2010年06月30日

秩父の長尾城址と景春の墓

秩父高佐須城(塩沢城址)から再度、秩父の長尾景春の足跡を追います。従って今回は、道灌紀行から脱線して景春紀行となります。秩父市のお花畑駅から秩父鉄道に乗ると、三つ目で日本通貨発祥地である和銅黒谷(わどうくろや)駅につきます。駅のプラットホームに巨大な和銅開珎(わどうかいちん)のモニュメントがあります。このあたりに来ると、電車は30分に1本ぐらいしかないので、駅の待合室でおしゃべりをして電車を待つ里人や通学生徒の話を聞いていると、急に時間が止まったような気がしてきます。昔懐かしい里山の電車に乗りたければ、秩父鉄道がお勧めです。運が良ければ、俳句展示の電車に出会います。私がたまたま座った座席の上に記す。
 山澄みて馬がまどろむ草の海
 錦秋の秩父路夫とひもすがら
車で秩父市駅から国道140号線を走ればすぐに黒谷へきます。
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(和銅黒谷駅のモニュメント)
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(長尾城址にある和銅遺跡)
和銅黒谷駅から観光用の道標に従い、梅雨の晴れ間にふるさと歩道を歩きました。民家と畑が点在し、山の方から鶯の谷渡りがまことに心地よく聞こえてきます。のんびり歩いて10分おきぐらいに法雲寺、和銅遺跡入口、瑞岩寺があります。法雲寺には長尾景春の墓があり、和銅遺跡の奥山である美の山公園から瑞岩寺の奥の岩山あたりが長尾城であったと伝えられています。
私は先ず法雲寺こと曹洞宗の正永山法雲禅寺へ行き、寺の庫裏を訪ねると無人でした。墓域で伝・長尾景春の墓を探したけれどもそれらしきものが見つかりません。思い余って、寺の近くで仕事をしていた地元の逸見さんに尋ねました。逸見さんは快く「案内しましょう」と言って、自宅へ戻り長くつを履いて鎌をかつぎ「ときどき蛇やイノシシが出ます」と言って歩き出しました。逸見さんは寺の奥山を、雑草を切り払いながら登り始めました。立派な坂道があるけれども雑草や灌木ですっかり覆われています。息を切らしながら10分も登ると、山の中腹の50メートル四方ほどの平場に着きました。逸見さんは「昔はここに法雲寺があったと伝えられています」と言って、灌木や雑草をかきわけ、平場の中ほどに立つ苔むした一つの五輪塔へ案内してくれました。
林の中のちょっと開けた所に立つ五輪塔、いや下二段は崩れて約六〇センチメートルの三輪塔になっている石塔が、伝・長尾景春の墓です。訪ねる人もなく山の中腹で雑草と灌木に埋もれてひっそりと立っています。私は、胸騒ぎを覚えながら石塔の文字を探しました。木漏れ日が当った部分にかすかに文字の痕跡様のものを認めたものの判読できません。これが長尾景春の墓だとすると、景春没後、約500年も経っているので石塔の磨滅もしかたありません。
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(永正山法雲禅寺・奥山に景春の墓)
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(伝・長尾景春の墓)
この平場の上の稜線を東へ行けば美の森公園と和銅遺跡があり、さらに行けば瑞岩寺へ至ります。「秩父志」によるとそのあたりは長尾城址と伝えられていますが、遺構は見つかっていません。
ふるさと歩道の東の端の絶壁の下に瑞岩寺こと曹洞宗の融興山瑞岩寺(ゆうこうざんずいがんじ)があります。瑞岩寺の縁起によると、この寺は、1528年(亨録元年)長尾四郎左衛門昭国が開基となり創建されました。そしてこの寺の住職の話によると、長尾四郎左衛門昭国とは長尾景春その人であり、かつて瑞岩寺にも長尾景春の墓があったそうです。長尾景春は、1514年(永正11年)72歳で没したと伝えられています。そうすると瑞岩寺開基の年代が十数年ずれて整合しません。
ところが、瑞岩寺住職の話では、法雲寺の方が瑞岩寺より少し早く創建されたということです。法雲寺はちょうど景春が没した永正年間に恐らくは景春により創建され、年号をとって永正山と号されたのであろうと私は推測いたします。そうすると、法雲寺の奥山の五輪塔は、景春そのひとの供養墓であるという信憑性がぐっと強くなります。景春没後、秩父の人たちが景春の不運を憐れみ、景春とその家族が最期を過ごした長尾城のふもとに、景春の供養塔を立てたのだと私は推測しています。
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(瑞岩寺)

