2017年01月01日

道灌紀行ニュース NO.4

大田道灌の新銅像が登場(越生町)                            
埼玉県越生町役場の玄関ロビーに、太田道灌の新しい銅像が登場しました。これは、第12体目の太田道灌銅像です。2016年12月5日朝8時30分より、越生町役場玄関ロビーにて、太田道灌銅像の除幕式がとり行われました。除幕式には、新井町長はじめ、町議会議長、観光協会長、教育長、埼玉県立越生高校の校長と美術科教諭、地元の代表などが出席しました。
この銅像は、従前より越生町の町長室に秘蔵されたいた、三枝惣太郎氏制作の小さな太田道灌像を原像とし、地元の埼玉県立越生高校美術科の六田教諭が制作したものです。80cm位の木製の台に立つこの銅像は、基盤の幅が110cmで、高さがあやい笠まで130cmであるので、やや小振りの太田道灌像です。
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(弓矢をもって踏ん張る道灌像)
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(若き日の道灌像・戸口訓男氏撮影)
この像は、弓を持った狩り姿であるものの、足を踏ん張り半身になって身構える、極めて躍動的な道灌像です。道灌像の表情はやや若く、その背後のガラスに山吹の里歴史公園の絵が焼き付けられています。したがってこの像は、道灌が若き日に、父道真のもとを訪れたときの情景をほうふつとさせる傑作です。越生町にまた観光名所が一か所増えて、めでたしめでたしというべきです。
ちなみに、原像の制作者である彫刻家の三枝惣太郎氏とは以下のような人です。
◆ 三 枝 惣 太 郎 【略 歴】
昭和9年 第15回帝展第三部彫刻部 初入選
昭和10年  東京芸術大学卒業
昭和16年  構造社会員となる
以来、帝展・文展・日展・新日展に連続出品(連続入選)
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(越生町役場町長室秘蔵の三枝惣太郎制作の太田道灌像の原像)
日展名古屋展中日賞受賞。
名古屋タイムス秀抜店 秀選展出品
紺綬褒章受賞
日展会友
日本美術家連盟会員
日本彫塑会会員
新構造社(絵画)会員
東海彫塑会会員
名古屋芸術大学美術学部名誉教授

追記
現在、東京国際フォーラムのガラスホール1階入り口で太田道灌銅像写真展(1月1日〜6日)が行われています。残念ながら、越生の道灌銅像写真は、今回間に合っていません。
また地下1階では、日本の城ギャラリーが行われています。1月6日13:30と15:30には、この場所に伊勢原甲冑隊が出撃しました。
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(東京国際フォーラムの太田道灌銅像写真展)
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(甲冑隊入城)
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(太田道灌の勝どき)
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(伊勢原甲冑隊)
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2016年12月01日

道灌紀行ニュース NO.3

大田道灌と長尾景春の激戦の地、鉢形城址探訪(寄居町)                               
江戸東京博物館友の会のえど友サークルの中に、道灌倶楽部という、約150名のサークルがあり、太田道灌ゆかりの地を精力的に歩き回っています。
さる11月27日(日)には、道灌倶楽部が太田道灌と長尾景春の激戦地、埼玉県寄居町の鉢形城址を探訪しました。この日参加したのは首都圏からの24名です。一行は、寄居駅から歩いてまず鉢形城歴史館を訪問し、特別展「関東の武具」(関東5枚胴具足を中心に)を見学し、前館長からの懇切丁寧な説明を聞きました。そのあと、地元のボランティアガイド3人の案内で鉢形城址全体を見学しました。東京ドーム5個分の広さがある城域なので歩き甲斐がありました。
正喜橋からの荒川.JPG
(正喜橋からの荒川)
城域の模型を見る.JPG
(城域の模型を見る)
1476年(文明8年)6月、長尾景春が、山内上杉家家宰人事の不満を引き金にして鉢形城に拠り反乱を起こしました。1478年(文明10年)太田道灌が鉢形城を攻撃して景春を秩父へ追い、関東管領山内顕定に鉢形城入城を勧めました。その後1560年(永禄3年)頃、北条氏邦がこの城を居城としました。
このあたりは交通の要衝で、秩父往還道と鎌倉古道上道(かみつみち)の交わる地点でした。荒川の絶壁上にある本曲輪跡には、田山花袋作、武者小路実篤書の文学碑がありいわく、
「襟帯する山河好く、雄視する関八州
古城の跡空しく在り 一水尚東へ流る」(読み下し文)と。
本曲輪の文学碑.JPG
(本曲輪の文学碑)
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(二の曲輪の障子堀跡を見る)
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(外曲輪の土塁跡)
ガイドの説明にしたがい、鉢形城歴史館を出発して外曲輪、二の曲輪、三の曲輪。本曲輪と見て回り、15時頃終了して万歩計を見ると、ちょうど1万歩でありました。ここは国指定史跡でよく整備されています。どなたにも、一度はおいでいただきたい所です。
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2016年11月01日

前ヶ崎城と太田六郎

千葉県松戸市の長谷山本土寺(ちょうこくさんほんどじ)は、日蓮大聖人の六老僧の一人日朗が地元の豪族平賀氏の屋敷内に開堂した古刹です。この寺はその後、千葉氏とその庶流高城(たかき)氏の庇護をうけて発展しました。またこの寺に伝わった、中世の「下総国小金本土寺過去帳」(千葉県指定有形文化財)は、歴史家にとって貴重な古文書です。
「続群書類従」の「下総国小金本土寺過去帳」の某年11月3日の項に「太田六郎殿 前崎落城打死、同戸張彦次郎殿討死」とあります。この年この日に、前ヶ崎城が落城し、太田六郎と戸張彦次郎が討ち死にしたということです。このときとはいつか、前ヶ崎城で何が起こったのか、太田六郎、戸張彦次郎とはいかなる人物かを調べることにしました。
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(本土寺の山門)
私はJR山手線西日暮里から地下鉄千代田線で北小金へ行き、北小金駅から約10分歩き、先ず、松戸市の本土寺を見学しました。この寺は今では、あじさい寺として有名です。本土寺の門前通りに黒門屋という漬物店があります。そこで漬物を買い、若おかみに前ヶ崎城址への道を尋ねると、実に要領よく手振り身振りを添えて教えてくれました。おかげで、そこから約20分歩き、迷わずに前ヶ崎城址へ着きました。
またJR常磐線の柏駅からならば、東武バスに15分も乗ると流山運転免許センターへ着きます。免許センターの前の高台が、標高20m、比高13mの前ヶ崎城址です。
前ヶ崎城の築城年と城主については、特定はし難いものの、付近の小字名に「追手橋」とか、「刑部郭」の名称があったことから、室町時代に千葉氏庶流の高城氏家臣・田島刑部少輔がいたのではないかという説があります。(東葛飾郡誌)。
城は、かつては三本の東西の谷津に達する空堀によって、大きく三郭に分かれていました。今日では、土取りと宅地化によって先端部の一郭しか残ってないものの、そこは土塁によって本郭らしい感じを保ち、中世城郭の名残りが見える貴重な史跡となっています。
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(前ヶ崎城址入り口)
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(本郭址)
付近に戸張城、小金城、馬橋城等、約20カ所の城址があり、ほとんどが千葉氏庶流の高城氏の城でした。戸張城は、手賀沼の西南端部へ向けて突き出したような舌状台地上に築かれた城でした。戸張城も、築城年代や築城者について詳細は伝わっていません。「東葛飾郡誌」は、相馬系図を引用して相馬師常の三男行常が戸張八郎と称して、戸張城に在城したとも伝えています。

いくつかの太田氏系図には、太田道灌の弟として、太田資忠と太田六郎の名が記されています。また資忠と六郎を道灌の甥としているものもあります。ここでは、二人とも道灌の弟と考えます。
「太田道灌状」第20段に「(文明10年6月)同名図書助、同名六郎自両国奥三保へ差寄候処」とあります。ここに記されている六郎とは、資忠の弟六郎すなわち太田資常と思われます。そして、道灌は相模の奥三保攻略が終ってから、総州攻撃の準備をはじめました。道灌本隊の境根原攻撃に先立ち、文明10年11月3日に、太田六郎は上杉方についていた戸張彦次郎とともに、千葉氏の防衛ラインの一角であった前ヶ崎城への攻撃を開始したと推測されます。しかしそのとき、太田六郎軍は千葉氏方諸城からの猛攻撃に会って敗れ、二人は討ち死にしたものと思われます。前ヶ崎城は本土寺の近傍にあるので「本土寺過去帳」の前ヶ崎城落城に関する記事の信憑性は、極めて高いというべきです。

「太田道灌状」第22段に「(文明10年)十二月十日於下総境根原令合戦得勝利、翌年(文明11年)向臼井城被寄陣候」とあります。太田道灌の本隊は、前ヶ崎城の合戦から約一月後に、数キロ離れた境根原で千葉軍を打ち破り、臼井城へ追って約半年も包囲して落城させたものの、そこでは太田資忠が討ち死にしました。
同段後半に「於臼井城下、同名図書助並中納言以下親類傍輩被官人等数輩致討死候」とあります。この記述の中の「親類」とは、太田六郎を指していると思われます。この戦の後の文書に、太田六郎(資常)が登場しないことを考えると、六郎はやはり文明10年に前ヶ崎城で討ち死にしたと考えられます。道灌は、総州の戦で二人の弟を含む、多くの味方を失うという大きな犠牲を伴って勝利を得ました。

