2010年01月10日

道灌本隊の甲州への道と開光院

ひょんなことから、東京都あきる野市五日市に太田道灌ゆかりの寺があると聞いたので、冬の晴れた日に車を飛ばして訪ねてみました。JR五日市線の終点五日市駅から檜原街道へ入ってすぐ右側に都立五日市高校があります。その背後の丘陵地域に、臨済宗建長寺派の幽遠山開光院があります。由緒ありげな山門と本堂の屋根には、太田家と同じ細桔梗の寺紋があり、早速胸騒ぎがしてきました。山門の横にあきる野市教育委員会の説明板があり、この寺が1448年(文安5年)の開創であり、あきる野市指定文化財であると記されています。
本堂へ入ると住職がいましたので太田道灌のことを尋ねました。住職は心安く対応してくれ、私が詳しく質問すると、奥の方から秘蔵の住職手製の太田道灌覚書帳を持ってきて見せてくれました。それには次のように記されています。
「開光院に伝わる慶安5年5月の文書によると、開創間もない頃太田道灌公が、この地で取り合いがあったとき開光院に滞在し、ご運が開けたご褒美に寺領十六石の寄進を取り計らい、そのため寺では道灌公の位牌を立て置き、朝夕茶湯を献じてきたとある。今も寺では、道灌公の位牌をまつっている」

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(開光院の山門)
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(本堂の屋根に太田細桔梗の寺紋)         
 
この地は、「太田道灌状」に記されているあきる野市二宮から約3キロも離れた山裾の小高い所です。「道灌は一体何のためにここへ来たのですか」と私は聞きました。住職は「多分檜原を通って峠を越え、上野原へ行ったのでしょう」と言いながらも「寺の文書は江戸時代のものですから」と自信なさそうでした。私は逆に、これは何か曰く因縁があるのではないかと心に引っかかってきました。

私は家に帰ってから「太田道灌状」を舐めるようにして読み、地図を見ながら考えると、重大なことに思い至ったのです。それは、1478年(文明10年)太田道灌が長尾景春の与党を掃討するため、村山の陣から甲州へ向かったとき、道灌の本隊がほんとうに開光院で戦勝祈願(休憩)をし、檜原街道を通って人里(へんぼり)のあたりから峠を一つ(今は武甲トンネル)越えて上野原へ入ったのではないかということです。その理由は三つあります。
(1)「太田道灌状」によると、1478年(文明10年)6月、道灌の本隊は村山の陣(武蔵村山市)に留まり、大田資忠、六郎等の先遣隊が奥(おくの)三保(さんほ)(神奈川県津久井方面)で長尾景春与党の本間氏、海老名氏、加藤氏等を打ち破りました。続いて次のように記されています。
「夜中村山の陣へ告げ来たり候間、未明に罷り立ち、同16日甲州境を越え、加藤の要害へ差し寄せ打ち散らし、鶴河の所を始めとして放火せしめ候間、其の儘甲州東西静謐仕り候」
「太田道灌状」に「甲州境を越え」とあるからには、道灌の本隊は檜原から峠を越えて上野原へ向かったに違いありません。峠を越えるとすぐ加藤氏の本拠地上野原城が桂川の岸壁の上にあり、近くに鶴河宿もあります。奥三保ルート(八王子、津久井経由相模川沿い)では、敢えて越えるような峠も山もありません。
(2)道灌軍が16日未明に村山を出発してその日のうちに上野原の鶴河を攻撃したとすると、奥三保ルートではいかに健脚の足軽隊でも距離が遠すぎます。私はかつて両ルートとも車で走ったことがありますが、檜原ルートは約50キロと思われ、奥三保ルートの約三分の二の距離です。
(3)苦林(にがばやし)の戦でもその後の総州攻略でも、道灌と資忠とは本隊、別動隊となることがよくありました。両方向から加藤氏要害を攻めることは、道灌の作戦上考えられることであります。
以上のような理由で私は、道灌の本隊は、村山から秋川沿いに五日市へ至り、中間地点の開光院で休憩をとり、檜原街道に入って峠越えをしたと推定いたします。五日市辺りの人は今も、上野原をすぐ隣村のような言い方をします。檜原から上野原への峠道は、当時の幹線道路であったと思います。

開光院の住職の道灌覚書帳には11か所7種類の道灌の戒名が記されてありました。戒名は、それぞれの寺の住職が思いを込めて作るものなので、七種類有っても特段の歴史的意味があることではない、と住職は語っていました。一番驚いているのは、生涯に鶴千代・資長・持資・道灌と名前を変え、没後に7種類も名前をつけられた道灌自身だと思います。これも道灌の人気のなせることであります。7種類の戒名は次の通りです。
@大慈寺殿心園道灌大居士 (あきる野市開光院・伊勢原市大慈寺
 三島市妙法華寺・太田三楽斎家系図) 
A春苑道灌禅定門 (梅花無尽蔵)
B春苑静勝居士 (本国寺年譜)
C香月院殿春苑静勝道灌大居士 (東京都北区静勝寺)
D蓮乗院殿道灌日恩大居士 (東京都墨田区法恩寺)
E洞昌院殿道灌大居士 (伊勢原市洞昌院)
F香月院殿春苑道灌大居士 (さいたま市芳林寺・川島町養竹院)
私の知るところでは、鎌倉市の太田道灌出生地と言われる英勝寺の奥山にある供養墓に「太田道灌斎大居士」と彫ってあります。これをカウントすると、道灌の戒名は8種類ということになると思います。