ふるさと歩道の西の端には、聖(ひじり)神社があり、その境内に「長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑」があります。長尾景春にはたくさんの名前があり、威玄(いげん)入道とは長尾景春の法名です。
また「増補秩父風土記」の黒谷村の項には、長尾城址が意玄入道の子烏坊丸と奥方ほか27人が隠れ住んだ場所であるとの伝承が記されています。
太田道灌状には、長尾城についての記述がありません。それゆえ、長尾城堀之内跡と伝えられているあたりは、戦闘用の砦ではなくいわゆる根小屋と称されるところで、景春の家族と少数の従者が住んでいた所ではないかと私は推測しています。
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(聖神社・長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑)
長尾景春と秩父の因縁はまことに深いものがあります。景春の属していた白井長尾氏と秩父の薄地域(小鹿野町)を領していた犬懸長尾氏(鎌倉長尾氏の系列)とは縁戚関係があり、景春の妻も犬懸長尾の出身でありました。薄地域は秩父でも有数の平野で水田地帯であったため、犬懸長尾氏とその地域の国人衆の経済力は強大でありました。秩父の国人衆は一揆と称する横の連携を結ぶことによって管領から独立する傾向があり、なおかつ敗れて落ちてきた人物を支援する気風が強かったといわれています。犬懸長尾氏の当主長尾景利は、景春与党として戦って秩父で戦死しています。
1476年(文明8年)景春が鉢形城に拠って上杉顕定に叛旗を翻したとき、彼はその地の戦略的利点とともに背後の秩父の人脈を頼りにしていたことは間違いありません。その後も景春は、敗れるといつも妻の里である秩父へ移動し、勢力を盛り返して山岳ゲリラ隊のように道灌軍に奇襲をかけてきたのです。そして景春が、道灌軍に追われて最後にたてこもったは秩父の高佐須城(塩沢城)と日野城(熊倉城)でした。

太田道灌の妻の甥が長尾景春で、道灌と景春は互いに熟知していた仲でした。それゆえ、景春は道灌に反乱に加わるよう頼み、道灌は加勢をことわったけれども景春の面子を立てるよう種々骨を折りました。二人はおそらく互いに親愛の情を持ちながらも、戦国のしがらみに縛られて30数回も戦い続けたのでありましょう。道灌は関東御静謐を夢見て戦い、勝ち続けたけれども道半ばの55歳で凶刃に倒れました。景春は白井長尾家再興を夢見て戦い、逃げ続けた(否、それは単に秩父へ移動したという予定の行動であったかもしれない)けれども、上杉顕定への反抗をつづけ、72歳まで生きながらえました。
二人が抱いた戦の大義は異なれども、二人に共通しているところは、人倫を踏みつけて権謀術数を振り回して戦国大名になろうという野望を持たなかったことです。そのことが後の世の人々に物足りなさを与えるともに、親愛の情を呼び起こしています。