松戸市、柏市、流山市の境あたりは、一見平坦と思えるけれども、歩き回ってみると城山に適するような小山がたくさんあることに驚かされます。千葉氏はその地域の20余カ所に城を築き、上杉方とりわけ太田氏の江戸城に対する防衛ラインとしていました。道灌は、六郎の討ち死により、このラインを突破することがむずかしいと考えて翌月に、それより南側の江戸川に船橋をかけるという奇策で、国府台に攻め込んだのです。けだし、上杉氏・太田道灌33連戦の中で、道灌が最も苦戦をし、最も多くの犠牲をだしたのはやはり、千葉氏との激戦であったというべきです。
本土寺:千葉県松戸市平賀63
前ヶ崎城址公園:千葉県流山市前ヶ崎字奥の台
戸張城址:千葉県柏市戸張字城山台
posted by otadoukan at 15:18| Comment(0) | 前ヶ崎城と太田六郎

道灌紀行ニュース NO.2

   大田道灌と長尾景春の最終戦の地、熊倉城址探訪(秩父市)                                
さる10月29日(土)埼玉県秩父市荒川で第2回目の熊倉城址探訪が行われました。この企画は、NPO法人「秩父の環境を考える会・山里自然館」の主催で行われ、昨年第1回が行われたところ好評であったので、今年第2回目が、好天に恵まれて27名が参加して行われました。
一行は、朝9時に山里自然館(道の駅あらかわ)に集合し、地元郷土史家の先導で説明を聞きながら、徒歩で約1時間林道を登りました。城址には、堀切、犬走り、大手門、土橋、空堀、土塁、連格式の三つの郭が良好に残されていて、本郭と二郭の間にリニュウアルされた秩父市教育委員会の説明板があります。周囲はどこも急峻な崖となっていて、長尾流の縄張りが実感されます。郭の際には、犬走りならぬけもの道が続いているので、鹿や猪が隊列をなして走っていると思われます。
熊倉城址.JPG
(中央の山が熊倉城址)
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(途中、伝承の説明板を見る一行)
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(秩父市教育委員会の説明版)
4.熊倉城址けもの道.JPG
(本郭際のけもの道)

「太田道灌状」には、「(文明12年6月13日、太田道灌は秩父御陣で)先ず日野城(熊倉城)落居を急ぐべく旨仰せ蒙り候間、色々様々心を尽くして仕り候故、彼の城討ち落され候事、是又道灌の功に非ず候哉」とあります。景春軍はこの城に約10日間籠城したあと、道灌軍に水の手を絶たれて落城しました。
歴史の現場に立つと、「場の理論」により、その時の戦の状況が「色々様々」に思い浮かんできて話が弾みました。一行には、茨城県からきた熊倉さんや熊倉城址の地主である、地元の黒沢さんなども参加して貴重な話を聞くことができました。
posted by otadoukan at 14:19| Comment(0) | 道灌紀行ニュース NO.2

2016年10月03日

伝・大石氏の葛西城址

JR山手線の日暮里駅で京成本線の各駅停車に乗り換えると、七つ目の駅が青砥(あおと)です。青戸銀座を東の方へ5分も歩くと環状7号線へ出ます。この7号線に沿って、北方すなわち慈恵医大の方へ歩き、医大と青戸小学校を越えるとまもなく青戸7丁目の交差点があります。その交差点の手前右側が葛西城址・葛西城址公園で左側が青砥御殿址・御殿山公園です。中世にはもちろん、両方とも葛西城でした。青砥駅から車に乗る必要もないほどの距離です。
今は幹線道路に貫かれた城址であるものの、近くに中川が流れているので、往時は湿地帯に囲まれた微高地であったと思われます。
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(葛西城址公園)
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(御殿山公園)      
「太田道灌状」第30段にいわく、
「千葉実胤の事は、当方の縁者に渡らせ候といえども、大石石見守に招き出され、葛西へ越され候、公方様ヘ内々申される旨候、然りといえども孝胤出頭の事候間、許容なきにより、濃州辺へ流落し候」。《千葉実胤の事、当方(上杉氏)の縁者でいらっしゃったが、大石石見守に招かれ葛西(城)へ行き、古河公方に(実胤の下総復帰を)内々要望したが、千葉孝胤が出頭したので、許容されず濃州へ流れ落ちました》。
この文面から推測すると、文明10年頃、古河公方と長尾景春の与党であった大石石見守は葛西城にいて、千葉実胤と孝胤を招き談合したと思われます。葛西城は、千葉実胤の石浜城と千葉孝胤の千葉城の中間に位置していました。この談合は、千葉孝胤の口出しにより、実胤にとっては不本意に終わった模様です。そしてまもなく、文明10年暮れに、太田道灌軍は境根原で千葉軍と激突しました。
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(葛西城址公園内)
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(葛西城の城域を示す航空写真、左端は中川)
東京都教育委員会の説明板には、次のように記されています。
「葛西城は、中川の沖積微高地の上に作られた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。
築造者と築造の年代については不明であるが、天文7年(1538)2月には、北条氏綱により葛西城が落城したという記録があり、この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の騒乱の舞台となった。後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は将軍の鷹狩りの休憩所・宿舎(青砥御殿)として利用されていた。
この葛西城が、再び注目されるようになったのは、昭和40年代後半のことである。昭和47年から発掘調査が行われ、主郭を区画している大規模な堀、溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかにされた。
東京都内には、中世城館跡が多数存在している。沖積地に存在している城館跡は、地表にその痕跡をほとんど残さないから内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は発掘調査によって明らかにされており、戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である」。

この説明に、葛西城の城主名が明記されていないものの、文明の頃、古河公方や千葉氏に与していた大石氏が葛西城主であった蓋然性は、「太田道灌状」の内容と相まって極めて高いと言うべきです。
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(城址を貫く環状7号線)
発掘された城址は、埋め戻されて環状7号線が建設されたので、葛西城の昔日の姿は永久に見ることができなくなりました。城址にたたずんで、夢幻のように浮かんでくる兵(つわもの)どものありさまも、幹線道路の激しい交通の動きと音によって、すぐにかき消されてしまいます。
葛西城址公園・御殿山公園=東京都葛飾区青戸7丁目21番地
posted by otadoukan at 22:40| Comment(0) | 伝・大石氏の葛西城址

2016年09月01日

長井氏の片倉城址

JR横浜線の終点八王子から一つ手前の駅が片倉です。片倉駅から徒歩5分で片倉城址公園へきます。またJR八王子駅近くの横山町から国道16号線を南下すると、5分ほどで城址の入口へきます。健脚であれば、八王子駅から、街中を歩いても小一時間でくるでしょう。
この城址は今、東京都指定史跡片倉城址(公園)として手入れが行き届き、入り口の彫刻広場には、北村西望の彫刻とその関連の彫刻が林立して、文字通り芸術広場の雰囲気があります。
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(北村西望自刻像)
城中の住吉神社境内に東京都教育委員会の説明板があります。「新編武蔵風土記稿」(1830年)等によると、この城址の歴史は次のようです。平安時代中期以降、武蔵七党の一つ横山党がこのあたりを領していました。1213年(建保元年)、和田義盛挙兵の失敗により大江広元の領地となりました。室町時代に大江広元を祖先に持つ大江備中守師親あるいは長井時広が在城したといわれているものの諸説があります。
戦国時代にこの地は後北条氏の領地となり、1569年の三増峠(愛川町)の合戦のとき、北条氏照と氏邦は、この城から出陣して武田信玄の軍勢を追いました。
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(二の丸広場)
「太田道灌状」第33段には、次のようにあります。
「長井殿の事は、白井御座内に其色を顕し、在々所々において自身で太刀打たれ、家風数多討死す。粉骨定めて巨細に知ろし召されず候や。能く々々存知の人躰に、今に御尋ね有り、連々にその覚悟簡要に候。白井へも代官の為筑地、藍原、神保両三人参陣せしめ候キ」。《長井殿(広房)の事、白井御座で味方の態度を表し、方々で自身太刀を振り、家中の部下が多数討ち死にしました。きっと(顕定は長井殿の)苦労の一部始終を知らないのではありませんか。よく知っている者に、今尋ねるようにして、引き続きそういう考えを持つことが肝要です。(長井殿は)白井城へも代官として筑地、藍原、神保の三人を参陣させました》。
「太田道灌状」に登場する武蔵の長井氏には、二流あります。第33段に登場する長井氏については、その原注に「長井大膳太夫広房、扇谷婿」とあります。長井広房の妻は扇谷上杉持朝の娘で、その居城は片倉城であったと思われます。
一方第24段、第26段の長井城、長井要害は熊谷市の西城でそこに「史跡・西城本丸跡の碑」があります。碑の裏面に、詳細な由緒が記されています。それによると、前九年の役で武功をあげた斎藤実遠が源頼朝から長井庄を与えられ、西城を築き長井斎藤氏の祖となりました。

この城址公園には、一郭、二郭、腰郭、空堀と土橋などが残っています。郭は芝生でおおわれ、深く切り込んだ谷や蓮池、菖蒲池、カタクリ群生地もあり、変化にとんだ地相を楽しめます。
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(彫刻広場)