私が開光院を訪れた日が五の日であったので、五日市駅近くの広場で、文字通り五日市ふるもの市が開催されていました。近在の旧家に伝わった陶器や道具などがたくさん並べられていましたが、骨董に目が利かない私には残念なことでありました。
開光院=東京都あきる野市五日市691
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2010年02月05日

道灌有縁の社寺(続き)

私は「道灌紀行」(平成21年10月発刊)で、道灌ゆかりの社寺について書きました。最近、先に記したあきる野市の開光院の他に、さらに二か所の道灌有縁の社寺がわかったので訪問しました。誠に、「道灌紀行は限りなく」であります。

(1)渓照山光岳寺・太田道灌稲荷
国道20号線(甲州街道)で調布市に入り、東京電気通信大学の交差点を北へ曲がると富士見町の石原小学校があり、そのすぐ近くに浄土宗の渓照山光岳寺があります。山門を入るとすぐ右側に太田道灌稲荷が祀られています。このいわれを住職から詳しく聞きました。
この寺は、徳川家康の母であった於大の方の法名に由来する旗本寺で、寺紋は葵紋です。当初小石川(東京都文京区)にあり、明治初年、先々代の住職の頃、近くの一口坂(いもあらいざか)(神田駿河台)にあった一口稲荷(いもあらいいなり)が、さびれていたので引き取ったということです。当時は、神仏習合の時代だったので気にもしなかたそうです。
その後、この寺は寺域が狭くなったので昭和9年に調布の飛田給に移転し、さらに先の大戦の最中昭和19年に、陸軍の調布飛行場拡大のため現在地に移転したそうです。その都度、道灌稲荷も一緒に移転したそうです。

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(光岳寺の太田道灌稲荷)

太田道灌の娘が天然痘に罹ったとき、京都の山城の国一口稲荷(いもあらいいなり)に人を遣わして祈って全快したそうです。1457年(長禄元年)、道灌の枕元に白狐が現れて「われ城の鬼門を守るべし」と言ったので、道灌はこの神を江戸城の鬼門(北東)に祀ったということです。この一口稲荷は、江戸城の東北地域を3回遷座しました。1590年(天正18年)に家康入城で神田錦町へ、1606年(慶長11年)に江戸城拡張で神田の聖橋の袂へ、そして1931年(昭和6年)に総武線建設で現在地の神田駿河台へ移転しました。
1866年(慶応2年)大火により御神体を除き社殿を全焼し、1872年(明治5年)に太田姫稲荷神社と改称し、大正12年には震災で類焼しました。
一口坂(ひとくちざか・いもあらいざか)は各地にありますが、聖橋の袂の坂も一口稲荷に因み、一口坂(いもあらいざか)と呼ばれていました。

以上の史実と先の光岳寺の住職の話を照らし合わせて推測すると、明治初年、火災で焼けた一口稲荷の社殿がまだ復興しないときに、稲荷が小石川の光岳寺の寺域にいうなれば仮住まいをし、そのまま調布の飛田給に分社・移転して太田道灌稲荷と改称したのではないかと思います。光岳寺の住職が先々代(祖父)から聞かされていた「一口坂(いもあらいざか)の稲荷」という一言がキーワードになります。一方神田では、その後本社が社殿を復興し、「太田姫稲荷神社」と改称し、さらに現在地に移転したのだと思います。
一口(いもあらい)は「穢(え)もあらい」とよみ疱瘡快癒に通じ、太田姫は一口稲荷のご神体である「太田姫の命(みこと)」の意味ではあるけれども、一般民衆は道灌の娘の意味に受け取って親しんだのかもしれません。
光岳寺=東京都調布市富士見町1-36‐2

 (2)鷲嶽山大円寺・道灌愛用の茶釜
東武野田線の七里駅から徒歩5分で、曹洞宗の鷲嶽山大円寺に来ます。大円寺は、1525年(大永5年)岩槻城主太田資高の夫人・陽光院が開基となり創建されました。この寺には、太田道灌が茶の湯で愛用したという「古天明霰釜(こてんみょうあられがま)」があります。寄贈者は陽光院です。天明は現在の栃木県佐野市あたりの地名で、茶の湯釜の生産地として「西の芦屋、東の天明」と言われました。

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(道灌が愛用した古天明霰釜の説明板)

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(大円寺本堂)

陽光院は、この寺に参詣すると「古天明霰釜」で茶をたて、道灌の位牌に供えたということです。この霰釜は、通常は観覧できません。
大円寺の「古天明霰釜」は大宮市指定文化財工芸品です。(大宮市は現在さいたま市に属しますが、説明板の通り記します)
大円寺=埼玉県さいたま市見沼区風渡野335
 
