2010年05月08日

忍(おし)城址、成田陣

JR山の手線の池袋から湘南新宿ラインで熊谷まで来て、秩父鉄道に乗り換えます。熊谷から二つ目で行田市駅へ来ます。駅前は人も車もまばらで、商店街も見立たず、かつては「行田のたび」で世に知られたこの町の経済不況が感ぜられます。駅前から125号線へ出て右へ曲がり、道の両側に飾ってある面白い金属製の童(わらべ)人形を見ながら10分も歩くと市役所へ来ます。市役所の庭園を歩いて城址に近づくと三層櫓が見え、冠木門をくぐると忍(おし)城址の堀へ来ます。この城は、周囲が水に囲まれて浮き城とよばれたそうです。かつての本丸跡には今、郷土博物館が建っています。
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(忍城址の三層櫓)
騎西郡成田郷を本拠地とするろ国人領主成田氏は元々、忍城から約4キロの成田陣跡(熊谷市上之堀之内)に舘を構えていました。文明11年ごろ成田顕泰は忍城の忍大丞を追って忍城に入りました。その後約100年間成田氏がこの城を中心に近隣を支配しました。この城地はちょうど利根川と荒川に挟まれた中間の位置にあったので、古河公方方の上杉方に対する前線基地であったことが一目瞭然です。
「太田道灌状」には、度々成田陣、忍城という言葉が出てきます。
「(文明10年3月、長尾景春が小机城に後詰しようとしたが、上杉軍に攻められて)千葉介・景春一戦におよばず退散せしめ、成田陣へ逃げ参り候」
「(文明10年7月、道灌が上杉顕定の着陣を待って)然る間、修理太夫(上杉定正)は森腰に取り陣、道灌は其のまま成田に張り陣」
「(文明11年12月、道灌が長井城攻略に向かったとき)忍城雑説の由粗あら申し来たり候間、不慮の落度候てはいよいよ難儀たるべき旨存じ、翌日29日久下(熊谷市)へ陣を寄せ、成田下総守に力をつけさせ候間、彼の城無為に候」
長尾景春も対立する太田道灌も成田陣へ入城しています。それは、成田氏が最初上杉方につき、長尾景春の乱のあとには景春方につき、さらに上杉方に寝返ったけれども、雑説(ぞうせつ)(謀反の噂)が立つなどその政治的また軍事的去就が常に不安定であったからです。
再建された三層櫓の展望室に上がって周囲を見渡すと、四方は見渡す限り畑作地帯で、山も川も見えません。しかし往時は、周囲が湿地帯で難攻不落の水城でした。成田氏が古河公方・景春方に与したり上杉氏に従ったりしたことは、忍城の武人たちが特に変節漢であったとか恩知らずであったとかいうことではなく、この地理的条件ではお家と領民安泰のためやむをえない選択であっただろうと推察されます。
行田市から電車でちょっと移動すると羽生市へ来ます。周辺には五十子や騎西など「太田道灌状」にでてくる地名が多く、このあたりへ来ると古河公方方と上杉方が領地を奪い合って激しく動き回ったことを追体験することができます。
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(行田市の童人形)
成田氏のように去就を変えた国人衆に対して、道灌は柔軟に対応しました。「太田道灌状」の冒頭部分で道灌は、大串弥七郎や毛呂三河守など最初反上杉であったけれども後に上杉方に帰服している国人衆の所領安堵のことを、上杉氏に懇願しています。太田道灌は、諸勢力が入り混じった上野や北武蔵では、一度は敵対しても降参した国人衆を所領安堵して召し抱え、勢力を拡大していったのでした。それに対して、上杉氏は、そのような道灌のやり方に好感をもっていなかったことが読み取れます。つまり太田道灌は柔軟な現実主義者であり、反対に上杉氏はかたくなな観念論者であったといえます。この両者の考え方の違いもまた、後の悲劇につながる伏線になったと思われます。
現代的に言えば、筆頭重役太田道灌は、競業する同業他社が倒産した場合、その相手方の有能な社員を積極的に取り込んで業績を拡大したけれども、創業家の社長上杉氏は純血主義にこだわりそのことを嫌がったのでした。
忍城址=埼玉県行田市本丸17-23
posted by 道灌紀行 at 07:49| Comment(0) | 道灌紀行は限りなく

