2023年08月23日

越生まつり・道灌の法被を着た男たち

今年7月22日、23日、越生まつりがおこなわれ、町の慈光寺道(中つ道の支道)で、昔ながらの6台の山車(だし)の曳き回しがおこなわれました。
越生町で太田道灌の大河ドラマ実現を推進しているT氏から「越生まつりで道灌の法被(はっぴ)を着た男たちが仲町の山車を曳いてる。しかし道灌の人形はいない」とメールがあったので、急いで越生へ行きました。
まだ夕日が高いころから、あちこちで2台の山車が出っくわし、笛や鉦(かね)、太鼓のお囃子で対抗するのはたいへん面白い見ものでした。越生では、相手の山車のお囃子のリズムに引き込まれた方が、負けなんだそうです。 
    
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(仲町の山車)
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(本町の山車のひょっとこおどり)

仲町の山車は、昭和29年に、東京神田の「だし鉄」と越生町上野の棟梁長谷竹松が共同で制作した、江戸型の山車で唐破風屋根の囃子台、回り舞台を備えています。
仲町の山車の上に道灌はいないものの、綱を引く男たちは確かに道灌の法被を着て、女性たちは道灌の法被を腰に巻いています。

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(仲町の道灌法被をきた男)

私は、何人かの男たちに、道灌法被のいわれを尋ねてみましたが「よくわからない」ということでした。地元の物知り長老に会って尋ねてみると「町内の話し合いでは、当初、山車の上に道灌の人形をのせる予定であったものの、諸般の事情で道灌はのらないことになったので、法被だけ着ています」とのことでありました。

上町の山車には、豊島左衛門の尉経泰がのってます。豊島経泰は、太田道灌が江古田が原で戦った相手豊島泰経とは字の順序がちがいます。

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(新しい太田道灌のうちわ)

新しい、太田道灌図柄のうちわも販売されていました。
そして夕闇が迫ってくるころ、山車は駅前の太田道灌の銅像の前に結集し始めました。その頃にわかに黒雲が現れましたが、文武両道の太田道灌銅像はライトアップされて、面白い雰囲気を醸し出していました。

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(新しい旗にかこまれた、道灌銅像)

私は、いつか仲町の山車に、太田道灌の人形がのることを想像しながら帰途につきました。

2023年07月10日

五十子(いかっこ)陣跡に説明板(道灌紀行ニュースNo.19)

享徳の乱の主戦場
1454年(享徳3年)関東で「享徳の乱」が起りました。1476年(文明8年)には、本庄市五十子で長尾景春の乱が勃発し、その抗争は一層複雑になりました。
利根川を境に、関東管領上杉氏と古河公方の対立抗争が約30年間つづきました。その中で、「都鄙の和睦」を目指す、太田道灌の活躍がひときわ光彩を放っていました。
本庄市では、毎年11月に「本庄まつり」が行われ、諏訪町の太田道灌の山車をはじめ10基の山車が、中山道の宿場町跡を練り歩きます。

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 (本庄まつり・諏訪町・太田道灌の山車) 

享徳の乱の主戦場、五十子陣跡は、本庄市東五十子を貫く国道17号線で分断され、重要史跡としてはややさみしい風景でした。私はコロナ禍もあって、先日しばらくぶりで五十子陣跡を訪れたところ、陣跡の公園に、本庄市教育委員会の立派な説明板(令和3年3月)を発見し、大いに喜びました。
この説明板は、今、史跡内にある建物の陰になりやや人目に付きにくいところにあります。しかしそこには、五十子陣と享徳の乱のことが簡にして要を得て書かれ、貴重な資料の写しも添えてあるので、一見お勧めです。 

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(本庄市教育委員会の説明板「五十子陣跡」)

『武蔵野鑑』(むさしのかがみ)の「五十子古城図」
説明板の記事を一部転記します。
「江戸時代に書かれた書物の『武蔵野鑑』には、塀や土塁を配置した本丸や、周辺の集落名等が描かれており、当時の五十子陣の様子を今に伝えています。五十子陣に関連する遺構は、これまでの調査によって、東五十子地区を中心に、小山川を挟んだ深谷市側も含む広範囲におよんでいたことが確認されています。」
説明板の五十子古城図を拡大します。これが現存する唯一の五十子古城図です。