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2010年03月06日

扇谷上杉定正の最期を追う

1486年(文明16年)7月26日、上杉定正は太田道灌を相模国の糟屋館に招き謀殺しました。時に道灌55歳、今はの際に道灌は「当方滅亡」と叫んだということです。理不尽な道灌謀殺により、道灌の子資康をはじめ多くの家臣・重臣が扇谷上杉家を離反し、山内上杉家へつきました。
両上杉家の緊張は高まりついに1488年(長享2年、)戦端が開かれました。(長享の乱) 定正は道灌の軍師であった斎藤加賀守安元を重用して実蒔原(伊勢原市)の戦い、菅谷原(嵐山町)の戦い、高見原(寄居町)の戦いで優位を保ち続けました。
1494年(明応3年)10月、定正は北条早雲の援軍を得て意気揚々と4度目の高見原の戦に出陣し、山内上杉顕定と対戦しました。定正は、荒川を渡河しようとして落馬し、濁流に流されて死去しました。道灌没後8年、時に定正は49歳あるいは52歳ともいわれています。

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(荒川の川越岩)

小田急線の伊勢原駅から七沢方面へ車を15分も走らせて伊勢原市と厚木市の境目のあたりに来ると、実蒔原古戦場があり、大山がよい具合に見えます。厚木よりの民家の近くに古戦場碑と伊勢原市教育委員会の説明板があります。そこから県道64号線を車で5分も走ると、小高い所に上杉定正の居城であった七沢城址があります。城址の高台全体に今、七沢リハビリ病院が建っていて構内に七沢城址の碑があります。
城址を降りて、また坂道を少し登ると、臨済宗の吉祥山徳雲寺があり、隣接する墓地に上杉定正夫妻の五輪塔があります。
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(七沢城址)
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(上杉定正の墓)

実蒔原古戦場=神奈川県厚木市七沢
高見原古戦場(推定)=埼玉県寄居町今市
菅谷原古戦場=埼玉県嵐山町大字菅谷
七沢城址=神奈川県厚木市七沢
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2010年05月08日

忍(おし)城址、成田陣

JR山の手線の池袋から湘南新宿ラインで熊谷まで来て、秩父鉄道に乗り換えます。熊谷から二つ目で行田市駅へ来ます。駅前は人も車もまばらで、商店街も見立たず、かつては「行田のたび」で世に知られたこの町の経済不況が感ぜられます。駅前から125号線へ出て右へ曲がり、道の両側に飾ってある面白い金属製の童(わらべ)人形を見ながら10分も歩くと市役所へ来ます。市役所の庭園を歩いて城址に近づくと三層櫓が見え、冠木門をくぐると忍(おし)城址の堀へ来ます。この城は、周囲が水に囲まれて浮き城とよばれたそうです。かつての本丸跡には今、郷土博物館が建っています。
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(忍城址の三層櫓)
騎西郡成田郷を本拠地とするろ国人領主成田氏は元々、忍城から約4キロの成田陣跡(熊谷市上之堀之内)に舘を構えていました。文明11年ごろ成田顕泰は忍城の忍大丞を追って忍城に入りました。その後約100年間成田氏がこの城を中心に近隣を支配しました。この城地はちょうど利根川と荒川に挟まれた中間の位置にあったので、古河公方方の上杉方に対する前線基地であったことが一目瞭然です。
「太田道灌状」には、度々成田陣、忍城という言葉が出てきます。
「(文明10年3月、長尾景春が小机城に後詰しようとしたが、上杉軍に攻められて)千葉介・景春一戦におよばず退散せしめ、成田陣へ逃げ参り候」
「(文明10年7月、道灌が上杉顕定の着陣を待って)然る間、修理太夫(上杉定正)は森腰に取り陣、道灌は其のまま成田に張り陣」
「(文明11年12月、道灌が長井城攻略に向かったとき)忍城雑説の由粗あら申し来たり候間、不慮の落度候てはいよいよ難儀たるべき旨存じ、翌日29日久下(熊谷市)へ陣を寄せ、成田下総守に力をつけさせ候間、彼の城無為に候」
長尾景春も対立する太田道灌も成田陣へ入城しています。それは、成田氏が最初上杉方につき、長尾景春の乱のあとには景春方につき、さらに上杉方に寝返ったけれども、雑説(ぞうせつ)(謀反の噂)が立つなどその政治的また軍事的去就が常に不安定であったからです。
再建された三層櫓の展望室に上がって周囲を見渡すと、四方は見渡す限り畑作地帯で、山も川も見えません。しかし往時は、周囲が湿地帯で難攻不落の水城でした。成田氏が古河公方・景春方に与したり上杉氏に従ったりしたことは、忍城の武人たちが特に変節漢であったとか恩知らずであったとかいうことではなく、この地理的条件ではお家と領民安泰のためやむをえない選択であっただろうと推察されます。
行田市から電車でちょっと移動すると羽生市へ来ます。周辺には五十子や騎西など「太田道灌状」にでてくる地名が多く、このあたりへ来ると古河公方方と上杉方が領地を奪い合って激しく動き回ったことを追体験することができます。
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(行田市の童人形)
成田氏のように去就を変えた国人衆に対して、道灌は柔軟に対応しました。「太田道灌状」の冒頭部分で道灌は、大串弥七郎や毛呂三河守など最初反上杉であったけれども後に上杉方に帰服している国人衆の所領安堵のことを、上杉氏に懇願しています。太田道灌は、諸勢力が入り混じった上野や北武蔵では、一度は敵対しても降参した国人衆を所領安堵して召し抱え、勢力を拡大していったのでした。それに対して、上杉氏は、そのような道灌のやり方に好感をもっていなかったことが読み取れます。つまり太田道灌は柔軟な現実主義者であり、反対に上杉氏はかたくなな観念論者であったといえます。この両者の考え方の違いもまた、後の悲劇につながる伏線になったと思われます。
現代的に言えば、筆頭重役太田道灌は、競業する同業他社が倒産した場合、その相手方の有能な社員を積極的に取り込んで業績を拡大したけれども、創業家の社長上杉氏は純血主義にこだわりそのことを嫌がったのでした。
忍城址=埼玉県行田市本丸17-23
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2010年06月01日