長尾景春は幼名を孫四郎といい、長じて様々の名前を使いました。主なものは、長尾四郎右衛門尉、長尾景春、長尾左衛門昭国、長尾伊(威・意・以)玄入道ですが、種々の組合せによるバリエーションが約20種もあります。群馬県渋川市上白井の空恵寺(くえいじ)に白井長尾家累代の供養塔があり、その中の一つに景春の最後の名前すなわち戒名が「涼峯院殿大雄伊玄大居士」と刻まれています。
瑞岩寺の裏の絶壁のツツジは秩父市の天然記念物です。
聖神社は秩父市指定の有形文化財です。
伝・長尾景春の墓・法雲寺=埼玉県秩父市黒谷665
瑞岩寺=埼玉県秩父市黒谷1633
長尾城址=埼玉県秩父市黒谷
聖神社=埼玉県秩父市黒谷2191
posted by 道灌紀行 at 21:35| Comment(0) | 道灌紀行は限りなく

2010年06月19日

塩沢城址(秩父高差須城址)

「太田道灌状」の冒頭部分に「弥七郎の事は、秩父高佐須(たかさす)に於いて、同心の傍輩中に就いて、身命相通わす旨候の故、城中の様態存ぜしめ候、それに従い行を廻らせ候の間、御方一人も恙無く、専一に御敵等数十人討ち取らせ候事、云々」とあります。道灌軍が秩父高佐須城を攻めたとき、大串弥七郎の仲間が高佐須城中の事を知らせてくれたので、道灌軍は味方を一人も失わずに数十人を討ち取り、勝利することができたということです。 
さて、秩父の高佐須とは一体どこでしょうか。「長尾景春と熊倉城」という旧荒川村の郷土研究会刊行の労作によると、秩父に「高佐須」と思われる地名は両神(りょうかみ)村の「高指(たかざす)」しかないということです。従って、高佐須城は現在の埼玉県小鹿野町大字両神薄(すすき)字塩沢(しおざわ)にある塩沢城に比定されるということです。
このあたりは、犬懸長尾氏の当主で景春の従兄弟でもあった長尾景利の所領でありました。景春は、戦に敗れるといつも秩父に逃げ込み、間もなく勢力を盛り返しました。1480年(文明12年)道灌軍は長井城(熊谷市)の長尾景春を攻めたので、景春は秩父の山峡へ逃走し、塩沢城に拠ったと思われます。

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(塩沢集落の入り口)
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(宇賀神社・塩沢城址登り口)
秩父市で国道299号線に入り、小鹿野町の黒海土の信号で左折し、県道37号線に入って少し走り、さらに右斜めの県道297号線に入ります。約2キロ行くと午房というバス停があり、そこに塩沢地区への標示板があります。左折して塩沢集落に入り、道なりに回り込みながら高みへ至ると宇賀神社という稲荷社にきます。祭り用のためか立派な駐車場があり、その奥に塩沢城址への登り口があります。この城址については地図にも記されてなく案内板など全くないので、私は土地の人三人から道を教えていただきながらようやくここへたどり着きました。

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(第1の平場)
塩沢城は長尾景春の城とされ、登り口の稲荷社は景春が勧請したそうです。
登山口から尾根道を登ると、すぐにつづら折りの急坂になり、両側は切り落としたような崖となります。最初の切り落としを越えると第1の平場にきます。
約30メートル四方の平場には杉が密生しています。さらに帯郭を2段越えて第2の平場にきます。「城の平」と呼ばれる約30メートル四方の平場です。さらに急坂をよじ登ると、約20メートル四方の第3の平場です。ここには不動、荒神、歓喜天など修験道の碑があります。さらに登ると標高760メートルの鐘つき場と呼ばれる頂上があり、修験道の碑がたくさん立っています。三方は切り落としたような崖ですから、ここは退路を断って戦う最期の詰め郭の感じです。土地の人は、頂上まで登り30分と言っていましたが、私は1時間余りかかりました。
塩沢城は、全体としては中世の山城によくある段郭(だんくるわ)の典型で、かなり大規模なものです。下から登ると郭の所在は全くわからず、這って登るような急坂に囲まれているので相当攻めにくい城です。太田道灌状によると、寝返った者が城の弱点を道灌軍に教えたので落ちたということです。
土地に伝わる景春の逃走伝説によると、薄の地頭小沢左近と小森の地頭嶋村近江守の道案内で、道灌軍が夜討ちをかけ、1480年(文明12年)1月末か2月中旬に、塩沢城は落城しました。景春は日野の熊倉城へ逃げ、家臣の深井対馬守がしんがりを勤め、防戦して深手を負い自害したということです。この地の地頭は、太田道灌状に記された大串弥七郎の配下であったかもしれません。今も塩沢城の南東に夜討ち沢という沢があります。
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(塩沢城の頂上・周囲は急坂)

