(1)渓照山光岳寺・太田道灌稲荷
国道20号線(甲州街道)で調布市に入り、東京電気通信大学の交差点を北へ曲がると富士見町の石原小学校があり、そのすぐ近くに浄土宗の渓照山光岳寺があります。山門を入るとすぐ右側に太田道灌稲荷が祀られています。このいわれを住職から詳しく聞きました。
この寺は、徳川家康の母であった於大の方の法名に由来する旗本寺で、寺紋は葵紋です。当初小石川(東京都文京区)にあり、明治初年、先々代の住職の頃、近くの一口坂(いもあらいざか)(神田駿河台)にあった一口稲荷(いもあらいいなり)が、さびれていたので引き取ったということです。当時は、神仏習合の時代だったので気にもしなかたそうです。
その後、この寺は寺域が狭くなったので昭和9年に調布の飛田給に移転し、さらに先の大戦の最中昭和19年に、陸軍の調布飛行場拡大のため現在地に移転したそうです。その都度、道灌稲荷も一緒に移転したそうです。
(光岳寺の太田道灌稲荷)
太田道灌の娘が天然痘に罹ったとき、京都の山城の国一口稲荷(いもあらいいなり)に人を遣わして祈って全快したそうです。1457年(長禄元年)、道灌の枕元に白狐が現れて「われ城の鬼門を守るべし」と言ったので、道灌はこの神を江戸城の鬼門(北東)に祀ったということです。この一口稲荷は、江戸城の東北地域を3回遷座しました。1590年(天正18年)に家康入城で神田錦町へ、1606年(慶長11年)に江戸城拡張で神田の聖橋の袂へ、そして1931年(昭和6年)に総武線建設で現在地の神田駿河台へ移転しました。
1866年(慶応2年)大火により御神体を除き社殿を全焼し、1872年(明治5年)に太田姫稲荷神社と改称し、大正12年には震災で類焼しました。
一口坂(ひとくちざか・いもあらいざか)は各地にありますが、聖橋の袂の坂も一口稲荷に因み、一口坂(いもあらいざか)と呼ばれていました。
以上の史実と先の光岳寺の住職の話を照らし合わせて推測すると、明治初年、火災で焼けた一口稲荷の社殿がまだ復興しないときに、稲荷が小石川の光岳寺の寺域にいうなれば仮住まいをし、そのまま調布の飛田給に分社・移転して太田道灌稲荷と改称したのではないかと思います。光岳寺の住職が先々代(祖父)から聞かされていた「一口坂(いもあらいざか)の稲荷」という一言がキーワードになります。一方神田では、その後本社が社殿を復興し、「太田姫稲荷神社」と改称し、さらに現在地に移転したのだと思います。
一口(いもあらい)は「穢(え)もあらい」とよみ疱瘡快癒に通じ、太田姫は一口稲荷のご神体である「太田姫の命(みこと)」の意味ではあるけれども、一般民衆は道灌の娘の意味に受け取って親しんだのかもしれません。
光岳寺=東京都調布市富士見町1-36‐2
(2)鷲嶽山大円寺・道灌愛用の茶釜
東武野田線の七里駅から徒歩5分で、曹洞宗の鷲嶽山大円寺に来ます。大円寺は、1525年(大永5年)岩槻城主太田資高の夫人・陽光院が開基となり創建されました。この寺には、太田道灌が茶の湯で愛用したという「古天明霰釜(こてんみょうあられがま)」があります。寄贈者は陽光院です。天明は現在の栃木県佐野市あたりの地名で、茶の湯釜の生産地として「西の芦屋、東の天明」と言われました。
(道灌が愛用した古天明霰釜の説明板)
(大円寺本堂)
陽光院は、この寺に参詣すると「古天明霰釜」で茶をたて、道灌の位牌に供えたということです。この霰釜は、通常は観覧できません。
大円寺の「古天明霰釜」は大宮市指定文化財工芸品です。(大宮市は現在さいたま市に属しますが、説明板の通り記します)
大円寺=埼玉県さいたま市見沼区風渡野335