2022年07月25日

越後の管領塚

1.管領塚史跡公園
私は、太田道灌関連の史跡と伝承地、約250か所を訪問しましたが、重要史跡で1か所だけ行ってないところがありました。それは、越後の長森原古戦場すなわち上杉顕定の管領塚(かんりょうづか)です。そこははるか、三国峠を越えた新潟県南魚沼市の北部、八海山の近くであるので、私の運転能力では無理だったのです。

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(沼田駅前の天狗の銅像)

今回私は,酷暑が始まったころ思い切ってでかけました。天狗まつりで知られている沼田市まで列車で行き、そこからレンタカーで三国街道すなわち国道17号線を上りました。関越道ができた今、この街道は脇街道となっています。沼田城址や名胡桃城址をあとにして猿ヶ京温泉を過ぎると、三国峠にはトンネル(1076m)があります。このトンネルの上の峠道を、1509年(永正6)7月、関東管領上杉顕定は軍勢を率いて越え、越後へ入りました。のちには、長尾景虎すなわち上杉謙信も、この峠を越えてたびたび関東へ攻め込みました。したがって、トンネルの上の峠道を徒で越えた方が、顕定や謙信の心情に迫ることができます。しかし、徒ち越えは他日にゆずり、今回は車でトンネルを通って越後に入りました。

越後湯沢の空気は涼しく、晴れたり曇ったりでときに小雨まじりの風が吹き抜けていました。越後湯沢をすぎて六日町で右折し、国道291号線を約10分も走ると、南魚沼市下原新田の「管領塚史跡公園」につきます。

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(管領塚史跡公園)

南魚沼市教育委員会の説明では、「管領塚」は「かんりょうづか」と読み、この史跡公園に隣接する地域に大字長森というところがあるので、そのあたりが長森原古戦場であると推測されているとのことです。
私の第一印象は「(武蔵国から)ずいぶん遠いところへ来てしまったなあ」ということでした。

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(史跡公園の中央にある上杉顕定の塚)

管領塚の周囲には、名にし負う南魚沼産コシヒカリの稲穂が、水もしたたるような美しさで山裾まで広がっています。そのあたりにあった「下原百塚」が、農地整備のため、この管領塚にまとめられたのでしょう。このようなことは、古戦場によくあることです。

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(管領塚の追悼碑)
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(山裾まで続く南魚沼産コシヒカリの稲穂)

 管領塚の追悼碑にいう。
「上野国守護関東管領上杉憲実永享十年(一四三八年)鎌倉を退き平井城(藤岡市)に拠る。此処に関東管領上杉氏の礎は定まる。時移り文正一年(一四六六年)六月越後上杉顕定は、足利幕府に請われて山内上杉氏を継ぎ、上野国守護関東管領となる。永正七年(一五一〇年)六月二十日長森ケ原に悲運の露と消えぬ。その間四十四年ならんか。(後略)
       昭和六十三年六月二十日  
             群馬県藤岡市長 吉野 益」

山内上杉氏の本城は藤岡市の平井城で、前線基地が道灌のすすめによる鉢形城でした。越後の管領塚が整備されたとき、藤岡市長が気張ってこの追悼文を寄せました。

2.長森原の合戦・下原百塚
1509年(永正6)7月関東管領上杉顕定は、弟の上杉房能(越後守護)のかたきを討つため三国峠を越えて越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)を攻め、越中へ放逐しました。
翌年顕定は再度越後で、長尾為景を攻めました。しかし同年6月20日に顕定は長森原で、為景方の援軍高梨政盛の軍勢に敗北して自刃しました。
この地に「下原百塚」という地名が残っていた通り、ここで大激戦が行われて多くの戦死者がでました。管領軍は追い詰められて、顕定は自刃に追い込まれたのです。ときに顕定57歳。(越後永正の乱)
太田道灌が上杉軍の前線司令官であったころはいつも、地勢を利用した足軽戦法等で野戦の勝利を確実にしていました。上杉顕定は武蔵から遠くに来すぎて、地勢も人の気風もわからないまま、優秀な軍師もいなかったので作戦は成功せず、敗北してしまったのです。

3.「当方滅亡」の軌跡
上杉家は藤原鎌足を祖先とし、多くの人材を輩出した、わが国では第一級の名家(セレブ)です。越後の南魚沼市の山裾にも、「雲洞庵」(曹洞宗)という上杉家の菩提寺があります。
太田道灌が非業の最期を遂げるとき叫んだ「当方滅亡」とは、その上杉家が、顕定と定正の猜疑心と忘恩により滅亡するという予言です。道灌の心友万里集九もまた、道灌二七日忌の祭文で「天艦惟明らかなり(天の鏡にすべてが映し出される)」と述べています。
道灌没後、両上杉家は争いをつづけて互いにその力を衰減させ、62年後には河越の夜戦で、道灌の予言通りに、両上杉家とも滅亡してしまいました。その主な足跡をたどります。

