2010年09月04日

嬉野太田氏の先祖祭り

リクエストにより、「嬉野太田氏の先祖祭り」を再度増補版として掲載いたします。

福岡市で九州自動車道に入り、さらに長崎自動車道を少し走ると左手に吉野ヶ里遺跡があります。それから30分も車を走らせると、温泉とお茶と焼物のふるさと佐賀県嬉野市へ到着します。
嬉野市では、毎年9月18日に下岩屋で太田一族が先祖祭りを行っています。今年(2009年)の先祖祭りには、太田資暁氏等とともに、私も参加させていただきました。
9月18日朝、嬉野太田家本家11代の太田資信(すけのぶ)さんのお宅を訪問し、ご先祖の話を聞きました。資信さんは50年間もの間、自らのルーツを調べ続けたと語っていました。それによると、松山衆であった太田資政は相模の戦で戦死し、その息子資長、資重の二人が、1589年(天正17年)ゆえあって、肥前の国大村へ来ました。大村で志を得なかった二人は、嬉野に住みついて土着し、嬉野太田氏の始祖となりました。その後、太田氏は築堤の功績により鍋島藩に召抱えられ、1763年(宝暦13年)より始祖太田資長の命日9月18日に、先祖祭りを行い続けています。 現在嬉野太田氏は、下岩屋地区だけでも97世帯、約450人となりました。
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(太田資信氏・右と太田資暁氏・左  机上の刀の鍔に桔梗紋)
資信さんは、床の間に飾ってあった、先祖伝来の大小の刀と認定書を見せてくれました。その刀の鍔には桔梗紋がくりぬいてあります。ふんかん園といわれている広い庭を案内していただいたあと、先祖まつりの会場へ向かいました。
下岩屋には、地名のとおり石垣で囲まれた家がたくさんあります。太田家の先祖墓の墓域も石垣で囲まれた高みにあり、登り口の横に嬉野太田家の由来を刻んだ石碑があります。午前11時には、中央の大きな太田家先祖墓の碑の前に一族の人々約50人が並び、婦人が御詠歌を詠い、浄土宗宋運寺の住職が読経しました。その後別会場で祝宴があり、太田道灌公についての講演がありました。
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(太田家先祖墓) 
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(嬉野太田氏の由来説明碑)
太田資信さんは87歳の高齢ですが、太田道灌公墓前祭実行委員長である太田資暁氏の初訪問を大いに喜び、終始溢れるような笑みを満面にたたえて一行を迎え、なにくれとなく心配りをしてくれました。製茶工場を経営する太田重喜氏が、この地の太田一族の活躍をいろいろ説明してくれました。太田一族と会い、語り合った太田資暁氏は思わず「太田の一族は、どこでも真面目な働き者ばかりだ」とつぶやきました。
私はその言葉を聞いて、太田道灌の人柄について、ある確信的な考えがふと浮かんできました。万里集九が、道灌追悼の祭文の中で、道灌の人柄がかもしだす雰囲気について「曖然たる和気」と述べています。確かに戦をしてないときの道灌は、おだやかで包容力深い人柄の人であったと思います。しかし戦っているときの道灌の人間像は「鋭い真面目人間」の権化であったという気がしてきました。「鋭い」から隙(すき)がない。真面目だから部下の信頼が厚い。鋭い真面目人間の軍勢が、疾風怒涛のごとく攻め込んだのだから、長尾景春はさぞかし怖かったに違いない。景春とて人望があり、長尾家の地盤と人脈は太田家のそれに比べて圧倒的に大きかったけれども、するどい真面目人間の軍団には敵わなかった。それゆえ景春は、秩父の山に逃れて神出鬼没のゲリラ戦を展開せざるをえなかったのです。道灌のDNAを持った人たちの話を聞いて、私はそんな確信的な思いにとらわれてきたのでありました。
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(先祖祭りの参列者)
太田資信氏等一族の方々と懇談し、興味深い話をたくさん聞きました。資信氏は39歳の頃より嬉野太田家の調査を始めました。そしてついに次のような後北条氏の文書を発見しました。
「永禄二年(一五五九年)二月十二日『小田原衆所領役帳』なる。太田を称する者次の如く。
江戸衆に
太田新六郎  一千四百十九貫百文 (康資)
太田大膳亮  五百四十四貫五文  (左京亮)
太田源七郎  三十六貫五百文   (資康弟)
太田四郎兵尉 八十五貫文     (資康弟)
太田新次郎  二十二貫九十四文    
松山衆(岩槻系)
太田豊後守  三百七十六貫二十二文 (資政)
                   三楽別人」
この文書によると、岩槻系の太田資政は江戸系の太田康資等とともに後北条方に属していたので、1560年(永禄3年)に太田資正が上杉謙信の先鋒として小田原城を攻めたとき、太田一族は敵味方に分かれて戦ったかもしれません。
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(先祖祭りで婦人たちが御詠歌を詠う)
資長・資重兄弟が秀吉の朝鮮出兵に応じて肥前へ来たとか、どこかの大将に呼ばれてここへ来たが志を得ず土着したと言う人もいます。
豊臣秀吉は1590年(天正18年)に後北条氏を滅ぼしたあと、肥前の名護屋より朝鮮出兵を断行しました。やがて秀吉は没して関が原の戦いとなったわけですから、この疾風怒涛の時代の全貌を知っていた人も記録した人もいないのは仕方のないことです。
資長・資重兄弟がなぜ嬉野に来たかは、嬉野の太田資信氏にとって依然として謎です。資信氏は「私は50年間余りもそのことを調べ続けてきたけれども、まだわからないのです」と頭を抱えていました。
「いずれにしてもご先祖は勇敢に戦って戦死したのだから、勇者であったことは間違いありません」と私は資信さんに申しあげました。
私の勘ではこの謎の底に、戦国の複雑で非情なしがらみによる言うに言われぬ深い苦渋があったように思います。その深い事情と資政の熱い思いは、資政とともに太田家先祖墓に秘められていて、資政はそれを決して語ることはないでありましょう。
各地に桔梗紋の太田氏はたくさんいるけれども、家系図を遡ると、戦国時代の部分が欠落している場合がよくあります。そのことは、その時代の生活が不安定で流動的であったことにもよりますが、身の安全のため移住して敢えて出自を隠し続けたこともあったと思います。 
太田資信氏は、2010年(平成22年)に、「嬉野太田家先祖祭り二四七回年忌」と題する立派な記録集を発刊し、自宅の庭には「太田道灌公之像」を設置しました。


   

 
posted by otadoukan at 11:11| Comment(2) | 嬉野太田氏の先祖祭り