平井城址・平井詰(金山)城址・山内上杉家の本城

東京から埼玉県の真ん中を横切るようにして、関越道あるいは一般道で約100キロも走ると埼玉県本庄市につきます。本庄市の国道17号線沿いに五十子(いかっこ)城址があり、そこから西へ約15キロ移動すると、群馬県藤岡市の西平井という上州の山裾につきます。金井という集落に山内上杉氏の本城であった平井城址とその詰め城であった金井城址があります。この両城は、永享の頃に関東管領上杉憲実の命を受けた、長尾忠房の縄張りで築城された見事な山城であり、現在藤岡市や地元の保存会が整備しています。
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(平井城址)
平井城址の土塁には林立する関東管領の旗が威勢よくはためいているものの、城址の真ん中の私有地にはなぜか豚小屋があります。
平井城址から500メートルほど離れた所に平井詰(金井)城址があります。この城山の上り口から本丸まで1000メートルあり、防衛のための急坂や堀切が随所にあるので高齢者は注意をしなければなりません。

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(金山城址登山口)
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(金山城址概念図)
この城は関東平野の北の端に位置しているので、五十子へ出陣するには好都合であったけれども、上杉氏が関東管領として関八州に睨みを利かすには適当ではなかったと思われます。太田道灌がこの城に来た記録は見えませんが、多分来たことがあると思います。なぜなら、道灌は、上杉顕定が関東管領として采配をふるうために平井城ではなく鉢形城へ入るよういろいろ気をつかったことが太田道灌状に見えるからです。この城は太田道灌と直接の関係はないけれども、上杉顕定の動きを理解するためには見ておく必要があるので訪れました。

両上杉氏は道灌謀殺後、同族同士の抗争を続けて勢力を消耗し続けました。時は流れて1546年(天文15年)、小田原を拠点にして北関東へ進出を図る後北条氏は、夜陰にまぎれて上杉氏の川越城を攻め落しました。この夜戦で足利晴氏は古河城(古河市)へ敗走し、山内上杉憲政は平井城へ落ち、扇谷上杉朝定(定正から4代目)は22才で討ち死し、川越城、岩槻城も後北条方に帰して上杉領は消滅しました。
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(本丸と下の避難小屋)
平井詰(金山)城址は中世の山城としてみごとな縄張りです。急峻な稜線を利用して帯郭、物見台、井戸郭などを持っているところは、北条氏照の武州八王子城に似ています。ここは山城愛好者が登ると相当喜ぶ所です。城址に稜線が数本あり、天候の悪い時は霧や雷で遭難の可能性があるためか、避難小屋が二か所にあります。
平井城址・平井詰(金山)城址は藤岡市指定史跡です。
平井城址・平井詰(金山)城址=埼玉県藤岡市西平井
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2010年06月19日

塩沢城址(秩父高差須城址)

「太田道灌状」の冒頭部分に「弥七郎の事は、秩父高佐須(たかさす)に於いて、同心の傍輩中に就いて、身命相通わす旨候の故、城中の様態存ぜしめ候、それに従い行を廻らせ候の間、御方一人も恙無く、専一に御敵等数十人討ち取らせ候事、云々」とあります。道灌軍が秩父高佐須城を攻めたとき、大串弥七郎の仲間が高佐須城中の事を知らせてくれたので、道灌軍は味方を一人も失わずに数十人を討ち取り、勝利することができたということです。 
さて、秩父の高佐須とは一体どこでしょうか。「長尾景春と熊倉城」という旧荒川村の郷土研究会刊行の労作によると、秩父に「高佐須」と思われる地名は両神(りょうかみ)村の「高指(たかざす)」しかないということです。従って、高佐須城は現在の埼玉県小鹿野町大字両神薄(すすき)字塩沢(しおざわ)にある塩沢城に比定されるということです。
このあたりは、犬懸長尾氏の当主で景春の従兄弟でもあった長尾景利の所領でありました。景春は、戦に敗れるといつも秩父に逃げ込み、間もなく勢力を盛り返しました。1480年(文明12年)道灌軍は長井城(熊谷市)の長尾景春を攻めたので、景春は秩父の山峡へ逃走し、塩沢城に拠ったと思われます。

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(塩沢集落の入り口)
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(宇賀神社・塩沢城址登り口)
秩父市で国道299号線に入り、小鹿野町の黒海土の信号で左折し、県道37号線に入って少し走り、さらに右斜めの県道297号線に入ります。約2キロ行くと午房というバス停があり、そこに塩沢地区への標示板があります。左折して塩沢集落に入り、道なりに回り込みながら高みへ至ると宇賀神社という稲荷社にきます。祭り用のためか立派な駐車場があり、その奥に塩沢城址への登り口があります。この城址については地図にも記されてなく案内板など全くないので、私は土地の人三人から道を教えていただきながらようやくここへたどり着きました。

