2024年06月16日

《『太田道灌状』を読み解く・補遺》 太田道灌「非業の最期」の真相

               
 歴史家の色川大吉先生の「歴史の真実は歴史の現場にある」という教えに従い、約250か所の道灌史跡、関連地を訪れて『道灌紀行』を書き、20年余り経ちました。『道灌紀行』の最終地は伊勢原で、そこでの論点はやはり「道灌非業(ひごう)の最期」となります。それが太田道灌の生涯の最大の謎です。
そして「太田道灌状」には、道灌遭難にいたる伏線が、随所に秘し沈められています。

*「非業の最期」とは、業(カルマの法則、因果の理法)に非ざる最期という意味です。karma=Sanskrit,act, Buddhism,Hinduism.

1.最初に結論
「報復の連鎖」と「都鄙の和睦」
 関東で「享徳の乱」が1454年(享徳3年)から28年間、利根川を挟んでつづきました。その間太田道灌とその父道真は、古河公方足利成氏と関東管領上杉顕定との間の宿命的な「報復の連鎖」を止めようとして、「都鄙の和睦(とひのわぼく)」を推進しました。「都」とは京都方すなわち室町幕府と両上杉氏、「鄙」とは関東方すなわち古河公方と関東八家等です。

 1478年(文明10年)1月4日、豪雪による広馬場の相引で「都鄙御合体の和議」が実現しました。この和議では、古河公方足利成氏の朝敵赦免と将軍、公方、管領の関東新秩序、千葉宗家の復権などを推進するという申し合わせがなされたと推測されます。その後道灌はその新体制実現に向かい尽力しました。

 しかし一方、両上杉氏(顕定、定正)は、和議後も古河公方への報復の思い断ちがたく、新秩序を推進する太田道灌との間でわだかまりが生まれてきました。
 なぜならば顕定の先代房顕は五十子(いかっこ)(本庄市)で陣没し、そのまた先代の憲忠は鎌倉西御門(にしみかど)で足利成氏に謀殺されて「享徳の乱」が始まりました。(康富記)
 また定正の先代政真は五十子陣で戦死し、そのまた先代の顕房は分倍河原(ぶばいがわら)の合戦で古河公方軍に敗れて自害しました。

五十子陣城説明板.jpg
五十子陣跡の説明板
 近年五十子陣跡に本庄市教育委員会の説明板ができ、その最後に「関東は機内に発生した「応仁の乱」にさきがけて戦国動乱に突入しました」と記されています。

 1482年(文明14年)古河公方の願望と越後守護上杉房定の注進で、将軍足利義政が御内書を発して「都鄙の和睦」が正式に実現し、関東に和平が回復しました。義政が将軍直属の関東管領上杉顕定を無視して、越後守護上杉房定に御内書を発したことは、意味深長です。義政は、顕定が「都鄙の和睦」に後ろ向きであることを熟知していたというべきです。

太田道真・道灌の真意(国ものどけきに)
 太田道真は1470年(文明2年)に宗祇や心敬等とともに『河越千句』で百韻を10回行いました。『河越千句』の中で道真は「あらそえることなく国ものどけきに」と詠み、鎌田満助が「あつま都もおさまれるはる」とつづけました。それが道真・道灌の願望でした。
 したがってふたりは、「享徳の乱」の最中にも「都鄙の和睦」による「関東御無為」すなわち関東がのどけき国になることを望んでいました。それはまた『太田道灌状』の中の「古河様、公方様」という尊敬的表現にも表れています。
 太田道真の連歌数寄は相当の域で、後年宗祇・兼載が撰んだ「新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)」に二句入集しました。
23-4 河越城富士見櫓.JPG
 河越城富士見櫓
    
 1485年(文明17年)秋に道灌は、詩友万里集九を江戸城に招き、上杉定正とともに歓迎宴を開きました。(梅花無尽蔵)このとき太田道灌と上杉定正は親密さを維持していました。しかしそれは、かりそめの小康でした。