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(五十子古城図)

この図では、本丸が小山川と女堀川にかこまれ、現在の状況と似ています。左下には蔵国寺があります。この寺の由緒には、1466年関東管領扇谷上杉顯房は当山にて陣中病死(32歳)す、とあります。また『松陰私語』(五十子の記)の執筆者松陰は、この寺で執筆をつづけ80余歳で没しました。
 またこの図の右下に、榛沢(はんざわ)という2文字があります。『太田道灌状』に度々出てくる榛沢御陣とは、この辺りでないかと思われます。
 かつてこの辺りには、扇谷上杉氏、山内上杉氏、岩松氏の軍勢が常駐し、兵士の生活を支える各種商人たちも多数住んでいました。
 説明板を見て、地勢をながめ、昔日の合戦を偲ぶことができます。

2023年03月14日

太田道真・自得軒跡で「井戸見つけた」

埼玉県越生町では毎年早春に、梅まつりが盛んにおこなわれます。梅林の向こうには、白加賀という梅の花が一面に広がっています。白い梅花一面の堀之内を行き過ぎて越辺川の「道灌橋」をわたるとそこは小杉という地で、太田道真の自得軒跡です。今はそこに建康寺がひっそりとしてあり、「太田道真退隠の地の碑」が建っています。
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(越生の白加賀)
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(道灌橋)
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(建康寺の太田道真退隠の地の碑)

建康寺の説明板に言う。
「(前略)文明18年(1486年)6月道灌は、友人万里集九を伴って、道真のもとを訪れた。万里の詩文集『梅花無尽蔵』には、その折に詠まれた次の七言絶句が収められている。
    稀郭公(ほととぎすまれなり)
 雖有千声尚合稀(喩え千声ありと雖も尚合うこと稀なり)
 況今一度隔枝飛(況や今一度枝を隔てて飛ぶをや)
 誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏の初夏に似たるを)
 細雨山中聴未帰(細雨山中に聴いていまだかえらず)(後略)」

私は、地元の郷土史家の案内で、「太田道真退隠の地の碑」の横を通りすこし進みました。するとそこには、石垣で組んだみごとな井戸が少しも崩れずに残っていました。それは直径約60センチ深さ約160センチの空井戸です。大人が入ると首のあたりまでの深さです。そこは切り立った崖の下であるから、往時は水が滾々と沸いたいたと思われます。
すぐ近くに越辺川があるから、これは灌漑用の井戸ではないことは確かです。この地の小字は陣屋であるので、太田道真がこの井戸の水を飲んでいたことは間違いありません。
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(陣屋の空井戸)
現在、事情により、この土地の所有者の許可が得られないため、この井戸へのアクアセス方法が公開されていません。私は、地元の郷土史家の案内で見に行きましたが、気が急いていたためか井戸のそばで、竹の切り株に足を引っかけて、はげしく転倒してしまいました。転んだ時に竹の切り株のわずかのすき間に顔が入り、無事でした。太田道真の加護があったとしか思えません。
私はもう何十回も越生にきていますが、今回初めてこの井戸のことを知りました。これは貴重な文化財です。一刻も早く、この井戸の周辺整備と説明板の設置をして欲しいものです。

道灌橋の下の越辺川の川べりにも、井戸と同じようなしっかりした石垣が積まれていて、意味ありげです。これは初歩的な野面積でもなく、高度な切り石積でもなく、江戸時代の八徳の三吉の積石でもありません。道真が配下に命じて作らせたもののような気がします。
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(道灌橋の下、越辺川の石垣)
この辺りは、人工的な破壊が進んでいないので、とくに梅花の頃、まだ雑草が繁茂してないので、散歩をするといたるところに石碑や地形の特徴が目につき、中世の名残りであるような気がしてきます。