茨城県の石岡市が太田資正終焉(しゅうえん)の地です。東京都のJR日暮里駅で常磐線に乗ると約2時間で石岡市へきます。茨城県に入ると、車窓からレンコン畑が見えてきて、夏の朝には見事な花を咲かせています。
太田道灌の曾孫太田資正三楽斎道誉は、道灌の再来といわれたほどの名将であったけれども、長男の氏資と仲違をし、1565年(永禄8年)岩槻城を追われました。資正は常陸の佐竹氏の客将となって片野城に拠り、息子の梶原政景は柿岡城に入りました。
片野城址がある石岡市根小屋地域へのアクセスはやや難儀で、車で行くか石岡駅から途中までバスで行き三キロほど歩くしかありません。城址への道標など全くないので、地元の人に尋ねるか地元の詳細な地図を持参する必要があります。集落の中の小山が片野城址です。入口に「片野城址」という石碑と石岡市教育委員会の説明板が立っています。
(片野城址碑)
(土塁跡)
説明板によると、1566年(永禄9年)ごろ太田資正がこの城を築き、柿岡城の梶原政景と協力して、佐竹氏に対立した国人領主・小田氏を国外に追い払いました。資正は三男資武とともにこの城に居住し、1591年(天正19年)秋に、その豪勇かつ多彩な生涯を終えました。時に資正69歳でありました。
城址の入り口を登ると本丸らしい空間があり、今は畑となっています。周囲に土塁と思われる遺構が数か所あります。城址入口に至る深く切り込んだ道路も、空掘りの跡と思われます。城址に立つと、はるかに筑波山がよい具合に見えて一幅の絵のようであります。晩年の太田資正は、朝夕にここに立って筑波山を眺め、自らの来し方を振り返ったことでありましょう。
この城址に隣接している佐久山も片野城の一部分で、その小山の向うに太田資正の墓所があります。城址の登り口から佐久山を小さく巻くと、真言宗豊山派浄瑠璃光山と称する無人の堂があります。その墓域の奥に、「太田資正公之墓所」と彫られた石柱と五輪塔が三基あります。波乱万丈の生涯を駆け抜けた太田資正は、田んぼやハス畑に囲まれた静かな里の小山で永遠の眠りに就いたわけです。
(太田資正墓所)
片野城址から恋瀬川に沿って約3キロ北へ移動すると、丘の上に石岡市立柿岡小学校があり、そこが柿岡城址です。校門への登り道の側面が土塁の遺構と思われます。学校の敷地全体が小高い丘の上にあり、かつての城山は想像するしかありません。この城には、太田資正の次男梶原政景が拠り、父とともにその存在感を発揮し続けました。
(柿岡城城址)
石岡駅から歴史コースを10分も歩くと、常陸国総社神社があります。この神社はその名のようにいろいろな神社の総代の役目を果たした由緒ある古社です。この神社に太田道灌遺愛の軍配が伝っていました。神社の説明板には次のように記されています。
県指定有形文化財(工芸品)漆皮軍配 伝太田道灌奉納
小型の軍配と長い柄の形式は古く、室町時代の作と推定されている。総長48・9センチメートル、最大幅19・1センチメ ートル、柄幅2.6センチメートル、なめし革製黒漆の軍配。表には朱漆で種子を描いている。
寛文8年(1668年)太田資宗、資次の寄進銘のある箱に収められてあり、保存状態も良好である。
太田道灌が石岡まで来た記録はないので、岩槻城に伝わっていた道灌の軍配を岩槻城主太田資正が所持し続け、資正が晩年になってから総社神社へ奉納したのではないかと私は推測しています。太田資宗、資次は江戸時代の掛川藩太田家の初代と2代です。
(総社神社)
片野城址と柿岡城址は石岡市指定史跡です。
太田道灌遺愛の漆皮軍配は、レプリカが埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で展示されています。
片野城址=茨城県石岡市根小屋
太田資正墓所=茨城県石岡市根小屋
柿岡城址・柿岡小学校=茨城県石岡市柿岡2151
常陸国総社神社=茨城県石岡市総社2
*この記事に関連して、先に掲載して引き揚げた「武州松山城と太田資正」を再度掲載します。
太田資正と武州松山城址
武州松山城の城主であった太田美濃守資正入道三楽斎道誉は、道灌の曾孫に当たり、道灌の再来といわれた名将でありました。この勇猛果敢でやや不遇な智将のことを、私は深い感慨を持って述べなければなりません。
埼玉県東松山市から吉見町に入ると、すぐに吉見百穴(よしみひゃくあな)という有名な国指定史跡の観光スポットがあります。東武東上線の東松山駅から、徒歩25分です。この百穴のとなりの城山が松山城址です。百穴の観光案内所の人に松山城址の登り口を尋ねると、親切に教えてくれて「本丸までは道がありますが、その先はけもの道です」と言い、意味ありげににやりと笑いました。登ってみてその意味がわかりました。本丸から先では次第に道が消えて、やがて深い空堀の底に迷い込んだりします。城域がけもの道になっているということは、極めて良好に保存されているということです。
(吉見百穴)
(松山城の深く広い空堀)
