東京メトロ千代田線の千駄木(せんだぎ)駅で降り、団子坂(汐見坂)を上りきると、森鴎外記念館があります。 本郷台地の森鴎外記念館は、鴎外の住居・観潮楼の址です。そこから東京湾の帆船がよく見えたので鴎外は、観潮楼と名付けて終生暮らしました。
(重厚な森鴎外記念館)
記念館を左折して、文京八中を左に見ながら藪下通りを通り、急坂を下って右折すると、杜が見えます。そこが、「千駄木ふれあいの杜」すなわち太田資宗の屋敷跡の一部です。
(薮下通りの老桜)
花冷えの日、満開の桜が咲きとどまっていました。
(千駄木ふれあいの杜入口)
「千駄木ふれあいの杜」のフェンスにある、文京区土木部みどり公園課の説明版には、次のように記されています。
『江戸時代、この辺りは太田道灌の子孫である太田備中守資宗が三代将軍徳川家光から賜った下屋敷で、現千駄木1丁目一帯に及ぶ、広大な敷地でした。そこからの眺めは「太田備牧駒籠別荘八景十境詩、画巻」に描かれています。そこには湧水を源泉とする池があり、明治以降これは、「太田が池」と呼ばれました。近くには森鴎外、夏目漱石などの文化人が住まいを構え、その作品の中に当時の風景を書き残しています。
昭和の初めまでに「太田が池」はなくなりましたが、昭和40年代まで屋敷内の庭には湧水が残っていました。しかし時代の変遷とともに、その湧水も涸れ、本郷台地東緑崖線の崖地の緑も、現在は「千駄木ふれあいの杜」を残すのみとなりました。
「千駄木ふれあいの杜」は、所有者である太田氏と文京区の間で契約が結ばれ、平成13年10月より市民緑地として一般公開されてきましたが、できる限り樹林を後世まで残すよう配慮することを条件として、平成20年3月に太田氏より区に寄付されました。
区ではその意向に沿うよう都市に残る多様な動植物の生息空間の保全をする都市公園と位置づけ、多くの方が自然に親しんでいただけるよう公開しています。』
この説明版にすべてが語られています。この土地の所有者であった、太田資宗の子孫の方は、今もこの近傍に住んでいます。
(「太田が池」の遺構を巡る道)
崖下の「太田が池」の遺構には、水は涸れているもののよくみると池の縁の石や石灯篭がコケに覆われて残っています。
(石灯籠の遺構)
地元の「千駄木の杜を考える会」が「屋敷森通信」を発行して、入り口に置いてあります。それによるとこの杜では冬になると、縁起物として名高い千両、万両が赤い実をつけるそうです。
この杜は一見、藪のように見えますが、それは地元の関係者が「生き物を一切を持ち出さない、持ち込まない」という原則にしたがい、環境を守りつづけているからであります。
2022年03月30日
続き・千駄木・太田資宗屋敷跡
posted by 道灌紀行 at 19:47| Comment(0)
| 二つの三芳野天神社と平河天満宮
2022年03月03日
太田資宗、江戸城静勝軒の道潅を偲ぶ
1. 太田備牧駒籠別荘、八景十境詩画巻
東京メトロ丸の内線の本郷三丁目駅から案内板にしたがい、春日通りを5分も歩き真砂坂上で右折すると「文京ふるさと歴史館」が見えます。途中春日通りに、太田道灌ゆかりの櫻木神社があるので、帰り道に見ることができます。
(文京ふるさと歴史館標示)
歴史館の入口をはいると、1,2階には常設展示があり、日本史の教科書にもでている文京区弥生町出土の弥生式土器が展示されています。地階に、太田道灌の江戸掛川系の子孫太田資宗(おおたすけむね)にかかわる特別展会場があります。
(文京ふるさと歴史館入口)
さて、この歴史館地階で開催されている太田備牧駒籠別荘、八景十境詩画巻(おおたびぼくこまごめべっそう、はっけいじっきょうしえまき)とは、詩巻と画巻からなる二巻の巻物です。江戸時代の大名太田資宗(1600〜1680)の駒込屋敷(現・千駄木1丁目)からの眺めを八景、そして屋敷内の見どころを十境としたものです。詩は儒学者・林鵞峯によって詠まれ、その子梅洞により墨書されました。詩文をもとに制作されたと思われる画巻は、絵師・狩野安信により画かれました。(撮影不可)
絵の中に富士山や筑波山がでてきます。資宗の祖先太田道灌の江戸城静勝軒の詩板にも、富士山や筑波山の山容が記されています。資宗は駒籠屋敷から富士や筑波の山容をみて、昔日の道灌の心情と労苦をしのんだのでありましょう。