登り口の手前で、私が道を尋ねた農家の人は心配そうな顔で「道標など全くなく、道が枯れ葉で覆われていますので」と言っていました。以前、道灌研究をしている知人が、塩沢城は遭難の心配がある、と言っていたので、私は登る途中で、何度も振り返って地形や倒木の様子などを覚えながら慎重に登りました。確かに途中から道は完全に消えていました。基本的に一本尾根ですから、登るときはどんどん上へ登ればよいのですが、下りがたいへんです。第一の平場から下るとき、私はルンルン気分で油断して、方角を間違えてちょっとした枝尾根へ入ってしましました。枯れ葉で覆われた急坂をスキーで降りるように一気に100メートルほど下って異変に気付きました。山で迷ったときは、元の場所へ戻れという原則に従い、私は灌木の根につかまりながらまたよじ登って第一の平場に戻りました。もう一度よく見て考えて正しい方角を見つけました。その日は快晴、無風、温暖であったし、私は若い頃に山登りをした経験があるので事なきを得ました。塩沢城址は中世の段郭として教材的価値が高くたいへん面白い城ですが、少々危ないので一般の人にはお勧めできない所です。このように、城山を落ち葉に埋もれたままにしておくことが、長尾景春に対する秩父の人たちの惻隠の情の表れであるように思えるのであります。

帰り道、国民宿舎「両神荘」で秩父温泉の露天風呂につかり、それから荒川歴史民俗資料館に寄って館長と長尾景春談義をしてきました。
塩沢城は、埼玉県選定重要遺跡です。
塩沢城址=埼玉県小鹿野町大字両神薄字塩沢5600
posted by 道灌紀行 at 13:56| Comment(1) | 道灌紀行は限りなく

塩沢城址(秩父高差須城址)

「太田道灌状」の冒頭部分に「弥七郎の事は、秩父高佐須(たかさす)に於いて、同心の傍輩中に就いて、身命相通わす旨候の故、城中の様態存ぜしめ候、それに従い行を廻らせ候の間、御方一人も恙無く、専一に御敵等数十人討ち取らせ候事、云々」とあります。道灌軍が秩父高佐須城を攻めたとき、大串弥七郎の仲間が高佐須城中の事を知らせてくれたので、道灌軍は味方を一人も失わずに数十人を討ち取り、勝利することができたということです。 
さて、秩父の高佐須とは一体どこでしょうか。「長尾景春と熊倉城」という旧荒川村の郷土研究会刊行の労作によると、秩父に「高佐須」と思われる地名は両神(りょうかみ)村の「高指(たかざす)」しかないということです。従って、高佐須城は現在の埼玉県小鹿野町大字両神薄(すすき)字塩沢(しおざわ)にある塩沢城に比定されるということです。
このあたりは、犬懸長尾氏の当主で景春の従兄弟でもあった長尾景利の所領でありました。景春は、戦に敗れるといつも秩父に逃げ込み、間もなく勢力を盛り返しました。1480年(文明12年)道灌軍は長井城(熊谷市)の長尾景春を攻めたので、景春は秩父の山峡へ逃走し、塩沢城に拠ったと思われます。

