2015年07月17日

毛呂氏栄華の跡

「太田道灌状」(1480年)の第3段には、上杉方に転じた毛呂氏の所領に関わる複雑な経緯が述べられ、河内御座で管領上杉顕定が発給した御證状のとおり所領安堵が実行されていないことに対しての、道灌の抗議が記されています。
「毛呂三河守父子進退事、秩父口表、最初自御敵城招出候間御免、則左近太郎致出仕候。然任御証状旨、当知行之地雖不可有相違旨存候、土佐守白井へ致御伴忠節候之間、総領職事不及申立候」
《毛呂三河守父子の進退の事、秩父口表にて、最初に敵の城から脱出して味方したので免ぜられました。すぐに(嫡男の)左近太郎が、(上杉顕定に)出仕しました。そうであるので、御證状の内容のとおり、現状の所領安堵はまちがいないと思っていましたが、(兄の)土佐守が、白井城へ(顕定の)お供をして忠節を尽くしました。ですから総領職の事は(既定のことと思って敢えて)申し立てをしませんでした》
毛呂氏は、藤原氏の流れをくむ有力な国人領主で、豊後守毛呂季光は源頼朝に仕え、毛呂郷を本貫地とする地頭として北浅羽、越生など8か所を領しました。現在も、埼玉県毛呂山町の方々に、毛呂氏栄華の痕跡が史跡として残されています。毛呂山町小田谷に長栄寺・毛呂城址があり、毛呂本郷の街道沿いに榎堂・毛呂季光墓跡、JR八高線毛呂駅付近の線路脇に毛呂氏館・山根城址碑などがあります。
1455年(康生元年)太田道真は家督を道灌に譲り、越生へ隠棲しました。そのとき道真は、毛呂氏の勢力圏を避けて越辺川の向こうに自得軒という舘を建て、山の中に三枝庵(さんしあん)という砦を築いたと思われます。
 毛呂氏館跡.JPG 
(毛呂氏館跡・長栄寺)  
長栄寺の毛呂氏墓.JPG
(毛呂氏の墓・長栄寺)
1476年(文明8年)長尾景春が乱を起こすと毛呂氏は当初、長尾景春方につきました。しかし、1478年7月18日、太田道灌軍が秩父口表すなわち長尾景春軍が拠る鉢形城を攻撃したとき、道灌の外交交渉(調略)により、毛呂氏は上杉方へ転じました。御證状のとおり、毛呂氏の所領が安堵されるように道灌が骨をおっている様子が「太田道灌状」の第3段に記されています。このような道灌の努力が、道灌の人格的信用力を高め、外交交渉に依る味方増大につながりました。
毛呂季光の墓跡.JPG  
(榎堂・毛呂季光の墓所跡)
山根城碑.JPG
(毛呂氏館・山根城跡碑)
毛呂氏はその後、戦国末期に小田原北条氏についたものの、1590年(天正18年)に八王子城の合戦で豊臣方に敗れ、400余年続いた毛呂一族が滅亡しました。
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2015年07月05日

河内御座・上杉氏亡命政権の跡

「太田道灌状」(1480年)の第2段は、上杉氏の亡命政権が発給した御證状についての道灌の弁明です。
「降人等事、道灌於執申人躰者御免。至所帯等も不可有相違之趣、河内御座之時分、御証状申請、涯分廻計略、招付御方候人躰、数輩事候歟。為一人全非自尊候」
《降参した者のうち、道灌が執りなした者は赦免されました。(顕定が)河内城にいた時分に、所領等も安堵されるように(道灌が)御證状を申し受けたので、できるだけ計略を廻らし、味方に招き入れた者が数人いるでしょうか。一人として、道灌の一存で決めたことは全くありません》
1477年(文明9年)1月18日に、長尾景春の急襲をうけ、山内、扇谷、越後上杉方の全軍は太田道真の軍を殿(しんがり)とし、五十子から利根川をわたって那波荘へ遁走しました。そしてさらに、管領上杉顕定の軍は阿内城すなわち河内御座へ至り、そこを亡命政権の拠点として盛んに御證状を発給しました。「松陰私語」(1509年)には「越後は白井に陣を張り、山内は阿内に陣を張り、川越(扇谷)は細井口に陣を張り」と記されています。阿内城は宿阿内城(しゅこうちじょう)とも呼ばれていました。宿阿内城すなわち河内御座とはどこにあったのでしょうか。上杉方が遁走したと思われるコースをたどり、宿阿内城址へいきます。
本庄市の五十子陣址から、国道17号線を少し北東へ走り、国道462号線で利根川へ向かうと、名にし負う、約1キロの坂東大橋があります。この辺りは河原が広く、徒歩で渡ることができそうです。これより下流は水量が多く、これより上流は急流となっています。もちろん、道灌の時代の利根川流路は、現在のものとはかなり違っていたものの、川幅や水量は似ていたと思われます。
 23章:那波城址本丸跡.JPG    
(那波城本丸址碑)
 那波城址碑.JPG
(那波城址碑)  
 那波城址碑 (2).JPG
(那波城址碑説明板)
坂東大橋を渡ってすぐ、左へ曲がり国道354号線に入ります。北西へ走って伊勢崎市堀口町にくると、第2中学校そばに那波城本丸跡の碑があります。さらに進み稲荷町へくると、名波小学校の敷地内に、巨大な、徳富蘇峰書の那波城址の石碑を見ることができます。あらかじめ学校へ依頼しておくと、教頭が案内してくれます。那波氏は、鎌倉時代から戦国時代まで、この地に根を張った豪族で、当時は上杉方についていた模様です。
国道354号線から県道13号線に入り、北上するとほどなく県道27号線との交差点にきます。その辺りが前橋市の亀里町で、定方医院をさがすとその近くですぐに、通称女体神社の鳥居が目に入ります。なまめかしいばかりの、真っ赤な鳥居には「女体大明神」の額がかかっています。そこが、宿阿内城の三の丸址です。
女体神社の後方に、立派な土塁が残っています。往時を語るものはこの土塁だけで、隣接する本丸跡と二の丸跡は、一面の畑となっています。本丸跡に、標示があり、城の見取り図とともに「力丸 宿阿内 城の跡(下川淵カルタ)」としるされています。近くの端気川(はけがわ)が城の防備となっていたようです。
 女体神社.JPG
(女体神社)
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(土塁跡)
 宿阿内城址.JPG
(本丸跡の標示)
1477年(文明9年)の1月から約4か月の間ここで、関東管領山内上杉顕定が、御證状を発給しながら不安な日々を送っていました。その年の5月に、豊島氏との激戦を終えた太田道灌が、ここへ両上杉氏を迎えにきました。道灌がいなければ、なにもできない上杉氏でした。一見なんの変哲もない所ではあるものの、この地に立って往時を思えば、悪戦苦闘しながらも必死になって上杉氏を支え続けた太田道灌の苦心が偲ばれて、幾分かの感慨が湧いてくるものです。