全長約6メートル(詩巻)、11メートル(画巻)の全体が、太田家より当館に寄贈され、区の文化財に指定されました。今回はじめて、この詩画が完全公開されたので、このチャンスを逃すべきではないと思います。この特別展の開催期間は、2022年2月5日(土)〜3月21日(月)です。
(図録の表紙、中央に富士の絵)
2.太田資宗の出世街道
太田資宗は、太田道灌より6代目の子孫で、1606年(慶長11)7歳のとき徳川家康に拝謁しました。資宗は10歳で、豊島郡蓮沼にて500石の太田家の家督を継ぎました。その後資宗は家康の側近となり、書院番頭、御小姓番頭、六人衆(松平信綱等とともに)などの要職を歴任、目を見張るスピードで昇進し加増され続けました。そして1635年(宝永12)には、下野群山川で15600石の大名に列せられ備中守となり、1638年(寛永15)には、35000石にて三河国幡豆群西尾に移封しました。
1643年(寛永20)資宗が奉行となり、林羅山を実務担当として『寛永諸家系図伝』を完成しました。1644年(正保1)遠江浜松に35000石で移封、1680年(延宝8)81歳で没しました。そしてその子孫は、掛川藩50000石の城主となり、幕府の寺社奉行、老中などの要職につきました。
(掛川城天守閣)
太田資宗のスピード出世は、彼自身の志と才覚によるとはいえその背後には、太田家再興を願う叔母のお勝さん(徳川家康の側室、英勝院)の強い思念とバックアップを私は感じます。そしてそれはまた、上杉家に生涯忠義をつくした挙句の果てに、非業の最期を遂げた太田道灌への、諸天善神の憐れみと加護であったというべきでしょう。
3.道灌有縁の櫻木神社
帰り道春日通りに、太田道灌勧請の櫻木神社があり、入口に紅白の梅が咲き、都会のど真ん中で春の訪れを告げています。
(桜木神社の紅白梅)
境内に「縁起の略記」と称する碑があり、太田道灌に関する部分には次のように記されています。
「(前略)太田道灌が江戸築城の際、菅原道真公の神霊を京都北野の祠より同城内に勧請せられしものを、その後湯島高台なる旧桜の馬場の地に神祠を建立して、その近隣の産土神として、仰がしめ櫻木神社と名付けられたといわれる。元禄三年徳川綱吉が同所に御学問所昌平黌建設するに当たり、更に現在地に遷座、即ち今を去る実に二百七十年前の事である(後略)櫻木神社氏子中」
(縁起の略記)
この縁起を読んで私は「産土神(うぶすなかみ)」の一説に注目しました。道灌は、江戸城に天神を勧請したが、それが城外に勧請されて、産土神すなわちその土地の土着の守護神に変身したということです。
道灌有縁の神社は多数ありますが、産土神への変身はしばしば見られます。道灌の好みは、源氏ゆかりの八幡社や学問の神である天神社でしたが、民衆の好みに合わせて多くの土地の神や稲荷社も勧請(おそらく大多数は承認しただけ)したと伝えられています。
東京メトロ丸の内線の本郷三丁目駅から案内板にしたがい、春日通りを5分も歩き真砂坂上で右折すると「文京ふるさと歴史館」が見えます。途中春日通りに、太田道灌ゆかりの櫻木神社があるので、帰り道に見ることができます。
(文京ふるさと歴史館標示)
歴史館の入口をはいると、1,2階には常設展示があり、日本史の教科書にもでている文京区弥生町出土の弥生式土器が展示されています。地階に、太田道灌の江戸掛川系の子孫太田資宗(おおたすけむね)にかかわる特別展会場があります。
(文京ふるさと歴史館入口)
さて、この歴史館地階で開催されている太田備牧駒籠別荘、八景十境詩画巻(おおたびぼくこまごめべっそう、はっけいじっきょうしえまき)とは、詩巻と画巻からなる二巻の巻物です。江戸時代の大名太田資宗(1600〜1680)の駒込屋敷(現・千駄木1丁目)からの眺めを八景、そして屋敷内の見どころを十境としたものです。詩は儒学者・林鵞峯によって詠まれ、その子梅洞により墨書されました。詩文をもとに制作されたと思われる画巻は、絵師・狩野安信により画かれました。(撮影不可)
絵の中に富士山や筑波山がでてきます。資宗の祖先太田道灌の江戸城静勝軒の詩板にも、富士山や筑波山の山容が記されています。資宗は駒籠屋敷から富士や筑波の山容をみて、昔日の道灌の心情と労苦をしのんだのでありましょう。
全長約6メートル(詩巻)、11メートル(画巻)の全体が、太田家より当館に寄贈され、区の文化財に指定されました。今回はじめて、この詩画が完全公開されたので、このチャンスを逃すべきではないと思います。この特別展の開催期間は、2022年2月5日(土)〜3月21日(月)です。