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(第1の平場)
塩沢城は長尾景春の城とされ、登り口の稲荷社は景春が勧請したそうです。
登山口から尾根道を登ると、すぐにつづら折りの急坂になり、両側は切り落としたような崖となります。最初の切り落としを越えると第1の平場にきます。
約30メートル四方の平場には杉が密生しています。さらに帯郭を2段越えて第2の平場にきます。「城の平」と呼ばれる約30メートル四方の平場です。さらに急坂をよじ登ると、約20メートル四方の第3の平場です。ここには不動、荒神、歓喜天など修験道の碑があります。さらに登ると標高760メートルの鐘つき場と呼ばれる頂上があり、修験道の碑がたくさん立っています。三方は切り落としたような崖ですから、ここは退路を断って戦う最期の詰め郭の感じです。土地の人は、頂上まで登り30分と言っていましたが、私は1時間余りかかりました。
塩沢城は、全体としては中世の山城によくある段郭(だんくるわ)の典型で、かなり大規模なものです。下から登ると郭の所在は全くわからず、這って登るような急坂に囲まれているので相当攻めにくい城です。太田道灌状によると、寝返った者が城の弱点を道灌軍に教えたので落ちたということです。
土地に伝わる景春の逃走伝説によると、薄の地頭小沢左近と小森の地頭嶋村近江守の道案内で、道灌軍が夜討ちをかけ、1480年(文明12年)1月末か2月中旬に、塩沢城は落城しました。景春は日野の熊倉城へ逃げ、家臣の深井対馬守がしんがりを勤め、防戦して深手を負い自害したということです。この地の地頭は、太田道灌状に記された大串弥七郎の配下であったかもしれません。今も塩沢城の南東に夜討ち沢という沢があります。
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(塩沢城の頂上・周囲は急坂)

登り口の手前で、私が道を尋ねた農家の人は心配そうな顔で「道標など全くなく、道が枯れ葉で覆われていますので」と言っていました。以前、道灌研究をしている知人が、塩沢城は遭難の心配がある、と言っていたので、私は登る途中で、何度も振り返って地形や倒木の様子などを覚えながら慎重に登りました。確かに途中から道は完全に消えていました。基本的に一本尾根ですから、登るときはどんどん上へ登ればよいのですが、下りがたいへんです。第一の平場から下るとき、私はルンルン気分で油断して、方角を間違えてちょっとした枝尾根へ入ってしましました。枯れ葉で覆われた急坂をスキーで降りるように一気に100メートルほど下って異変に気付きました。山で迷ったときは、元の場所へ戻れという原則に従い、私は灌木の根につかまりながらまたよじ登って第一の平場に戻りました。もう一度よく見て考えて正しい方角を見つけました。その日は快晴、無風、温暖であったし、私は若い頃に山登りをした経験があるので事なきを得ました。塩沢城址は中世の段郭として教材的価値が高くたいへん面白い城ですが、少々危ないので一般の人にはお勧めできない所です。このように、城山を落ち葉に埋もれたままにしておくことが、長尾景春に対する秩父の人たちの惻隠の情の表れであるように思えるのであります。

帰り道、国民宿舎「両神荘」で秩父温泉の露天風呂につかり、それから荒川歴史民俗資料館に寄って館長と長尾景春談義をしてきました。
塩沢城は、埼玉県選定重要遺跡です。
塩沢城址=埼玉県小鹿野町大字両神薄字塩沢5600
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2010年06月30日