JR八王子駅の近くに、間接的にしても太田道灌有縁の城址が、立派に保存され、しかも芸術とコラボレーションしているとは、思いがけない喜びであります。都立の施設なので全く宣伝していませんがよい所なので、一度の訪問をお勧めします。
片倉城址公園=東京都八王子市片倉町

posted by otadoukan at 10:31| Comment(0) | 長井氏の片倉城址

2016年08月01日

高松城址と日尾城址

1478年(文明10年)7月18日太田道灌は、長尾景春の鉢形城を攻め、秩父へ後退させました。この時景春が秩父の拠点としたのは、「太田道灌状」によると秩父高佐須と日野要害です。秩父高佐須については、ほぼ塩沢城(小鹿野町塩沢)に比定され、日野要害については、ほぼ熊倉城(秩父市荒川日野)に比定されています。しかし日野要害すなわち日野城については、高松城(皆野町下日野沢)説も根強く残り、日尾城(小鹿野町日尾)説もあります。また、「太田道灌状」の秩父高差須と日野要害はともに熊倉城を指すという説もあり、秩父地域での郷土史家の論争はにぎやかです。
ちなみに、前島康彦氏は「大田氏の研究」のなかで日野城の熊倉城説をとり、勝守すみ氏は「太田道灌」のなかで日野城の高松城説をとっています。熊倉城址については、拙著「道灌紀行」にすでに記したので今回は、高松城址、日尾城址の2城址を踏査し、その関連文書、地勢等から様々な蓋然性を考えます。
1.高松城址
埼玉県皆野町で、国道140号線から県道44号線に入り、皆野町森林組合の辺りで西方の山道に入ります。やや進んで高みから下を見ると、眼下に赤茶けた土で覆われた円形の平場が見えます。そこが高松城址です。周囲に山の神山や円錐形の旗塚が見えます。現在、高松城址は入山禁止となっています。高松城は、皆野町下日野沢の北方の高松という地域にあり、城山の下を日野沢川が流れています。日野沢川にちなみ、高松城を日野城に比定する研究者もいました。
「北武蔵名跡志」(1853)の日野沢村の項に、「小地名 龍ヶ谷と云、山は古城跡ありて其麓を根小屋と云、長尾氏の住しは茲にて文明12年(1480)6月24日長尾景春入道伊玄が守処の、秩父日野要害没落とあるも、日野は日野沢にて此所なるべし」とあります。また「新編武蔵風土記稿」下日野沢村の項には「高松城址、村の東にありて登ること凡そ十町にして山上平坦四十間四方許、所々堀切等今猶存せり。鉢形北条氏邦の臣、逸見若狭守の城居なり」とあります。中世の高松城主は明らかではないものの、この城は上杉氏の管轄下にあり、秩父谷から児玉の御岳城へいたる高松筋の始点として、重要な役割を果たしていたと思われます。
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(高松城址遠望) 
高松城址は私有地であったため、1974年(昭和49年)珪石鉱山として開発され、今は城址の跡形もなくなっています。削り取られる前の高松城址の写真を見ると、確かに城山の頂上は平坦で広く、すぐ下に深い堀切が写っています。開発される前に行われた総合調査の結果、高松城の各種の遺物は八王子城址出土の遺物に酷似し、その遺跡の造営年代は16世紀代であるとされました。
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(削りとられた高松城址)
私たちは最初に、皆野町農山村具展示館の高松城址模型を見ながら、元館長高橋孝久氏の説明を聞いたあと、地元の郷土史家栗原一夫氏の案内で現地へ行きました。
高松城の位置が、複雑な秩父谷に囲まれていて、その来歴もまた複雑であるためか、ここが長尾景春籠城の日野城であったかどうかは、郷土史家の間でも種々の論議が渦巻いています。

2.日尾城址
埼玉県小鹿野町で、国道229号線の黒海土で県道37号線に入り、やや行くと合角ダムへきます。その近くの根小屋という集落をさがし、そこから沢に沿って登ります。巨大な奇石が次々と現れ、秘境の雰囲気を醸し出しています。私は、ここは観光地としてもいいな、とふと思ったものの、今はこんな山奥まで来る人はほとんどいません。牛首峠で丸木の階段を上ると日尾城址の本丸にきます。
「北武蔵名跡志」(1853)の日尾村の項に「鎌倉大草紙に文明12年(1480)6月24日長尾右衛門 尉景春が守所の秩父日野要塞没落とあるも日野は誤にて日尾なるべき歟」とあります。日尾城は、鉢形北条家の家老、諏訪部遠江守定勝を城主と伝え、天神山城(長瀞町)、虎が丘城(長瀞町)、高松城(皆野町)、根小屋城(横瀬町)とともに武田勢に対する後北条家の備えとされました。1561(永禄4年)の文書と見なされる北条氏政書状では、日尾城はこの時、後北条方の南図書助によって攻略されたと記されているので、諏訪部氏の入城前にも存在したと思われます。
このように、日野城の日尾城説は、音声上の類似に拠っているものの、この地域に長尾景春にかかわる伝承は全くありません。
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(牛首峠から本丸へ)
本丸の高みに「日尾城址の碑」が立っています。二の丸、三の丸もあり、相当広い城域となっています。
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(日尾城址の碑)
今日、日野城の日尾城説をとる研究者はほとんどいません。私たちを案内してくれた、小鹿野町の郷土史家高橋稔氏も、日尾城址周辺には、長尾景春にかかわる言い伝えが全くないので、長尾景春の日尾城築城を語ることはありませでした。



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道灌紀行余話(東伊豆町)

伊豆熱川温泉「道灌の湯」復活                                    
伊豆新聞の2016年7月9日号に次のように記されています。
『「道灌の湯」シンボルに、休止源泉再生へ、湯煙上げ夜は電照、熱川観光協。
東伊豆町の熱川温泉観光協会は、濁川河口にある同温泉発祥の湯で、現在利用を休止している源泉「道灌の湯」を再整備する。温泉を引き込んで湯煙を上げ、夜間はライトアップするなどして同温泉のシンボルとして再生する』
『地元には、江戸城を築城した室町時代の武将太田道灌が、天城に巻き狩りに来た際、川の河床から湧き出た温泉で湯あみする猿を見つけ、自らも湯に浸って疲れを癒したという伝説がある。熱川温泉の歴史は、道灌の湯の名で住民に尾古くから親しまれたこの第1号源泉から始まり、伊豆屈指の温泉場として発展してきた。(中略)同協会関係者は、「道灌の湯を熱川温泉の新しいシンボルとして再生し、湯煙立つ温泉やぐらとともに全国に発信したい」と意気込んだ。』
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(道灌湯の入り口に立つ太田道灌とサルの像)
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2016年07月20日

越生近況・「太田道真退隠の地」の碑等

埼玉県越生町は太田道真・道灌のふるさとを標榜し、最近様々な取り組みが行われています。JR八高線越生駅前の広場には、ハイキングの町と太田道真・道灌ゆかりの地をアピールするための、巨大なパネルが並んでいます。
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(太田道灌誕生地のパネル)
このパネルをよくよく見ると、題字の先頭に、小さく小さく(伝)の字が記されています。道灌誕生を主張するところは、他に伊勢原、鎌倉があります。
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(太田道灌史跡の案内)
このパネルの右下に、法恩寺の文書を引いて「山吹の里歴史公園」の由来が記されています。「山吹の里」は、関八州に数々あれども、古文書で証明されるところは、越生だけです。

1.「太田道真退隠の地」の碑
1928年(昭和3年)に建立された「太田道真退隠の地」の碑は従来、越生町小杉の山際の畑の片隅に立っていました。このように立派な碑が、なぜこんな妙な所にあったのでしょうか。理由を知らない、多くの探訪者にとって、それはミステリーでありました。今春遂に町当局が、この碑にとって最もふさわしい自得軒跡すなわち建康寺の寺域に、この碑を移設しました。
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(建康寺と「太田道真退隠の地」の碑・建康寺の檀家総代戸口訓男氏撮影)
この碑の碑文は次の通りです。
「太田道真ハ岩槻城主備中守資清ト称シ自得軒ト号ス道灌ノ父ニシテ当代ニ威名アリ其ノ終焉ノ地トシテ保存セラル
      昭和三年二月二十三日 史跡保存指定」(実物の碑文漢字は旧字体)

また建康寺の、リニュウアルされた説明版にいわく、
『建康寺    越生町小杉
関東管領上杉家一族の扇谷上杉家の家宰として、関東にその名を馳せた名将太田道真は、息子の道灌とともに、江戸城、岩槻城、河越城を築いたのち、越生に本拠を移した。ここ大字小杉字陣屋付近が、道真の居館自得軒跡と推定され「太田道真退隠の地」として埼玉県の旧跡に指定されている。
文明18年(1486年)6月、道灌は友人万里集九とともに道真を訪れた。万里の詩文集「梅花無尽蔵」に、その折に詠じた次の七絶が収められている。
      稀郭公(ほととぎす稀なり)
  縦有千声尚会稀(縦へ千声ありと云えども尚会うは稀なり)
  況今一度隔枝飛(況や今一度枝を隔てて飛ぶをや)
  誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
  細雨山中聴未帰(細雨山中に聴きて未だ帰らず)
翌7月道灌は、相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)で主君上杉定正に謀殺され、自得軒が父子最後の対面の場となった。道真は道灌の菩提を弔うため越生山建康寺を開いたという。
門前に架かる道灌橋の対岸には、道灌が調馬した馬場があったと伝わる。また堰と導水路の跡が造る水車「才車」の「才」は城塞(城砦)の塞(砦)に由来するとの説もある。
           平成25年3月 越生町教育委員会』
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(建康寺参道と太田道灌大河ドラマの旗・戸口氏撮影)

2.太田道灌の新銅像
2016年1月、越生町の「里の駅おごせ」展示場で、「太田道灌銅像写真展」が開催され好評を得ました。その際、越生町町長室に秘蔵されていた、彫刻家三枝惣太郎氏制作の太田道灌像の原像が披露されました。この像は、弓を持って狩りをする、たいへん躍動的な太田道灌像の傑作です。その像が近々に銅像となって、越生町役場のロビーをかざることになったので、町民と関係者の期待が盛り上がっています。
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(太田道灌像の原像・三枝惣太郎制作) 

