2019年08月27日

掛川太田氏と妙法華寺

箱根峠を越えて
東京の新宿から小田急ロマンスカーに乗ると、約1時間で小田原に着きます。小田原駅近くでレンタカーを借りて、国道1号線で箱根の山を登りました。土木遺産の函嶺洞門など、箱根駅伝でなじみ深い地名が次々と出てきます。元箱根を通り、箱根峠から1号線で三島市を目指して山を下ります。ほどなく山中城址へくるのでこの辺で、ナビに妙法華寺を入れます。山裾のやや複雑な田舎道を案内されて、30分くらいで静岡県三島市玉沢の妙法華寺境内に着きました。JR三島駅からは、1時間に1本くらいの妙法華寺行きの定期バスが出ているそうです。
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   (玉澤妙法華寺)
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   (寺の由緒書き)

掛川太田氏の菩提寺
この寺は、日蓮宗の経王山妙法華寺と称し、1284年(弘安7年)に日蓮大聖人の六老僧の一人日昭が鎌倉の海浜玉澤(現材木町)に建立しました。鎌倉の戦乱を避けるため越後村田(長岡市)、伊豆加殿(伊豆市)を経て、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転、広大なその地を玉澤と改称しました。
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(玉澤道場)
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(日蓮大聖人像と開目抄の碑)
この寺の由緒書きに次のように記されています。
「寛永二年九月徳川二代将軍秀忠公より約五十万坪の寺域を御朱印地として寄進され、家康公の側室にして紀州大納言頼宣、水戸中納言頼房両公の生母、光圀公の祖母、養珠院お萬の方並びに英勝院お勝の方、及び太田道灌家の五代道顯公等の絶大な資援により大伽藍玉澤道場が竣工したのである。(抜粋)」

玉澤道場からすこし離れた玉澤霊園の奥に、掛川太田家霊廟があり、掛川藩の初代藩主太田資俊(すけとし)、二代藩主資愛(すけよし)、三代藩主資順(すけのぶ)、四代藩主資言(すけとき)、五代藩主資始(すけもと)、六代藩主資功(すけかつ)、七代藩主資美(すけよし)等の墓があります。
妙法華寺の由緒書きに記された「太田道灌公五代の道顯公」とは、英勝院お勝の方の兄太田重正のことであると思われます。重正の墓もまた妙法華寺にあります。

安定する掛川藩
太田道灌五代の子孫太田重正は徳川家康から召し出され、妹のお勝(英勝院)は家康の側室となり、息子の資宗は徳川家に仕え、その子孫資俊は1746年(延享3年)に掛川城主となり掛川藩五万石の祖となりました。掛川藩は、太田家代々の藩主の努力により藩政が安定し、幕閣へ老中、大阪城代、京都所司代などの人材を輩出しました。
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(掛川城)
三島市より東海道線で西へ移動すると静岡県掛川市へ至り、駅近くに掛川城址があり、掛川太田氏の多くの史料と史跡を見学できます。
posted by 道灌紀行 at 08:57| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)

掛川太田氏と妙法華寺

箱根峠を越えて
東京の新宿から小田急ロマンスカーに乗ると、約1時間で小田原に着きます。小田原駅近くでレンタカーを借りて、国道1号線で箱根の山を登りました。土木遺産の函嶺洞門など、箱根駅伝でなじみ深い地名が次々と出てきます。元箱根を通り、箱根峠から1号線で三島市を目指して山を下ります。ほどなく山中城址へくるのでこの辺で、ナビに妙法華寺を入れます。山裾のやや複雑な田舎道を案内されて、30分くらいで静岡県三島市玉沢の妙法華寺境内に着きました。JR三島駅からは、1時間に1本くらいの妙法華寺行きの定期バスが出ているそうです。
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   (玉澤妙法華寺)
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   (寺の由緒書き)

掛川太田氏の菩提寺
この寺は、日蓮宗の経王山妙法華寺と称し、1284年(弘安7年)に日蓮大聖人の六老僧の一人日昭が鎌倉の海浜玉澤(現材木町)に建立しました。鎌倉の戦乱を避けるため越後村田(長岡市)、伊豆加殿(伊豆市)を経て、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転、広大なその地を玉澤と改称しました。
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(玉澤道場)
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(日蓮大聖人像と開目抄の碑)
この寺の由緒書きに次のように記されています。
「寛永二年九月徳川二代将軍秀忠公より約五十万坪の寺域を御朱印地として寄進され、家康公の側室にして紀州大納言頼宣、水戸中納言頼房両公の生母、光圀公の祖母、養珠院お萬の方並びに英勝院お勝の方、及び太田道灌家の五代道顯公等の絶大な資援により大伽藍玉澤道場が竣工したのである。(抜粋)」

玉澤道場からすこし離れた玉澤霊園の奥に、掛川太田家霊廟があり、掛川藩の初代藩主太田資俊(すけとし)、二代藩主資愛(すけよし)、三代藩主資順(すけのぶ)、四代藩主資言(すけとき)、五代藩主資始(すけもと)、六代藩主資功(すけかつ)、七代藩主資美(すけよし)等の墓があります。
妙法華寺の由緒書きに記された「太田道灌公五代の道顯公」とは、英勝院お勝の方の兄太田重正のことであると思われます。重正の墓もまた妙法華寺にあります。