秩父の長尾城址と景春の墓

秩父高佐須城(塩沢城址)から再度、秩父の長尾景春の足跡を追います。従って今回は、道灌紀行から脱線して景春紀行となります。秩父市のお花畑駅から秩父鉄道に乗ると、三つ目で日本通貨発祥地である和銅黒谷(わどうくろや)駅につきます。駅のプラットホームに巨大な和銅開珎(わどうかいちん)のモニュメントがあります。このあたりに来ると、電車は30分に1本ぐらいしかないので、駅の待合室でおしゃべりをして電車を待つ里人や通学生徒の話を聞いていると、急に時間が止まったような気がしてきます。昔懐かしい里山の電車に乗りたければ、秩父鉄道がお勧めです。運が良ければ、俳句展示の電車に出会います。私がたまたま座った座席の上に記す。
 山澄みて馬がまどろむ草の海
 錦秋の秩父路夫とひもすがら
車で秩父市駅から国道140号線を走ればすぐに黒谷へきます。
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(和銅黒谷駅のモニュメント)
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(長尾城址にある和銅遺跡)
和銅黒谷駅から観光用の道標に従い、梅雨の晴れ間にふるさと歩道を歩きました。民家と畑が点在し、山の方から鶯の谷渡りがまことに心地よく聞こえてきます。のんびり歩いて10分おきぐらいに法雲寺、和銅遺跡入口、瑞岩寺があります。法雲寺には長尾景春の墓があり、和銅遺跡の奥山である美の山公園から瑞岩寺の奥の岩山あたりが長尾城であったと伝えられています。
私は先ず法雲寺こと曹洞宗の正永山法雲禅寺へ行き、寺の庫裏を訪ねると無人でした。墓域で伝・長尾景春の墓を探したけれどもそれらしきものが見つかりません。思い余って、寺の近くで仕事をしていた地元の逸見さんに尋ねました。逸見さんは快く「案内しましょう」と言って、自宅へ戻り長くつを履いて鎌をかつぎ「ときどき蛇やイノシシが出ます」と言って歩き出しました。逸見さんは寺の奥山を、雑草を切り払いながら登り始めました。立派な坂道があるけれども雑草や灌木ですっかり覆われています。息を切らしながら10分も登ると、山の中腹の50メートル四方ほどの平場に着きました。逸見さんは「昔はここに法雲寺があったと伝えられています」と言って、灌木や雑草をかきわけ、平場の中ほどに立つ苔むした一つの五輪塔へ案内してくれました。
林の中のちょっと開けた所に立つ五輪塔、いや下二段は崩れて約六〇センチメートルの三輪塔になっている石塔が、伝・長尾景春の墓です。訪ねる人もなく山の中腹で雑草と灌木に埋もれてひっそりと立っています。私は、胸騒ぎを覚えながら石塔の文字を探しました。木漏れ日が当った部分にかすかに文字の痕跡様のものを認めたものの判読できません。これが長尾景春の墓だとすると、景春没後、約500年も経っているので石塔の磨滅もしかたありません。
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(永正山法雲禅寺・奥山に景春の墓)
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(伝・長尾景春の墓)
この平場の上の稜線を東へ行けば美の森公園と和銅遺跡があり、さらに行けば瑞岩寺へ至ります。「秩父志」によるとそのあたりは長尾城址と伝えられていますが、遺構は見つかっていません。
ふるさと歩道の東の端の絶壁の下に瑞岩寺こと曹洞宗の融興山瑞岩寺(ゆうこうざんずいがんじ)があります。瑞岩寺の縁起によると、この寺は、1528年(亨録元年)長尾四郎左衛門昭国が開基となり創建されました。そしてこの寺の住職の話によると、長尾四郎左衛門昭国とは長尾景春その人であり、かつて瑞岩寺にも長尾景春の墓があったそうです。長尾景春は、1514年(永正11年)72歳で没したと伝えられています。そうすると瑞岩寺開基の年代が十数年ずれて整合しません。
ところが、瑞岩寺住職の話では、法雲寺の方が瑞岩寺より少し早く創建されたということです。法雲寺はちょうど景春が没した永正年間に恐らくは景春により創建され、年号をとって永正山と号されたのであろうと私は推測いたします。そうすると、法雲寺の奥山の五輪塔は、景春そのひとの供養墓であるという信憑性がぐっと強くなります。景春没後、秩父の人たちが景春の不運を憐れみ、景春とその家族が最期を過ごした長尾城のふもとに、景春の供養塔を立てたのだと私は推測しています。
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(瑞岩寺)

ふるさと歩道の西の端には、聖(ひじり)神社があり、その境内に「長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑」があります。長尾景春にはたくさんの名前があり、威玄(いげん)入道とは長尾景春の法名です。
また「増補秩父風土記」の黒谷村の項には、長尾城址が意玄入道の子烏坊丸と奥方ほか27人が隠れ住んだ場所であるとの伝承が記されています。
太田道灌状には、長尾城についての記述がありません。それゆえ、長尾城堀之内跡と伝えられているあたりは、戦闘用の砦ではなくいわゆる根小屋と称されるところで、景春の家族と少数の従者が住んでいた所ではないかと私は推測しています。
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(聖神社・長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑)
長尾景春と秩父の因縁はまことに深いものがあります。景春の属していた白井長尾氏と秩父の薄地域(小鹿野町)を領していた犬懸長尾氏(鎌倉長尾氏の系列)とは縁戚関係があり、景春の妻も犬懸長尾の出身でありました。薄地域は秩父でも有数の平野で水田地帯であったため、犬懸長尾氏とその地域の国人衆の経済力は強大でありました。秩父の国人衆は一揆と称する横の連携を結ぶことによって管領から独立する傾向があり、なおかつ敗れて落ちてきた人物を支援する気風が強かったといわれています。犬懸長尾氏の当主長尾景利は、景春与党として戦って秩父で戦死しています。
1476年(文明8年)景春が鉢形城に拠って上杉顕定に叛旗を翻したとき、彼はその地の戦略的利点とともに背後の秩父の人脈を頼りにしていたことは間違いありません。その後も景春は、敗れるといつも妻の里である秩父へ移動し、勢力を盛り返して山岳ゲリラ隊のように道灌軍に奇襲をかけてきたのです。そして景春が、道灌軍に追われて最後にたてこもったは秩父の高佐須城(塩沢城)と日野城(熊倉城)でした。