3.太田道灌ハイキングコースと道灌団子
2016年7月16日「第17回太田道灌の集い」は、伊勢原市民文化会館で550人が出席して賑やかに開催されました。その際、出席した越生町長新井雄啓氏は「ハイキングのまち宣言!」を行い、観光コースNO.1として「太田道灌ゆかりコース」を紹介しました。
0章:カバー(裏)史跡「山吹の里歴史公園」(越生町).JPG
(山吹の里歴史公園)
それは、越生駅、山吹の里歴史公園、建康寺、山枝庵、龍穏寺をめぐるコースで、最後に名物「道灌団子」を食べることができます。新たに発刊された「越生町ハイキングガイドブック」(地図付き)に、詳しい情報が載っています。

2016年06月02日

道灌紀行ニュース NO.1  

第17回 太田道灌の集い
関八州・駿河・伊勢原心ひとつに 太田道灌を大河ドラマに
とき:平成28年7月16日(土)午後1時より
ところ:伊勢原市 市民文化会館大ホール
主催:第17回太田道灌の集い実行委員会
   太田道灌を大河ドラマに!推進準備実行委員会
㉙伊勢原市役所の太田道灌像.JPG  
伊勢原市役所前の太田道灌銅像(慶寺丹長制作)

オープニング13時より
(第1部)式典13時20分より
   太田資暁会長挨拶
   伊勢原市長挨拶
   各市各界代表挨拶
(第2部)講演・芸能発表 14時20分より
   小説「道灌」著者 歴史小説家 幡大介さん挨拶
   甲冑隊演舞 
   歌 小倉恵子さん
   踊り 五条詠寿郎さん
    15時30分ごろより
   落語 三遊亭遊吉さん  金原亭馬玉さん
   大河めざしてがんばろう、の出演です。
   みなさま、太田道灌の大河ドラマ実現を目指して、
   お気軽にご来場ください。

☆記念誌発売
現在編集中の「太田道灌530回忌記念誌」も当日販売の予定です。

☆大河ドラマ署名
太田道灌の大河ドラマ実現をめざす署名は、おかげさまで5万8000筆を越えました。引き続きご協力をお願いします。
posted by otadoukan at 12:17| Comment(0) | 道灌紀行ニュース NO.1

2016年06月01日

渋川氏の蕨城址

東京都のJR山の手線の池袋あるいは田端から東北線に乗り換えて、約20分で蕨市につきます。駅の西口から西方へ徒歩約10分で、蕨城址公園にきます。城址の入り口に蕨市教育委員会の説明版がありいわく、
「蕨城は、南北朝時代に渋川氏が舘を構え、大永4年(1524年)に北条氏綱により攻撃され、破壊されたと言われています。江戸時代の初めには、徳川家の鷹狩り用の御殿(休憩地)として城跡が利用されました。江戸時代に記された絵図面によると東西が沼、深田に囲まれた微高地上に、幅約11.8mの囲堀と幅約8.2mの土塁をめぐらし、堀の内側の面積は約12,200uとなっています。
(中略)」また昭和36年(1961年)11月、本丸跡に文学博士諸橋轍次撰書の『蕨城址碑』が建立され、現在は蕨城址公園として整備されています」と。
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(蕨城本丸跡)

「太田道灌状」35段には、次のように記されています。
「渋川左衛門佐殿の御事は、板倉美濃守は最初より道灌に同心の儀をもって、相州所々にて合戦せしめ、御迎に参り、用土原においての御合戦の時も手を摧き、白井へも御共致し、御再興以後小机並びに相州奥三保、下総境根原合戦時も戦功他に異なり候、左衛門殿は白井御留守、相州並びに鎌倉辺りの所々において、ご自身太刀打たれ、御家風中で少々討ち死にし、御粉骨比類なく候処、御名字の地渋川庄今も相違せしむるの段、都鄙に聞え、誠に然るべからず存じ候」《渋川左衛門佐殿の事は、(家老の)板倉美濃守が最初より道灌に同心の行動をとって、相州の所々にて合戦をし、(顕定を河内御座へ)お迎に参り、用土原においての御合戦の時も相手を討ち、白井(城)へもお伴をし、ご再興以後も小机城並びに相州奥三保、下総境根原合戦の時も戦功が他に勝っています、左衛門殿は白井城に留って守り、相州並びに鎌倉あたりの所々において、ご自身太刀を振るって御家中で少々討ち死にし、ご粉骨比類ないところ、御名字の地渋川庄が今も安堵されていない事実が、都鄙に聞え、誠にあってはならないことと思います。》
 
渋川義鏡は、室町時代後期の武将。享徳の乱を鎮めるために室町幕府から関東に派遣された堀越公方足利政知の補佐役として、共に下向しました。関東(武蔵蕨郷、現在の埼玉県蕨市)に分家が存在していた事、渋川氏が足利氏一族でも家格が高い家柄であった事が理由ではないかといわれています。
渋川氏が関東に派遣された長禄元年は、この時代のひとつの節目となる年でした。江戸城と河越城の築城、五十子陣城の構築、堀越公方の関東下向など重要な出来事が目白押しです。
「太田道灌状」の一節「御名字地渋川庄干今令相違之段」の原注に「自山内渋川所領横領」とあるように、渋川氏は山内上杉家に所領を没収され、後に、扇谷上杉家とも対立して失脚しました。渋川氏は、太田道灌の与力として大活躍したことが裏目に出て、上杉氏の不興を呼んだと思われます。
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(蕨城址碑)        
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(「青春」の碑)
群馬県渋川市にあった渋川庄は、平安時代末期にもともと、出自不明の渋川氏が領していたものの、渋川氏が没落して欠所となっていました。その後斯波氏の一族がその地に拠り渋川氏を名のりました。その支族は蕨城に拠り栄えていました。
蕨城址の本丸跡に巨大な「蕨城址碑」があります。碑の裏面に、諸橋轍次撰の長い碑文が刻まれています。いわく「蕨城の歴史は貞治年間武蔵国司渋川義行ここに城居し長禄元年曽孫義鏡関東探題として鎮を定めてより二百余年代々渋川氏の拠るところとなる(後略)」と。

また道灌は「太田道灌状」35段に「相州並びに鎌倉辺りの所々に於いて」と、相州と鎌倉を立て分けて記しています。これが当時の一般的な認識であったとすると、道灌にかかわる「相州」の記述は、鎌倉ではなく伊勢原を指すことになり、道灌の出生地に関しても伊勢原である推測がなりたってきます。

またこの城址には、アメリカのアラバマ州の実業家サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman 1840〜1924)の詩「青春」(YOUTH)の詩碑があります。その中にいわく、
「(前略)Nobody grow old by merely living a number of years; people grow old only by deserting their ideals.(後略)《人は、年を重ねることのみで老いることはなく、人は、その志操を捨て去ることでのみ老いるのです≫》(尾崎孝訳)
蕨市出身の岡田義夫氏がこの詩の全文を翻訳したことにちなみ、英文と和文併記の詩碑がこの城址に建てられました。
蕨城址=埼玉県蕨市中央4-21
posted by otadoukan at 23:42| Comment(0) | 太田道灌展(紙上)

2016年05月02日

吉良氏の世田谷城址

小田急線で新宿から五つ目の駅は豪徳寺です。豪徳寺駅から東急世田谷線に沿って10分も歩き、案内にしたがい左へ曲がると、豪壮な豪徳寺へきます。このあたりが吉良(きら)氏の世田谷城本丸址といわれ、そこに吉良氏が豪徳寺を建てました。豪徳寺は、江戸時代に井伊家の菩提寺となり、境内には井伊直弼はじめ井伊家歴代の墓所があります。
豪徳寺の参道を出て、左を見ると世田谷城址公園が見えます。そこには土塁や空堀が残り、世田谷区教育委員会の説明版に「吉良氏は太田道灌に与力した」と記されています。
豪徳寺本堂.JPG
(豪徳寺本堂)
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(世田谷城址公園)
「太田道灌状」28段には、次のように記されています。
「当方に同心する御奉公衆並びに両国の一揆、その他当方家風中の忠節の事は、一々委しく申すに及ばず候。吉良殿様の御事は、最初より江戸城に御籠り候、彼の下知を以って城中の者共に動き、数ヵ度合戦し勝利を得せしめ候」
《当方に味方する(政知の)家臣たちと武蔵、相模の一揆、その他当方の家中の忠節をつくす者たちについて、一々委しくは申しません。吉良様の事は、最初から江戸城に籠城しました。彼の命令で城中の者たちは、ともに行動し、数回の合戦に勝利を得ました》

吉良氏は足利一門において名門とされ、分家の今川家とともに、足利将軍家の連枝としての家格を有しました。世田谷吉良氏はその庶流奥州吉良氏にあたり、はじめは鎌倉公方家に仕え、14世紀後半に吉良治家が世田谷城を構え、同地に土着しました。以後、扇谷上杉方の太田道灌に与力して活躍しました。「太田道灌状」の中で道灌は、吉良氏を吉良殿様と破格の敬称で呼んで処遇しています。
吉良氏は世田谷と横浜市の蒔田(まいた)を拠点としていたので「世田谷吉良殿」「せたがや殿」「蒔田御所」などと呼ばれ、道灌の詩友万里集九は「梅花無尽蔵」の中で「吉良閣下」という尊称で記しています。忠臣蔵の吉良氏は本宗家の吉良氏です。
1476年(文明8年)、道灌は駿河へ出陣し、今川家の内紛を収めました。その帰途、伊豆北条の堀越公方を訪ね、一部始終を報告するなどして誠意をつくしたので、吉良氏等の堀越公方家の御奉公衆の支援を受けたと思われます。吉良氏は名家ではあったものの戦に縁が薄く、なぜか先祖代々の武功が何も伝えられていません。「太田道灌状」によると、その吉良氏が江戸城の留守番をしながら、数回の合戦を指揮して勝利したということですから、道灌の人の配置が絶妙であったというべきです。
由来碑.JPG  
(世田谷城の由来を記した碑)
代官屋敷跡.JPG  
(代官屋敷跡)
世田谷城は経堂台地から南に突き出た舌状台地上に占地し、城域の三方を取り囲む様に麓を烏山川が蛇行し、天然の堀となっていました。この城で持続した吉良氏は後に、後北条氏と縁組をしてその配下に入りました。