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(塩沢集落の入り口)
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(宇賀神社・塩沢城址登り口)
秩父市で国道299号線に入り、小鹿野町の黒海土の信号で左折し、県道37号線に入って少し走り、さらに右斜めの県道297号線に入ります。約2キロ行くと午房というバス停があり、そこに塩沢地区への標示板があります。左折して塩沢集落に入り、道なりに回り込みながら高みへ至ると宇賀神社という稲荷社にきます。祭り用のためか立派な駐車場があり、その奥に塩沢城址への登り口があります。この城址については地図にも記されてなく案内板など全くないので、私は土地の人三人から道を教えていただきながらようやくここへたどり着きました。

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(第1の平場)
塩沢城は長尾景春の城とされ、登り口の稲荷社は景春が勧請したそうです。
登山口から尾根道を登ると、すぐにつづら折りの急坂になり、両側は切り落としたような崖となります。最初の切り落としを越えると第1の平場にきます。
約30メートル四方の平場には杉が密生しています。さらに帯郭を2段越えて第2の平場にきます。「城の平」と呼ばれる約30メートル四方の平場です。さらに急坂をよじ登ると、約20メートル四方の第3の平場です。ここには不動、荒神、歓喜天など修験道の碑があります。さらに登ると標高760メートルの鐘つき場と呼ばれる頂上があり、修験道の碑がたくさん立っています。三方は切り落としたような崖ですから、ここは退路を断って戦う最期の詰め郭の感じです。土地の人は、頂上まで登り30分と言っていましたが、私は1時間余りかかりました。
塩沢城は、全体としては中世の山城によくある段郭(だんくるわ)の典型で、かなり大規模なものです。下から登ると郭の所在は全くわからず、這って登るような急坂に囲まれているので相当攻めにくい城です。太田道灌状によると、寝返った者が城の弱点を道灌軍に教えたので落ちたということです。
土地に伝わる景春の逃走伝説によると、薄の地頭小沢左近と小森の地頭嶋村近江守の道案内で、道灌軍が夜討ちをかけ、1480年(文明12年)1月末か2月中旬に、塩沢城は落城しました。景春は日野の熊倉城へ逃げ、家臣の深井対馬守がしんがりを勤め、防戦して深手を負い自害したということです。この地の地頭は、太田道灌状に記された大串弥七郎の配下であったかもしれません。今も塩沢城の南東に夜討ち沢という沢があります。
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(塩沢城の頂上・周囲は急坂)

登り口の手前で、私が道を尋ねた農家の人は心配そうな顔で「道標など全くなく、道が枯れ葉で覆われていますので」と言っていました。以前、道灌研究をしている知人が、塩沢城は遭難の心配がある、と言っていたので、私は登る途中で、何度も振り返って地形や倒木の様子などを覚えながら慎重に登りました。確かに途中から道は完全に消えていました。基本的に一本尾根ですから、登るときはどんどん上へ登ればよいのですが、下りがたいへんです。第一の平場から下るとき、私はルンルン気分で油断して、方角を間違えてちょっとした枝尾根へ入ってしましました。枯れ葉で覆われた急坂をスキーで降りるように一気に100メートルほど下って異変に気付きました。山で迷ったときは、元の場所へ戻れという原則に従い、私は灌木の根につかまりながらまたよじ登って第一の平場に戻りました。もう一度よく見て考えて正しい方角を見つけました。その日は快晴、無風、温暖であったし、私は若い頃に山登りをした経験があるので事なきを得ました。塩沢城址は中世の段郭として教材的価値が高くたいへん面白い城ですが、少々危ないので一般の人にはお勧めできない所です。このように、城山を落ち葉に埋もれたままにしておくことが、長尾景春に対する秩父の人たちの惻隠の情の表れであるように思えるのであります。

帰り道、国民宿舎「両神荘」で秩父温泉の露天風呂につかり、それから荒川歴史民俗資料館に寄って館長と長尾景春談義をしてきました。
塩沢城は、埼玉県選定重要遺跡です。
塩沢城址=埼玉県小鹿野町大字両神薄字塩沢5600
posted by 道灌紀行 at 13:56| Comment(1) | 道灌紀行は限りなく