太田道灌の妻の甥が長尾景春で、道灌と景春は互いに熟知していた仲でした。それゆえ、景春は道灌に反乱に加わるよう頼み、道灌は加勢をことわったけれども景春の面子を立てるよう種々骨を折りました。二人はおそらく互いに親愛の情を持ちながらも、戦国のしがらみに縛られて30数回も戦い続けたのでありましょう。道灌は関東御静謐を夢見て戦い、勝ち続けたけれども道半ばの55歳で凶刃に倒れました。景春は白井長尾家再興を夢見て戦い、逃げ続けた(否、それは単に秩父へ移動したという予定の行動であったかもしれない)けれども、上杉顕定への反抗をつづけ、72歳まで生きながらえました。
二人が抱いた戦の大義は異なれども、二人に共通しているところは、人倫を踏みつけて権謀術数を振り回して戦国大名になろうという野望を持たなかったことです。そのことが後の世の人々に物足りなさを与えるともに、親愛の情を呼び起こしています。

長尾景春は幼名を孫四郎といい、長じて様々の名前を使いました。主なものは、長尾四郎右衛門尉、長尾景春、長尾左衛門昭国、長尾伊(威・意・以)玄入道ですが、種々の組合せによるバリエーションが約20種もあります。群馬県渋川市上白井の空恵寺(くえいじ)に白井長尾家累代の供養塔があり、その中の一つに景春の最後の名前すなわち戒名が「涼峯院殿大雄伊玄大居士」と刻まれています。
瑞岩寺の裏の絶壁のツツジは秩父市の天然記念物です。
聖神社は秩父市指定の有形文化財です。
伝・長尾景春の墓・法雲寺=埼玉県秩父市黒谷665
瑞岩寺=埼玉県秩父市黒谷1633
長尾城址=埼玉県秩父市黒谷
聖神社=埼玉県秩父市黒谷2191











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2010年08月15日

太田資正終焉の地・片野城址

茨城県の石岡市が太田資正終焉(しゅうえん)の地です。東京都のJR日暮里駅で常磐線に乗ると約2時間で石岡市へきます。茨城県に入ると、車窓からレンコン畑が見えてきて、夏の朝には見事な花を咲かせています。
太田道灌の曾孫太田資正三楽斎道誉は、道灌の再来といわれたほどの名将であったけれども、長男の氏資と仲違をし、1565年(永禄8年)岩槻城を追われました。資正は常陸の佐竹氏の客将となって片野城に拠り、息子の梶原政景は柿岡城に入りました。
片野城址がある石岡市根小屋地域へのアクセスはやや難儀で、車で行くか石岡駅から途中までバスで行き三キロほど歩くしかありません。城址への道標など全くないので、地元の人に尋ねるか地元の詳細な地図を持参する必要があります。集落の中の小山が片野城址です。入口に「片野城址」という石碑と石岡市教育委員会の説明板が立っています。
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(片野城址碑)
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(土塁跡)
説明板によると、1566年(永禄9年)ごろ太田資正がこの城を築き、柿岡城の梶原政景と協力して、佐竹氏に対立した国人領主・小田氏を国外に追い払いました。資正は三男資武とともにこの城に居住し、1591年(天正19年)秋に、その豪勇かつ多彩な生涯を終えました。時に資正69歳でありました。
城址の入り口を登ると本丸らしい空間があり、今は畑となっています。周囲に土塁と思われる遺構が数か所あります。城址入口に至る深く切り込んだ道路も、空掘りの跡と思われます。城址に立つと、はるかに筑波山がよい具合に見えて一幅の絵のようであります。晩年の太田資正は、朝夕にここに立って筑波山を眺め、自らの来し方を振り返ったことでありましょう。
この城址に隣接している佐久山も片野城の一部分で、その小山の向うに太田資正の墓所があります。城址の登り口から佐久山を小さく巻くと、真言宗豊山派浄瑠璃光山と称する無人の堂があります。その墓域の奥に、「太田資正公之墓所」と彫られた石柱と五輪塔が三基あります。波乱万丈の生涯を駆け抜けた太田資正は、田んぼやハス畑に囲まれた静かな里の小山で永遠の眠りに就いたわけです。
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(太田資正墓所)
片野城址から恋瀬川に沿って約3キロ北へ移動すると、丘の上に石岡市立柿岡小学校があり、そこが柿岡城址です。校門への登り道の側面が土塁の遺構と思われます。学校の敷地全体が小高い丘の上にあり、かつての城山は想像するしかありません。この城には、太田資正の次男梶原政景が拠り、父とともにその存在感を発揮し続けました。
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(柿岡城城址) 
石岡駅から歴史コースを10分も歩くと、常陸国総社神社があります。この神社はその名のようにいろいろな神社の総代の役目を果たした由緒ある古社です。この神社に太田道灌遺愛の軍配が伝っていました。神社の説明板には次のように記されています。
県指定有形文化財(工芸品)漆皮軍配 伝太田道灌奉納
小型の軍配と長い柄の形式は古く、室町時代の作と推定されている。総長48・9センチメートル、最大幅19・1センチメ ートル、柄幅2.6センチメートル、なめし革製黒漆の軍配。表には朱漆で種子を描いている。
寛文8年(1668年)太田資宗、資次の寄進銘のある箱に収められてあり、保存状態も良好である。
太田道灌が石岡まで来た記録はないので、岩槻城に伝わっていた道灌の軍配を岩槻城主太田資正が所持し続け、資正が晩年になってから総社神社へ奉納したのではないかと私は推測しています。太田資宗、資次は江戸時代の掛川藩太田家の初代と2代です。
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(総社神社)
片野城址と柿岡城址は石岡市指定史跡です。
太田道灌遺愛の漆皮軍配は、レプリカが埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で展示されています。
片野城址=茨城県石岡市根小屋
太田資正墓所=茨城県石岡市根小屋
柿岡城址・柿岡小学校=茨城県石岡市柿岡2151
常陸国総社神社=茨城県石岡市総社2
*この記事に関連して、先に掲載して引き揚げた「武州松山城と太田資正」を再度掲載します。