松山城は1399年(応永6年)この地の国人領主上田氏により築城されたといわれていますが、武蔵国中原の要衝であったため、常に諸勢力の争奪戦の的となって城主は度々変わりました。城の構造は梯郭(ていかく)式平山城とされ、舌状の城山の先端を市野川が半円状に囲み、本丸、二の丸、春日丸、三の丸などを中心に段差を持った多くの腰郭と深く広い空堀をもっている堂々たる山城です。
1561年(永禄4年)から3年間、太田資正は松山城の城主として上杉謙信に忠誠を尽くし、後北条氏と武田氏に対抗して道灌譲りの奇抜な戦法で戦い続けました。
「三楽犬の入れ替え」として面白い挿話が伝えられています。資正は岩槻城と松山城で各50匹の犬を飼って、土地になれた頃に犬たちを他方の城に移しました。資正は後北条軍の急襲を受けて城を包囲されると、直ちに10匹の犬の首に文を入れた竹筒を結わえて放ちました。犬の帰郷本能を活用した緊急通信システムであり、日本軍用犬の起源です。犬たちは包囲網をかいくぐって約29キロの道をおそらく小一時間で走ったから、すぐに後詰めが押し寄せて来ました。後北条方はこの不思議を訝り、大いに恐れたということです。現代で言えば、太田資正は暗号による情報戦で勝っていたということです。
(三の丸跡)
1560年(永禄3年)2月に、上杉謙信が小田原を攻めたとき、資正は先鋒として兵3500名を率いて小田原城に迫り、後北条軍の心胆を脅かしました。「北条記」という軍記ものには「太田資正は一騎当千の兵なり」と伝えています。
1590年(天正18年)、今を時めく天下人豊臣秀吉がその総力を結集して関東に攻め込み、小田原城を包囲しました。秀吉から小田原城攻撃の戦術を問われた資正は、並みいる宿将の前で城の無血開城の策を進言しました。このようなときに非戦論を唱えると宿将の嘲笑に合い、まかり間違うと自らの命運も危なくなるのが戦陣の常であります。しかしこのとき、後北条軍の精強さと小田原城の堅固さを知り尽くしていた太田資正の一言は重く、諸将に強いインパクトを与えました。秀吉はこのとき、自分の腹の中の図星をさされたので敢えて不快そうな顔をつくり、着ていた陣羽織を資正に与えて退出させたということです。結局は資正の進言通り、主戦派の北条氏政、氏照と数名の重臣の切腹で小田原城は明け渡されました。
太田資正の唯一つの失敗は、二男の梶原政景を溺愛して長男氏資と仲違いをし、岩槻城を追われたことです。その後、氏資は後北条氏に取り込まれてさらに謀略にはまり、上総三船山合戦で戦死しました。時に氏資は26才の若さでありました。
資正は客将として常陸の片野城に移ってからも、佐竹氏を補佐してその存在感を発揮し続け、1591年(天正19年)その波乱万丈の生涯を終えました。太田資正の三男資武の子資信が祖父三楽斎資正の戦歴を次のように記しています。
出陣数 79度
一番槍 23度
組み打ち 34度
太刀打ち 覚え申し候はず
太田資正ほどの勇将・智将であっても、時と所に利がなければやや不遇の生涯を送らねばならなかったのです。このように無情な時と厳しい境遇の中で、戦い続けて燃え尽きた太田資正は巷間、「日本13大将」に列せられてその名を後世に伝えています。
松山城址は埼玉県指定史跡であり、かつ比企郡城跡群として国指定史跡です。
片野城址は石岡市指定有形文化財(史跡)です。
武州松山城址=埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山
片野城址=茨城県石岡市根古屋
2010年08月15日
太田資正終焉の地・片野城址
posted by 道灌紀行 at 15:13| Comment(0)
| 道灌紀行は限りなく
太田資正終焉の地・片野城址
茨城県の石岡市が太田資正終焉(しゅうえん)の地です。東京都のJR日暮里駅で常磐線に乗ると約2時間で石岡市へきます。茨城県に入ると、車窓からレンコン畑が見えてきて、夏の朝には見事な花を咲かせています。
太田道灌の曾孫太田資正三楽斎道誉は、道灌の再来といわれたほどの名将であったけれども、長男の氏資と仲違をし、1565年(永禄8年)岩槻城を追われました。資正は常陸の佐竹氏の客将となって片野城に拠り、息子の梶原政景は柿岡城に入りました。
片野城址がある石岡市根小屋地域へのアクセスはやや難儀で、車で行くか石岡駅から途中までバスで行き三キロほど歩くしかありません。城址への道標など全くないので、地元の人に尋ねるか地元の詳細な地図を持参する必要があります。集落の中の小山が片野城址です。入口に「片野城址」という石碑と石岡市教育委員会の説明板が立っています。
(片野城址碑)
(土塁跡)
説明板によると、1566年(永禄9年)ごろ太田資正がこの城を築き、柿岡城の梶原政景と協力して、佐竹氏に対立した国人領主・小田氏を国外に追い払いました。資正は三男資武とともにこの城に居住し、1591年(天正19年)秋に、その豪勇かつ多彩な生涯を終えました。時に資正69歳でありました。
