2018年04月10日

「太田道灌状」の久下と久下氏

1.久下氏の出自
「太田道灌状」第24段にいわく「(前略)(文明11年)十二月十日金谷談所へ着陣仕り候処、忍城の雑説候由粗(あらあら)申し来り候間、不慮の越度候ては、彌々難儀たるべき旨存じ、翌日二十九日久下(くげ)へ陣を寄せ、成田下総守に力を付候之間、彼の城御無為に候。御不審に候ば、事の次いでに此の如く申す段成田に御尋ね有るべく候」と。
*金谷談所=本庄市児玉町金谷の寺の学問所
*成田下総守=成田親泰、忍城主
 1479年(文明11年)12月に、道灌軍が陣を寄せた久下という所と国人領主久下氏を調べます。国道17号線を北上して熊谷市に入ると、中山道の久下という交差点にきます。そこを左折して荒川の方へ入った地域が久下です。
「武蔵武士」(渡辺世祐・八代国治著)によると次のようです。私市(きさい)党の久下為家は大里郡久下村に住み久下氏の祖となりました。重家、則氏と伝えて代々久下太郎と称しました。則氏の二子憲重の子久下権守直光は石橋合戦以来源頼朝に従い、一の谷その他の戦いに参加して武功がありました。
2.久下氏の菩提寺・東竹院
熊谷市久下の曹洞宗東竹院久杉寺は、久下直光が開基した久下氏の菩提寺です。境内には「久下権守直光公 次郎重光公墓所」という墓標があり、その奥に2基の五輪塔があります。東竹院は久下次郎重光(法名は東竹院)が開基で、深谷城主上杉三郎憲賢が中興開基となりました。
2018-03-16 墓所の標.jpg
(墓所の標)
2018-03-16 久下氏墓所.jpg
(久下氏の墓所)
頼朝が相州石橋山合戦にて敗走した時、当時の当主久下重光が三百騎にて最初に馳せ参じたのを感謝し、「一番」の家紋を授けました。したがって久下氏の家紋も東竹院の家紋も「丸に横一文字」です。
2018-03-16 久下氏の家紋.jpg
(東竹院の寺紋「丸に横一文字」は久下氏の家紋「一番」に因む)
 重光の子である直光は、同族である熊谷直実と所領争いをしたりしています。後に久下氏は丹波国へも所領を増やし、戦国期になるとその子孫が成田氏に仕ええました。
成田氏が熊谷市上之から忍(おし)へ来て忍城を堅固にして行田町を整備しました。成田氏は築城に際し近隣の一族、別府、玉の井、奈良氏はもちろん、酒巻、須賀、中條、久下、吉見の各氏の助力を得て、水路を開き、良田を整備し農地をひらき勢力を増しました。この頃、成田氏に雑説(謀反のうわさ)が起こったので、道灌は文明11年の年末に、久下館の近隣に陣を寄せて成田氏と会い、成田氏の成氏側への寝返りを防いだのでした。おそらくは道灌が久下氏を信頼していたので、その館近くに陣を取ったと思われます。
2018-03-16 21.29.26.jpg
(久下古城の荒川河川敷)
熊谷市教育委員会の郷土史編纂室によると、太田道灌が訪れた久下氏の居館の跡は、現在の東竹院からすこし南方の、荒川河川敷の中と思われるものの、発掘調査の結果は何も出なかった、ということであります。荒川は昔から名にし負う暴れ川であるので、私が「荒川の氾濫で遺構も遺物もすべて流されたかもしれませんね」と余計なことをいうと担当者は黙っていました。返事のしようがなかったのでしょう。
久下氏居館跡と推測される所は今、灌木が茂り野の花が咲き、風が通るだけのだだっ広い河川敷となっています。