世田谷城址公園から南へ500メートルも歩いて上町駅を越えると、ボロ市通りがあり、世田谷区郷土資料館と代官屋敷(都史跡)跡があります。この資料館には、吉良氏の詳しい説明資料と文書があるので必見です。さらにここには、思いがけなくも江戸氏の末裔木多見氏の資料も展示してあるので助かります。上町駅より北東へ少しいくと吉良氏の菩提寺勝光院があり、吉良氏代々の墓所(区史跡)があります。
世田谷城址公園=東京都世田谷区豪徳寺2丁目
世田谷郷土博物館・代官屋敷跡=東京都世田谷区世田谷1丁目
勝光院=東京都世田谷区桜1丁目
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2016年04月04日

奥三保へ(村山の陣から)

東京都の新宿から青梅街道を青梅へ向かって約1時間も走ると、線路のないことで有名な武蔵村山市へきます。武蔵村山市役所手前の(旧)青梅街道大曲というところですこし山側の中藤(なかとう)へいくと、龍華山清浄光院真福寺という真言宗の寺があります。この寺は、710年(和銅3年)に行基が創建したという古刹です。ここが太田道灌の村山の陣址であることは、すでに拙著「道灌紀行」で述べました。村山の陣から西へ約10キロいくと二宮城(あきる野市)があり、そこからさらに約20キロ南下すると津久井の城山(相模原市)へ至ります。さらにその南10キロの相模川沿いに、小沢城(愛川町)があります。
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(真福寺の山門)
1478年(文明10年)4月、道灌軍は磯部城(相模原市)を落城させ、つづいて小沢城を再度落城させ、長尾景春の後詰めがなくなったので4月11日に小机城(横浜市)もついに落城させました。小沢城の落ち武者、相模の本間近江守、海老名左衛門尉、甲州住人加藤たちの相甲連合軍が奥三保に立て籠もり、道灌軍に対抗しました。同年6月、道灌は、奥三保に立て籠もった景春の残党を攻めるため、村山に陣をとり、まず弟の資忠を進軍させました。資忠は仮陣をきづき、奮戦して海老名氏を打ち取りました。やがて本隊が進軍して相模と甲州の景春与党を粉砕しました。相模の景春与党が立て籠もった奥三保とはいったいどこなのでしょうか。
柳田国男著「地名の研究」によると、奈良・平安時代より、開墾した国の領地を「郷」または「保」と称しました。したがって「奥三保」(おくさんほ・おくみほ)の元々の意味は、山林地帯の3か所の国の開墾地です。あるいは「奥山保」と考えて山奥の国の開墾地です。
「奥三保」の史料上の初見は、鎌倉時代末期1323年(元享3年)です。鎌倉幕府第9代将軍北条貞時の13回忌供養として、鎌倉円覚寺内に法堂を建立するために必要な材木を、幕府の臣下でこの地を守る給主「相模国奥三保屋形山給主合田左衛門三郎入道と鳥屋山給主本間五郎左衛門尉」の二人に伐り出させた、という文書があります。
1559(永禄2年)の「小田原北条氏所領役帳」には、「奥三保已上17ヶ村の土貢。此の17ヶ村、田一向これ無し、いずれも山畠まで也」と書かれ、この地は田は無く、山や畑のみの村々であるとあります。他の「北条氏所領役帳」には、村名として「千木良村・沢井村・佐野川村・小渕村・与瀬村・日連・牧野村・青根・鳥屋村・青山村・若柳村・三ヶ木村・吉野村」の13ヶ村が記載され、この地域は旧津久井郡、津久井・相模湖・藤野・城山各町すなわち現在の相模原市緑区にあたります。

『新編相模国風土記稿』には「奥三保」について「其国の山家をさして奥三保と云へり聞く、されば本縣西北の方多くは林巒山嶽に接属せし村居なれば斯く唱へし事にや」とあり、「奥三保」とは神奈川県の西北部の山林山岳で囲まれた地帯という事になります。
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(宮ケ瀬湖)
早春のころ私は、津久井湖や宮ケ瀬湖の周辺を車で走り回ってみたものの、確かに田んぼを1枚も見つけることができず、起伏のある地形と複雑な道に閉口してしまいました。たまたま津久井町史編集室を見つけたので、編集者に景春与党の立て籠もった場所や太田資忠の仮陣の址を尋ねてみたものの、手掛かりはない、ということでした。
「武蔵名勝絵図」(1823年)には「奥三保これは津久井県上川尻の辺を云う」とあります。地理的に考えると、相模の本間氏、海老名氏と甲州の加藤氏等の合流地点として、城山の辺りに彼らが立て籠もったと考えることができます。そして多分、太田資忠の仮陣は、城山の北側で、村山の陣を背にしたところであったと思います。奥三保の戦は、その詳細はいまだ明らかではないものの、道灌にとって、相州と甲州の景春残党を一掃するための重要な一戦でありました。

 「太田道灌状」の第20段にいわく、
「二宮の事は此くの如く候之間、相州磯部の城は降参せしめ、小沢城は自落いたし候。(然りと)雖ども残党等奥三保に立て籠り候之間、道灌当国村山と申す所に陣を寄せ、同名図書助・同六郎両国より奥三保へ差し寄せ候処、本間近江守、海老名左衛門尉、甲州住人加藤其の外彼の国境の者相共に語り、去月十四日御方陣へ寄せ来り候処、搦手において図書助手を摧き勝利を得候。海老名左衛門尉討ち取り候由、夜中に村山陣へ告げ来り候間、未明に罷り立ち、同十六日甲州境を越し、加藤の要害へ差し寄せ打ち散し、鶴河所を始めとして放火せしめ(候)の間、其の儘相州東西静謐に仕り候。」
《二宮の事はこのようであったので、相州磯部の城は降参し、小沢城は自落いたしました。そうは言っても残党等が、奥三保に楯て籠っていたので、道灌は当国村山と申す所に陣を寄せ、同名図書助・同六郎で両国(相模と武蔵)より奥三保へ差し寄せたところ、本間近江守、海老名左衛門尉、甲州住人加藤その外彼の国境の者相共に語り、先月14日御方の陣へ寄せて来たので、搦手において図書助が手を摧き勝利を得ました。海老名左衛門尉を討ち取ったことを、夜中に村山陣へ告げて来たので、未明に出発し、同16日甲州境を越え、加藤の要害へ差し寄せて打ち散し、鶴河所を始めとして(近辺に)放火したので、其の儘相州の東西は静謐になりました。》
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(三増合戦場の碑)
 奥三保の南西端に宮ケ瀬湖があり、そのほとりに県立愛川公園があります。公園内に愛川町郷土資料館があり、小田原北条分限帳(小田原衆所領役帳)など珍しい資料が展示されています。資料館の学芸員の話では、ちょうどこのあたり、愛川町の半原は、奥三保の南の境界になるとのことでした。ここから東方へすこしいくと、1569年(永禄12年)の武田信玄と北条氏康の激戦地三増(みませ)合戦場があります。
 