太田資康の古河城出仕
 1485年(文明17年)12月25日、太田道灌の嫡男資康は元服してまもなく、古河城の古河公方の許へ出仕しました。(赤城神社年代記録)おそらく道灌は、関東方と京都方との間の「報復の連鎖」の残滓(ざんし)を消すため、和睦の証人(人質)として嫡男を古河公方の許へ送ったと思われます。このとき道灌は、資康の出仕を戦時下の緊急的作戦実行のように考え、両上杉氏の了解を十分には得ずに決断専行したかもしれません。
第15段 古河公方館跡.JPG
 古河公方館跡
 このような勝利のためまた目的達成のための決断専行は、道真・道灌の30連戦の中で時々ありました。たとえば1477年(文明9年)用土が原の戦で道灌は、自分より格上であった山内上杉家の家宰長尾忠景の反対を押し切って、次郎丸から鉢形城を攻めて長尾景春軍を誘き出し勝利しました。(『太田道灌状』第15段)
 また1478年(文明10年)の広馬場の相引は、上杉方の太田道真と古河公方方の筆頭家老梁田(やなだ)持助が主導しました。双林寺に待機していた上杉顕定は休戦協定に不満を持ちながらも、公方と約束したことだという道真に押し切られて追認した模様です。(『太田道灌状』第18段)

 「都鄙の和睦」後の文明17年になっても、上杉顕定と定正は依然として「報復の連鎖」に呪縛(じゅばく)されていました。したがって資康の古河公方出仕によって上杉氏と太田道灌の間のわだかまりは一層深まることになったのです。

上杉氏の古河公方忌避行動
 このような両上杉氏の古河公方忌避(きひ)行動は、都鄙の和睦交渉の際に度々ありました。たとえば古河公方の弟あるいは甥といわれている熊野堂(本源因守実)が内談の証人として武蔵へきたとき、上杉氏は熊野堂を全く迎えようとしませんでした。熊野堂は途方に暮れた末にやむなく突然に、江戸城へ飛び込んでくるという異常事態でありました。(『太田道灌状』第23段)

 〚太田道灌状』を見る限り、古河公方をめぐっての顕定と道灌の間には、いつもわだかまりが起こっていました。「(顕定が道灌に対して)ご疎遠の様に候か」の一句に、顕定の本心がはっきりと表われています。(『太田道灌状』第23段)

 太田道灌が「大将様」と呼んでいる関東管領上杉顕定にのみ、なぜこれほど長文の書簡を度々書いたのか、それは道灌の決断専行を事後承諾してもらうための道灌の気遣いでもあったようにも思えます。権力の多重構造の許で上杉家の統治組織は不完全であったので、現場の司令官としての太田道灌の苦労はひとしおでありました。
0 太田道灌状.JPG
『太田道灌状』(国学院本)

 「都鄙の和睦」が実現されると、戦時下では見過ごされていた、豊島氏滅亡後の広大な闕所地(けっしょち)を、太田氏が混乱の中で実効支配していたことも、両上杉氏とのわだかまりの原因になったでしょう。しかしこの種のことが、上杉氏と道灌の間での決定的な対立の原因になっていたことは、『太田道灌状』の中には見えません。それに引きかえ、古河公方が姿を見せると、上杉氏はかならず古河公方に異常な忌避反応を示しています。

上杉定正忘恩の妄動
 上杉方の古河公方に対する報復の執念は消えがたく、太田道灌の嫡男資康の古河城出仕を引き金にして、1486年(文明18年)7月26日上杉定正は古河公方の替わりに太田道灌を誘殺するという忘恩の暴挙を犯してしまいました。おそらくは、顕定が定正を使嗾(しそう)し、定正の古河公方に対する報復意欲をつよく搔き立てた結果でありましょう。

 7月26日に定正は、道灌を相州の糟屋館(現・丸山城址)の新築祝いに呼び、風呂を馳走するといって、腹心の曽我兵庫に命じて風呂場で道灌を殺害してしまいました。(太田資武状)その頃上杉顕定は、軍勢五百騎を引きつれて高見原へ出陣し定正にフェイントをかけていました。
170-1 丸山城址.JPG
丸山城址・糟屋館跡・背景は大山(伊勢原市)

