釜伏峠を越える道は、江戸時代に忍(おし)藩が整備したメインロードであるので、今回私たちは、釜伏峠と荒川南岸の間の風布(風夫)にあった中世の隠れ道・風夫道(ふっぷみち)を踏査しました。寒気が去って木の芽吹きがはじまったばかりで、まだ峠の見通しがきく3月末に仲間と出かけました。
(雉が岡城址・本庄市児玉)
『太田道灌状』第25段には「その後景春の飯塚陣へ夜懸け致すべく儀定まり候処、その夜其の儘秩父へ退散せしめ候」とあります。文明12年正月、長尾景春は児玉(雉が岡城)で蜂起し、児玉・皆野ルートで秩父へ入りました。
『太田道灌状』第26段には「国中御安泰となり秩父へ御発進候処、古河様御変改」とあります。一方の太田道灌は、関東管領上杉顕定とともに長尾景春を追って峠を越えて秩父の大森御陣に入りました。上杉軍と道灌軍の秩父入りしたルートとして、釜伏峠越えの道や風夫道が考えられます。当時、荒川南岸沿いの道は波久礼(はぐれ)の難所と称される断崖で、渇水期に辛うじて人が通る程度でありました。
秩父市の郷土史家山中雅文氏が依拠する井上文書(1568年)には「小屋の儀は、金尾、風夫、鉢形、西乃入相定め候」とあります。これらの地名の場所には、鉢形城主北条氏邦が支配する見張り小屋があったという意味です。そしてそのことは、この場所に鉢形、皆野間の往還道があったということでもあります。今回私たちは、風布地域の大鉢形(おおはちがた)と阿弥陀が谷(あみだがやつ)を通る古道・風夫道をたどりました。
鉢形城を車で出発し、日本百名水のひとつ日本水(やまとみず)を経由して塞神峠(さいのかみとうげ)へきました。GPSで測ると標高480mでした。

(塞神峠)

(「風布と秩父困民党」環境省の説明板)
風布は秩父困民党事件の発祥の地であったため「風布と秩父困民党」と題する環境省の説明板がありました。明治初年この地域には多数の養蚕農家があったものの、生糸の暴落で生活が困窮し、1885年(明治18年)10月31日、80戸180人の「風布組」がこの地から決起しました。
塞神峠に車を置き、そこからは山中氏の先導で山道に入りました。枯葉に覆われた道を15分も下ると大鉢形という集落にきました。峠の寒さが嘘のように感ずる温暖な小盆地で、隠れ家のような民家があり、山桜が満開でした。

(山桜にかこまれた民家)

(桜源郷のような小盆地)
大鉢形から道路をすこし歩くと、阿弥陀が谷という集落へきます。かつては20数軒あったものの今は数軒の集落で空き家が目につきます。この辺りの路傍には、土を固めて造った、小振りの炭焼き釜がたくさん残っています。また念仏堂と称する小堂があり、説明板には「回り念仏」という珍しい風習があったと記されています。

(路傍の炭焼き釜)

(「風布の回り念仏」環境省の説明板)
阿弥陀が谷から空峠へ上ると馬頭尊の碑がありました。かつてはこの峠道を馬が通っていた証拠です。峠の斜面の道は、しっかり馬蹄で踏み固められている所と倒木で朽ちかけているところがあります。朽ちかけた道を下り街道に出て次はハギノソリ峠へ登りました。

(馬頭尊の碑)

(馬蹄で踏み固められた峠の古道)
私たちがハギノソリ峠で休んでいると、初老の農民が鎌(イノシシ用か)をかついでふらりと現れました。そして「迎えにきたよ。尾根道を左へ行けば千馬山城だよ。子供のころはこの峠を毎日越えて、学校に通っていたよ」と語りました。私は、偶然出会った農民が冗談を言っていると思いましたが、実は山中氏があらかじめ頼んでおいた案内人でした。

(古い道標)

(倒木で朽ちかけた古道)
そこからは案内人の先導で、峠の斜面の落ち葉の中を下って根小屋といわれている集落まできました。私たちの別の車を置いてもらっている民家の前へくると、道で遊んでいた小さな女の子(孫か)が走ってきて、案内人の初老の男に抱きついてきました。男は歩みを止めて、かすかに微笑みました。
1480年(文明12年)の上杉軍の秩父入りはこのルートによる可能性があります。なぜなら当時関東管領上杉顕定は鉢形城に在城し、『太田道灌状』に記されている「田野陣衆」とはこの近くの下田野という所の農兵であったとも思われるからです。
この日私たちが歩いた距離はわずか一万歩であったものの、峠を三つも越え、二度も道に迷い、民俗学的に面白い集落を通ったので、現代の秘境を旅したような不思議な気分になりました。
*「ハギノソリ峠」の「ソリ」とは、『地名の研究』(柳田国男)によると、焼き畑農地という意味です。熊倉城(秩父市)下に「ヤトウソリ」という所があります。熊倉城近くの「高差山(タカサスヤマ)」の「サス」も同様の意味です。