城址の入り口を登ると本丸らしい空間があり、今は畑となっています。周囲に土塁と思われる遺構が数か所あります。城址入口に至る深く切り込んだ道路も、空掘りの跡と思われます。城址に立つと、はるかに筑波山がよい具合に見えて一幅の絵のようであります。晩年の太田資正は、朝夕にここに立って筑波山を眺め、自らの来し方を振り返ったことでありましょう。
この城址に隣接している佐久山も片野城の一部分で、その小山の向うに太田資正の墓所があります。城址の登り口から佐久山を小さく巻くと、真言宗豊山派浄瑠璃光山と称する無人の堂があります。その墓域の奥に、「太田資正公之墓所」と彫られた石柱と五輪塔が三基あります。波乱万丈の生涯を駆け抜けた太田資正は、田んぼやハス畑に囲まれた静かな里の小山で永遠の眠りに就いたわけです。
(太田資正墓所)
片野城址から恋瀬川に沿って約3キロ北へ移動すると、丘の上に石岡市立柿岡小学校があり、そこが柿岡城址です。校門への登り道の側面が土塁の遺構と思われます。学校の敷地全体が小高い丘の上にあり、かつての城山は想像するしかありません。この城には、太田資正の次男梶原政景が拠り、父とともにその存在感を発揮し続けました。
(柿岡城城址)
石岡駅から歴史コースを10分も歩くと、常陸国総社神社があります。この神社はその名のようにいろいろな神社の総代の役目を果たした由緒ある古社です。この神社に太田道灌遺愛の軍配が伝っていました。神社の説明板には次のように記されています。
県指定有形文化財(工芸品)漆皮軍配 伝太田道灌奉納
小型の軍配と長い柄の形式は古く、室町時代の作と推定されている。総長48・9センチメートル、最大幅19・1センチメ ートル、柄幅2.6センチメートル、なめし革製黒漆の軍配。表には朱漆で種子を描いている。
寛文8年(1668年)太田資宗、資次の寄進銘のある箱に収められてあり、保存状態も良好である。
太田道灌が石岡まで来た記録はないので、岩槻城に伝わっていた道灌の軍配を岩槻城主太田資正が所持し続け、資正が晩年になってから総社神社へ奉納したのではないかと私は推測しています。太田資宗、資次は江戸時代の掛川藩太田家の初代と2代です。
(総社神社)
片野城址と柿岡城址は石岡市指定史跡です。
太田道灌遺愛の漆皮軍配は、レプリカが埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で展示されています。
片野城址=茨城県石岡市根小屋
太田資正墓所=茨城県石岡市根小屋
柿岡城址・柿岡小学校=茨城県石岡市柿岡2151
常陸国総社神社=茨城県石岡市総社2
*この記事に関連して、先に掲載して引き揚げた「武州松山城と太田資正」を再度掲載します。
太田資正と武州松山城址
武州松山城の城主であった太田美濃守資正入道三楽斎道誉は、道灌の曾孫に当たり、道灌の再来といわれた名将でありました。この勇猛果敢でやや不遇な智将のことを、私は深い感慨を持って述べなければなりません。
埼玉県東松山市から吉見町に入ると、すぐに吉見百穴(よしみひゃくあな)という有名な国指定史跡の観光スポットがあります。東武東上線の東松山駅から、徒歩25分です。この百穴のとなりの城山が松山城址です。百穴の観光案内所の人に松山城址の登り口を尋ねると、親切に教えてくれて「本丸までは道がありますが、その先はけもの道です」と言い、意味ありげににやりと笑いました。登ってみてその意味がわかりました。本丸から先では次第に道が消えて、やがて深い空堀の底に迷い込んだりします。城域がけもの道になっているということは、極めて良好に保存されているということです。
(吉見百穴)
(松山城の深く広い空堀)
松山城は1399年(応永6年)この地の国人領主上田氏により築城されたといわれていますが、武蔵国中原の要衝であったため、常に諸勢力の争奪戦の的となって城主は度々変わりました。城の構造は梯郭(ていかく)式平山城とされ、舌状の城山の先端を市野川が半円状に囲み、本丸、二の丸、春日丸、三の丸などを中心に段差を持った多くの腰郭と深く広い空堀をもっている堂々たる山城です。
1561年(永禄4年)から3年間、太田資正は松山城の城主として上杉謙信に忠誠を尽くし、後北条氏と武田氏に対抗して道灌譲りの奇抜な戦法で戦い続けました。
「三楽犬の入れ替え」として面白い挿話が伝えられています。資正は岩槻城と松山城で各50匹の犬を飼って、土地になれた頃に犬たちを他方の城に移しました。資正は後北条軍の急襲を受けて城を包囲されると、直ちに10匹の犬の首に文を入れた竹筒を結わえて放ちました。犬の帰郷本能を活用した緊急通信システムであり、日本軍用犬の起源です。犬たちは包囲網をかいくぐって約29キロの道をおそらく小一時間で走ったから、すぐに後詰めが押し寄せて来ました。後北条方はこの不思議を訝り、大いに恐れたということです。現代で言えば、太田資正は暗号による情報戦で勝っていたということです。
(三の丸跡)
1560年(永禄3年)2月に、上杉謙信が小田原を攻めたとき、資正は先鋒として兵3500名を率いて小田原城に迫り、後北条軍の心胆を脅かしました。「北条記」という軍記ものには「太田資正は一騎当千の兵なり」と伝えています。