(図録の表紙、中央に富士の絵)
2.太田資宗の出世街道
太田資宗は、太田道灌より6代目の子孫で、1606年(慶長11)7歳のとき徳川家康に拝謁しました。資宗は10歳で、豊島郡蓮沼にて500石の太田家の家督を継ぎました。その後資宗は家康の側近となり、書院番頭、御小姓番頭、六人衆(松平信綱等とともに)などの要職を歴任、目を見張るスピードで昇進し加増され続けました。そして1635年(宝永12)には、下野群山川で15600石の大名に列せられ備中守となり、1638年(寛永15)には、35000石にて三河国幡豆群西尾に移封しました。
1643年(寛永20)資宗が奉行となり、林羅山を実務担当として『寛永諸家系図伝』を完成しました。1644年(正保1)遠江浜松に35000石で移封、1680年(延宝8)81歳で没しました。そしてその子孫は、掛川藩50000石の城主となり、幕府の寺社奉行、老中などの要職につきました。
(掛川城天守閣)
太田資宗のスピード出世は、彼自身の志と才覚によるとはいえその背後には、太田家再興を願う叔母のお勝さん(徳川家康の側室、英勝院)の強い思念とバックアップを私は感じます。そしてそれはまた、上杉家に生涯忠義をつくした挙句の果てに、非業の最期を遂げた太田道灌への、諸天善神の憐れみと加護であったというべきでしょう。
3.道灌有縁の櫻木神社
帰り道春日通りに、太田道灌勧請の櫻木神社があり、入口に紅白の梅が咲き、都会のど真ん中で春の訪れを告げています。
(桜木神社の紅白梅)
境内に「縁起の略記」と称する碑があり、太田道灌に関する部分には次のように記されています。
「(前略)太田道灌が江戸築城の際、菅原道真公の神霊を京都北野の祠より同城内に勧請せられしものを、その後湯島高台なる旧桜の馬場の地に神祠を建立して、その近隣の産土神として、仰がしめ櫻木神社と名付けられたといわれる。元禄三年徳川綱吉が同所に御学問所昌平黌建設するに当たり、更に現在地に遷座、即ち今を去る実に二百七十年前の事である(後略)櫻木神社氏子中」
(縁起の略記)
この縁起を読んで私は「産土神(うぶすなかみ)」の一説に注目しました。道灌は、江戸城に天神を勧請したが、それが城外に勧請されて、産土神すなわちその土地の土着の守護神に変身したということです。
道灌有縁の神社は多数ありますが、産土神への変身はしばしば見られます。道灌の好みは、源氏ゆかりの八幡社や学問の神である天神社でしたが、民衆の好みに合わせて多くの土地の神や稲荷社も勧請(おそらく大多数は承認しただけ)したと伝えられています。
posted by 道灌紀行 at 10:59| Comment(0)
| 二つの三芳野天神社と平河天満宮
2014年03月11日
二つの三芳野天神社と平川天満宮
この度あらためて、川越城とその周辺を調べてみました。その結果困ったことに、否、おもしろいことに、川越には、なにしおう「三芳野天神社」も「天神さまの細道」も二つあることがわかりました。天神社とは、菅原道真を祀った神社で、天満宮ともいわれて全国各地にあり、「通りゃんせ」の唄発祥の地も方々にあります。ちなみに河越城は江戸時代に入り、川越城と表記されるようになりました。
1・川越城の三芳野神社
川越城址へは、JR線川越駅あるいは西武新宿線本川越駅から、小江戸巡回バスに乗れば十数分で行けます。歩いても行ける距離です。川越城の本丸跡に三芳野神社があります。この神社の通称は、三芳野天神社です。この神社の由緒書の冒頭に次のように記されています。「平安時代のはじめ、大同年間(806〜810)の創建と伝え、三芳野十八郷の総社とし崇敬をあつめました。太田道灌は、河越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は、徳川幕府直営の社として庇護をうけた。」
塙保己一が編纂した群書類従に「河越記」という合戦記があります。これは、上杉氏時代の河越城に伺候していた、西脇という陣僧らしき人物が書いた記録です。その記録には、「この城は、太田道真の築城で、ここは三芳野の里である。昔、在原の業平が三芳野の田面の雁と詠んだのもここである。そして、北野の天神社がここに勧請された」との意味がしるされています。