2015年05月23日

大串ノ弥七郎の本貫地

「太田道灌状」(1480年)は、「大串ノ弥七郎出仕の事」で始まります。
「雖大串ノ弥七郎出仕ノ事連連申来候、取分去九月、就東上野雑説御近辺自参上之刻申候之処、半可然趣蒙仰候間、今度召具罷立候。然而未御免候」《大串弥七郎の(上杉顕定への)出仕について、先だってより申しあげてきました。とりわけ去る(文明11年)9月に、東上野の雑説の件で、(道灌が顕定の)お側に参上したときから、申しあげてきました。半ば了承との言葉をいただいたので、この度(弥七郎)を呼び連れて参りました。ところが、まだお許しがありません》
大串弥七郎は、長尾景春が乱を起こしたとき、当初景春方につき、後に上杉方に転じました。弥七郎は、秩父の高佐須城(塩沢城)において、景春方の同心傍輩と身命を通わせていたので、城中の様子を知らせてもらいました。その情報に基づき作戦を実行したので、味方を一人も失わずに敵方数十人を討ちとりました、と「太田道灌状」に記されています。
道灌は、他国の国人衆や出稼ぎ衆を意欲的に調略すなわち外交的努力により味方にし、出仕を許して所領安堵をし、自軍の勢力を増しました。大串弥七郎は、それらの国人衆のひとりでした。道灌は武蔵国守護代扇谷上杉家の家宰として、主君上杉定正と管領上杉顕定に、調略した国人衆のとりなしをしたけれども、管領上杉顕定はいたずらに決裁を遅延して道灌をいら立たせていました。
高佐須城の攻略で功労のあった大串弥七郎という人物は、どういう人物で、その本貫地はどこであったのでしょうか。
埼玉県川越市の川越城のそばを走る、国道254号線を車で北上して入間川を渡るとすぐに、道灌有縁の上井草というところで県道76号線に出会います。76号線を北へ15分も走ると吉見町に入ります。「衛生研究所入口」という道路標識のあたりが比企郡吉見町大串です。近くに、道の駅「いちごの里」があります。
この地を本貫地とした武蔵武士横山党の大串次郎重親は、平家物語に登場します。平家物語に、大串次郎重親が宇治川の合戦で徒歩の先陣を遂げたというユーモラスな挿話が記されています。
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(毘沙門堂・金蔵院)    
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(吉見町教育委員会の説明板)
近くに毘沙門堂すなわち大串山金蔵院があり、そこから70メートルほど離れた畑の中に、伝・大串次郎の墓といわれている寶きょう印搭があります。吉見町立図書館の地元史料「吉見町人物誌」によると、「太田道灌状」冒頭に登場する大串ノ弥七郎とは、大串次郎重親の子孫である、と記されているものの詳細はわかりません。現在吉見町大串に、大串次郎重親の子孫と称する、下(しも)姓の家が3軒あり、その祖先は江戸時代まで遡ることができるということです。
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(大串次郎の墓・寶きょう印塔)
「新編武蔵風土記稿」(1830年)に大串次郎陣屋跡として「村の東にあり、少しき高き所にして、今は農民の居家となり、その界隈詳らかならず」とあります。毘沙門堂の少し南に市野川があり、その徒歩橋から200メートル位下流の竹林のあたりが、大串館跡であると伝えられているものの、堤防工事のために遺構は破壊された模様で、なにも確認されません。
ちなみに吉見町のとなりは川島町です。川島町の表というところに、太田道灌陣屋跡があり、そこに道灌の弟叔悦禅師が開基となって太田資家が創建した養竹院があります。地縁からいって、太田道灌と大串弥七郎は旧知の間柄であり、当初弥七郎は、長尾景春の勢いに押されて景春方についたものの、後に道灌に説得されて上杉方に転じたと思われます。
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2015年05月04日

道灌の銅像余話

1. 道灌の銅像は12体
太田道灌は文武両道かつ悲劇の名将であったので、いつどこでも庶民の人気が高く、その銅像は関東とその周辺に合計11体あるとされていました。その11体を、種類別に整理してみます。
狩姿の道灌像=東京国際フォーラム、川越市役所前、伊勢原市役所前、越生町の龍穏寺、東京都の新宿中央公園、佐久市立美術館 、
騎馬の道灌像=東京都墨田区の日暮里駅前、さいたま市岩槻区の芳林寺
文人の道灌像=さいたま市旧岩槻区役所跡地
猿を連れた道灌像=東伊豆町の熱川温泉
嗣法の道灌像=川越市の長福寺
道灌銅像のタイプはヴァライエティに富み、文武両道の多チャンネル武将、太田道灌の面目躍如というべきであります。
ところが最近、太田道灌の等身大銅像が、もう1体あることが判明しました。その銅像は現在、事情があって某所に保管されていて公表できません。やがて、太田道灌大河ドラマが実現した頃、忽然として世に現れると、私は期待しています

2.まぼろしの銅像に酷似のレプリカ発見
実は、さらにもう一体の太田道灌銅像の傑作がありました。それは、朝倉文夫氏の実兄渡辺長男氏が制作した、パブリックアートです。その道灌銅像は、1920年(大正9年)に、旧東京府庁舎の正面玄関前に設置されたけれども、1943年(昭和18年)に供出されて戦場に消え、石こうレプリカも戦災で焼失しました。下の写真は、昭和18年4月8日の読売新聞に掲載されたもので、そのキャプションに「東京府庁の正面玄関で決戦下の大東京を睨んでいた太田道灌と徳川家康の銅像が、こんど銅像仲間に率先して勇ましく出陣した。両銅像とも約170貫である」と記されています。