2015年11月02日

大森御陣・秩父御陣跡、新史料発見

1480年(文明12年)早春、上杉軍の本隊は、秩父の日野要害(熊倉城)にたてこもった長尾景春軍を攻めるため、日野要害を包囲しました。ちょうどその頃、上杉氏が都鄙の和合実現の仲介を果たすという、古河公方との約束実行を遅滞させたため、古河公方が業を煮やして「古河様御変改」すなわち景春軍の後詰めをする動きを見せました。国中(武蔵)はにわかに緊張したので道灌は、先に国中を安泰にしてから日野要害を攻めるよう、本陣すなわち大森御陣の上杉顕定へ進言したのです。しかし顕定は、道灌の提案を承認しませんでした。
「太田道灌状」(1480年)の第26段には、次のように記されています。
「郡内御陣御難儀之時、先被閣日野要害、国中可被成堅固、屋形大森御陣参被申候処、無御承引候」《(秩父)郡内の御陣が御難儀の時、先に、日野要害をそのままにされ、(武蔵)国中を堅固に成さるべく、屋形(顕定)の大森御陣へ参って申しましたところ、御承認ありませんでした》
その後道灌は、新田へ行って所用を果たそうとしたけれども、秩父御陣で顕定から、すぐに日野要害を攻略するよう命令されたので、攻撃を開始して6月24日に落城させました。
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(日野要害・熊倉城址、中央の山、道の駅「あらかわ」から)
「太田道灌状」第26段の後半には、次のようにも記されています。
「忠景相談、向新田可越利根川旨、令儀(議)候処、初者致同心、既に日限相定候処、自身者不可出候間、六月十三日秩父御陣参陣、此由申候。長尾孫五郎、相共可罷立旨覚悟候処、当御陣祇候、先日野城落居可急旨蒙仰候間、色々様々心尽仕候故、彼城被討落候事」
《忠景と相談し、新田へ向い利根川を越えようと、打ち合わせていたところ、(忠景は)初めは賛成し、既に日限を定めていたところ、自身は出発できないといってきたので、六月十三日に秩父御陣へ参陣し、此の事情を(顕定に)申しました。長尾孫五郎ともに出発しようと考えていたところ、当御陣へ祇候し、(顕定から)先に日野城攻撃を急ぐよう命令されたので、色々様々心を尽して、あの城が討ち落された事は、これは道灌の功ではありませんか。》
日野要害攻撃にさいして、即断速攻の道灌にしては、いつになく逡巡していました。それはおそらく、親類でもあり旧知の友でもあった景春を最終的に追い詰めることを、道灌はできるだけ後に延ばそうとしたと思われます。
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(熊倉城址、本郭址の土塁を歩く「荒川・山里自然館ツアーの一行)
第26段に記されている大森御陣と秩父御陣とは、前後の内容から考えて、同一の陣であると思われます。そしてその場所は、秩父市上影森の諏訪神社境内で、顕定はそこで、熊倉城の景春の動きを監視しながら指揮をとっていたと思われます。
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(樹齢700年の諏訪神社の古木)
その地は、荒川と浦山川による崖の上にある要害の地であり、境内を秩父往還道が通っていました。現在も神社の境内に樹齢七百年の巨木があるので、往時は樹木が多数あって大森と呼ばれた可能性があります。武甲山の影がこのあたりまで届いたので影森と呼ばれたそうです。地名の大森と影森が森の字を共有していることは、その関連性を示しています。ここから熊倉城は指呼の間であるから、上杉顕定は熊倉城攻略の対城として、この地を選んだ可能性があります。
江戸時代の文政年間に記されたといわれる「秩父風土記」の古城跡十九か所の項に、上影森が含まれています。近くの下影森に神原(じんばら)と呼ばれる平地があり、「新撰武蔵風土記稿」(1830年)には陣農原(じんのはら)と記されています。
さて最近、この大森御陣跡・諏訪神社説を裏付ける新資料が、秩父市の郷土史家山中雅文氏により提示されました。山中氏は、「絵図に埋もれた本陣土塁」と題するレポートで、秩父市影森の旧家関田家から荒川歴史民俗資料館に寄贈された「明治6年第七月武蔵国秩父郡上影森村地券下調絵図又下絵」等数枚の絵図を解析しています。それによると、明治初期には、諏訪神社東側の神原といわれているところに、長さ南北約300メートル、幅東西約1.5メートルの構築物がありました。また、近年までその近くに、「窪」また「字久保」という地名があり、土塁を作るために土を掘ったところと考えられる、ということです。そして「この構築物は文明12年2月、関東管領上杉顕定が、長尾景春籠る、秩父日野城征伐の拠点として築いた大森本陣の正面を守る防塁(土塁)の遺構と推定いたします」と結論付けています。
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(関田家絵図、左側の黒い部分が神原の土塁跡)
大森御陣があったと思われる場所は今、平坦な宅地に整地され、土塁や堀の遺構を認めることはできないものの、神原という地名が、昔のことすなわち陣原であったことを語っています。

2015年09月12日

清水河畔御陣場跡と倉賀野御陣跡

「太田道灌状」(1480年)には、榛沢御陣、清水河畔御陣場、倉賀野御陣、瀧御陣、秩父御陣、大森御陣などがでてきます。古河公方、関東管領が軍を率いて移動するさい、短期間滞在する場所を御陣と称しました。今日では、文書の中にその地名のみ伝えられ、遺構が残っていないこともあります。今回は、清水河畔御陣場跡と倉賀野御陣跡を探訪します。手掛かりはいずれも、現代に伝わる地名です。
1.清水河畔御陣場跡
「太田道灌状」の第15段には、上杉軍が道灌の作戦にしたがって清水河畔御陣場から用土が原の次郎丸に移動し、用土が原で景春軍に遭遇し、馬返しの策(足軽戦法)で大勝利をする場面が記されています。
「於清水河畔御陣場之事者、彼大河被成前候之間、其日も御滞留候者、可為御難儀旨存申払、次郎丸へ打立候間、被進御旗候。如案凶徒随其行候間、至用土原被返御馬、御眼前各摧手、討亡大軍」
《清水河畔の御陣場の事は、あの大河を前にしているので、(顕定が)その日も御滞在すれは危険になると思い、(顕定に)申しあげて陣払いをし、次郎丸へ向かったので、(顕定は)御旗を進められました。予想通り敵軍は、その作戦にはまったので、用土が原にきて(顕定は)御馬を返され、(上杉軍は顕定の)御眼前において各々の手をくだき、大軍を討ち亡ぼしました》
さて、清水河畔御陣場とはどこでしょうか。埼玉県本庄市の五十子陣跡から北東へ3キロもいくと、御陣場という地名の場所があります。今は、利根川縁の原野で、近くに浄水場などの施設があるだけです。利根川の流域は、氾濫により度々流路を変えているので、往時この辺りは清水河畔であったと推定します。今は、五十子陣跡の北方へ約5百メートルのあたりを流れる、小山川の支流に清水川の名前が残っています。今、御陣場に立つと背後は利根の大河で、かなたに坂東大橋がみえます。
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(御陣場・本庄市)
その頃(文明10年)景春軍は梅沢(本庄市日の出町)に陣張りして五十子陣を占領していました。そして上杉軍は、御陣場に陣張りしていたので、景春軍に夜攻めされたら、大いに危険であったことはすぐわかります。道潅は、その事を上杉定正に説き、直ちに用土が原の次郎丸へ進軍したのでした。
  
2.倉賀野御陣跡
「太田道灌状」の第19段には、上杉軍が陣張りした倉賀野御陣の事が記されています。
「自倉賀野御陣、当方相分候而、此国へ被打出候時も、若干御抑留候しか共、当国無静謐者、御本意難有之由存、親候入道相談、修理太夫ヲ引立、正月二十四日河越江一日打懸著」
《倉賀野御陣より、当方(扇谷上杉方)が分かれて、この国(武蔵)へ出発したときも、(顕定が定正を)すこし引きとめたけれども、当国(武蔵》に平穏がなければ、御本意が達せられないと考え、親である道真に相談、修理太夫(定正)を引き立て、(文明10年)正月二十四日河越へ一日で着き 》
JR高崎線の倉賀野駅から南方へ約10分も歩くと、烏川(からすがわ)河畔の八幡宮のとなりに倉賀野城址が見えます。
倉賀野城は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れて中仙道が通過する交通の要地でありました。城は烏川(からすがわ)左岸の河岸段丘上に立地し、東西800m南北400mを城域としていました。 
倉賀野氏は鎌倉時代の治承年間(1177年〜1189年)に武蔵児玉党の支流である秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称しました。南北朝時代に倉賀野光行が館を改修し倉賀野城を築きました。室町時代に倉賀野氏は、関東管領山内上杉氏の配下になっていたので、倉賀野御陣は倉賀野城であったと思われます。
烏川.JPG    
(城址下の烏川)   
倉賀野城址.JPG
(倉賀野城址碑)
文明10年1月、広場場の対決を相引きにした両上杉氏は、白井城へ入ってから倉賀野御陣へ陣張りしました。1月24日道灌は、上杉定正を急がせて1日で河越城へ帰還し、そのあとすぐに豊島氏の平塚城攻撃にかかります。

2015年08月29日

榛沢御陣跡

「太田道灌状」(1480年)の第5段には、上杉顕定が榛沢御陣(はんざわごじん)にいたことが記されています。
「専去々年於秩父、多比良治部小輔所帯事訴訟被申候処、御領掌、既御落居様被仰候而、無其曲候之間、外聞口惜令存候歟。此事も秩父御陣御難儀奉見。構要害人躰候之間、不慮奉恨、色をも顕候者大切候上、彼仁出頭事、榛沢御陣之時、被奉加一言候之間、以旁儀被申候歟」
《専ら一昨年(文明10年)秩父に於いて、多比良治部小輔の所帯の事を(定正が)訴訟したところ、(顕定は)御領掌し、既に解決したようにおっしゃいまして、その結果がなかったので、(定正は)世間の評判を口惜しく思っていたのでしょうか。此事でも秩父御陣御難儀と(私は)考えます。(多比良は)要害を構える人物であるので、思いがけずに恨んで、(反抗の)行動を起こすことがあれば大変であるので、あの男が出頭の事、榛沢御陣の時、(定正が顕定に)一言話したので、いろいろなことを伝えたのでしょうか》
 