その他いろいろな説があるけれども、私は、太田道真が主導して此処に河越城本丸を築き、天神社を勧請したと思います。道真は、歌の達者であったから、インテリジェンスの神ともいうべき天神にはとりわけ深い愛着を持っていたに違いありません。
この神社の参道が「通りゃんせ」の唄にある天神さまの細道といわれ、「わらべ唄発祥の所」の碑があります。参道の入り口に、在原業平の歌碑があり「我が方に、よると鳴くなる三芳野の 田面の雁をいつかわすれむ」と彫られています。
(三芳野天神社)
(わらべ唄発祥の所の碑)
三芳野天神社=埼玉県川越市郭町2−13−1
2・的場の三芳野天神社
JR線の川越駅から川越線で西へ行くと二つ目の駅が的場です。的場駅から徒歩で国道114号線に出て、数分歩くと曹洞宗の的場山法城寺という寺があります。その寺に隣接して三芳野天神社があり、入口の法城寺の説明板に次のようにあります。
「三芳野天神社(天満宮)縁起
この神社の創立は、平安末期頃で、伊勢物語に出てくる入間の郡「三芳野の里」円墳三芳野塚の前に建てられたものである。菅原道真公が祀られており、別当は北條寺がつとめるようになった。中世になり、このご神体を今の河越城中にうつしたけれども、神慮が旧地を慕われたため、元和6年(1620)に再びこの寺の境内に移した。(後略)」
別当とは、神仏習合の江戸時代に、神社を管理する任務を持った寺のことです。北條寺が法城寺になりました。
社の傍らに碑があり、「わらべ歌生れしと云う 三芳野の天神さまに ほそき道あり」と彫られています。
(三芳野天神社)
(天神さまの細道の碑)
「新編武蔵風土記稿」の「的場村」の項に、三芳野塚の記述があります。また近くに霞が関遺跡があり、東山道武蔵路が通っていたので、存原業平が来たのは的場の三芳野である、という説もあります。
「通りゃんせ」の唄の、1930年(大正9年)作のレコードには、作詩・野口雨情と記されてけれどもはっきりしません。作曲は、本居長世とされています。本居長世は、本居宣長の6代目の義理の子孫で、「赤い靴」「七つの子」などたくさんの童謡を作詩しました。
ちなみに、私はまだ行ったことがありませんが、小田原市の菅原神社(山角天神社)にも「通りゃんせ発祥の碑」があるそうです。
「通りゃんせ」の唄は、その成立の過程が朦朧としていて、発祥の地も方々にあるので、太田道灌の山吹伝説に似ています。
三芳野天満宮=埼玉県川越市的場1902
3・道灌有縁の平河天満宮
東京メトロ半蔵門線の半蔵門駅から5分も歩くと、江戸三大天神の一つ、太田道灌建立の平河天満宮へきます。
太田道灌は、おそらくは河越城にならって、江戸城にも天満宮を建立したと思われます。道灌の心友万里集九の「梅花無尽蔵」(1506年)に次のようにしるされています。(現代語訳)
「江戸平川城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見ました。そして、その翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であると思い、文明十年に城内の北に、自らが施主となり、天満宮を建立しました」。
(平河天満宮)
(合格祈願絵馬)
その後道灌は、天満宮の周囲にたくさんの梅の木を植えたので、やがてそこが梅林坂と呼ばれ、今も江戸城址の東御苑にその名を残しています。
その後、徳川家康が江戸城拡張のため、この天満宮は平川門外へ移され、さらに1607年(慶長12年)2代将軍秀忠により貝塚(現在地)に移されました。その場所は、本社にちなみ平河町と名付けられました。
いまこの天満宮の境内では、紅白の梅が満開で、時節がら様々な学校の合格祈願の絵馬がところ狭しと掲げられています。
平河天満宮=東京都千代田区平河町1‐7‐5
1・川越城の三芳野神社
川越城址へは、JR線川越駅あるいは西武新宿線本川越駅から、小江戸巡回バスに乗れば十数分で行けます。歩いても行ける距離です。川越城の本丸跡に三芳野神社があります。この神社の通称は、三芳野天神社です。この神社の由緒書の冒頭に次のように記されています。「平安時代のはじめ、大同年間(806〜810)の創建と伝え、三芳野十八郷の総社とし崇敬をあつめました。太田道灌は、河越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は、徳川幕府直営の社として庇護をうけた。」