1486年(文明18)7月26日、太田道灌遭難、道灌は相模の糟屋館で上杉定正により謀殺され、下粕屋の洞昌院に葬られる、太田道灌55歳。
1487年(長享1)11月、長享の乱、山内上杉顕定と扇谷上杉定正の対立が深まる.
1488年(長享2)2月5日、実蒔原の合戦、両上杉軍が実蒔原(伊勢原市)で戦う。
同年6月18日、菅谷原の合戦、両上杉軍が菅谷原(嵐山町)で戦う。

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(越生駅前、「文武両道」の太田道灌像)

同年11月15日、高見原の合戦、高見原(寄居町)で両上杉軍が戦う。
1494年(明応3)同年10月5日、定正頓死、扇谷上杉定正と山内上杉顕定が高見原で対陣し、定正は荒川で落馬して頓死する(49歳)。
1504年(永正1)11月13日、立川原の合戦、扇谷上杉方を北条早雲、今川氏親が救援し、山内上杉方に足利政氏らが連合し、武蔵国立河原において決戦が行われる。
1510年(永正7)6月20日、長森原の合戦、上杉顕定敗死、山内上杉顕定は長尾為景と越後の長森原で戦い敗死する(57歳)。
1546年(天文15)河越の夜戦で上杉家滅亡、河越城救援にきた北条氏康が河越城を包囲し、両上杉と古河公方の連合軍を奇襲で破る。扇谷上杉朝定は戦死する。
山内上杉憲政は平井城へ、足利晴氏は古河城へ敗走し、上杉領は消滅して上杉家は滅亡する。
1552年(天文21)上杉謙信名乗り、山内上杉憲政は越後へ行き、名跡と関東管領を長尾景虎へ譲る。

4.ある郷土史家の提言
ある郷土史家の会合で、太田道灌の大河ドラマ推進の話をしたところ、一人の郷土史家が次のように語りました。
「太田道灌の大河ドラマを実現する際、伊勢原での道灌非業の最期で終わっては、意味もわからなく面白くもない。その後の上杉氏滅亡の足跡とさらには江戸時代の英勝院や掛川太田氏等の活躍まで描かなければ、太田道灌の物語は完結しない」と。
私は、そんな長い大河ドラマを見たことがありませんが、その方の提言に大賛成です。
posted by 道灌紀行 at 11:42| Comment(0) | 前ヶ崎城と太田六郎

2016年11月01日

前ヶ崎城と太田六郎

千葉県松戸市の長谷山本土寺(ちょうこくさんほんどじ)は、日蓮大聖人の六老僧の一人日朗が地元の豪族平賀氏の屋敷内に開堂した古刹です。この寺はその後、千葉氏とその庶流高城(たかき)氏の庇護をうけて発展しました。またこの寺に伝わった、中世の「下総国小金本土寺過去帳」(千葉県指定有形文化財)は、歴史家にとって貴重な古文書です。
「続群書類従」の「下総国小金本土寺過去帳」の某年11月3日の項に「太田六郎殿 前崎落城打死、同戸張彦次郎殿討死」とあります。この年この日に、前ヶ崎城が落城し、太田六郎と戸張彦次郎が討ち死にしたということです。このときとはいつか、前ヶ崎城で何が起こったのか、太田六郎、戸張彦次郎とはいかなる人物かを調べることにしました。
本土寺山門.JPG
(本土寺の山門)
私はJR山手線西日暮里から地下鉄千代田線で北小金へ行き、北小金駅から約10分歩き、先ず、松戸市の本土寺を見学しました。この寺は今では、あじさい寺として有名です。本土寺の門前通りに黒門屋という漬物店があります。そこで漬物を買い、若おかみに前ヶ崎城址への道を尋ねると、実に要領よく手振り身振りを添えて教えてくれました。おかげで、そこから約20分歩き、迷わずに前ヶ崎城址へ着きました。
またJR常磐線の柏駅からならば、東武バスに15分も乗ると流山運転免許センターへ着きます。免許センターの前の高台が、標高20m、比高13mの前ヶ崎城址です。
前ヶ崎城の築城年と城主については、特定はし難いものの、付近の小字名に「追手橋」とか、「刑部郭」の名称があったことから、室町時代に千葉氏庶流の高城氏家臣・田島刑部少輔がいたのではないかという説があります。(東葛飾郡誌)。
城は、かつては三本の東西の谷津に達する空堀によって、大きく三郭に分かれていました。今日では、土取りと宅地化によって先端部の一郭しか残ってないものの、そこは土塁によって本郭らしい感じを保ち、中世城郭の名残りが見える貴重な史跡となっています。
前ヶ崎城址入り口.JPG
(前ヶ崎城址入り口)
主郭.JPG
(本郭址)
付近に戸張城、小金城、馬橋城等、約20カ所の城址があり、ほとんどが千葉氏庶流の高城氏の城でした。戸張城は、手賀沼の西南端部へ向けて突き出したような舌状台地上に築かれた城でした。戸張城も、築城年代や築城者について詳細は伝わっていません。「東葛飾郡誌」は、相馬系図を引用して相馬師常の三男行常が戸張八郎と称して、戸張城に在城したとも伝えています。