2010年03月06日

扇谷上杉定正の最期を追う

1486年(文明16年)7月26日、上杉定正は太田道灌を相模国の糟屋館に招き謀殺しました。時に道灌55歳、今はの際に道灌は「当方滅亡」と叫んだということです。理不尽な道灌謀殺により、道灌の子資康をはじめ多くの家臣・重臣が扇谷上杉家を離反し、山内上杉家へつきました。
両上杉家の緊張は高まりついに1488年(長享2年、)戦端が開かれました。(長享の乱) 定正は道灌の軍師であった斎藤加賀守安元を重用して実蒔原(伊勢原市)の戦い、菅谷原(嵐山町)の戦い、高見原(寄居町)の戦いで優位を保ち続けました。
1494年(明応3年)10月、定正は北条早雲の援軍を得て意気揚々と4度目の高見原の戦に出陣し、山内上杉顕定と対戦しました。定正は、荒川を渡河しようとして落馬し、濁流に流されて死去しました。道灌没後8年、時に定正は49歳あるいは52歳ともいわれています。

川越し岩.JPG
(荒川の川越岩)

小田急線の伊勢原駅から七沢方面へ車を15分も走らせて伊勢原市と厚木市の境目のあたりに来ると、実蒔原古戦場があり、大山がよい具合に見えます。厚木よりの民家の近くに古戦場碑と伊勢原市教育委員会の説明板があります。そこから県道64号線を車で5分も走ると、小高い所に上杉定正の居城であった七沢城址があります。城址の高台全体に今、七沢リハビリ病院が建っていて構内に七沢城址の碑があります。
城址を降りて、また坂道を少し登ると、臨済宗の吉祥山徳雲寺があり、隣接する墓地に上杉定正夫妻の五輪塔があります。
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(七沢城址)
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(上杉定正の墓)

実蒔原古戦場=神奈川県厚木市七沢
高見原古戦場(推定)=埼玉県寄居町今市
菅谷原古戦場=埼玉県嵐山町大字菅谷
七沢城址=神奈川県厚木市七沢
posted by 道灌紀行 at 23:14| Comment(0) | 道灌紀行は限りなく

扇谷上杉定正の最期を追う

1486年(文明16年)7月26日、上杉定正は太田道灌を相模国の糟屋館に招き謀殺しました。時に道灌55歳、今はの際に道灌は「当方滅亡」と叫んだということです。理不尽な道灌謀殺により、道灌の子資康をはじめ多くの家臣・重臣が扇谷上杉家を離反し、山内上杉家へつきました。
両上杉家の緊張は高まりついに1488年(長享2年、)戦端が開かれました。(長享の乱) 定正は道灌の軍師であった斎藤加賀守安元を重用して実蒔原(伊勢原市)の戦い、菅谷原(嵐山町)の戦い、高見原(寄居町)の戦いで優位を保ち続けました。
1494年(明応3年)10月、定正は北条早雲の援軍を得て意気揚々と4度目の高見原の戦に出陣し、山内上杉顕定と対戦しました。定正は、荒川を渡河しようとして落馬し、濁流に流されて死去しました。道灌没後8年、時に定正は49歳あるいは52歳ともいわれています。

川越し岩.JPG
(荒川の川越岩)

小田急線の伊勢原駅から七沢方面へ車を15分も走らせて伊勢原市と厚木市の境目のあたりに来ると、実蒔原古戦場があり、大山がよい具合に見えます。厚木よりの民家の近くに古戦場碑と伊勢原市教育委員会の説明板があります。そこから県道64号線を車で5分も走ると、小高い所に上杉定正の居城であった七沢城址があります。城址の高台全体に今、七沢リハビリ病院が建っていて構内に七沢城址の碑があります。
城址を降りて、また坂道を少し登ると、臨済宗の吉祥山徳雲寺があり、隣接する墓地に上杉定正夫妻の五輪塔があります。
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(七沢城址)
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(上杉定正の墓)

実蒔原古戦場=神奈川県厚木市七沢
高見原古戦場(推定)=埼玉県寄居町今市
菅谷原古戦場=埼玉県嵐山町大字菅谷
七沢城址=神奈川県厚木市七沢
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