戦場に消えた、渡辺長男氏制作の太田道灌銅像の実物は、現在見るべくもありませんが、私は先日、それによく似た銅像のレプリカにお目にかかり、こころを騒がせています。
埼玉県越生町龍が谷に、太田道灌の子孫である吉澤明吉宅を訪問しました。春たけなわであったので、周囲の山からうぐいすの声が、心地よく聞こえていました。私が、留守番のおばあちゃんに「静かな所ですね」と言うと、おばあちゃんは「静かすぎます」とおっしゃいました。
初対面ではあったけれども、私が太田道灌のことをいろいろ話すと、おばあちゃんは私の意図を理解して、吉澤家に伝わる、いろいろなお宝を見せてくれました。
吉澤家の過去帳の冒頭には「太田道真五代孫太田新六郎康資長男太田駒千代、弟太田大炊の助(幼名六之助後覚左衛門)の子、吉澤覚之進資政より出づ」と記されています。吉澤家には、その他何種類かの系図があります。それらによると、太田康資の二男、大炊助は母方の姓を名乗り、吉澤覚左衛門として八王子城の北条氏照に仕えました。八王子城落城後に、吉澤覚左衛門は越生で帰農し、その子孫が今日に続いています。吉澤家の現当主は明吉氏で、先代は八郎氏、そのまた先代は七之助氏です。
吉澤七之助氏は、昭和11年7月27日の太田道灌公四百五十年祭に招かれ、そのとき「東京市広報」と記念品の「太田道灌銅像のレプリカ」を受け取りました。この銅像のレプリカを拝見したところ、昭和18年に供出されて戦場に消えた銅像とたいへんよく似ていますが、たしかにそうであるかどうかは確認できません。
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供出される道灌像と家康像(昭和18年4月8日の読売新聞より・拙著「道灌紀行」より転載)
 
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吉澤家に伝わる、昭和11年の太田道灌銅像のレプリカ(約30cm)。

昭和11年7月27日に、吉澤七之助さんが受け取った「東京市広報」一面には、太田道灌像の写真とともに『道灌公銅像由来』と題して、下記のような説明文が記されています。
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昭和11年7月27日に、吉澤七之助さんが受け取った「東京市広報」、写真は太田道灌銅像。
《道灌稿銅像由来》
「市庁舎玄関にある太田道灌公像は明治四十四年徳川家康公像と共に現在の場所に安置されたものであって、家康公像は黒岩淡哉氏作であり、道灌公像は従来白井雨山氏作とされていたが昭和六年に至り岡崎雪声氏作と判明した。
 仰かも此の両像は明治四十一年本市が日本橋架設に際し装飾用として製作されることとなり道灌公像は雨山氏に家康公像は淡哉氏に依頼し同年此の両像が完成して上野博覧会に出陳された。然るに日本橋の装飾用とする計画が変更され道灌公像は其のまま美術学校倉庫に保管された。後に此の両像が市庁舎玄関を飾ることになったがその際、何故か道灌公像のみは雨山氏作の代わりに之を基本とし作った岡崎雪声氏作の道灌公像が納められたのである。此の事情は永い間世に出なかったが、先年帝展準備委員会の調査に依って故雨山氏作の道灌公像が市庁舎外に在ることが判り更に建畠大夢氏が調査した所雨山の道灌は、岡崎氏の女婿彫刻家渡辺長男(朝倉文夫氏兄)氏の所に現存することが判った。」
文中の白井雨山、岡崎 雪聲、建畠大夢について、筆者註を添えます。
○白井雨山( しらいうざん)
1864−1928、明治-大正時代の彫刻家。明治31年母校東京美術学校 (現東京芸大)の助教授となり、彫塑(ちょうそ)科を新設してその発展につとめる。37年教授。文人画にもすぐれた。
○岡崎 雪聲(おかざき せっせい)1854―1921、明治から大正の鋳造師、調金家。彫刻家の渡辺長男は娘婿。
○建畠大夢(たてはたたいむ)1880―1942、彫刻家、白井雨山の弟子。

「東京市報」の「道灌公銅像由来」によると、白井雨山の道灌像と岡崎 雪聲の道灌像があり、さらに戦場に消えた道灌像は渡辺長男作といわれています。そうすると、我々の知らない3体の道灌像があったことになり、越生吉澤家のレプリカはそれらのうちのどの銅像に符合するのか、話は複雑でミステリーめいています。その謎解きは後日にゆずります。