 太田道真と道灌は、京都方と関東方が互いに抱えていた過去の恩讐をこえて「都鄙の和睦」による「関東御無為」を実現しようとして奔走し、ほぼその業(ぎょう)は達成されました。しかし道灌の人生は、終始順風満帆とはなりがたく、55歳を一期として、やや早くにその生涯を終えることになってしまいました。

*頻発する天災に関連して、峰岸純夫氏は『享徳の乱』(講談社)に次のように「天譴思想(てんかんしそう)」を指摘しています。「前代から引き継いだ持氏・成氏の父子二代にわたる上杉氏との対立関係と怨念、その復讐としての誅殺を合理化するものとして自然災害=天譴とする思考法の存在を考えてもよいと思う」と。
*参照 「新九郎 奔る」第14巻 ゆうきまさみ 小学館マンガ 第93話
  
両上杉氏の滅亡
 その後両上杉氏は、同士討ち(長享の乱)をはじめました。そして1494年(明応3年)10月に上杉定正は荒川で落馬して頓死しました(49歳)。また1510年(永正7年)6月には上杉顕定が、越後長森原で敗死しました(57歳)。

 さらに道灌没後60年にして、「当方滅亡」という道灌の予言のどおり、忘恩の扇谷上杉氏は1546年(天文15年)の河越の夜戦で後北条氏に敗れて完全に滅亡しました。そして同時に関東管領山内上杉氏の名跡は、上杉憲政より長尾景虎すなわち上杉謙信にわたってしまいました。歴史の底流に潜む「カルマの法則」は、その内在的論理として確かに稼働したと思われます。
1-➄-13 上杉氏碑.JPG
 平井城址・上杉一族の碑(藤岡市)

*仏法上「非業」はありえません。道灌の「非業の最期」はそのように見えただけです。おそらく道灌は、「享徳の乱」の中での30連戦で戦死した太田資忠をはじめとする多くの敵味方将兵にかかわる「業」を背負って、自らもそれを自覚していたことでありましょう。

2.京都方対関東方の具体的な「報復の連鎖」
 さて、上述の「報復の連鎖」をもたらした、京都方と関東方の争いの足跡を、現地を訪問しながらやや詳しくたどってみましょう。鎌倉で幼少時代をすごし、後に「享徳の乱」の真っただ中を駆け抜けた太田道灌は、そのすべてを見て聞いていたことでしょう。(一部は前章1.の内容と重複)

@1439年(永享11年)〔道灌8歳〕永享の乱【京都方の攻撃】
 1434年(永享6年)第4代鎌倉公方足利持氏は、室町幕府の第7代将軍足利義教を呪詛(じゅそ)するため、鶴岡八幡宮に血書願文を奉納しました。
 1439年(永享11年)、将軍足利義教が、駿河の今川範忠等に命じて、将軍職に野心を抱いた鎌倉公方足利持氏の追討を命じました。足利義教と足利持氏は二人とも、稀に見るほどの苛烈な性格の人物でした。
 2月10日、関東管領の上杉憲実は、将軍義教の厳命に抗しきれずに持氏を攻めました。持氏は鎌倉二階堂谷(にかいどうがやつ)の永安寺(ようあんじ)で、息子、娘ら7人を自らの手にかけて自害し、嫡男義久も鎌倉報国寺で自刃しました。
 永安寺址の碑文にいう「持氏時の将軍義教と隙(げき)あり、兵敗れて窮まれり」と。
 
鎌倉八幡宮.jpg
鶴岡八幡宮  
  
IMG_2732.JPG
鎌倉永安寺跡の碑   
 かくて永享の乱がはじまり、1449年までの10年間、鎌倉公方不在のまま、管領上杉憲実が、関東の実権を握りました。

➁1440年(永享12)〔道灌9歳〕 結城合戦【関東方の反撃】
 7月29日、関東八家の結城氏朝(ゆうきうじとも)が、足利持氏の遺児安王丸と春王丸とともに難攻不落の結城城に決起し、幕府・上杉連合軍と戦い翌年4月16日に結城氏は敗北しました。
結城城土塁址.JPG
結城城の土塁址(結城市)

 落城の翌日首実検に供された数は、首注文によると城主の結城氏朝はじめ長野氏、小幡氏など上州一揆の面々150でありました。安王丸と春王丸は、将軍足利義教の厳命で美濃の垂井で処刑されました。幼い万寿王丸(後の成氏)だけは不思議に命をながらえ、母方の信濃国大井氏のもとに身を隠しました。