いくつかの太田氏系図には、太田道灌の弟として、太田資忠と太田六郎の名が記されています。また資忠と六郎を道灌の甥としているものもあります。ここでは、二人とも道灌の弟と考えます。
「太田道灌状」第20段に「(文明10年6月)同名図書助、同名六郎自両国奥三保へ差寄候処」とあります。ここに記されている六郎とは、資忠の弟六郎すなわち太田資常と思われます。そして、道灌は相模の奥三保攻略が終ってから、総州攻撃の準備をはじめました。道灌本隊の境根原攻撃に先立ち、文明10年11月3日に、太田六郎は上杉方についていた戸張彦次郎とともに、千葉氏の防衛ラインの一角であった前ヶ崎城への攻撃を開始したと推測されます。しかしそのとき、太田六郎軍は千葉氏方諸城からの猛攻撃に会って敗れ、二人は討ち死にしたものと思われます。前ヶ崎城は本土寺の近傍にあるので「本土寺過去帳」の前ヶ崎城落城に関する記事の信憑性は、極めて高いというべきです。

「太田道灌状」第22段に「(文明10年)十二月十日於下総境根原令合戦得勝利、翌年(文明11年)向臼井城被寄陣候」とあります。太田道灌の本隊は、前ヶ崎城の合戦から約一月後に、数キロ離れた境根原で千葉軍を打ち破り、臼井城へ追って約半年も包囲して落城させたものの、そこでは太田資忠が討ち死にしました。
同段後半に「於臼井城下、同名図書助並中納言以下親類傍輩被官人等数輩致討死候」とあります。この記述の中の「親類」とは、太田六郎を指していると思われます。この戦の後の文書に、太田六郎(資常)が登場しないことを考えると、六郎はやはり文明10年に前ヶ崎城で討ち死にしたと考えられます。道灌は、総州の戦で二人の弟を含む、多くの味方を失うという大きな犠牲を伴って勝利を得ました。

松戸市、柏市、流山市の境あたりは、一見平坦と思えるけれども、歩き回ってみると城山に適するような小山がたくさんあることに驚かされます。千葉氏はその地域の20余カ所に城を築き、上杉方とりわけ太田氏の江戸城に対する防衛ラインとしていました。道灌は、六郎の討ち死により、このラインを突破することがむずかしいと考えて翌月に、それより南側の江戸川に船橋をかけるという奇策で、国府台に攻め込んだのです。けだし、上杉氏・太田道灌33連戦の中で、道灌が最も苦戦をし、最も多くの犠牲をだしたのはやはり、千葉氏との激戦であったというべきです。
本土寺:千葉県松戸市平賀63
前ヶ崎城址公園:千葉県流山市前ヶ崎字奥の台
戸張城址:千葉県柏市戸張字城山台
posted by 道灌紀行 at 15:18| Comment(0) | 前ヶ崎城と太田六郎