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2014年12月11日

 道灌の時代・企画展の「寶生寺文書」等 

東武東上線武蔵嵐山駅西口から徒歩15分で、埼玉県立嵐山史跡の博物館・菅谷館跡へきます。車の場合は、関越道嵐山小川ICから約10分です。この博物館で「企画展・道灌の時代、戦国時代は関東から始まった」が、開催中です。
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(博物館入口)       
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(菅谷館跡説明板)
  私は先に横浜市の寶生寺(ほうしょうじ)を訪れ、そこに太田道灌の重要な文書が伝わっていたことを知って感慨を深くしました。しかしそのときには、その文書を拝見することができずに、残念に思っていました。この度はからずも、その文書の真筆に出会うことができました。
 この企画展示で、寶生寺蔵の「太田道灌禁制」と「太田道灌書状」の本物が展示されています。道灌の筆跡はまことに達筆でその花押もおもしろいものです。道灌の書状の筆跡を、友人の書道家南房泰碩氏に見ていただいたところ、「書体から考えると、道灌の人柄は几帳面かつ多才で、当時は心身ともに疲れていたと思われます、なぜならば、行の下方で右に流れているからです」とコメントしてくれました。その当時太田道灌は、1478年(文明10)1月から3カ月間も小机城を包囲していたので、軍事指揮と後方指揮で疲労困憊に達していたことは間違いありません。
そのほか私の興味を著しくひいたのは、安保(あぼ)文書の「後花園天皇綸旨写」です。これは、足利持氏追討の綸旨です。「太田道灌状」には「天子の御旗」という表現が、類似の表現をふくめて10回もでてきます。この御旗とは、1455年(享徳4年)後花園天皇から下賜された足利成氏追討の「関東御退治の綸旨」と天子(錦)の御旗です。これらの綸旨がよりどころとなり、上杉氏(幕府方)と古河公方の権力二重構造がつづいたのです。道灌の大義は、この権力の二重構造を解消し、都鄙の和睦すなわち関東御静謐を実現することでした。そして道灌は、九分通りその業をなしとげたところで、大義を理解しない者たちにより、命を断たれました。
今回の企画展には、その他、「太田道灌状」はもちろん「鎌倉大草紙」「松陰私語」「上杉定正状」や道灌の「軍配団扇」「大園寺古天明霰釜」などが展示されているので、太田道灌研究者や道灌ファンにとっては必見と思われます。
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(菅谷館跡の空掘跡)         
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(畠山重忠像)
菅谷館跡は、総面積13万平米 という広大な平城の址で、国指定史跡の「比企城館群菅谷館址」として保存されています。複雑に配置された土塁や空堀が良好に残っています。菅谷館は鎌倉時代に、桓武平氏の嫡流畠山重忠の居館であったけれども、畠山家没落後に山内上杉家に属していました。
道灌没後、1488年(長享2)道灌の子太田源六郎資康は、若干13歳にして、父を謀殺した扇谷上杉家を去り、山内上杉側の菅谷の陣中にいました。 
道灌の文学の友万里集休は、その年8月17日に菅谷陣中の資康を訪ね、36日間も滞在してしまいました。菅谷原の合戦は激しく、万里は「両上杉戦死者七百余、馬亦数百疋」(梅花無尽蔵)と記しています。激戦の陣中に36日間も滞在するとは、それだけ万里の道灌遭難に対する悲しみは深く、未練は強かったのです。
菅谷館址から254号線を車で小川町方面へ5分も走ると、天台宗の成覚山実相院平澤寺(へいたくじ)という古刹と白山神社へ来ます。入口に「旧平澤寺跡」「太田資康詩歌会跡」と題した磁器の説明板があります。ここは菅谷原の合戦中に、太田資康の軍営があった所といわれています。万里集九が菅谷滞在中の1488年(長享2年)9月25日に、資康は万里のために、ここで月を愛でながら詩歌会を開いて送別の宴としました。資康は万里の、父道灌に対する好意に謝し、おそらくは二度と出会うことはないであろうお互いの行く末に感慨を馳せながら、戦陣の中でしばしの憩いの時を持ったのでした。万里は、道灌が戦陣のなかでも歌を詠んだことを思い起こし、関東武士が軍営にあって風雅を楽しむ風習を称え、西国にはその風習がないと言い、さらに資康の武運を願い、越後を目指して旅立ちました。
企画展・道灌の時代「戦国時代は関東から始まった」は、埼玉県立嵐山史跡の博物館で2014年12月6日(土)から2015年2月22日(日)まで開催されています。博物館の企画展観覧後に、史跡を逍遥し、太田資康と万里集九の思いを偲ぶのもまた一興であります。

2014年08月02日

太田道灌のロジスティックス

1.寶生寺・小机城包囲中の道灌の祈願寺 
横浜駅から、市営地下鉄ブルーラインで湘南台方面へいくと、10分余りで蒔田(まいた)につきます。蒔田駅から東へ10分程歩き、堀の内1丁目1番地という意味ありげな交差点で右へ曲がると、すぐに寶生寺(ほうしょうじ)の石碑がみえます。
参道の急階段を登ると、山上にたいへん趣きのある山門、鐘楼や本堂があります。なぜか境内に人影はなく、あたりは夏草におおわれ、紫紅色の百合が微風にゆれていました。山門のまわりに説明板があり、寺の由緒や所蔵していた文書の説明が記されています。由緒書の板は昭和初年まで境内の西北にあって横濱十名木の一として知られた通称「千年松」の餘材を使用したものです。
それによると寶生寺は、清龍山寶金剛院と号し、平安時代末期の1171年(承安元)に覚清法印により開創された真言宗(古義)の寺です。またそれには「文明8年、小机城を包囲中の太田道灌が當寺宛てに祈祷と食糧の禮状に併せて禁制状を寄せた」と記されています。これが事実とすると、小机城の戦いの真相解明が一歩進みます。私は、この場所にもっと早く来るべきであったと悔やみました。
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(寶生寺石碑)    
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(寶生寺・本堂)
 1478年(文明10年)1月、小机城主小机昌安と矢野兵庫助は長尾景春を支援したので、太田道灌は小机城を攻撃しました。「古河公方足利成氏書状写」には「下武蔵事は、御方者共小机要害へ馳籠り候処、去る二十八日、太田道灌差し寄せ陣を取り進らせ候」とあるので、古河公方配下の軍勢も小机城籠城に加わっていました。したがって城方は多勢で、意気軒昂であったと思われます。
この城址から北方へ約1キロの所に、道灌軍が帯陣した亀の甲山があります。城方は大勢で道灌軍は無勢であったので容易に貫きがたく、3ヶ月間も包囲し続けていました。3月には、長尾景春の腹心吉里宮内が後詰めとして二宮城(あきる野市)に迫っていたので、道灌は心中穏やかではなかったと思います。
「新編武蔵風土記稿」(1830年)によると、同年4月10日に道灌は、戦の勝敗は兵の多少によらず、勢いに乗るにしかず、我今、俳諧の歌を詠みて兵士を励ますべし、声に応じて進めとて、
  小机は先ず手習いのはじめにていろはにほへとちりぢりになる
と戯れ歌を詠み、進軍ラッパに代えて進撃しました。兵卒はにわかに勢いつき、道灌軍は大勝を博しました。戯れ歌で戦に勝ったという言い伝えの背後に、なみなみならない道灌の苦労があった模様です。
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(寶生寺由緒書) 
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(小机城址)
道灌軍にとって、小机城包囲は予想外の長陣になったので、文明10年2月には禁制を出して領民の治安を維持したのでした。そしてさらに、寶生寺で戦勝祈願をして将兵の士気を高め、なおかつ寺方に食料の提供を依頼したのでした。

