2010年06月01日

平井城址・平井詰(金山)城址・山内上杉家の本城

東京から埼玉県の真ん中を横切るようにして、関越道あるいは一般道で約100キロも走ると埼玉県本庄市につきます。本庄市の国道17号線沿いに五十子(いかっこ)城址があり、そこから西へ約15キロ移動すると、群馬県藤岡市の西平井という上州の山裾につきます。金井という集落に山内上杉氏の本城であった平井城址とその詰め城であった金井城址があります。この両城は、永享の頃に関東管領上杉憲実の命を受けた、長尾忠房の縄張りで築城された見事な山城であり、現在藤岡市や地元の保存会が整備しています。
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(平井城址)
平井城址の土塁には林立する関東管領の旗が威勢よくはためいているものの、城址の真ん中の私有地にはなぜか豚小屋があります。
平井城址から500メートルほど離れた所に平井詰(金井)城址があります。この城山の上り口から本丸まで1000メートルあり、防衛のための急坂や堀切が随所にあるので高齢者は注意をしなければなりません。

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(金山城址登山口)
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(金山城址概念図)
この城は関東平野の北の端に位置しているので、五十子へ出陣するには好都合であったけれども、上杉氏が関東管領として関八州に睨みを利かすには適当ではなかったと思われます。太田道灌がこの城に来た記録は見えませんが、多分来たことがあると思います。なぜなら、道灌は、上杉顕定が関東管領として采配をふるうために平井城ではなく鉢形城へ入るよういろいろ気をつかったことが太田道灌状に見えるからです。この城は太田道灌と直接の関係はないけれども、上杉顕定の動きを理解するためには見ておく必要があるので訪れました。

両上杉氏は道灌謀殺後、同族同士の抗争を続けて勢力を消耗し続けました。時は流れて1546年(天文15年)、小田原を拠点にして北関東へ進出を図る後北条氏は、夜陰にまぎれて上杉氏の川越城を攻め落しました。この夜戦で足利晴氏は古河城(古河市)へ敗走し、山内上杉憲政は平井城へ落ち、扇谷上杉朝定(定正から4代目)は22才で討ち死し、川越城、岩槻城も後北条方に帰して上杉領は消滅しました。
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(本丸と下の避難小屋)
平井詰(金山)城址は中世の山城としてみごとな縄張りです。急峻な稜線を利用して帯郭、物見台、井戸郭などを持っているところは、北条氏照の武州八王子城に似ています。ここは山城愛好者が登ると相当喜ぶ所です。城址に稜線が数本あり、天候の悪い時は霧や雷で遭難の可能性があるためか、避難小屋が二か所にあります。
平井城址・平井詰(金山)城址は藤岡市指定史跡です。
平井城址・平井詰(金山)城址=埼玉県藤岡市西平井
posted by 道灌紀行 at 17:50| Comment(0) | 道灌紀行は限りなく

平井城址・平井詰(金山)城址・山内上杉家の本城

東京から埼玉県の真ん中を横切るようにして、関越道あるいは一般道で約100キロも走ると埼玉県本庄市につきます。本庄市の国道17号線沿いに五十子(いかっこ)城址があり、そこから西へ約15キロ移動すると、群馬県藤岡市の西平井という上州の山裾につきます。金井という集落に山内上杉氏の本城であった平井城址とその詰め城であった金井城址があります。この両城は、永享の頃に関東管領上杉憲実の命を受けた、長尾忠房の縄張りで築城された見事な山城であり、現在藤岡市や地元の保存会が整備しています。
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(平井城址)
平井城址の土塁には林立する関東管領の旗が威勢よくはためいているものの、城址の真ん中の私有地にはなぜか豚小屋があります。
平井城址から500メートルほど離れた所に平井詰(金井)城址があります。この城山の上り口から本丸まで1000メートルあり、防衛のための急坂や堀切が随所にあるので高齢者は注意をしなければなりません。

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(金山城址登山口)
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(金山城址概念図)
この城は関東平野の北の端に位置しているので、五十子へ出陣するには好都合であったけれども、上杉氏が関東管領として関八州に睨みを利かすには適当ではなかったと思われます。太田道灌がこの城に来た記録は見えませんが、多分来たことがあると思います。なぜなら、道灌は、上杉顕定が関東管領として采配をふるうために平井城ではなく鉢形城へ入るよういろいろ気をつかったことが太田道灌状に見えるからです。この城は太田道灌と直接の関係はないけれども、上杉顕定の動きを理解するためには見ておく必要があるので訪れました。

