2016年10月03日

伝・大石氏の葛西城址

JR山手線の日暮里駅で京成本線の各駅停車に乗り換えると、七つ目の駅が青砥(あおと)です。青戸銀座を東の方へ5分も歩くと環状7号線へ出ます。この7号線に沿って、北方すなわち慈恵医大の方へ歩き、医大と青戸小学校を越えるとまもなく青戸7丁目の交差点があります。その交差点の手前右側が葛西城址・葛西城址公園で左側が青砥御殿址・御殿山公園です。中世にはもちろん、両方とも葛西城でした。青砥駅から車に乗る必要もないほどの距離です。
今は幹線道路に貫かれた城址であるものの、近くに中川が流れているので、往時は湿地帯に囲まれた微高地であったと思われます。
葛西城址碑.JPG
(葛西城址公園)
青砥御殿址.JPG
(御殿山公園)      
「太田道灌状」第30段にいわく、
「千葉実胤の事は、当方の縁者に渡らせ候といえども、大石石見守に招き出され、葛西へ越され候、公方様ヘ内々申される旨候、然りといえども孝胤出頭の事候間、許容なきにより、濃州辺へ流落し候」。《千葉実胤の事、当方(上杉氏)の縁者でいらっしゃったが、大石石見守に招かれ葛西(城)へ行き、古河公方に(実胤の下総復帰を)内々要望したが、千葉孝胤が出頭したので、許容されず濃州へ流れ落ちました》。
この文面から推測すると、文明10年頃、古河公方と長尾景春の与党であった大石石見守は葛西城にいて、千葉実胤と孝胤を招き談合したと思われます。葛西城は、千葉実胤の石浜城と千葉孝胤の千葉城の中間に位置していました。この談合は、千葉孝胤の口出しにより、実胤にとっては不本意に終わった模様です。そしてまもなく、文明10年暮れに、太田道灌軍は境根原で千葉軍と激突しました。
葛西城市内.JPG
(葛西城址公園内)
航空写真.JPG
(葛西城の城域を示す航空写真、左端は中川)
東京都教育委員会の説明板には、次のように記されています。
「葛西城は、中川の沖積微高地の上に作られた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。
築造者と築造の年代については不明であるが、天文7年(1538)2月には、北条氏綱により葛西城が落城したという記録があり、この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の騒乱の舞台となった。後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は将軍の鷹狩りの休憩所・宿舎(青砥御殿)として利用されていた。
この葛西城が、再び注目されるようになったのは、昭和40年代後半のことである。昭和47年から発掘調査が行われ、主郭を区画している大規模な堀、溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかにされた。
東京都内には、中世城館跡が多数存在している。沖積地に存在している城館跡は、地表にその痕跡をほとんど残さないから内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は発掘調査によって明らかにされており、戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である」。

この説明に、葛西城の城主名が明記されていないものの、文明の頃、古河公方や千葉氏に与していた大石氏が葛西城主であった蓋然性は、「太田道灌状」の内容と相まって極めて高いと言うべきです。
環状7号線.JPG
(城址を貫く環状7号線)
発掘された城址は、埋め戻されて環状7号線が建設されたので、葛西城の昔日の姿は永久に見ることができなくなりました。城址にたたずんで、夢幻のように浮かんでくる兵(つわもの)どものありさまも、幹線道路の激しい交通の動きと音によって、すぐにかき消されてしまいます。
葛西城址公園・御殿山公園=東京都葛飾区青戸7丁目21番地
posted by otadoukan at 22:40| Comment(0) | 伝・大石氏の葛西城址