当寺は僥倖にも、関東大震災の火災からも横浜空襲からもまぬがれ、所蔵する多数の古文書、佛画は安泰で、現在神奈川県立博物館に寄託、順次展観されています。私は寶生寺をあとにしてすぐに、神奈川県立博物館と横浜市立図書館へいき、寶生寺文書を調べました。
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(神奈川県立博物館・旧横浜正金銀行本店・国指定重要文化財)
太田道灌禁制には,「武州久良木(岐)郡平子郷於石川談義所,当手軍勢濫妨狼藉事、右、有違犯之輩者、可被処罪科之状如件、文明十年二月 沙彌 道灌花押」(寶生寺文書)と記され、乱暴狼藉を禁じています。禁制とは、統治者が禁止事項を公示するために作成する文書です。道灌は、軍勢の規律を維持するためにこの禁制を発給しました。文中の談義所とは学林のことです。
もう一通には「為當陣御祈祷巻数一枝並薯蕷贈給候、祝着之至候也 恐々謹言 卯月十日 沙彌道灌花押 謹上寶生寺」(寶生寺文書)と記されています。文中の薯蕷(しょよ)とはながいものことです。
1332年(嘉吉2)に領主により横濱村薬師堂兔として当寺あてに田畑の寄進を受けた寶生寺文書があります。これは「横濱」の地名のあらわれた史上最古の文書として有名です。

寶生寺は小机城から約10キロもありますが、当時、この寺の勢力が盛んで五十余箇寺の末寺を持ち、天下泰平の祈願道場としても有名であったので、道潅はあえて訪れたと思われます。
戦において、ややもすれば見落としがちであるけれども、兵士の士気と規律を維持し、食料等の生活物資を調達し、領民の治安を守り味方にすることは極めて重要です。戦に臨んでは戦術のみならず、現代でいうロジスティック(兵站)にも道灌は、細かい気配りを欠かさなかったことが、寶生寺文書によりわかります。
 
寶生寺の寺域周辺には、タブノキ、スダイジ、シラカシなどで自然の林相が維持され、「商店街や住宅街のなかにあって、これだけ自然度が高い樹林が残されているのは、現代の奇蹟といえるほど珍しい」と、神奈川県教育委員会の説明板に記されています。
この寺の本堂(灌頂堂)と印信集一巻は、横浜市の有形文化財です。
宝生寺=横浜市南区堀の内 1−68

2.東福寺の道灌守り刀
横浜市営地下鉄ブルーラインの阪東橋駅から西へ5分も歩くと、京浜急行線の黄金町駅にきて、さらに5分も歩き、赤門町で右へ曲がると、地名の通りの赤門が見えます。それが、光明山遍照院東福寺の山門です。
「新編武蔵風土記稿」東福寺の項に「太田持資入道道灌が中興、短刀一腰、太田道灌の守刀という、古物とみゆれど、作者及び寄納の由来をつたえず」と記されています。
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(東福寺の石碑と赤門)
この寺の人に、道灌の守刀のことをたずねると、「東福寺は太田道灌中興ではありますが、現在そのような刀はございません。当寺は、関東大震災の火災と太平洋戦争の空襲をうけ、御本尊以外の一切が灰燼に帰したので、そのときなくなったと思います」とのことであります。
東福寺=横浜市西区赤門町2−17
posted by otadoukan at 20:57| Comment(6) | 太田道灌のロジスティックス

2014年07月15日

「太田道灌状」の中の気になる地名・成田陣

「太田道灌状」の中で、脇役ではあるものの、度々出てきて気になる地名があります。それは、成田陣です。成田陣へは、太田道灌や長尾景春などいろいろな人物が駆けこんでいます。

1.藤原氏の子孫・成田氏
成田陣へは、JR、秩父鉄道の熊谷駅から、少々の距離がありそうなので車でいってみました。国道17号線熊谷バイバスを北上すると、熊谷市内で上之(かみの)という交差点へきます。その交差点から、斜め南東の方向へ小路を入ると、約50メートル程で泰蔵院という寺の駐車場があり、その前に成田館跡すなわち成田陣跡の標柱と碑があります。標柱には次のように記されています。
「藤原鎌足の子孫藤原道宗の子である助高(資隆)が、大喜元年(一〇五三)に成田の地に館を構え、成田氏を名乗った。その後成田氏は、「関東八家」と称されるまでに勢力を拡大し、成田親泰が城主となるまでの四百余年この地に住み続けた」

成田陣標柱.JPG 
(熊谷市教育委員会が立てた標柱)

成田陣碑.JPG     
(成田館址の碑)
現在このあたりは畑や宅地となり、土塁や堀などの遺構は見あたりません。館跡の碑のとなりには、赤い屋根の大きな牛舎があるだけです。

2.去就に迷う成田氏  
「太田道灌状に曰く、「(文明10年)三月十日、河越より浅羽陣へ差し懸かり、追い散らし候の間、景春は成田御陣へ参り、千葉介と相談、馬を返して羽生峯に取り陣候。同十九日小机より同名図書助の一勢を相添え、河越へ越し、翌日二十日羽生陣へ向かい修理太夫馬を寄せる間、千葉介、景春一戦にも及ばず退散せしめ、成田御陣へ逃げ参り候」と。
これによると長尾景春は、太田道灌軍に追われてたびたび成田陣に逃げこんで自らの与党と談合におよんだようです。
また曰く、
「(文明10年7月)十七日に荒川を越し鉢形と成田の間に陣を取り候の処、夜中に簗田中務大輔方より申される如くは、上州において御申合され候首尾を以って、上下御一統有る可く候。(中略)然る間に修理太夫は森腰に陣を取り、道灌は其の儘成田へ陣を張り、榛沢へ御着を待ち請け奉り候」
成田陣と鉢形城の間は、約20キロもあるので、その間に陣を取るとは、今日の我々の感覚では奇妙な表現です。今日試みに、熊谷(成田陣跡)から寄居(鉢形城)までの国道140号線を走ってみると、メルクマールとなるような山も川もなく、街道筋の館や宿場の跡もありません。往時はこの地域には、ただ高萱の武蔵野の原が広がっていたので、あのような表現になったと思われます。
景春のみならず道灌もまた、成田陣を張ったとなると、成田氏の立ち位置は不可解になります。古河公方方と上杉方の中間の忍城と成田陣の去就は確かに不確かなものでした、そのことを示す次のような一節もあります・
忍城.JPG  
(現在の忍城址・行田市)
「忍城の雑説候う由粗(あらあら)申し来り候間、不慮の越度候ては、彌々難儀たるべき旨存じ、翌日二十九日久下へ陣を寄せ、成田下総守に力を付候之間、彼の城御無為に候。御不審に候えば、事の次いでに此の如く申す段成田に御尋ね有るべく候」(第24段)と。
太田道灌は、成田陣で第15代の成田下総守親泰を勇気づけ、忍城の忍大丞の寝返りをけん制したのでした。久下(くげ)という地名は、今も行田市にあり、成田陣から南方へ約4キロのあたりです。 成田親泰は、道灌没後の1489年(延徳元年)に、ここから約4キロの所にある忍大丞の館を襲撃して奪い取り、湿地の中に忍城を構築しました。近年、映画「のぼうの城」で有名になった名城です。