また、第21段では、道灌が榛沢御陣で上杉顕定を迎えたことが、記されています。
未明打立、道灌、景春陣江馳向候処、令退散候。其隙二公方様利根河お御越、古河へ御帰座候キ。然間修理太夫森腰二取陣。道灌者其儘成田張陣、榛沢へ御着お奉待請候。雖然可被立御旗地無候由、御内談候之処、道灌如申者、鉢形要害可然存所候。其故者、大将計有御座御用心之儀者不十分候。祇候面々不退奉従、相兼武上両国地形簡要之由申候処、為始忠景一両輩不庶幾由被申候しか共、當城被移御旗候。其己後若干雖危子細等候、至干今日者、為御無為両国安全御抱候事、非道灌功候哉
《未明に出発して、道灌は、景春の陣へ馳せ向ったところ、景春は退散しました。其の隙に公方様は利根川をお渡りになり、古河へ御帰座されました。その間に修理太夫は森腰に陣を取り、道灌はそのまま成田へ陣を張り、(顕定の)榛沢への到着を待っていました。しかしながら(天子の)御旗を立てるべき地がないので、相談をしていました。道灌の主張は、鉢形の要害に(顕定が)入城すべきだ、ということでした、其の故は、<(平井城は)大将計りの御座があっても御用心は不十分です、つき従う人々が去らずに従い奉り、武上両国に(睨みをきかす)地形が簡要であると言ったところ、忠景始めとして2,3人が賛成ではないと言ったけれども、(顕定は)当城《鉢形城》へ御旗を移されました。それ以後は若干の危ない出来事等があったといえども、今日に至るも、平穏であり両国を安全に治めている事は、道灌の功績ではないだろうか》
両段の内容は前後関係から考えて、上杉顕定の榛沢御陣在陣という同一の事を記述していると思われます。1478年(文明10年)道灌は、古河公方の要請にしたがって鉢形城の景春軍を攻撃し、敗走する景春軍を秩父へ追走しました。このとき秩父で、多比良氏の帰属ならびに所領問題が持ち上がったと思われます。
その後道灌は、顕定に鉢形入城を勧めました。顕定の居城平井城は関東平野の北端であるのに比べると、鉢形城は武蔵と上野ににらみを利かすには絶好の位置でした。道灌は、「地形肝要」という戦略上の観点から、顕定に鉢形入場を強く勧めたので、以後鉢形城は山内上杉家の本拠地となりました。
景春軍の秩父移動後に、顕定の鉢形入城という重要な出来事の発端の場所となった榛沢御陣とはいったいどこなのでしょうか。埼玉県深谷市の道の駅「はなぞの」から県道86号線に入り、北方へ小一時間分も走ると「榛沢」という道路標識がかかる交差点へきます。このあたりが榛沢で、上越線本庄駅から約3キロの地点です。あたりは平坦な畑作地帯で、志戸川という川が蛇行しています。
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(榛沢交差点の道路標識)   
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(蛇行する志戸川)
深谷市教育委員会の説明によると、「榛沢御陣とは、上杉顕定軍が布陣したところで、深谷市榛沢の五十子寄りの地であったと思われるが特定できない」とのことです。
県道86号線の榛沢交差点の近傍に榛沢小学校があり、私はその小学校敷地が榛沢御陣跡と推測しました。なぜならばそこでは、蛇行する志戸川が小学校敷地の東半分を囲み、水堀の役目を果たしているからです。「榛」とは、雑木や草が乱れて延びるさま、また、そういう場所を意味します。したがって往時は志戸川が 雑木と雑草に覆われた、相当けわしい沢となって、外敵に対する防衛線となっていたに違いありません。
榛沢から北方約2キロのところに五十子陣跡があり、南方の隣接した地域には岡部、針ヶ谷、用土など、「太田道灌状」と「松陰私語」に登場する地名の場所があります。当時上杉方の五十子陣が、長尾景春の攻撃で崩壊していたので、管領山内顕定は、榛沢を一時の御陣としたのでした。
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2015年07月17日

毛呂氏栄華の跡

「太田道灌状」(1480年)の第3段には、上杉方に転じた毛呂氏の所領に関わる複雑な経緯が述べられ、河内御座で管領上杉顕定が発給した御證状のとおり所領安堵が実行されていないことに対しての、道灌の抗議が記されています。
「毛呂三河守父子進退事、秩父口表、最初自御敵城招出候間御免、則左近太郎致出仕候。然任御証状旨、当知行之地雖不可有相違旨存候、土佐守白井へ致御伴忠節候之間、総領職事不及申立候」
《毛呂三河守父子の進退の事、秩父口表にて、最初に敵の城から脱出して味方したので免ぜられました。すぐに(嫡男の)左近太郎が、(上杉顕定に)出仕しました。そうであるので、御證状の内容のとおり、現状の所領安堵はまちがいないと思っていましたが、(兄の)土佐守が、白井城へ(顕定の)お供をして忠節を尽くしました。ですから総領職の事は(既定のことと思って敢えて)申し立てをしませんでした》
毛呂氏は、藤原氏の流れをくむ有力な国人領主で、豊後守毛呂季光は源頼朝に仕え、毛呂郷を本貫地とする地頭として北浅羽、越生など8か所を領しました。現在も、埼玉県毛呂山町の方々に、毛呂氏栄華の痕跡が史跡として残されています。毛呂山町小田谷に長栄寺・毛呂城址があり、毛呂本郷の街道沿いに榎堂・毛呂季光墓跡、JR八高線毛呂駅付近の線路脇に毛呂氏館・山根城址碑などがあります。
1455年(康生元年)太田道真は家督を道灌に譲り、越生へ隠棲しました。そのとき道真は、毛呂氏の勢力圏を避けて越辺川の向こうに自得軒という舘を建て、山の中に三枝庵(さんしあん)という砦を築いたと思われます。
 毛呂氏館跡.JPG 
(毛呂氏館跡・長栄寺)  
長栄寺の毛呂氏墓.JPG
(毛呂氏の墓・長栄寺)
1476年(文明8年)長尾景春が乱を起こすと毛呂氏は当初、長尾景春方につきました。しかし、1478年7月18日、太田道灌軍が秩父口表すなわち長尾景春軍が拠る鉢形城を攻撃したとき、道灌の外交交渉(調略)により、毛呂氏は上杉方へ転じました。御證状のとおり、毛呂氏の所領が安堵されるように道灌が骨をおっている様子が「太田道灌状」の第3段に記されています。このような道灌の努力が、道灌の人格的信用力を高め、外交交渉に依る味方増大につながりました。
毛呂季光の墓跡.JPG  
(榎堂・毛呂季光の墓所跡)
山根城碑.JPG
(毛呂氏館・山根城跡碑)
毛呂氏はその後、戦国末期に小田原北条氏についたものの、1590年(天正18年)に八王子城の合戦で豊臣方に敗れ、400余年続いた毛呂一族が滅亡しました。
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2015年07月05日

河内御座・上杉氏亡命政権の跡

「太田道灌状」(1480年)の第2段は、上杉氏の亡命政権が発給した御證状についての道灌の弁明です。
「降人等事、道灌於執申人躰者御免。至所帯等も不可有相違之趣、河内御座之時分、御証状申請、涯分廻計略、招付御方候人躰、数輩事候歟。為一人全非自尊候」
《降参した者のうち、道灌が執りなした者は赦免されました。(顕定が)河内城にいた時分に、所領等も安堵されるように(道灌が)御證状を申し受けたので、できるだけ計略を廻らし、味方に招き入れた者が数人いるでしょうか。一人として、道灌の一存で決めたことは全くありません》
1477年(文明9年)1月18日に、長尾景春の急襲をうけ、山内、扇谷、越後上杉方の全軍は太田道真の軍を殿(しんがり)とし、五十子から利根川をわたって那波荘へ遁走しました。そしてさらに、管領上杉顕定の軍は阿内城すなわち河内御座へ至り、そこを亡命政権の拠点として盛んに御證状を発給しました。「松陰私語」(1509年)には「越後は白井に陣を張り、山内は阿内に陣を張り、川越(扇谷)は細井口に陣を張り」と記されています。阿内城は宿阿内城(しゅこうちじょう)とも呼ばれていました。宿阿内城すなわち河内御座とはどこにあったのでしょうか。上杉方が遁走したと思われるコースをたどり、宿阿内城址へいきます。
本庄市の五十子陣址から、国道17号線を少し北東へ走り、国道462号線で利根川へ向かうと、名にし負う、約1キロの坂東大橋があります。この辺りは河原が広く、徒歩で渡ることができそうです。これより下流は水量が多く、これより上流は急流となっています。もちろん、道灌の時代の利根川流路は、現在のものとはかなり違っていたものの、川幅や水量は似ていたと思われます。
 23章:那波城址本丸跡.JPG    
(那波城本丸址碑)
 那波城址碑.JPG
(那波城址碑)  
 那波城址碑 (2).JPG
(那波城址碑説明板)
坂東大橋を渡ってすぐ、左へ曲がり国道354号線に入ります。北西へ走って伊勢崎市堀口町にくると、第2中学校そばに那波城本丸跡の碑があります。さらに進み稲荷町へくると、名波小学校の敷地内に、巨大な、徳富蘇峰書の那波城址の石碑を見ることができます。あらかじめ学校へ依頼しておくと、教頭が案内してくれます。那波氏は、鎌倉時代から戦国時代まで、この地に根を張った豪族で、当時は上杉方についていた模様です。
国道354号線から県道13号線に入り、北上するとほどなく県道27号線との交差点にきます。その辺りが前橋市の亀里町で、定方医院をさがすとその近くですぐに、通称女体神社の鳥居が目に入ります。なまめかしいばかりの、真っ赤な鳥居には「女体大明神」の額がかかっています。そこが、宿阿内城の三の丸址です。
女体神社の後方に、立派な土塁が残っています。往時を語るものはこの土塁だけで、隣接する本丸跡と二の丸跡は、一面の畑となっています。本丸跡に、標示があり、城の見取り図とともに「力丸 宿阿内 城の跡(下川淵カルタ)」としるされています。近くの端気川(はけがわ)が城の防備となっていたようです。
 女体神社.JPG
(女体神社)
 土塁.JPG
(土塁跡)
 宿阿内城址.JPG
(本丸跡の標示)
1477年(文明9年)の1月から約4か月の間ここで、関東管領山内上杉顕定が、御證状を発給しながら不安な日々を送っていました。その年の5月に、豊島氏との激戦を終えた太田道灌が、ここへ両上杉氏を迎えにきました。道灌がいなければ、なにもできない上杉氏でした。一見なんの変哲もない所ではあるものの、この地に立って往時を思えば、悪戦苦闘しながらも必死になって上杉氏を支え続けた太田道灌の苦心が偲ばれて、幾分かの感慨が湧いてくるものです。