1590年(天正18年)、今を時めく天下人豊臣秀吉がその総力を結集して関東に攻め込み、小田原城を包囲しました。秀吉から小田原城攻撃の戦術を問われた資正は、並みいる宿将の前で城の無血開城の策を進言しました。このようなときに非戦論を唱えると宿将の嘲笑に合い、まかり間違うと自らの命運も危なくなるのが戦陣の常であります。しかしこのとき、後北条軍の精強さと小田原城の堅固さを知り尽くしていた太田資正の一言は重く、諸将に強いインパクトを与えました。秀吉はこのとき、自分の腹の中の図星をさされたので敢えて不快そうな顔をつくり、着ていた陣羽織を資正に与えて退出させたということです。結局は資正の進言通り、主戦派の北条氏政、氏照と数名の重臣の切腹で小田原城は明け渡されました。
太田資正の唯一つの失敗は、二男の梶原政景を溺愛して長男氏資と仲違いをし、岩槻城を追われたことです。その後、氏資は後北条氏に取り込まれてさらに謀略にはまり、上総三船山合戦で戦死しました。時に氏資は26才の若さでありました。
資正は客将として常陸の片野城に移ってからも、佐竹氏を補佐してその存在感を発揮し続け、1591年(天正19年)その波乱万丈の生涯を終えました。太田資正の三男資武の子資信が祖父三楽斎資正の戦歴を次のように記しています。
出陣数 79度
一番槍 23度
組み打ち 34度
太刀打ち 覚え申し候はず
太田資正ほどの勇将・智将であっても、時と所に利がなければやや不遇の生涯を送らねばならなかったのです。このように無情な時と厳しい境遇の中で、戦い続けて燃え尽きた太田資正は巷間、「日本13大将」に列せられてその名を後世に伝えています。
松山城址は埼玉県指定史跡であり、かつ比企郡城跡群として国指定史跡です。
片野城址は石岡市指定有形文化財(史跡)です。
武州松山城址=埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山
片野城址=茨城県石岡市根古屋
太田道灌の曾孫太田資正三楽斎道誉は、道灌の再来といわれたほどの名将であったけれども、長男の氏資と仲違をし、1565年(永禄8年)岩槻城を追われました。資正は常陸の佐竹氏の客将となって片野城に拠り、息子の梶原政景は柿岡城に入りました。
片野城址がある石岡市根小屋地域へのアクセスはやや難儀で、車で行くか石岡駅から途中までバスで行き三キロほど歩くしかありません。城址への道標など全くないので、地元の人に尋ねるか地元の詳細な地図を持参する必要があります。集落の中の小山が片野城址です。入口に「片野城址」という石碑と石岡市教育委員会の説明板が立っています。
(片野城址碑)
(土塁跡)
説明板によると、1566年(永禄9年)ごろ太田資正がこの城を築き、柿岡城の梶原政景と協力して、佐竹氏に対立した国人領主・小田氏を国外に追い払いました。資正は三男資武とともにこの城に居住し、1591年(天正19年)秋に、その豪勇かつ多彩な生涯を終えました。時に資正69歳でありました。
城址の入り口を登ると本丸らしい空間があり、今は畑となっています。周囲に土塁と思われる遺構が数か所あります。城址入口に至る深く切り込んだ道路も、空掘りの跡と思われます。城址に立つと、はるかに筑波山がよい具合に見えて一幅の絵のようであります。晩年の太田資正は、朝夕にここに立って筑波山を眺め、自らの来し方を振り返ったことでありましょう。
この城址に隣接している佐久山も片野城の一部分で、その小山の向うに太田資正の墓所があります。城址の登り口から佐久山を小さく巻くと、真言宗豊山派浄瑠璃光山と称する無人の堂があります。その墓域の奥に、「太田資正公之墓所」と彫られた石柱と五輪塔が三基あります。波乱万丈の生涯を駆け抜けた太田資正は、田んぼやハス畑に囲まれた静かな里の小山で永遠の眠りに就いたわけです。
(太田資正墓所)
片野城址から恋瀬川に沿って約3キロ北へ移動すると、丘の上に石岡市立柿岡小学校があり、そこが柿岡城址です。校門への登り道の側面が土塁の遺構と思われます。学校の敷地全体が小高い丘の上にあり、かつての城山は想像するしかありません。この城には、太田資正の次男梶原政景が拠り、父とともにその存在感を発揮し続けました。
(柿岡城城址)
石岡駅から歴史コースを10分も歩くと、常陸国総社神社があります。この神社はその名のようにいろいろな神社の総代の役目を果たした由緒ある古社です。この神社に太田道灌遺愛の軍配が伝っていました。神社の説明板には次のように記されています。
県指定有形文化財(工芸品)漆皮軍配 伝太田道灌奉納
小型の軍配と長い柄の形式は古く、室町時代の作と推定されている。総長48・9センチメートル、最大幅19・1センチメ ートル、柄幅2.6センチメートル、なめし革製黒漆の軍配。表には朱漆で種子を描いている。
寛文8年(1668年)太田資宗、資次の寄進銘のある箱に収められてあり、保存状態も良好である。