➂1441年(嘉吉1)〔道灌10歳〕嘉吉の乱【関東方へ追い風】
 6月24日将軍足利義教が、結城合戦の祝勝会といわれ、播磨・備前・美作三国の守護赤松満祐(あかまつみつすけ)邸に招かれて、赤松の兵によりあっけなく謀殺されました。

C1449年(宝徳1)〔道灌18歳〕鎌倉府再興【関東方の復権】
 1月、足利持氏の遺児万寿王丸(成氏)が12歳で鎌倉公方となりました。長尾景仲と太田道真の主導により、関東管領には上杉憲実の嫡男憲忠が16歳で就きました。両者とも旧家臣に囲まれ、戦乱による父祖の悲劇を深くかつ重く心に刻んでいました。

D1450年(宝徳2)〔道灌19歳〕 宝徳の乱(江ノ島合戦)【京都方の攻撃】
 8月、長尾氏の氏神鎌倉権五郎神社が建つ名字の地の所有権をめぐり、長尾景仲、太田道真が軍事行動を起こし、鎌倉の腰越と由比ガ浜で足利成氏方諸将と合戦しました。成氏は江ノ島に避難し、上杉方は糟屋庄七沢へ退いて10月に和睦しました。主導した景仲と道真が隠遁することで手打ちがなされました。

第6段 景仲木像.JPG    
長尾景仲木像(双林寺) 
107-2 御霊神社.JPG
鎌倉権五郎神社・長尾氏発祥の地(横浜市)

E1454年(享徳3年)〔道灌23歳〕享徳の乱【関東方の報復】
 1454年12月27日、足利成氏が、関東管領上杉憲忠と家宰の長尾実景等を鎌倉西御門(にしみかど)の館に招いて謀殺しました。そして成氏方はその夜に、鎌倉山の山内上杉邸をも襲撃しました。結城氏朝の四男成朝が主導して、新田岩松持国の軍勢もこの夜襲に参加しました。

0 西御門邸跡 享徳の乱勃発.JPG
鎌倉西御門・享徳の乱勃発地

 このことを記した中原康富は「父房州(上杉憲実)の申し沙汰の御憤(いきどおり)か」とコメントしています。成氏の父持氏は憲忠の父憲実の沙汰(手配)により自害に追い込まれたので、成氏は憲忠に激しい報復感情をいだいていたということです。 
 享徳の乱が始まり、⒒月、12月関東に大地震がありました。

F1455年(康生1年)〔道灌24歳〕 第二次分倍河原の戦い【関東方の追撃】
 1月22日、足利成氏方の結城成朝率いる軍勢は府中分倍河原(ぶばいがわら)で扇谷上杉顯房率いる軍勢を潰走させました。成氏軍の追跡は続き、武蔵夜瀬(町田市)で包囲された顕房は24日に討ち死にしました。

分倍河原古戦場碑.JPG
府中分倍河原古戦場

G1455年(康正1年)〔道灌24歳〕御花園天皇綸旨【京都方の報復】  
 4月、足利成氏追討の「関東御退治の綸旨(りんじ)」と御旗が御花園天皇より関東管領上杉房顕に下賜され、成氏は朝敵となりました。

 6月16日、幕府軍の将今川範忠が鎌倉に足利成氏を攻めました。成氏は古河へ逃げて古河公方となりました。以後28年間、享徳の乱が繰り広げられました。報復の連鎖は増大し、最大級にまで達したというべきです。
第15段 古河城本丸跡.JPG 
古河城本丸跡・渡良瀬川の河畔

1456年(康生2年)大ほうき星、ハレー彗星が出現し、政情不安の要因となり、世に「天譴(てんけん)(天の裁き)思想」がわいて、京都方と関東方は互いに報復の正当性を確信しました。