両上杉氏は道灌謀殺後、同族同士の抗争を続けて勢力を消耗し続けました。時は流れて1546年(天文15年)、小田原を拠点にして北関東へ進出を図る後北条氏は、夜陰にまぎれて上杉氏の川越城を攻め落しました。この夜戦で足利晴氏は古河城(古河市)へ敗走し、山内上杉憲政は平井城へ落ち、扇谷上杉朝定(定正から4代目)は22才で討ち死し、川越城、岩槻城も後北条方に帰して上杉領は消滅しました。
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(本丸と下の避難小屋)
平井詰(金山)城址は中世の山城としてみごとな縄張りです。急峻な稜線を利用して帯郭、物見台、井戸郭などを持っているところは、北条氏照の武州八王子城に似ています。ここは山城愛好者が登ると相当喜ぶ所です。城址に稜線が数本あり、天候の悪い時は霧や雷で遭難の可能性があるためか、避難小屋が二か所にあります。
平井城址・平井詰(金山)城址は藤岡市指定史跡です。
平井城址・平井詰(金山)城址=埼玉県藤岡市西平井
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2010年05月08日

忍(おし)城址、成田陣

JR山の手線の池袋から湘南新宿ラインで熊谷まで来て、秩父鉄道に乗り換えます。熊谷から二つ目で行田市駅へ来ます。駅前は人も車もまばらで、商店街も見立たず、かつては「行田のたび」で世に知られたこの町の経済不況が感ぜられます。駅前から125号線へ出て右へ曲がり、道の両側に飾ってある面白い金属製の童(わらべ)人形を見ながら10分も歩くと市役所へ来ます。市役所の庭園を歩いて城址に近づくと三層櫓が見え、冠木門をくぐると忍(おし)城址の堀へ来ます。この城は、周囲が水に囲まれて浮き城とよばれたそうです。かつての本丸跡には今、郷土博物館が建っています。
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(忍城址の三層櫓)
騎西郡成田郷を本拠地とするろ国人領主成田氏は元々、忍城から約4キロの成田陣跡(熊谷市上之堀之内)に舘を構えていました。文明11年ごろ成田顕泰は忍城の忍大丞を追って忍城に入りました。その後約100年間成田氏がこの城を中心に近隣を支配しました。この城地はちょうど利根川と荒川に挟まれた中間の位置にあったので、古河公方方の上杉方に対する前線基地であったことが一目瞭然です。
「太田道灌状」には、度々成田陣、忍城という言葉が出てきます。
「(文明10年3月、長尾景春が小机城に後詰しようとしたが、上杉軍に攻められて)千葉介・景春一戦におよばず退散せしめ、成田陣へ逃げ参り候」
「(文明10年7月、道灌が上杉顕定の着陣を待って)然る間、修理太夫(上杉定正)は森腰に取り陣、道灌は其のまま成田に張り陣」
「(文明11年12月、道灌が長井城攻略に向かったとき)忍城雑説の由粗あら申し来たり候間、不慮の落度候てはいよいよ難儀たるべき旨存じ、翌日29日久下(熊谷市)へ陣を寄せ、成田下総守に力をつけさせ候間、彼の城無為に候」
長尾景春も対立する太田道灌も成田陣へ入城しています。それは、成田氏が最初上杉方につき、長尾景春の乱のあとには景春方につき、さらに上杉方に寝返ったけれども、雑説(ぞうせつ)(謀反の噂)が立つなどその政治的また軍事的去就が常に不安定であったからです。
再建された三層櫓の展望室に上がって周囲を見渡すと、四方は見渡す限り畑作地帯で、山も川も見えません。しかし往時は、周囲が湿地帯で難攻不落の水城でした。成田氏が古河公方・景春方に与したり上杉氏に従ったりしたことは、忍城の武人たちが特に変節漢であったとか恩知らずであったとかいうことではなく、この地理的条件ではお家と領民安泰のためやむをえない選択であっただろうと推察されます。
行田市から電車でちょっと移動すると羽生市へ来ます。周辺には五十子や騎西など「太田道灌状」にでてくる地名が多く、このあたりへ来ると古河公方方と上杉方が領地を奪い合って激しく動き回ったことを追体験することができます。
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(行田市の童人形)
成田氏のように去就を変えた国人衆に対して、道灌は柔軟に対応しました。「太田道灌状」の冒頭部分で道灌は、大串弥七郎や毛呂三河守など最初反上杉であったけれども後に上杉方に帰服している国人衆の所領安堵のことを、上杉氏に懇願しています。太田道灌は、諸勢力が入り混じった上野や北武蔵では、一度は敵対しても降参した国人衆を所領安堵して召し抱え、勢力を拡大していったのでした。それに対して、上杉氏は、そのような道灌のやり方に好感をもっていなかったことが読み取れます。つまり太田道灌は柔軟な現実主義者であり、反対に上杉氏はかたくなな観念論者であったといえます。この両者の考え方の違いもまた、後の悲劇につながる伏線になったと思われます。
現代的に言えば、筆頭重役太田道灌は、競業する同業他社が倒産した場合、その相手方の有能な社員を積極的に取り込んで業績を拡大したけれども、創業家の社長上杉氏は純血主義にこだわりそのことを嫌がったのでした。
忍城址=埼玉県行田市本丸17-23
posted by 道灌紀行 at 07:49| Comment(0) | 道灌紀行は限りなく