大田区の区史を編纂したとき、地元の多くの古老から、地域の伝承を聞いて記録したそうです。そのとき複数の古老から、次のような道灌の築城伝説を採取した、と学芸員は記録を開きながら説明してくれました。
(北野神社境内・天神山)
15世紀中頃の長禄年間に、太田道灌が主君の上杉氏から江戸築城を命ぜられたので、築城の場所をさがして諸所方々を調査しました。あるとき道灌は、馬込の入り組んだ山地へ来てその地勢にたいへん関心を持ち、村人にこの地の名前を尋ねました。村人が「九十九谷(くじゅうくたに)」と答えると道灌は、百に一つ足りない、と験をかついで築城を断念したということです。江戸時代の「新編武蔵風土記稿」(1829年)には、この地について「土地高低甚だし、故に土俗に九十九谷と称す」とあります。今も馬込文士村に入ると、あっち向いてもこっち向いても坂ばかりです。天神山は博物館から徒歩五分ほどの北野神社のあたりで、その境内にうっそうと巨木が茂っています。
道灌は、「地形肝要」を戦略の柱としていたので、築城でも野戦でも地形と地相には大いに拘りました。おそらく道灌は、馬込の九十九谷で、地形、千葉氏からの距離、周囲の交通路、水源などを充分調べ尽くしたうえで、地名で験を担いだふりをして築城を断念したのだと思います。
(馬込文士村の尾崎士郎住居跡)
大正時代から昭和時代にかけ、この地に作家の尾崎士郎と宇野千代が移り住んで他の文士を呼び寄せました。川端康成、山本周五郎など数十名の文士や芸術家が集まり、九十九谷は文士村と呼ばれるようになっていろいろ話題を振りまきました。馬込文士村は現在、一種の観光地のようになり、諸所に立つ文士の住居跡表示と説明板を廻り歩く、物好きでヒマで元気な高齢者が散見されます。私もその中の一人と見えたことでありましょう。
天神山・北野神社=東京都大田区南馬込2丁目26-14