討死す。粉骨定めて巨細に知ろし召されず候や。能く々々存知の人躰に、今に御尋ね有り、連々にその覚悟簡要に候。白井へも代官の為筑地、藍原、神保両三人参陣せしめ候キ」。《長井殿(広房)の事、白井御座で味方の態度を表し、方々で自身太刀を振り、家中の部下が多数討ち死にしました。きっと(顕定は長井殿の)苦労の一部始終を知らないのではありませんか。よく知っている者に、今尋ねるようにして、引き続きそういう考えを持つことが肝要です。(長井殿は)白井城へも代官として筑地、藍原、神保の三人を参陣させました》。
「太田道灌状」に登場する武蔵の長井氏には、二流あります。第33段に登場する長井氏については、その原注に「長井大膳太夫広房、扇谷婿」とあります。長井広房の妻は扇谷上杉持朝の娘で、その居城は片倉城であったと思われます。
一方第24段、第26段の長井城、長井要害は熊谷市の西城でそこに「史跡・西城本丸跡の碑」があります。碑の裏面に、詳細な由緒が記されています。それによると、前九年の役で武功をあげた斎藤実遠が源頼朝から長井庄を与えられ、西城を築き長井斎藤氏の祖となりました。

この城址公園には、一郭、二郭、腰郭、空堀と土橋などが残っています。郭は芝生でおおわれ、深く切り込んだ谷や蓮池、菖蒲池、カタクリ群生地もあり、変化にとんだ地相を楽しめます。
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(彫刻広場)

JR八王子駅の近くに、間接的にしても太田道灌有縁の城址が、立派に保存され、しかも芸術とコラボレーションしているとは、思いがけない喜びであります。都立の施設なので全く宣伝していませんがよい所なので、一度の訪問をお勧めします。
片倉城址公園=東京都八王子市片倉町

posted by otadoukan at 10:31| Comment(0) | 長井氏の片倉城址