太田道灌が石岡まで来た記録はないので、岩槻城に伝わっていた道灌の軍配を岩槻城主太田資正が所持し続け、資正が晩年になってから総社神社へ奉納したのではないかと私は推測しています。太田資宗、資次は江戸時代の掛川藩太田家の初代と2代です。
(総社神社)
片野城址と柿岡城址は石岡市指定史跡です。
太田道灌遺愛の漆皮軍配は、レプリカが埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で展示されています。
片野城址=茨城県石岡市根小屋
太田資正墓所=茨城県石岡市根小屋
柿岡城址・柿岡小学校=茨城県石岡市柿岡2151
常陸国総社神社=茨城県石岡市総社2
*この記事に関連して、先に掲載して引き揚げた「武州松山城と太田資正」を再度掲載します。
太田資正と武州松山城址
武州松山城の城主であった太田美濃守資正入道三楽斎道誉は、道灌の曾孫に当たり、道灌の再来といわれた名将でありました。この勇猛果敢でやや不遇な智将のことを、私は深い感慨を持って述べなければなりません。
埼玉県東松山市から吉見町に入ると、すぐに吉見百穴(よしみひゃくあな)という有名な国指定史跡の観光スポットがあります。東武東上線の東松山駅から、徒歩25分です。この百穴のとなりの城山が松山城址です。百穴の観光案内所の人に松山城址の登り口を尋ねると、親切に教えてくれて「本丸までは道がありますが、その先はけもの道です」と言い、意味ありげににやりと笑いました。登ってみてその意味がわかりました。本丸から先では次第に道が消えて、やがて深い空堀の底に迷い込んだりします。城域がけもの道になっているということは、極めて良好に保存されているということです。
(吉見百穴)
(松山城の深く広い空堀)
松山城は1399年(応永6年)この地の国人領主上田氏により築城されたといわれていますが、武蔵国中原の要衝であったため、常に諸勢力の争奪戦の的となって城主は度々変わりました。城の構造は梯郭(ていかく)式平山城とされ、舌状の城山の先端を市野川が半円状に囲み、本丸、二の丸、春日丸、三の丸などを中心に段差を持った多くの腰郭と深く広い空堀をもっている堂々たる山城です。
1561年(永禄4年)から3年間、太田資正は松山城の城主として上杉謙信に忠誠を尽くし、後北条氏と武田氏に対抗して道灌譲りの奇抜な戦法で戦い続けました。
「三楽犬の入れ替え」として面白い挿話が伝えられています。資正は岩槻城と松山城で各50匹の犬を飼って、土地になれた頃に犬たちを他方の城に移しました。資正は後北条軍の急襲を受けて城を包囲されると、直ちに10匹の犬の首に文を入れた竹筒を結わえて放ちました。犬の帰郷本能を活用した緊急通信システムであり、日本軍用犬の起源です。犬たちは包囲網をかいくぐって約29キロの道をおそらく小一時間で走ったから、すぐに後詰めが押し寄せて来ました。後北条方はこの不思議を訝り、大いに恐れたということです。現代で言えば、太田資正は暗号による情報戦で勝っていたということです。
(三の丸跡)
1560年(永禄3年)2月に、上杉謙信が小田原を攻めたとき、資正は先鋒として兵3500名を率いて小田原城に迫り、後北条軍の心胆を脅かしました。「北条記」という軍記ものには「太田資正は一騎当千の兵なり」と伝えています。
1590年(天正18年)、今を時めく天下人豊臣秀吉がその総力を結集して関東に攻め込み、小田原城を包囲しました。秀吉から小田原城攻撃の戦術を問われた資正は、並みいる宿将の前で城の無血開城の策を進言しました。このようなときに非戦論を唱えると宿将の嘲笑に合い、まかり間違うと自らの命運も危なくなるのが戦陣の常であります。しかしこのとき、後北条軍の精強さと小田原城の堅固さを知り尽くしていた太田資正の一言は重く、諸将に強いインパクトを与えました。秀吉はこのとき、自分の腹の中の図星をさされたので敢えて不快そうな顔をつくり、着ていた陣羽織を資正に与えて退出させたということです。結局は資正の進言通り、主戦派の北条氏政、氏照と数名の重臣の切腹で小田原城は明け渡されました。
太田資正の唯一つの失敗は、二男の梶原政景を溺愛して長男氏資と仲違いをし、岩槻城を追われたことです。その後、氏資は後北条氏に取り込まれてさらに謀略にはまり、上総三船山合戦で戦死しました。時に氏資は26才の若さでありました。
資正は客将として常陸の片野城に移ってからも、佐竹氏を補佐してその存在感を発揮し続け、1591年(天正19年)その波乱万丈の生涯を終えました。太田資正の三男資武の子資信が祖父三楽斎資正の戦歴を次のように記しています。
出陣数 79度
一番槍 23度
組み打ち 34度
太刀打ち 覚え申し候はず
太田資正ほどの勇将・智将であっても、時と所に利がなければやや不遇の生涯を送らねばならなかったのです。このように無情な時と厳しい境遇の中で、戦い続けて燃え尽きた太田資正は巷間、「日本13大将」に列せられてその名を後世に伝えています。
松山城址は埼玉県指定史跡であり、かつ比企郡城跡群として国指定史跡です。
