(忍城址の三層櫓)
騎西郡成田郷を本拠地とするろ国人領主成田氏は元々、忍城から約4キロの成田陣跡(熊谷市上之堀之内)に舘を構えていました。文明11年ごろ成田顕泰は忍城の忍大丞を追って忍城に入りました。その後約100年間成田氏がこの城を中心に近隣を支配しました。この城地はちょうど利根川と荒川に挟まれた中間の位置にあったので、古河公方方の上杉方に対する前線基地であったことが一目瞭然です。
「太田道灌状」には、度々成田陣、忍城という言葉が出てきます。
「(文明10年3月、長尾景春が小机城に後詰しようとしたが、上杉軍に攻められて)千葉介・景春一戦におよばず退散せしめ、成田陣へ逃げ参り候」
「(文明10年7月、道灌が上杉顕定の着陣を待って)然る間、修理太夫(上杉定正)は森腰に取り陣、道灌は其のまま成田に張り陣」
「(文明11年12月、道灌が長井城攻略に向かったとき)忍城雑説の由粗あら申し来たり候間、不慮の落度候てはいよいよ難儀たるべき旨存じ、翌日29日久下(熊谷市)へ陣を寄せ、成田下総守に力をつけさせ候間、彼の城無為に候」
長尾景春も対立する太田道灌も成田陣へ入城しています。それは、成田氏が最初上杉方につき、長尾景春の乱のあとには景春方につき、さらに上杉方に寝返ったけれども、雑説(ぞうせつ)(謀反の噂)が立つなどその政治的また軍事的去就が常に不安定であったからです。
再建された三層櫓の展望室に上がって周囲を見渡すと、四方は見渡す限り畑作地帯で、山も川も見えません。しかし往時は、周囲が湿地帯で難攻不落の水城でした。成田氏が古河公方・景春方に与したり上杉氏に従ったりしたことは、忍城の武人たちが特に変節漢であったとか恩知らずであったとかいうことではなく、この地理的条件ではお家と領民安泰のためやむをえない選択であっただろうと推察されます。
行田市から電車でちょっと移動すると羽生市へ来ます。周辺には五十子や騎西など「太田道灌状」にでてくる地名が多く、このあたりへ来ると古河公方方と上杉方が領地を奪い合って激しく動き回ったことを追体験することができます。
(行田市の童人形)
成田氏のように去就を変えた国人衆に対して、道灌は柔軟に対応しました。「太田道灌状」の冒頭部分で道灌は、大串弥七郎や毛呂三河守など最初反上杉であったけれども後に上杉方に帰服している国人衆の所領安堵のことを、上杉氏に懇願しています。太田道灌は、諸勢力が入り混じった上野や北武蔵では、一度は敵対しても降参した国人衆を所領安堵して召し抱え、勢力を拡大していったのでした。それに対して、上杉氏は、そのような道灌のやり方に好感をもっていなかったことが読み取れます。つまり太田道灌は柔軟な現実主義者であり、反対に上杉氏はかたくなな観念論者であったといえます。この両者の考え方の違いもまた、後の悲劇につながる伏線になったと思われます。
現代的に言えば、筆頭重役太田道灌は、競業する同業他社が倒産した場合、その相手方の有能な社員を積極的に取り込んで業績を拡大したけれども、創業家の社長上杉氏は純血主義にこだわりそのことを嫌がったのでした。
忍城址=埼玉県行田市本丸17-23