2017年07月25日

伊勢原の立原(たてっぱら)探訪

1.地名に秘められた歴史
伊勢原市上粕谷の産業能率大学の周辺を土地の人は「たてっぱら」と呼び、そこには気になる地相と地名がたくさんあります。元々このあたりは、古代人の遺跡や上杉舘があったところといわれ、産能大学のキャンパスの説明板には「この地はかつて扇谷上杉氏の館があった地であり、太田道灌が非業の最期を遂げた所である」と記されています。しかしこの広大かつ複雑な形状の台地原には、なにかもっといろいろな歴史が秘められているような気がして、以前より私は気にかけていました。ときあたかも、新東名高速道路の建設がこの台地に進み、巨大な橋げたが方々に見えはじめています。この地の歴史を今のうちに、しっかり調べておかなければ、開発が進んで史跡は破壊され、その痕跡も消えてしまうにちがいありません。
変貌する立原.JPG    
   (変貌する立原)
ちょうど今年7月5日、伊勢原観光ボランティアガイド&ウォーク協会の企画で「太田道灌コース、道灌ゆかりの史跡、上杉舘をめぐる」という史跡探訪ツアーが行われました。しかも案内人は、この地を隅々まで知り尽くしている、地元の山口氏でありました。私は、絶好のチャンスと思ってツアーに参加し、山口氏から懇切な説明をうけました。地名等はいずれも、今も残っていて使われている名称です。地名は埋蔵物と同様に、歴史を語る証拠です。
@五霊神社(スタート地点)
道灌没後1494年(明応3年)に北条早雲が、旧友であった道灌の菩提を弔うため、家臣の山田伊賀守に命じ、道灌の冑を五霊神社に納め、太田三徳命として合祀しました。三徳とは、智、仁、勇です。山田伊賀守の子孫は今も隣接地に住み、庭にご先祖の供養塔があります。
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  (出発地の五霊神社)
五霊神社から、大山道を通って東へ行くと、立原の台地へきます。
A西の大手門跡
立原の台地は、北西が山地につづき、他の三方は急に谷となり、自然の城塞となっています。ここは西の上り口で、上杉舘の大手門と推定されています。
西の大手門跡.JPG   
    (西の大手門跡の道祖神)
B打出(うちで)
太田道灌の足軽隊が出撃する前に、駐屯した所と考えられます。1477年(文明9年)3月18日に、道灌の足軽隊は、ここから出撃して溝呂木城、小磯城、小沢城を攻略したと思われます。道灌は、相州勢を率いて、当初豊島氏を攻める予定であったものの、大雨で多摩川や相模川が越えられなくなったので、急遽作戦を変更し、相模の3城攻略に向かったのです。
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   (打出・足軽隊の駐屯地))
「太田道灌状」第11段にいわく「相州勢を密つ密つ途中へ召し越し、3月24日(豊島氏を)夜詰め致すべくてあて候之処、大雨降り候て、多破河調議相違せしめ候」と。
C大門跡
大門の周囲には、土塁がせりあがり、一応の防備となっています。今「大門跡」の石碑は、椎の古木の陰にあります。ちなみに秩父市上影森の上杉氏の大森御陣跡にも、「大門町」「神(陣)原」という地名が残っています。
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(大門跡の土塁)
D的場(まとば)
立原の東側の小字は的場です。往時ここで、道灌の足軽隊は弓の訓練をしたと思われます。道灌の心友万里集九は「梅花無尽蔵」(1508年)の中で、江戸城の足軽訓練について「弓場を築く、毎日幕下の士数百人を駆りその弓手を試む、上中下に分かつ、その令甚だ厳なり」と記しました。
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(的場、足軽隊の訓練場)
E立原(舘原)(たてっぱら)
立原とは、柳田国男の「地名の研究」によると、尾根の先の平地のことで、その地名は方々にあります。伊勢原の立原は東西約1000メートル南北約500メートル(甲子園球場38個分)です。その平地の北端の段丘に上杉舘があったので、舘原とも記されました。
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    (立原、かなたに産能大)
F上杉舘址(産能大学)
ここは、上杉氏の根小屋すなわち平時における居住地があったところと思われます。三段丘の上であるので見晴らしもよく、領主の舘の地としてふさわしい所です。現在は、産能大学の校舎が林立しています。
23章:上杉館址に建つ産業能率大学.JPG
    (上杉舘址・産能大学)
G馬防口(ませぐち)
産能大学の裏、県道の北側一帯を土地の人は「ませぐち」と呼んでいます。上杉舘のからめ手口と推測されます。
H湯殿入り
産能大学の北側の谷をさかのぼった、秋山川源流地点のことです。湯殿とは普通、浴室のことです。なぜ、こんな名前がついたのかよくわかりません。
I千石せき
上杉舘が攻撃を受けたとき、巨大な空堀に水を通すための水路で、その後、灌漑用水として利用されました。
J空堀
自然の谷に人手を加えた巨大な防御施設であり、今は、堀の底が産能大学のテニスコートや洋弓場となっています。
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    (空堀の発掘調査)
K洞昌院・道灌の墓(ゴール地点)
空堀から山王神社と七人塚を過ぎ、ゴール地点、洞昌院の道灌墓所にきて少々驚きました。道路際の樹木は、治安維持のためすべて伐採され、墓域はあっけらかんとした雰囲気になっていました。
道灌墓所で説明.JPG
 (洞昌院・道灌墓所での説明)

2.私の大胆な推測・太田舘の所在地
1351年(観応2年)扇谷上杉藤成が相模糟屋庄の政所の職にあったことが確認されます(円覚寺文書)。また太田道真が光明寺(相模原市)に出した文書の封紙に「かすやより東しん」とあります。したがって、扇谷上杉氏も家宰の太田氏もまた糟屋庄に舘を持っていたと思われます。当時、関東の有力武家は通常は鎌倉府に出仕して必要に応じて領国に戻って統治を行っていたと考えられています。扇谷家の家宰・相模守護代であった太田道真も、時により糟屋で政務をとったと思われます。現在は、上粕谷と下糟屋「かすや」の漢字が違っているものの土地の古老に聞くと、往時はどちらも「糟屋」の文字であったそうです。
大手門とか大門という地名が残っていることは、この地に武将の舘があったということです。そして打出とか的場という地名があるということは、この地に軍勢が駐屯し、軍事訓練を受け、時に出撃したということです。
それにしてもこの広大な高台は不思議なところです。要塞状の高台とはいえ戦闘の城というほどの厳しい防備はありません。どちらかというと、ゆるい防備を備えた、いわゆる根小屋と称する、平時の居住地のようです。そしてなお風変わりなことは、的場のような兵の訓練場や打出のような兵の駐屯地があることです。
私の大胆な推測としては、今の産能大学のキャンパスの地には、相模守護上杉氏の根小屋があり、立原と的場の境には守護代太田氏の根小屋があり、的場は道灌の足軽隊の弓の訓練場であったということです。上杉氏と太田氏によりこの広い立原の高台は、多目的に活用されたと考えるべきです。そして厳しい戦闘が予想される場合は、防備が固い相模守護所すなわち丸山城へ立て籠もったと考えられます。 
発掘調査現場.JPG
  (立原の発掘調査現場)
現在、新東名の工事予定地数か所で、大規模な発掘調査が行われています。このあたりの台地は、南向きの山の根で湧き水もあるので、古代から条件の良い居住地でありました。発掘現場から何が出るかはこれからのお楽しみです。太田氏の舘の遺構などが出るのではないか、と私は期待しています。