片野城址は石岡市指定有形文化財(史跡)です。
武州松山城址=埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山
片野城址=茨城県石岡市根古屋
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2010年06月30日
秩父の長尾城址と景春の墓
秩父高佐須城(塩沢城址)から再度、秩父の長尾景春の足跡を追います。従って今回は、道灌紀行から脱線して景春紀行となります。秩父市のお花畑駅から秩父鉄道に乗ると、三つ目で日本通貨発祥地である和銅黒谷(わどうくろや)駅につきます。駅のプラットホームに巨大な和銅開珎(わどうかいちん)のモニュメントがあります。このあたりに来ると、電車は30分に1本ぐらいしかないので、駅の待合室でおしゃべりをして電車を待つ里人や通学生徒の話を聞いていると、急に時間が止まったような気がしてきます。昔懐かしい里山の電車に乗りたければ、秩父鉄道がお勧めです。運が良ければ、俳句展示の電車に出会います。私がたまたま座った座席の上に記す。
山澄みて馬がまどろむ草の海
錦秋の秩父路夫とひもすがら
車で秩父市駅から国道140号線を走ればすぐに黒谷へきます。
(和銅黒谷駅のモニュメント)
(長尾城址にある和銅遺跡)
和銅黒谷駅から観光用の道標に従い、梅雨の晴れ間にふるさと歩道を歩きました。民家と畑が点在し、山の方から鶯の谷渡りがまことに心地よく聞こえてきます。のんびり歩いて10分おきぐらいに法雲寺、和銅遺跡入口、瑞岩寺があります。法雲寺には長尾景春の墓があり、和銅遺跡の奥山である美の山公園から瑞岩寺の奥の岩山あたりが長尾城であったと伝えられています。
私は先ず法雲寺こと曹洞宗の正永山法雲禅寺へ行き、寺の庫裏を訪ねると無人でした。墓域で伝・長尾景春の墓を探したけれどもそれらしきものが見つかりません。思い余って、寺の近くで仕事をしていた地元の逸見さんに尋ねました。逸見さんは快く「案内しましょう」と言って、自宅へ戻り長くつを履いて鎌をかつぎ「ときどき蛇やイノシシが出ます」と言って歩き出しました。逸見さんは寺の奥山を、雑草を切り払いながら登り始めました。立派な坂道があるけれども雑草や灌木ですっかり覆われています。息を切らしながら10分も登ると、山の中腹の50メートル四方ほどの平場に着きました。逸見さんは「昔はここに法雲寺があったと伝えられています」と言って、灌木や雑草をかきわけ、平場の中ほどに立つ苔むした一つの五輪塔へ案内してくれました。
林の中のちょっと開けた所に立つ五輪塔、いや下二段は崩れて約六〇センチメートルの三輪塔になっている石塔が、伝・長尾景春の墓です。訪ねる人もなく山の中腹で雑草と灌木に埋もれてひっそりと立っています。私は、胸騒ぎを覚えながら石塔の文字を探しました。木漏れ日が当った部分にかすかに文字の痕跡様のものを認めたものの判読できません。これが長尾景春の墓だとすると、景春没後、約500年も経っているので石塔の磨滅もしかたありません。
(永正山法雲禅寺・奥山に景春の墓)
(伝・長尾景春の墓)
この平場の上の稜線を東へ行けば美の森公園と和銅遺跡があり、さらに行けば瑞岩寺へ至ります。「秩父志」によるとそのあたりは長尾城址と伝えられていますが、遺構は見つかっていません。
ふるさと歩道の東の端の絶壁の下に瑞岩寺こと曹洞宗の融興山瑞岩寺(ゆうこうざんずいがんじ)があります。瑞岩寺の縁起によると、この寺は、1528年(亨録元年)長尾四郎左衛門昭国が開基となり創建されました。そしてこの寺の住職の話によると、長尾四郎左衛門昭国とは長尾景春その人であり、かつて瑞岩寺にも長尾景春の墓があったそうです。長尾景春は、1514年(永正11年)72歳で没したと伝えられています。そうすると瑞岩寺開基の年代が十数年ずれて整合しません。
ところが、瑞岩寺住職の話では、法雲寺の方が瑞岩寺より少し早く創建されたということです。法雲寺はちょうど景春が没した永正年間に恐らくは景春により創建され、年号をとって永正山と号されたのであろうと私は推測いたします。そうすると、法雲寺の奥山の五輪塔は、景春そのひとの供養墓であるという信憑性がぐっと強くなります。景春没後、秩父の人たちが景春の不運を憐れみ、景春とその家族が最期を過ごした長尾城のふもとに、景春の供養塔を立てたのだと私は推測しています。
(瑞岩寺)
ふるさと歩道の西の端には、聖(ひじり)神社があり、その境内に「長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑」があります。長尾景春にはたくさんの名前があり、威玄(いげん)入道とは長尾景春の法名です。
また「増補秩父風土記」の黒谷村の項には、長尾城址が意玄入道の子烏坊丸と奥方ほか27人が隠れ住んだ場所であるとの伝承が記されています。
太田道灌状には、長尾城についての記述がありません。それゆえ、長尾城堀之内跡と伝えられているあたりは、戦闘用の砦ではなくいわゆる根小屋と称されるところで、景春の家族と少数の従者が住んでいた所ではないかと私は推測しています。
