2017年09月28日

道灌軍と戦った村山党金子氏の故地 

本年9月24日に私は、武蔵村山市民会館での郷土史講演会で太田道灌と村山の陣について話をさせていただきました。その際、参加者の中に金子さんという方がおられて、終了後に懇談をしました。私はふと気が付いて「もしや、太田道灌が村山の陣から奥三保へ攻め込んだとき戦った、小沢城(愛川町)の金子掃部助の子孫ですか」ときくと「そうです」とおっしゃったので、いっそう話が弾みました。金子氏は、この地で「武士団村山党の会」の甲冑隊のリーダーとして活躍されています。
後日私には、太田道灌に二度も小沢城攻めをさせた、景春与党の勇猛な金子一族の出自と故地を調べてみようという気が、急に強く湧いてきたのであります。「武蔵武士」(渡辺世裕・八代国治 著)の中に「(村山党の金子氏は)武勇を以って最も著はる。(中略)各地に転戦して軍功多し」と記されています。

1.武蔵武士村山党のふるさと
旧青梅街道を西へ走り、武蔵村山市を過ぎて瑞穂町にはいるとすぐに殿ヶ谷というところへきます。そのあたりで山側へ右折すると村山氏の菩提寺福正寺という古刹があります。福正寺には村山一族の墓があり、村山土佐守の位牌があります。福正寺の近くに玉林寺公園があり、その中に村山土佐守の銅像が立っています。土佐守は笠をかぶっているので、残念ながら表情は見えないものの、はるか遠くを指さしてなにかを見つめています。台座の説明板に次のように記されています。
㉜−1村山土佐の守銅像.JPG
(村山土佐守の像・玉林寺公園)
福正寺.JPG     
(福正寺本堂)
     村山土佐守
平安時代後期から鎌倉時代、室町時代にかけて、武蔵国を中心として、下野、上野、相模といった近隣諸国まで勢力を伸ばしていた同族武士団を武蔵七党といいます。その中の村山党は、武蔵国村山郷(現在の瑞穂町、武蔵村山市など)に住み村山氏を名乗りました。平頼任(よりとう)を始祖としています。金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などは村山党の一族です。村山土佐守は中世の豪族として、村山市最後の人物で、殿ヶ谷(瑞穂町)に居館があったと伝えられています。
 この時代の多摩地域は、後北条氏が支配しており、八王子滝山城の北条陸奥守氏照の統治下であったという説があります。その実像に関する資料はありませんが、(神仏を敬う)信心堅固な武士として、村山郷の人々の伝承の人物として言い伝えられてきました。  
      平成25年3月吉日      瑞穂町
『新編武蔵国風土記稿』(1830年)には、「此辺岸村、石畑村及び当村(殿ヶ谷村)を、古へは村山と唱へたるよし、その中当村(殿ヶ谷村)は領主村山土佐守の居住せし所なれば、かく唱ふと、村山は武蔵七党の内にて、当国の旧家なり、子孫小田原北条家の幕下たりしが、天正年中北条家滅亡の時、此家も共に絶たり」とあります。

2.金子氏の本貫地
JR八高線の拝島より電車に乗ると、二つめが金子駅(埼玉県入間市)です。瑞穂町からは車で15分も走ると隣接する入間市の金子につきます。このあたりは、村山党金子氏の本貫地で、今も町を歩くと狭山茶の看板と「金子〇〇」の看板がいたるところで目につき、今も金子一族が住んでいることがわかります。
金子駅から、車で5分も行くと金子氏の居館跡すなわち金龍山木蓮寺瑞泉禅寺跡があり、丘の中腹に金子氏の先祖墓があります。
金子氏墓碑.JPG
(金子十郎家忠の墓碑)
㉜−6.JPG 
(金子一族墓所)
村山頼任の孫家範は平安時代末より入間郡金子村を本貫地とし、金子十郎を名乗りました。家範の子家忠は、保元の乱、平治の乱で活躍しました。その後金子氏は、武蔵国の国人として山内上杉氏に属しました。

3.勇猛な金子一族に道灌軍も大苦戦
1477年(文明9年)3月、金子掃部助(かもんのすけ)が長尾景春に与して相模国小沢城(愛川町)に籠り、上杉方の太田道灌と戦いました。山内上杉氏に従っていた金子氏は、長尾景春が白井長尾氏の嫡流でその父祖、景信、景仲に恩顧があったので、景春に味方して道灌軍と戦いました。
Q−2高田橋からのぞむ小沢城址.JPG
(相模川縁の小沢城址)
小沢城は相模川縁の絶壁の上にある要害であったので、城を囲んだ道灌軍は大苦戦をし、一か月後の4月18日にようやく落城させました。しかしながら道灌軍が移動すると、金子勢は再び小沢城を占拠し、翌年の4月に道灌軍が小机城をせめたとき後詰めとして背後を脅かしました。小机城落城とともに小沢城は、再び自落しました。そしてさらに翌年1478年(文明10年)道灌軍が相模の奥三保をせめたとき、金子勢は三度太田資忠軍の行く手に立ちはだかりしぶとく抵抗したもののやがて敗れました。けだし金子氏は、多摩の国人衆として各地に転戦し、最も顕著な武勇を著わし続けた、なにし負う武蔵武士村山党の一族でありました。