 成田氏の菩提寺、曹洞宗の太平山龍淵寺(りゅうえんじ)は、国道17号線熊谷バイパスの上之交差点から北方へ約50メートルのところにあります。その墓域に、成田家歴代と旧臣累代の供養塔や五輪塔などがあります。この寺には、成田氏17代の興亡を記した「成田記」が所蔵されていました。
龍淵寺.JPG     
(成田氏の菩提寺・龍渕寺)
成田氏供養塔.JPG
(成田家の供養塔)
成田陣跡は、熊谷市の指定文化財・記念物。史跡です。
成田陣跡・成田館跡=埼玉県熊谷市上之553
忍城=埼玉県行田市本丸17−23
龍淵寺=埼玉県熊谷市上之


2014年05月22日

太田道灌展(紙上)

今回は趣向をかえて、紙上にて「太田道灌展」をおこないます。これらの展示品の大部分は、特別のときにのみ拝見できるか、レプリカのみ拝見できるようになっています。いずれの場合も原則、写真撮影は許可されませんので、残念ながら写真を掲載することはできません。
展示品の(伝)の有無については、一般の扱いに準じ、厳密な考察をしてはいません。
各地の太田道灌銅像については、別途掲載していますので省いています。
追加、修正等の必要がある場合、本ブログのコメント欄にご記入いただければありがたく思います。                                                                                                                               太田道灌展(紙上)  展示品一覧
                    2014.5.21作成

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(東京都北区・靜勝寺・道灌堂の説明板)
(T) 道潅の木像と画像・現在の収蔵場所・住 所・備 考
1 太田道灌木像・靜勝寺・東京都北区・レプリカ3個
2 太田道灌木像・円福寺・東京都板橋区
3 武者絵・大慈寺・神奈川県伊勢原市
4 肖像画・埼玉県立歴史民俗博物館・埼玉県越生町・龍穏寺所有
5 英勝院木像・英勝寺・神奈川県鎌倉市
6 太田資頼法体画像・養竹院・埼玉県川島町
7 叔悦禅師画像・養竹院・埼玉県川島町
8 太田道灌公所用四面兜図・靖国神社・ 東京都千代田区

説明.JPG
(石岡市・総社神社の説明板)
(U) 道灌の遺品等・現在の収蔵場所・住 所・備 考
1 琵琶(千鳥)・福井市立郷土歴史博物館・福井県福井市
2 蘭奢待(らんじゃたい)・尾張徳川美術館 ・愛知県名古屋市・源頼政伝来 道灌所蔵
3 久国太刀・久国神社・東京都港区
4 漆皮軍配・常陸国総社神社・茨城県石岡市
5 漆皮軍配・亀ヶ岡八幡神社・東京都新宿区
6 鰐口(わにぐち)・本行寺・東京都荒川区
7 鉦(しょう)・本行寺・東京都荒川区・源持資の刻名あり
8 頬当て・日向薬師・神奈川県伊勢原市
9 伝・太田道灌鎧・鶴岡八幡宮・神奈川県鎌倉市・桔梗紋
10 伝・太田道灌鎧・草津太田家・ 滋賀県草津市
11 古天明霰釜・大園寺・埼玉県さいたま市
12 雲版・円福寺・東京都板橋区
14 太田資正遺品・大附家・埼玉県都幾川町・ 鞍、鐙、短刀、系図
15 紙本着色叔悦禅師頂相・養竹院 ・埼玉県川島町

(V) 文書と書簡・現在の収蔵場所・ 住 所・備 考
1 太田道灌状 松平家本・島原公民館図書部・長崎県島原市
2 太田道灌状 国学院大本・国学院大学・東京都渋谷区
3    太田道灌状 尊経閣文庫本・尊経閣文庫・東京都文京区 
4 江戸静勝軒詩序並江亭記等写・鎌倉国宝館・神奈川県鎌倉市
5 大田資武状・養竹院・埼玉県川島町
6 太田道灌禁制・宝生寺・横浜市中区
7 太田道灌書状・宝生寺・横浜市中区
8 太田道灌書状・保阪家・鎌倉市
8 太田道灌書状・東京都歴史文化財団・東京都墨田区
9 太田道灌書状・東京都歴史文化財団・東京都墨田区
10 太田道真書状・東京都歴史文化財団・東京都墨田区
11 花月百首(続群書類聚)・各地図書館
12 太田家記・国立公文書館・ 東京都千代田区
13 伝・道潅自筆和歌短冊 ・ 草津大田家・滋賀県草津市
14 武州江戸城歌合・国立公文書館 ・東京都千代田区
15 川越千句・埼玉県立博物館・埼玉県さいたま市
16 紅皿欠皿縁起・大聖院・ 東京都新宿区
17 太田道灌雄飛録・太田資暁氏・東京都武蔵野市

太田道灌の周辺の人物に関する遺品や関連文書は、たくさんありますが今回は、英勝院の像、太田資正の遺品、太田資武状等の限られたものにとどめました。
posted by otadoukan at 08:09| Comment(21) | 太田道灌展(紙上)