H1471年(文明3年)〜1472年(文明4年)〔道灌40歳〜41歳〕館林城合戦、古河城奪還【京都方の攻撃、関東方の反撃】
 5月、太田道灌は、妙義神社で戦勝祈願をしました。太田道灌、資忠兄弟、長尾景信、景春親子等が赤井氏の館林城を攻め、次いで古河城の足利成氏を攻めました。6月下旬に成氏は千葉孝胤を頼り本佐倉城へ逃げました。このとき太田道灌と長尾景春は戦友でした。
本佐倉城址.JPG
本佐倉城址・土塁と堀
  
 翌年、結城氏広等の奮戦で足利成氏が反撃し、古河城を奪還し五十子陣に攻めてきました。
I1482年(文明14年)〔道灌51歳〕「都鄙の和睦」「享徳の乱」終結【関東方の復権】
 11月27日、実権をもっていた大御所足利義政が、越後守護上杉房定の注進と足利成氏の願望に応じて御内書を発し、「都鄙の和睦」が進展しました。室町将軍足利義尚と古河公方足利成氏との和睦が成立し、堀越公方には伊豆一国が安堵され、京都方と関東方の「報復の連鎖」は解けたかに見えました。(喜連川文書)
0 江戸城の乾濠.JPG 
江戸城乾濠
0 富士見櫓.JPG
富士見櫓(静勝軒に似ている)
 太田道灌には久しぶりに、江戸城静勝軒で流浪の漢詩人万里集九を上杉定正とともに迎え、隅田川で歌会をもつなどの余裕ができました、しかし、それも長くは続きませんでした。

J1486年(文明18年)【道灌55歳】道灌非業の最期【京都方の報復と自滅の因】  
 7月27日、太田道灌は上杉定正により、相州糟屋館に招かれて風呂場で謀刹されました。両上杉氏は、「都鄙の和睦」後も、古河公方に対して報復意欲を持ちつづけていたので、嫡男を古河公方に出仕させた太田道灌を、問答無用で報復の対象としました。定正の家臣曽我兵庫が風呂場で道灌を討ちました。太田道灌は、今は限りの時に「当方滅亡」と叫んだと伝えられています。(太田資武状)
5-1-1.jpg  
七人塚の碑(伊勢原市)
 その日道灌はわずか9人の従者を連れて、定正に諸事の真意をつたえるために伊勢原に来ました。9人のうち7人は上杉の兵と戦って腹を切り、2人はこの事実を後世に伝えるため脱出したと伝えられています。その二人の子孫二人の山口氏は今も、伊勢原の洞昌院の近くの7人塚の前に住み、道灌と従者の墓守をしています。

3.上杉定正消息(なりすまし書)の偽説
 太田道灌の非業の最期の原因については、古来種々の傍証が語られてきました。よく引かれる説は、「道灌が城を堅固にして下剋上を起こそうとしたので、道灌を誅罰した」という上杉定正の言説です。その出所は、筆者不明のなりすまし書『上杉定正消息』の第32段にあります。
 左伝を引用するこの説は、傍証と推断による極めて陳腐な説です。『太田道灌状』には、江戸城、河越城の堅塁を語っている部分は全くありません。「都鄙の和睦」後は、道灌が城を堅固にするための客観的必要性はさらに減じ、そのようなことを記した当時の文書もありません。
一方『上杉定正消息』の随所に、家臣が主君のことを記したような尊敬語による表現があり、これはやはり、定正の側近が、主君弁護のために書いたなりすまし書と思われます。その言々句々はすべてでっち上げで「嘘は大きければ大きいほど効用がある、その一パーセントでも信じられれば儲けものである」という思想で書かれた偽説です。
読み下し文
 諸人の批判、今度の一乱は身上より事起り候間、治乱の沙汰おかしき様に存ずる族(やから)之あるべく候、覚悟の前に候。但し太田道灌堅固之堅塁をなし山内へ不儀となるべく企て候間度々専使を以て折檻(せっかん)を加えるごとき(なれ)ば、這般(はいはん)(背反)の事は存知たるべく候処、誤り如何。左伝に云く、都城百(ひゃく)雉(ち)に過ぎれば国の害なり。江・川之両城堅固に候とも、山内へ不儀連り続き候ばはたして叶うべからずの由申し付け候の処、承引に及ばず。剰え謀乱を思い立ち候間誅(ちゅう)罰(ばっ)せしめ、即鉢形へ注進畢(おわ)んぬ。顕定は合力のため、高見に至り軍旗を揚られ候間忝(かたじけな)く存じ候処。(『上杉定正消息』第32段)
現代語訳
 諸人の批判があります。今度の(太田道灌謀殺)一乱は(道灌の)一身上より事が起ったので、治乱のやり方はおかしい様に考える者もあるでしょう、覚悟のうえです。但し、太田道灌が堅固に城を堅塁となし山内へ不義となるような企てをしないように度々専使をもって叱責を加えたので、(道灌)背反の事は(道灌が)存知であったと考えますが、(私に)誤りがあるでしょうか。左伝に云う「都城百(ひゃく)雉(ち)に過ぎれば国の害なり」と。江戸、河越の両城は堅固であっても、山内への不義が連り続けば、はたして(忠義が)叶うのか、叶わないと申し付けましたところ、(道灌は)承引しませんでした。そのうえ(道灌は)謀乱を思い立ちましたので誅(ちゅう)罰(ばっ)して、すぐに鉢形(城の顕定)へ注進しました。顕定は合力のため、高見原に至り軍旗を揚げられましたのでありがたく思いました。