(聖神社・長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑)
長尾景春と秩父の因縁はまことに深いものがあります。景春の属していた白井長尾氏と秩父の薄地域(小鹿野町)を領していた犬懸長尾氏(鎌倉長尾氏の系列)とは縁戚関係があり、景春の妻も犬懸長尾の出身でありました。薄地域は秩父でも有数の平野で水田地帯であったため、犬懸長尾氏とその地域の国人衆の経済力は強大でありました。秩父の国人衆は一揆と称する横の連携を結ぶことによって管領から独立する傾向があり、なおかつ敗れて落ちてきた人物を支援する気風が強かったといわれています。犬懸長尾氏の当主長尾景利は、景春与党として戦って秩父で戦死しています。
1476年(文明8年)景春が鉢形城に拠って上杉顕定に叛旗を翻したとき、彼はその地の戦略的利点とともに背後の秩父の人脈を頼りにしていたことは間違いありません。その後も景春は、敗れるといつも妻の里である秩父へ移動し、勢力を盛り返して山岳ゲリラ隊のように道灌軍に奇襲をかけてきたのです。そして景春が、道灌軍に追われて最後にたてこもったは秩父の高佐須城(塩沢城)と日野城(熊倉城)でした。
太田道灌の妻の甥が長尾景春で、道灌と景春は互いに熟知していた仲でした。それゆえ、景春は道灌に反乱に加わるよう頼み、道灌は加勢をことわったけれども景春の面子を立てるよう種々骨を折りました。二人はおそらく互いに親愛の情を持ちながらも、戦国のしがらみに縛られて30数回も戦い続けたのでありましょう。道灌は関東御静謐を夢見て戦い、勝ち続けたけれども道半ばの55歳で凶刃に倒れました。景春は白井長尾家再興を夢見て戦い、逃げ続けた(否、それは単に秩父へ移動したという予定の行動であったかもしれない)けれども、上杉顕定への反抗をつづけ、72歳まで生きながらえました。
二人が抱いた戦の大義は異なれども、二人に共通しているところは、人倫を踏みつけて権謀術数を振り回して戦国大名になろうという野望を持たなかったことです。そのことが後の世の人々に物足りなさを与えるともに、親愛の情を呼び起こしています。
長尾景春は幼名を孫四郎といい、長じて様々の名前を使いました。主なものは、長尾四郎右衛門尉、長尾景春、長尾左衛門昭国、長尾伊(威・意・以)玄入道ですが、種々の組合せによるバリエーションが約20種もあります。群馬県渋川市上白井の空恵寺(くえいじ)に白井長尾家累代の供養塔があり、その中の一つに景春の最後の名前すなわち戒名が「涼峯院殿大雄伊玄大居士」と刻まれています。
瑞岩寺の裏の絶壁のツツジは秩父市の天然記念物です。
聖神社は秩父市指定の有形文化財です。
伝・長尾景春の墓・法雲寺=埼玉県秩父市黒谷665
瑞岩寺=埼玉県秩父市黒谷1633
長尾城址=埼玉県秩父市黒谷
聖神社=埼玉県秩父市黒谷2191
山澄みて馬がまどろむ草の海
錦秋の秩父路夫とひもすがら
車で秩父市駅から国道140号線を走ればすぐに黒谷へきます。
(和銅黒谷駅のモニュメント)
(長尾城址にある和銅遺跡)
和銅黒谷駅から観光用の道標に従い、梅雨の晴れ間にふるさと歩道を歩きました。民家と畑が点在し、山の方から鶯の谷渡りがまことに心地よく聞こえてきます。のんびり歩いて10分おきぐらいに法雲寺、和銅遺跡入口、瑞岩寺があります。法雲寺には長尾景春の墓があり、和銅遺跡の奥山である美の山公園から瑞岩寺の奥の岩山あたりが長尾城であったと伝えられています。
私は先ず法雲寺こと曹洞宗の正永山法雲禅寺へ行き、寺の庫裏を訪ねると無人でした。墓域で伝・長尾景春の墓を探したけれどもそれらしきものが見つかりません。思い余って、寺の近くで仕事をしていた地元の逸見さんに尋ねました。逸見さんは快く「案内しましょう」と言って、自宅へ戻り長くつを履いて鎌をかつぎ「ときどき蛇やイノシシが出ます」と言って歩き出しました。逸見さんは寺の奥山を、雑草を切り払いながら登り始めました。立派な坂道があるけれども雑草や灌木ですっかり覆われています。息を切らしながら10分も登ると、山の中腹の50メートル四方ほどの平場に着きました。逸見さんは「昔はここに法雲寺があったと伝えられています」と言って、灌木や雑草をかきわけ、平場の中ほどに立つ苔むした一つの五輪塔へ案内してくれました。
林の中のちょっと開けた所に立つ五輪塔、いや下二段は崩れて約六〇センチメートルの三輪塔になっている石塔が、伝・長尾景春の墓です。訪ねる人もなく山の中腹で雑草と灌木に埋もれてひっそりと立っています。私は、胸騒ぎを覚えながら石塔の文字を探しました。木漏れ日が当った部分にかすかに文字の痕跡様のものを認めたものの判読できません。これが長尾景春の墓だとすると、景春没後、約500年も経っているので石塔の磨滅もしかたありません。
(永正山法雲禅寺・奥山に景春の墓)
(伝・長尾景春の墓)