 太田資正と武州松山城址                            
武州松山城の城主であった太田美濃守資正入道三楽斎道誉は、道灌の曾孫に当たり、道灌の再来といわれた名将でありました。この勇猛果敢でやや不遇な智将のことを、私は深い感慨を持って述べなければなりません。
埼玉県東松山市から吉見町に入ると、すぐに吉見百穴(よしみひゃくあな)という有名な国指定史跡の観光スポットがあります。東武東上線の東松山駅から、徒歩25分です。この百穴のとなりの城山が松山城址です。百穴の観光案内所の人に松山城址の登り口を尋ねると、親切に教えてくれて「本丸までは道がありますが、その先はけもの道です」と言い、意味ありげににやりと笑いました。登ってみてその意味がわかりました。本丸から先では次第に道が消えて、やがて深い空堀の底に迷い込んだりします。城域がけもの道になっているということは、極めて良好に保存されているということです。
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(吉見百穴)
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(松山城の深く広い空堀)
松山城は1399年(応永6年)この地の国人領主上田氏により築城されたといわれていますが、武蔵国中原の要衝であったため、常に諸勢力の争奪戦の的となって城主は度々変わりました。城の構造は梯郭(ていかく)式平山城とされ、舌状の城山の先端を市野川が半円状に囲み、本丸、二の丸、春日丸、三の丸などを中心に段差を持った多くの腰郭と深く広い空堀をもっている堂々たる山城です。
1561年(永禄4年)から3年間、太田資正は松山城の城主として上杉謙信に忠誠を尽くし、後北条氏と武田氏に対抗して道灌譲りの奇抜な戦法で戦い続けました。  
「三楽犬の入れ替え」として面白い挿話が伝えられています。資正は岩槻城と松山城で各50匹の犬を飼って、土地になれた頃に犬たちを他方の城に移しました。資正は後北条軍の急襲を受けて城を包囲されると、直ちに10匹の犬の首に文を入れた竹筒を結わえて放ちました。犬の帰郷本能を活用した緊急通信システムであり、日本軍用犬の起源です。犬たちは包囲網をかいくぐって約29キロの道をおそらく小一時間で走ったから、すぐに後詰めが押し寄せて来ました。後北条方はこの不思議を訝り、大いに恐れたということです。現代で言えば、太田資正は暗号による情報戦で勝っていたということです。
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(三の丸跡)
1560年(永禄3年)2月に、上杉謙信が小田原を攻めたとき、資正は先鋒として兵3500名を率いて小田原城に迫り、後北条軍の心胆を脅かしました。「北条記」という軍記ものには「太田資正は一騎当千の兵なり」と伝えています。
1590年(天正18年)、今を時めく天下人豊臣秀吉がその総力を結集して関東に攻め込み、小田原城を包囲しました。秀吉から小田原城攻撃の戦術を問われた資正は、並みいる宿将の前で城の無血開城の策を進言しました。このようなときに非戦論を唱えると宿将の嘲笑に合い、まかり間違うと自らの命運も危なくなるのが戦陣の常であります。しかしこのとき、後北条軍の精強さと小田原城の堅固さを知り尽くしていた太田資正の一言は重く、諸将に強いインパクトを与えました。秀吉はこのとき、自分の腹の中の図星をさされたので敢えて不快そうな顔をつくり、着ていた陣羽織を資正に与えて退出させたということです。結局は資正の進言通り、主戦派の北条氏政、氏照と数名の重臣の切腹で小田原城は明け渡されました。
太田資正の唯一つの失敗は、二男の梶原政景を溺愛して長男氏資と仲違いをし、岩槻城を追われたことです。その後、氏資は後北条氏に取り込まれてさらに謀略にはまり、上総三船山合戦で戦死しました。時に氏資は26才の若さでありました。
資正は客将として常陸の片野城に移ってからも、佐竹氏を補佐してその存在感を発揮し続け、1591年(天正19年)その波乱万丈の生涯を終えました。太田資正の三男資武の子資信が祖父三楽斎資正の戦歴を次のように記しています。
  出陣数  79度
  一番槍  23度
  組み打ち 34度
  太刀打ち 覚え申し候はず
太田資正ほどの勇将・智将であっても、時と所に利がなければやや不遇の生涯を送らねばならなかったのです。このように無情な時と厳しい境遇の中で、戦い続けて燃え尽きた太田資正は巷間、「日本13大将」に列せられてその名を後世に伝えています。
松山城址は埼玉県指定史跡であり、かつ比企郡城跡群として国指定史跡です。
片野城址は石岡市指定有形文化財(史跡)です。
武州松山城址=埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山
片野城址=茨城県石岡市根古屋


posted by otadoukan at 15:13| Comment(0) | 道灌紀行は限りなく