2014年04月11日

上杉氏「当方滅亡」(河越夜戦)の跡

1486年(文明18年)7月26日、太田道灌は、伊勢原の糟屋で非業の最期を遂げました。今はのときに道潅は、「当方(上杉家)滅亡」と叫んだ、と「太田資武状」(1644年)は伝えています。道潅が、本当にその言葉を叫んだかどうかを検証することはできないものの、当時の多くの人々は、それが本当だと考えました。扇谷上杉家興隆の最大の功労者そして上杉定正の最強の庇護者であった太田道灌に対して、謀殺をもって報いた上杉家に未来はない、と世の人々はひそかに確信したからです。当時の人々が信じざるをえなかった「当方滅亡」という言葉が、その後、歴史上の事実となって現れた河越夜戦の現場を訪れながら、因果の掟の厳しさを検証してみます。この戦の戦場は広く、各軍勢の動きは錯綜しているので、記述もまた幾分錯綜して重複があることをご容赦ください。
河越夜戦までに扇谷上杉家は、定正、朝良、朝興、朝定とつづき、山内上杉家は顕定、顕実、憲房、憲寛、憲政とつづきました。一方古河公方家は、成氏、政氏、高基、晴氏とつづき、晴氏は後北条家から妻をむかえていました。

1・三ツ木原古戦場
西武新宿線新狭山駅の近く、駅の東の本田技研工業の手前に三ツ木公園があり、公園内には三ツ木原古戦場の碑と説明板が立っています。狭山市教育委員会の説明板に次のような内容が記されています。
古戦場碑.JPG    
(三ツ木原古戦場碑) 
三ツ木公園.JPG
(三ツ木公園)
道灌没後三十数年を経て、小田原城(小田原市)を本拠に武蔵国の全面支配を目指す北条氏綱は、1524年(大永4年)に上杉朝興から江戸城を奪いました。1537年(天文6年)になると氏綱は、河越城をも手に入れようと軍勢を進め、7月11日に三ツ木に着陣しました。これに対して朝興の跡を継いだ朝定が河越城にいましたが、氏綱の出陣を知ると15日に出撃して三ツ木原へ兵を進め、両軍入り乱れての戦いがはじまりました。これが「三ツ木原の合戦」と呼ばれる戦いで、この地から川越にかけての地が戦場になったと伝えられています。この合戦は、城を出て戦った上杉方に討ち死にする者が多く、朝定の叔父の朝成も生け捕りになったことなどにより、北条氏の勝利で終わりました。
かくて河越城は後北条氏に奪われ、上杉朝定は、家臣の難波田弾正が依る松山城(東松山市)へ逃げました。
三ツ木原古戦場・三ツ木公園=埼玉県狭山市新狭山3‐3

   
2・柏原城址・城山砦址
埼玉県狭山市の西武柏原ニュータウンという住宅地の背後にある、入間川の河岸段丘の高台が城山砦すなわち山内上杉氏の柏原城址です。
1545年(天文14年)4月20日、北条氏康は、河越城に籠城する福島綱成等3千の後北条兵を援護するため、城をとり巻く8万の両上杉と古河公方の三派連合軍へ夜討ちをかけました。この戦いが日本三大奇襲の一つといわれている「川越夜戦」です。そのとき、山内上杉憲政が陣を張った所がこの城山であるといわれています。「新編武蔵風土記稿」(1830年)には「土人は『上杉城』と称す」と記されています。
おそらくはこの城にも、4月20日夜半に、北条氏綱の軍勢が押し寄せ、漆黒の闇の中で修羅場を現じたのでありましょう。
城山砦址.JPG      
(柏原城址・城山砦入口)  
本郭跡.JPG
(本郭跡)
柏原城址は、住宅地の背後の崖の上に、ひっそりとかくれています。本郭と第2郭は、その土塁も空掘りも良好に保存されて公園風に整備されています。第三郭は灌木と野草に覆われています。縄張りの基本はやはり、上杉家に伝わる「道灌がかり」流の連郭式です。
世にあまり知られていないこんなところで、よい山城に出会ってもうけたような気分になります。日当たりのよい本郭で、おにぎりでも食べながら周囲の風景をながめると、プチ満足感にひたります。
この城址は、狭山市指定文化財の史跡です。
柏原城址・城山砦址=埼玉県狭山市柏原2376  

3・砂久保陣址
川越市内から国道16号線を横切って県道6号線に入り、4キロも南下して今福という道路標識のところで左に入るとすぐに、砂久保稲荷神社があります。境内にある川越市教育委員会の案内板には、次のように記されています。
「天文15年(1546)のいわゆる川越夜戦の時のことである。上杉憲政は前年の14年9月末からこの砂久保に陣をとり、8万余騎の兵力をもって川越城を攻めさせた。しかし川越城は北条綱成がわずか3千の兵をもって翌15年4月までよく持ちこたえた。やがて援軍にかけつけた北条氏康の8千の兵は、4月20日の夜半に憲政の陣を急襲して敗走させ、まもなく川越城を救援した。この砂久保は川越城の南西4キロのところにあり、正保頃開墾された村で、この合戦の当時は広漠たる原野に過ぎなかった」。
このとき後北条方は、攻めては退く詭計を繰り返し、また河越城の城兵の命と引き換えに城を明け渡す、などと交渉をしました。その間に、川越城籠城の福島綱成の弟、福島弁千代が角兵衛獅子に身を変えて城中へ忍び込み、兄綱成へ連絡をとったという伝承があります。
砂久保陣場跡.JPG     
(砂久保陣址) 
説明板.JPG
(説明板)
砂久保陣址・砂久保稲荷神社=埼玉県川越市砂久保65