5.太田資武状
 太田道灌の曽孫太田資正は勇猛果敢の知将で、武州松山城での「三楽犬の入れ替え」は面白い作戦です。岩槻城での、長男氏資のクーデターにより、資正は常陸の交野(かたの)城(じょう)に追われました。資正の五男資武が、父から聞いた太田道灌の最期について『太田資武状』(第2の書状)に次のように書いています。
読み下し文
 道灌は天明(文明)十八年丙午(ひのえうま)七月二十六日五十五歳にて遠行の由、慥(たし)かに聞き為されしの段仰せ越され、拙者右申し進じ候もその通りに御座候。
さて又死去の正説は、風呂屋にて風呂の小口まで出られ候時、曽我兵庫と申す者太刀を付け、切られ到(倒)れなから「当方滅亡」と、最後の一言、その時代には都鄙をもって隠れなき由、親度々物語仕り候、かの曽我兵庫は道真の重恩を蒙り為す者にて御座候へとも管領よりの貴命拠(よ)んどころ無き故か、右の仕合に候。
道灌一言の如く、扇谷御家も時刻なく相い果て、河越も北条之手に属すと(資正は)申し候、この物かたり少々詞も述べ難く長き事にて御座候間、存ずる通りには申されず候事。(『太田資武状』第2の書状第5段)
 現代語訳
 道灌は文明十八年丙午七月二十六日五十五歳にて死去したと、確かにお聞ききになられたと仰せられ(ましたが)、拙者が次に申しあげる事もその通りでございます。
さてまた死去の正説は、(道灌が)風呂屋にて風呂の小口まで出られた時、曽我兵庫と申す者が太刀を付け、(道灌は)切られ倒れなから「当方滅亡」と最後の一言、その時代には都鄙中で隠れもない事であったと、親が度々物語ってくれました。あの曽我兵庫は道真の重恩を蒙った者でありましたが管領よりの貴命には逆らえない故か、申し上げたようになりました。
道灌の一言の如く、扇谷御家も間なく滅亡して、河越城も北条の手に落ちました。この一部始終は少々の言葉では述べ難く長い事でございますので、知っていること全ては申し上げられません。 

 道灌の最期については、諸説があるものの、道灌没後の二七日(ふたなのか)忌に捧げられた万里集九の祭文の中に「太田二千石公(領主)春苑道灌は、相陽糟谷の府第(役所)匠作君(上杉定正)の幕に入り、にわかに白刃の厄にかかる」(梅花無尽蔵)という一節があるので、「太田資武状」の記述が事実であると思われます。

主な参考文献
峰岸純夫著「享徳の乱」講談社
山田邦明著「享徳の乱と太田道灌」吉川弘文館
黒田基樹「扇谷上杉氏と太田道灌」岩田書院
木下聡「山内上杉氏と扇谷上杉氏」吉川弘文館
小川剛生「武士はなぜ歌を詠むか」角川学芸出版
尾ア孝著「『太田道灌状』を読み解く」宮帯出版社
(完・尾ア孝)