(4代目の太田道灌硯松)
(史跡硯松の碑)
1478年(文明10年)太田道灌の軍勢は、長尾景春与党の矢野兵庫がたてこもる小机城を攻めました。連郭式いわゆる道灌がかりの小机城は堅城で、少勢の道灌軍は、亀の甲山に布陣して3か月間も包囲し続けました。同年4月10日に道灌は「戦の勝敗は兵の多少によらず、勢いに乗るにしかず、我今、俳諧の歌を詠みて兵士を励ますべし、声に応じてすすめ」とて、
小机は先ず手習いのはじめにていろはにほへとちりぢりになる
と戯れ歌を詠み、進軍ラッパに替えて進撃しました、兵卒はにわかに勢いついて道灌軍は大勝を博しました。当時、言葉には言霊があると信じられていたとはいえ、歌だけで戦に勝利したとするとやや荒唐無稽です。これにはなにか秘密があるに違いありません。
道灌がこの歌を詠んだのが、ここ羽沢の地の松の根元であったというのがこの地に伝わる伝承です。ここは小机城から約3キロも離れ、道灌軍の駐屯地であった亀の甲山とは小机城をはさみ反対側です。道灌はなぜあえて、こんな遠い所で歌を詠み出撃したのか、それが謎です。
この地の今昔ガイドは、次のように推測しています。道灌は、小机城と亀の甲山の間に鶴見川と水田があるので、敵を欺くために少勢は亀の甲山に残し、主力は鶴見川を渡らせて東方の六角橋を迂回して小机城から3キロも離れた羽沢に駐屯させました。道灌は、後詰めの景春軍が二宮城(あきる野市)から撤退して成田陣(熊谷市)へ移動した情報を得てから、一気に小机城を攻めたということです。健脚の足軽隊にとって、3キロぐらいは全く問題になりません。
孫子の兵法に曰く「其の無備を攻め、其の不意に出ず」。要するに相手の想定外の攻め方こそ戦術の要諦であるということです。小机城の城方にとっては、目の前の亀の甲山とは正反対のしかも3キロも離れた羽沢から、道灌軍が一気に攻め込んでくるとは、全くの想定外で、防備は混乱して落城したに違いありません。
羽沢の地に今も少し残っている木立は、軍勢を隠すのにもってこいの感じです。そして高台の上は、2千人くらいの軍勢の駐屯には充分の広さです。諸状況を考えるとこの民間伝承は、事実であるような気がしてなりません。
史蹟硯松=神奈川県横浜市神奈川区羽沢町993-2