この平場の上の稜線を東へ行けば美の森公園と和銅遺跡があり、さらに行けば瑞岩寺へ至ります。「秩父志」によるとそのあたりは長尾城址と伝えられていますが、遺構は見つかっていません。
ふるさと歩道の東の端の絶壁の下に瑞岩寺こと曹洞宗の融興山瑞岩寺(ゆうこうざんずいがんじ)があります。瑞岩寺の縁起によると、この寺は、1528年(亨録元年)長尾四郎左衛門昭国が開基となり創建されました。そしてこの寺の住職の話によると、長尾四郎左衛門昭国とは長尾景春その人であり、かつて瑞岩寺にも長尾景春の墓があったそうです。長尾景春は、1514年(永正11年)72歳で没したと伝えられています。そうすると瑞岩寺開基の年代が十数年ずれて整合しません。
ところが、瑞岩寺住職の話では、法雲寺の方が瑞岩寺より少し早く創建されたということです。法雲寺はちょうど景春が没した永正年間に恐らくは景春により創建され、年号をとって永正山と号されたのであろうと私は推測いたします。そうすると、法雲寺の奥山の五輪塔は、景春そのひとの供養墓であるという信憑性がぐっと強くなります。景春没後、秩父の人たちが景春の不運を憐れみ、景春とその家族が最期を過ごした長尾城のふもとに、景春の供養塔を立てたのだと私は推測しています。
(瑞岩寺)
ふるさと歩道の西の端には、聖(ひじり)神社があり、その境内に「長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑」があります。長尾景春にはたくさんの名前があり、威玄(いげん)入道とは長尾景春の法名です。
また「増補秩父風土記」の黒谷村の項には、長尾城址が意玄入道の子烏坊丸と奥方ほか27人が隠れ住んだ場所であるとの伝承が記されています。
太田道灌状には、長尾城についての記述がありません。それゆえ、長尾城堀之内跡と伝えられているあたりは、戦闘用の砦ではなくいわゆる根小屋と称されるところで、景春の家族と少数の従者が住んでいた所ではないかと私は推測しています。
(聖神社・長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑)
長尾景春と秩父の因縁はまことに深いものがあります。景春の属していた白井長尾氏と秩父の薄地域(小鹿野町)を領していた犬懸長尾氏(鎌倉長尾氏の系列)とは縁戚関係があり、景春の妻も犬懸長尾の出身でありました。薄地域は秩父でも有数の平野で水田地帯であったため、犬懸長尾氏とその地域の国人衆の経済力は強大でありました。秩父の国人衆は一揆と称する横の連携を結ぶことによって管領から独立する傾向があり、なおかつ敗れて落ちてきた人物を支援する気風が強かったといわれています。犬懸長尾氏の当主長尾景利は、景春与党として戦って秩父で戦死しています。
1476年(文明8年)景春が鉢形城に拠って上杉顕定に叛旗を翻したとき、彼はその地の戦略的利点とともに背後の秩父の人脈を頼りにしていたことは間違いありません。その後も景春は、敗れるといつも妻の里である秩父へ移動し、勢力を盛り返して山岳ゲリラ隊のように道灌軍に奇襲をかけてきたのです。そして景春が、道灌軍に追われて最後にたてこもったは秩父の高佐須城(塩沢城)と日野城(熊倉城)でした。
太田道灌の妻の甥が長尾景春で、道灌と景春は互いに熟知していた仲でした。それゆえ、景春は道灌に反乱に加わるよう頼み、道灌は加勢をことわったけれども景春の面子を立てるよう種々骨を折りました。二人はおそらく互いに親愛の情を持ちながらも、戦国のしがらみに縛られて30数回も戦い続けたのでありましょう。道灌は関東御静謐を夢見て戦い、勝ち続けたけれども道半ばの55歳で凶刃に倒れました。景春は白井長尾家再興を夢見て戦い、逃げ続けた(否、それは単に秩父へ移動したという予定の行動であったかもしれない)けれども、上杉顕定への反抗をつづけ、72歳まで生きながらえました。
二人が抱いた戦の大義は異なれども、二人に共通しているところは、人倫を踏みつけて権謀術数を振り回して戦国大名になろうという野望を持たなかったことです。そのことが後の世の人々に物足りなさを与えるともに、親愛の情を呼び起こしています。
長尾景春は幼名を孫四郎といい、長じて様々の名前を使いました。主なものは、長尾四郎右衛門尉、長尾景春、長尾左衛門昭国、長尾伊(威・意・以)玄入道ですが、種々の組合せによるバリエーションが約20種もあります。群馬県渋川市上白井の空恵寺(くえいじ)に白井長尾家累代の供養塔があり、その中の一つに景春の最後の名前すなわち戒名が「涼峯院殿大雄伊玄大居士」と刻まれています。
瑞岩寺の裏の絶壁のツツジは秩父市の天然記念物です。
聖神社は秩父市指定の有形文化財です。
伝・長尾景春の墓・法雲寺=埼玉県秩父市黒谷665
瑞岩寺=埼玉県秩父市黒谷1633
長尾城址=埼玉県秩父市黒谷
聖神社=埼玉県秩父市黒谷2191
posted by 道灌紀行 at 21:35| Comment(0)
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