塙保己一が編纂した群書類従に「河越記」という合戦記があります。これは、上杉氏時代の河越城に伺候していた、西脇という陣僧らしき人物が書いた記録です。その記録には、「この城は、太田道真の築城で、ここは三芳野の里である。昔、在原の業平が三芳野の田面の雁と詠んだのもここである。そして、北野の天神社がここに勧請された」との意味がしるされています。
その他いろいろな説があるけれども、私は、太田道真が主導して此処に河越城本丸を築き、天神社を勧請したと思います。道真は、歌の達者であったから、インテリジェンスの神ともいうべき天神にはとりわけ深い愛着を持っていたに違いありません。
この神社の参道が「通りゃんせ」の唄にある天神さまの細道といわれ、「わらべ唄発祥の所」の碑があります。参道の入り口に、在原業平の歌碑があり「我が方に、よると鳴くなる三芳野の 田面の雁をいつかわすれむ」と彫られています。
(三芳野天神社)
(わらべ唄発祥の所の碑)
三芳野天神社=埼玉県川越市郭町2−13−1
2・的場の三芳野天神社
JR線の川越駅から川越線で西へ行くと二つ目の駅が的場です。的場駅から徒歩で国道114号線に出て、数分歩くと曹洞宗の的場山法城寺という寺があります。その寺に隣接して三芳野天神社があり、入口の法城寺の説明板に次のようにあります。
「三芳野天神社(天満宮)縁起
この神社の創立は、平安末期頃で、伊勢物語に出てくる入間の郡「三芳野の里」円墳三芳野塚の前に建てられたものである。菅原道真公が祀られており、別当は北條寺がつとめるようになった。中世になり、このご神体を今の河越城中にうつしたけれども、神慮が旧地を慕われたため、元和6年(1620)に再びこの寺の境内に移した。(後略)」
別当とは、神仏習合の江戸時代に、神社を管理する任務を持った寺のことです。北條寺が法城寺になりました。
社の傍らに碑があり、「わらべ歌生れしと云う 三芳野の天神さまに ほそき道あり」と彫られています。
(三芳野天神社)
(天神さまの細道の碑)
「新編武蔵風土記稿」の「的場村」の項に、三芳野塚の記述があります。また近くに霞が関遺跡があり、東山道武蔵路が通っていたので、存原業平が来たのは的場の三芳野である、という説もあります。
「通りゃんせ」の唄の、1930年(大正9年)作のレコードには、作詩・野口雨情と記されてけれどもはっきりしません。作曲は、本居長世とされています。本居長世は、本居宣長の6代目の義理の子孫で、「赤い靴」「七つの子」などたくさんの童謡を作詩しました。
ちなみに、私はまだ行ったことがありませんが、小田原市の菅原神社(山角天神社)にも「通りゃんせ発祥の碑」があるそうです。
「通りゃんせ」の唄は、その成立の過程が朦朧としていて、発祥の地も方々にあるので、太田道灌の山吹伝説に似ています。
三芳野天満宮=埼玉県川越市的場1902
3・道灌有縁の平河天満宮
東京メトロ半蔵門線の半蔵門駅から5分も歩くと、江戸三大天神の一つ、太田道灌建立の平河天満宮へきます。
太田道灌は、おそらくは河越城にならって、江戸城にも天満宮を建立したと思われます。道灌の心友万里集九の「梅花無尽蔵」(1506年)に次のようにしるされています。(現代語訳)
「江戸平川城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見ました。そして、その翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であると思い、文明十年に城内の北に、自らが施主となり、天満宮を建立しました」。
(平河天満宮)
(合格祈願絵馬)
その後道灌は、天満宮の周囲にたくさんの梅の木を植えたので、やがてそこが梅林坂と呼ばれ、今も江戸城址の東御苑にその名を残しています。
その後、徳川家康が江戸城拡張のため、この天満宮は平川門外へ移され、さらに1607年(慶長12年)2代将軍秀忠により貝塚(現在地)に移されました。その場所は、本社にちなみ平河町と名付けられました。
いまこの天満宮の境内では、紅白の梅が満開で、時節がら様々な学校の合格祈願の絵馬がところ狭しと掲げられています。
平河天満宮=東京都千代田区平河町1‐7‐5
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| 二つの三芳野天神社と平河天満宮