2015年05月23日

大串ノ弥七郎の本貫地

「太田道灌状」(1480年)は、「大串ノ弥七郎出仕の事」で始まります。
「雖大串ノ弥七郎出仕ノ事連連申来候、取分去九月、就東上野雑説御近辺自参上之刻申候之処、半可然趣蒙仰候間、今度召具罷立候。然而未御免候」《大串弥七郎の(上杉顕定への)出仕について、先だってより申しあげてきました。とりわけ去る(文明11年)9月に、東上野の雑説の件で、(道灌が顕定の)お側に参上したときから、申しあげてきました。半ば了承との言葉をいただいたので、この度(弥七郎)を呼び連れて参りました。ところが、まだお許しがありません》
大串弥七郎は、長尾景春が乱を起こしたとき、当初景春方につき、後に上杉方に転じました。弥七郎は、秩父の高佐須城(塩沢城)において、景春方の同心傍輩と身命を通わせていたので、城中の様子を知らせてもらいました。その情報に基づき作戦を実行したので、味方を一人も失わずに敵方数十人を討ちとりました、と「太田道灌状」に記されています。
道灌は、他国の国人衆や出稼ぎ衆を意欲的に調略すなわち外交的努力により味方にし、出仕を許して所領安堵をし、自軍の勢力を増しました。大串弥七郎は、それらの国人衆のひとりでした。道灌は武蔵国守護代扇谷上杉家の家宰として、主君上杉定正と管領上杉顕定に、調略した国人衆のとりなしをしたけれども、管領上杉顕定はいたずらに決裁を遅延して道灌をいら立たせていました。
高佐須城の攻略で功労のあった大串弥七郎という人物は、どういう人物で、その本貫地はどこであったのでしょうか。
埼玉県川越市の川越城のそばを走る、国道254号線を車で北上して入間川を渡るとすぐに、道灌有縁の上井草というところで県道76号線に出会います。76号線を北へ15分も走ると吉見町に入ります。「衛生研究所入口」という道路標識のあたりが比企郡吉見町大串です。近くに、道の駅「いちごの里」があります。
この地を本貫地とした武蔵武士横山党の大串次郎重親は、平家物語に登場します。平家物語に、大串次郎重親が宇治川の合戦で徒歩の先陣を遂げたというユーモラスな挿話が記されています。
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(毘沙門堂・金蔵院)    
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(吉見町教育委員会の説明板)
近くに毘沙門堂すなわち大串山金蔵院があり、そこから70メートルほど離れた畑の中に、伝・大串次郎の墓といわれている寶きょう印搭があります。吉見町立図書館の地元史料「吉見町人物誌」によると、「太田道灌状」冒頭に登場する大串ノ弥七郎とは、大串次郎重親の子孫である、と記されているものの詳細はわかりません。現在吉見町大串に、大串次郎重親の子孫と称する、下(しも)姓の家が3軒あり、その祖先は江戸時代まで遡ることができるということです。
大串次郎墓.JPG
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(大串次郎の墓・寶きょう印塔)
「新編武蔵風土記稿」(1830年)に大串次郎陣屋跡として「村の東にあり、少しき高き所にして、今は農民の居家となり、その界隈詳らかならず」とあります。毘沙門堂の少し南に市野川があり、その徒歩橋から200メートル位下流の竹林のあたりが、大串館跡であると伝えられているものの、堤防工事のために遺構は破壊された模様で、なにも確認されません。
ちなみに吉見町のとなりは川島町です。川島町の表というところに、太田道灌陣屋跡があり、そこに道灌の弟叔悦禅師が開基となって太田資家が創建した養竹院があります。地縁からいって、太田道灌と大串弥七郎は旧知の間柄であり、当初弥七郎は、長尾景春の勢いに押されて景春方についたものの、後に道灌に説得されて上杉方に転じたと思われます。
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2015年05月04日

道灌の銅像余話

1. 道灌の銅像は12体
太田道灌は文武両道かつ悲劇の名将であったので、いつどこでも庶民の人気が高く、その銅像は関東とその周辺に合計11体あるとされていました。その11体を、種類別に整理してみます。
狩姿の道灌像=東京国際フォーラム、川越市役所前、伊勢原市役所前、越生町の龍穏寺、東京都の新宿中央公園、佐久市立美術館 、
騎馬の道灌像=東京都墨田区の日暮里駅前、さいたま市岩槻区の芳林寺
文人の道灌像=さいたま市旧岩槻区役所跡地
猿を連れた道灌像=東伊豆町の熱川温泉
嗣法の道灌像=川越市の長福寺
道灌銅像のタイプはヴァライエティに富み、文武両道の多チャンネル武将、太田道灌の面目躍如というべきであります。
ところが最近、太田道灌の等身大銅像が、もう1体あることが判明しました。その銅像は現在、事情があって某所に保管されていて公表できません。やがて、太田道灌大河ドラマが実現した頃、忽然として世に現れると、私は期待しています

2.まぼろしの銅像に酷似のレプリカ発見
実は、さらにもう一体の太田道灌銅像の傑作がありました。それは、朝倉文夫氏の実兄渡辺長男氏が制作した、パブリックアートです。その道灌銅像は、1920年(大正9年)に、旧東京府庁舎の正面玄関前に設置されたけれども、1943年(昭和18年)に供出されて戦場に消え、石こうレプリカも戦災で焼失しました。下の写真は、昭和18年4月8日の読売新聞に掲載されたもので、そのキャプションに「東京府庁の正面玄関で決戦下の大東京を睨んでいた太田道灌と徳川家康の銅像が、こんど銅像仲間に率先して勇ましく出陣した。両銅像とも約170貫である」と記されています。

戦場に消えた、渡辺長男氏制作の太田道灌銅像の実物は、現在見るべくもありませんが、私は先日、それによく似た銅像のレプリカにお目にかかり、こころを騒がせています。
埼玉県越生町龍が谷に、太田道灌の子孫である吉澤明吉宅を訪問しました。春たけなわであったので、周囲の山からうぐいすの声が、心地よく聞こえていました。私が、留守番のおばあちゃんに「静かな所ですね」と言うと、おばあちゃんは「静かすぎます」とおっしゃいました。
初対面ではあったけれども、私が太田道灌のことをいろいろ話すと、おばあちゃんは私の意図を理解して、吉澤家に伝わる、いろいろなお宝を見せてくれました。
吉澤家の過去帳の冒頭には「太田道真五代孫太田新六郎康資長男太田駒千代、弟太田大炊の助(幼名六之助後覚左衛門)の子、吉澤覚之進資政より出づ」と記されています。吉澤家には、その他何種類かの系図があります。それらによると、太田康資の二男、大炊助は母方の姓を名乗り、吉澤覚左衛門として八王子城の北条氏照に仕えました。八王子城落城後に、吉澤覚左衛門は越生で帰農し、その子孫が今日に続いています。吉澤家の現当主は明吉氏で、先代は八郎氏、そのまた先代は七之助氏です。
吉澤七之助氏は、昭和11年7月27日の太田道灌公四百五十年祭に招かれ、そのとき「東京市広報」と記念品の「太田道灌銅像のレプリカ」を受け取りました。この銅像のレプリカを拝見したところ、昭和18年に供出されて戦場に消えた銅像とたいへんよく似ていますが、たしかにそうであるかどうかは確認できません。
道灌像と家康像.JPG 
供出される道灌像と家康像(昭和18年4月8日の読売新聞より・拙著「道灌紀行」より転載)
 
道灌銅像.JPG
吉澤家に伝わる、昭和11年の太田道灌銅像のレプリカ(約30cm)。

昭和11年7月27日に、吉澤七之助さんが受け取った「東京市広報」一面には、太田道灌像の写真とともに『道灌公銅像由来』と題して、下記のような説明文が記されています。
東京市報.JPG
昭和11年7月27日に、吉澤七之助さんが受け取った「東京市広報」、写真は太田道灌銅像。
《道灌稿銅像由来》
「市庁舎玄関にある太田道灌公像は明治四十四年徳川家康公像と共に現在の場所に安置されたものであって、家康公像は黒岩淡哉氏作であり、道灌公像は従来白井雨山氏作とされていたが昭和六年に至り岡崎雪声氏作と判明した。
 仰かも此の両像は明治四十一年本市が日本橋架設に際し装飾用として製作されることとなり道灌公像は雨山氏に家康公像は淡哉氏に依頼し同年此の両像が完成して上野博覧会に出陳された。然るに日本橋の装飾用とする計画が変更され道灌公像は其のまま美術学校倉庫に保管された。後に此の両像が市庁舎玄関を飾ることになったがその際、何故か道灌公像のみは雨山氏作の代わりに之を基本とし作った岡崎雪声氏作の道灌公像が納められたのである。此の事情は永い間世に出なかったが、先年帝展準備委員会の調査に依って故雨山氏作の道灌公像が市庁舎外に在ることが判り更に建畠大夢氏が調査した所雨山の道灌は、岡崎氏の女婿彫刻家渡辺長男(朝倉文夫氏兄)氏の所に現存することが判った。」
文中の白井雨山、岡崎 雪聲、建畠大夢について、筆者註を添えます。
○白井雨山( しらいうざん)
1864−1928、明治-大正時代の彫刻家。明治31年母校東京美術学校 (現東京芸大)の助教授となり、彫塑(ちょうそ)科を新設してその発展につとめる。37年教授。文人画にもすぐれた。
○岡崎 雪聲(おかざき せっせい)1854―1921、明治から大正の鋳造師、調金家。彫刻家の渡辺長男は娘婿。
○建畠大夢(たてはたたいむ)1880―1942、彫刻家、白井雨山の弟子。

「東京市報」の「道灌公銅像由来」によると、白井雨山の道灌像と岡崎 雪聲の道灌像があり、さらに戦場に消えた道灌像は渡辺長男作といわれています。そうすると、我々の知らない3体の道灌像があったことになり、越生吉澤家のレプリカはそれらのうちのどの銅像に符合するのか、話は複雑でミステリーめいています。その謎解きは後日にゆずります。

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