2018年09月30日

「塩売原」で考える「地名は言葉の化石」

2018年9月、台風24号が近づいて小雨が降る中、前橋市富士見町の『太田道灌状』にかかわる史跡調査に出かけました。国道17号線を北上し、前橋市で荒牧町を過ぎてから291号線に入ります。萩原朔太郎ゆかりの政淳寺入り口で右折します。しばらく進んで政淳寺を過ぎて右の方へ行くと「横室古墳公園」へきます。公園の入口の説明板の表題に「陣場・庄司原」と地名が記されています。この地が、1477年(文明9年)10月11日に上杉方・大田道灌軍と古河公方方・長尾景春軍が小競り合いをした古戦場の庄司原(塩売原)であったことを物語っています。
案内してくれた地元の郷土史家長谷川氏の解説は次の様でした。
「この近くに荒牧(道灌状では「荒巻」)という地名があるように、この辺りには古来牧がたくさんあり、多数の馬が放牧されていました。馬には塩を与えなければならなかったので、この地で塩の売買が行われました。したがってこの地が「塩売原」(しおうりはら)といわれ、やがてなまって「庄司原」(しょうじっぱら)と呼ばれるようになりました。そして「庄司原」の西南に字「陣場」があり、この地が古戦場であったことを物語っています」
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(横室古墳公園)
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(陣場・庄司原古墳群の説明板)
『太田道灌状』16段にいう、
「十月二日道灌は荒巻へ上り、並びに引田辺の陣場等を見て廻り、其の心当に候処、案の如く結城、両那須、佐々木、横瀬、其他彼の国の諸勢申し請い、景春並びに同名六郎多勢を以って寄せ来り候。兼て覚悟の前に候の間、塩売原へ打ち上げ、引田の切所を前に当てて陣取り、天子の御旗を出され候ば、其の時合戦に及ぶべき旨存候処、聊示の趣で異見申される方共候か。其義なく候の処、十一月十四日御敵退散せしめ候」
(10月2日に道灌は荒巻へ上り、すぐに引田辺りの陣場等を見て廻り、其の地での作戦を練っていたところ案の定、結城、両那須、佐々木、横瀬、其の他彼の国の諸勢が申し合わせ、景春並に同名六郎等多勢で寄せて来ました。(道灌は)兼ねて予想をしていたので、塩売原へ打ち上げ、引田の切所を前にして陣取り、(顕定が)天子の御旗を出されれば、その時合戦に及ぶだろうと考えていました。ところが、思いつきの考えで意見をする人がいたのでしょうか、その作戦は実行されないまま、十一月十四日に敵は退散しました)
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(引田)
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(横室古墳)
長谷川氏の案内ですぐ近くの引田という所へ行ってみると、そこはやや高くなっていて横室との間に窪地があるので、道灌はそこを切所と考えたと思われます。切所とは、勝敗のきめてとなる厳しい地形のことです。全てが『太田道灌状』の記述と合致する地名と地形であるので、いつもながら感動します。私は10年ほど前にこの近辺を廻りましたが、今回は長谷川氏の案内で地名と地形と両軍の動きを詳しく検証しました。言語学では「地名は言葉の化石である」といわれています。そのことが間違いないことがよくわかります。
この地に道灌軍と景春方の結城氏など関東八家の大軍が軍旗をなびかせて押し寄せました。古墳の頂上に登ってみると、前橋市街や周囲に広がるブロッコリー畑がよく見えるので、ここは最初に太田道灌がそのあと長尾景春も登って物見をしただろうと想像されて面白くなってきます。上州の山々が見えないのが少々残念です。
さあ台風が日本列島に近づいているので、帰らねばなりません。