安定する掛川藩
太田道灌五代の子孫太田重正は徳川家康から召し出され、妹のお勝(英勝院)は家康の側室となり、息子の資宗は徳川家に仕え、その子孫資俊は1746年(延享3年)に掛川城主となり掛川藩五万石の祖となりました。掛川藩は、太田家代々の藩主の努力により藩政が安定し、幕閣へ老中、大阪城代、京都所司代などの人材を輩出しました。
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(掛川城)
三島市より東海道線で西へ移動すると静岡県掛川市へ至り、駅近くに掛川城址があり、掛川太田氏の多くの史料と史跡を見学できます。
posted by 道灌紀行 at 08:57| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)

2019年07月23日

太田氏発祥の地・亀岡市を訪ねる

丹陽の地・亀岡市薭田町太田
私は夏の晴れた日に、太田氏発祥の地・丹波の亀岡市へ行きました。京都駅より嵯峨野線に乗り小一時間で亀岡駅につきます。保津川渓谷の鉄橋を何回も渡りトンネルをくぐったりすると、丹波は昔、都から隔絶された僻陬(へきすう)の地であったのではないかという気がしてきます。亀岡駅につくと周囲に田畑が広がっているので、たしかにここには京都とはちがう空気が流れていると実感できます。
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(亀岡駅)
太田道灌の心友、万里集九が道灌遭難後の二七日忌(ふたなのかき)にささげた祭文の中に「大田左金吾公道灌は、その先はすなわち丹陽の人なり。しかるに五、六葉の祖、はじめて相州に家す」とあります。
「太田家記」(1714年)によると「太田摂津守資国御法名を道斎と申し奉る。五箇荘の内太田郷を領知し故、資国公御代より太田の御名字を称され候、資の字も資国公より始まり候」とあります。
『寛政重修諸家譜』(1812年)にも、太田資国は、摂津守を名乗って丹波太田郷に住んだ旨、記述されています。

私は亀岡駅前でレンタル自転車をかりて、薭田野(ひえだの)町の太田を目指しました。亀岡市役所を経て亀岡運動公園をすぎ、西へ約5キロも走ると、薭田野神社がありその近くが薭田野町太田です。
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(薭田野神社)
この神社は、709年(和銅2年)創建の古社で、なにやら社殿も由緒ありげで五穀豊穣の守護神です。
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(薭田野町太田の田園地帯)
太田の地は田園が広がる地域で、仕事をしている若い人に尋ねると、農道を歩いてきた別の老人を指さして「あの人が歴史に詳しいよ」と教えてくれました。その古老は「時間はよろしいか」といいながら立て板に水を流すがごとくに約20分間、丹波、亀岡(亀山)、太田の伝承的歴史を語ってくれました。
山の南面の暖かい水が流れ込むので、この地は米がよくできて大田になりやがて太田になったとのことで、太田資国の伝承は出てきませんでした。

私はその後、南郷公園近くの市立文化資料館へ行き、亀岡市史を見たあと学芸員に太田氏の故地について質問しました。意外にも学芸員は「年に数回、太田氏について問い合わせがあるものの、当地域に太田氏関係の文書や伝承は発見されません。だからと言って太田氏と無関係とは断言できません」と言いました。

太田道灌公墓前祭実行委員会編の「太田道灌公五二〇回忌記念誌」の中で太田道夫氏が亀岡について一文を寄せています。それによると、2002年2月23日付の『亀岡市民新聞』に「亀岡が太田発祥の地・道灌は源三位頼政の子孫で、亀岡が先祖ゆかりの地」という見出しで道灌の生涯が紹介されました。当時、『エクセラン亀岡』など類似の資料が出回っていました。しかしそれらは、一過性の情報であったのか、今地元では、太田道灌のことを知る人は少ないようです。
1252年(建長4年)太田資国とその一族は宗尊親王、上杉重房とともに関東へ下向して750年以上も経ったので残念ながら、太田氏の伝承はこの土地の記憶から消失してしまったのでしょう。歴史的人物がその地を去り、その子孫もまたいなくなると、その人の伝承が絶えてしまう例は珍しくありません。

明智光秀築城の地
亀岡駅や亀岡市役所には、明智光秀の大河ドラマ「麒麟がくる」の幟旗(のぼりはた)がならび、明智光秀と細川ガラシャについての各種パンフや資料が氾濫しています。
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(亀岡市役所の幟旗)
明智光秀は1577年(天正5年)頃、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城しました。亀山城は保津川と沼地を北に望む小高い丘に築城されましたが当時の縄張りの詳細はわかっていません。
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(亀岡城址の明智光秀像)
1580年(天正8年)に丹波国を拝領した光秀は近隣から人を呼び集め、本格的な城下町の整備と領国経営に取りかかりました。しかしそのわずか2年後に、明智軍はこの亀山城から京都へ出撃し、本能寺の変が起こりました。
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(南郷公園・亀岡城址)
亀山城が亀岡城に変わったのは、三重県の亀山城と区別するためだということは、稗田野町のあの古老が語ってくれました。
posted by 道灌紀行 at 11:24| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)