前ヶ崎城と太田六郎

千葉県松戸市の長谷山本土寺(ちょうこくさんほんどじ)は、日蓮大聖人の六老僧の一人日朗が地元の豪族平賀氏の屋敷内に開堂した古刹です。この寺はその後、千葉氏とその庶流高城(たかき)氏の庇護をうけて発展しました。またこの寺に伝わった、中世の「下総国小金本土寺過去帳」(千葉県指定有形文化財)は、歴史家にとって貴重な古文書です。
「続群書類従」の「下総国小金本土寺過去帳」の某年11月3日の項に「太田六郎殿 前崎落城打死、同戸張彦次郎殿討死」とあります。この年この日に、前ヶ崎城が落城し、太田六郎と戸張彦次郎が討ち死にしたということです。このときとはいつか、前ヶ崎城で何が起こったのか、太田六郎、戸張彦次郎とはいかなる人物かを調べることにしました。
本土寺山門.JPG
(本土寺の山門)
私はJR山手線西日暮里から地下鉄千代田線で北小金へ行き、北小金駅から約10分歩き、先ず、松戸市の本土寺を見学しました。この寺は今では、あじさい寺として有名です。本土寺の門前通りに黒門屋という漬物店があります。そこで漬物を買い、若おかみに前ヶ崎城址への道を尋ねると、実に要領よく手振り身振りを添えて教えてくれました。おかげで、そこから約20分歩き、迷わずに前ヶ崎城址へ着きました。
またJR常磐線の柏駅からならば、東武バスに15分も乗ると流山運転免許センターへ着きます。免許センターの前の高台が、標高20m、比高13mの前ヶ崎城址です。
前ヶ崎城の築城年と城主については、特定はし難いものの、付近の小字名に「追手橋」とか、「刑部郭」の名称があったことから、室町時代に千葉氏庶流の高城氏家臣・田島刑部少輔がいたのではないかという説があります。(東葛飾郡誌)。
城は、かつては三本の東西の谷津に達する空堀によって、大きく三郭に分かれていました。今日では、土取りと宅地化によって先端部の一郭しか残ってないものの、そこは土塁によって本郭らしい感じを保ち、中世城郭の名残りが見える貴重な史跡となっています。
前ヶ崎城址入り口.JPG
(前ヶ崎城址入り口)
主郭.JPG
(本郭址)
付近に戸張城、小金城、馬橋城等、約20カ所の城址があり、ほとんどが千葉氏庶流の高城氏の城でした。戸張城は、手賀沼の西南端部へ向けて突き出したような舌状台地上に築かれた城でした。戸張城も、築城年代や築城者について詳細は伝わっていません。「東葛飾郡誌」は、相馬系図を引用して相馬師常の三男行常が戸張八郎と称して、戸張城に在城したとも伝えています。

いくつかの太田氏系図には、太田道灌の弟として、太田資忠と太田六郎の名が記されています。また資忠と六郎を道灌の甥としているものもあります。ここでは、二人とも道灌の弟と考えます。
「太田道灌状」第20段に「(文明10年6月)同名図書助、同名六郎自両国奥三保へ差寄候処」とあります。ここに記されている六郎とは、資忠の弟六郎すなわち太田資常と思われます。そして、道灌は相模の奥三保攻略が終ってから、総州攻撃の準備をはじめました。道灌本隊の境根原攻撃に先立ち、文明10年11月3日に、太田六郎は上杉方についていた戸張彦次郎とともに、千葉氏の防衛ラインの一角であった前ヶ崎城への攻撃を開始したと推測されます。しかしそのとき、太田六郎軍は千葉氏方諸城からの猛攻撃に会って敗れ、二人は討ち死にしたものと思われます。前ヶ崎城は本土寺の近傍にあるので「本土寺過去帳」の前ヶ崎城落城に関する記事の信憑性は、極めて高いというべきです。

「太田道灌状」第22段に「(文明10年)十二月十日於下総境根原令合戦得勝利、翌年(文明11年)向臼井城被寄陣候」とあります。太田道灌の本隊は、前ヶ崎城の合戦から約一月後に、数キロ離れた境根原で千葉軍を打ち破り、臼井城へ追って約半年も包囲して落城させたものの、そこでは太田資忠が討ち死にしました。
同段後半に「於臼井城下、同名図書助並中納言以下親類傍輩被官人等数輩致討死候」とあります。この記述の中の「親類」とは、太田六郎を指していると思われます。この戦の後の文書に、太田六郎(資常)が登場しないことを考えると、六郎はやはり文明10年に前ヶ崎城で討ち死にしたと考えられます。道灌は、総州の戦で二人の弟を含む、多くの味方を失うという大きな犠牲を伴って勝利を得ました。

松戸市、柏市、流山市の境あたりは、一見平坦と思えるけれども、歩き回ってみると城山に適するような小山がたくさんあることに驚かされます。千葉氏はその地域の20余カ所に城を築き、上杉方とりわけ太田氏の江戸城に対する防衛ラインとしていました。道灌は、六郎の討ち死により、このラインを突破することがむずかしいと考えて翌月に、それより南側の江戸川に船橋をかけるという奇策で、国府台に攻め込んだのです。けだし、上杉氏・太田道灌33連戦の中で、道灌が最も苦戦をし、最も多くの犠牲をだしたのはやはり、千葉氏との激戦であったというべきです。
本土寺:千葉県松戸市平賀63
前ヶ崎城址公園:千葉県流山市前ヶ崎字奥の台
戸張城址:千葉県柏市戸張字城山台
posted by 道灌紀行 at 15:18| Comment(0) | 前ヶ崎城と太田六郎