4・河越の夜戦の主戦場跡・東明寺
川越市蔵の街並みの始点札の辻から、志多町の方へ500メートルもいくと、時宗の稲荷山称名院東明寺があります。この寺のあたりは東明寺口として、河越城の合戦場として縄張りしてあった場所であったので、河越の夜戦で主戦場となりました。
上杉朝定は、1537年(天文6年)に北条氏綱に三ツ木原の合戦で敗れて河越城を追われ、松山城に退いていました。1545年(天文14年)に朝定は、河越城を奮還しようとして上杉憲政の軍と合体し、古河公方軍も呼び寄せて河越城を包囲しました。その総勢は8万人と伝えられています。これに対し河越城の北条方は守将福島綱成ら城兵3千で籠城半年に及び、兵糧も絶えて追いつめられていました。
河越夜戦跡.JPG    
(東明寺・河越夜戦跡)     
説明板.JPG
(説明板)
1546年(天文15年)4月に北条氏康は八千騎で武蔵国府中に進軍し、同月20日には、油断していた3派連合軍へ夜討ちをかけました。後北条軍は、夜半に松明をもたず、白布を鎧(よろい)に付け、相言葉を決め、重き差もの等を略し、首を取らず切り捨てにすべしと決め、子の刻に押し出しました。同時に河越城からは、福島綱成が黄八幡の旗を翻して打って出て、上杉、公方方を打ち散らしました。妻を後北条家から迎えていた古河公方が、どこまで真剣に戦ったかは、疑問です。
東明寺口の夜戦は凄惨をきわめ、岩槻城主太田資頼等が討死し、上杉方の将難波田弾正は古井戸に落ちて果て、管領方の死者1万3千人(関八州古戦録)と記されています。
この夜戦で古河公方足利晴氏は古河城(古河市)へ敗走し、山内上杉憲政は平井城(藤岡市)へ落ち、扇谷上杉朝定は22歳で討ち死しました。河越城、岩槻城も後北条方に帰して上杉領は消滅しました。そして機を見るに敏な有力国人衆であった大石源在衛門、藤田右衛門左はすぐに後北条方へ帰服しました。
平井城へ落ちた管領の上杉憲政はその後、越後の長尾景虎を訪ね、上杉の名跡と管領職を譲り、上杉謙信が出現しました。かくて道灌没後60年にして、上杉家は名実ともに滅亡して消失しました。
川越市立博物館には、川越市の行伝寺に伝わる過去帳が展示されています。それには、河越夜戦の戦死者として2800余名の戒名が記されています。この数字は、「関八州古戦録」の数字と大きく違いますが、それが真実に近いのではないかという気がします。河越の夜戦は、柏原城、砂久保陣場、東明寺口など広範囲で戦われた夜戦なので、その全貌を見た者も記録した者もいません。したがって、歴史の転換点となったこの河越夜戦は、たいへん重要かつ興味深いい、今後の研究課題であります。
河越夜戦跡・東明寺=埼玉県川越市志多町13

5.宛て外れの深大寺城
国道20号線を調布市で北へ曲がるとすぐに、有名な観光地である深大寺のそば屋通りにきます。通りの外れに都立神代植物公園水生植物園があり、その中の高台が深大寺城址です。水生植物が茂っている沼沢地の端の約10メートルの崖の上が第一郭で土塁に囲まれています。第二郭は芝生広場となって堀と土塁で囲まれ、第三郭はほとんど住宅地になっています。
1486年(文明18年)太田道灌が上杉定正に謀殺されると後北条氏が勢いを増し、1524年(大永4年)扇谷上杉方の江戸城を奪いました。定正から四代目の上杉朝定は川越城に依って1537年(天文6年)、江戸城を奪還するため、また後北条軍の北上を阻止するために深大寺城を築きました。深大寺城は、天嶮に拠る江戸城に比べるとはるかに小振りではあるけれども、舌状台地の平地を、空掘りと土塁により三つの郭に区切った連郭式縄張りであります。江戸城にこだわる朝定は、江戸城の「道灌がかり」をまねて深大寺城の縄張りをしたのでしょう。
深大寺城縄張り図.JPG     
(深大寺城縄張り図)  
土塁と空掘.JPG
(第二郭の土塁)   
1537年(天文6年)の7月、北条氏綱は深大寺城を無視して素通りし、三ツ木が原へ向かい、川越城を攻略しました。かくて深大寺城は立派な城であるにもかかわらず、その役目を果さないまま廃城となりました。道灌没後、気の利いた家臣や優秀な軍師は扇谷上杉氏を去り、13歳の朝定を補佐して適切な戦略を練る人物はいなかったのでしょう。結果的には、扇谷上杉氏は全く役に立たない城を、大々的に築城したことになり、今日で云えば、無駄な函モノ行政で市民の税金を浪費したようなことです。しかし皮肉にも今では、この城址は国の史跡に指定されて都民の憩いの場となっているので、扇谷朝定のけがの功名というべきであります。
深大寺城址=東京都調布市深大寺元町2丁目

2014年03月11日

二つの三芳野天神社と平川天満宮

この度あらためて、川越城とその周辺を調べてみました。その結果困ったことに、否、おもしろいことに、川越には、なにしおう「三芳野天神社」も「天神さまの細道」も二つあることがわかりました。天神社とは、菅原道真を祀った神社で、天満宮ともいわれて全国各地にあり、「通りゃんせ」の唄発祥の地も方々にあります。ちなみに河越城は江戸時代に入り、川越城と表記されるようになりました。

1・川越城の三芳野神社
川越城址へは、JR線川越駅あるいは西武新宿線本川越駅から、小江戸巡回バスに乗れば十数分で行けます。歩いても行ける距離です。川越城の本丸跡に三芳野神社があります。この神社の通称は、三芳野天神社です。この神社の由緒書の冒頭に次のように記されています。「平安時代のはじめ、大同年間(806〜810)の創建と伝え、三芳野十八郷の総社とし崇敬をあつめました。太田道灌は、河越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は、徳川幕府直営の社として庇護をうけた。」
塙保己一が編纂した群書類従に「河越記」という合戦記があります。これは、上杉氏時代の河越城に伺候していた、西脇という陣僧らしき人物が書いた記録です。その記録には、「この城は、太田道真の築城で、ここは三芳野の里である。昔、在原の業平が三芳野の田面の雁と詠んだのもここである。そして、北野の天神社がここに勧請された」との意味がしるされています。
その他いろいろな説があるけれども、私は、太田道真が主導して此処に河越城本丸を築き、天神社を勧請したと思います。道真は、歌の達者であったから、インテリジェンスの神ともいうべき天神にはとりわけ深い愛着を持っていたに違いありません。
この神社の参道が「通りゃんせ」の唄にある天神さまの細道といわれ、「わらべ唄発祥の所」の碑があります。参道の入り口に、在原業平の歌碑があり「我が方に、よると鳴くなる三芳野の 田面の雁をいつかわすれむ」と彫られています。
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(三芳野天神社) 
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(わらべ唄発祥の所の碑)
三芳野天神社=埼玉県川越市郭町2−13−1

2・的場の三芳野天神社
JR線の川越駅から川越線で西へ行くと二つ目の駅が的場です。的場駅から徒歩で国道114号線に出て、数分歩くと曹洞宗の的場山法城寺という寺があります。その寺に隣接して三芳野天神社があり、入口の法城寺の説明板に次のようにあります。
「三芳野天神社(天満宮)縁起
この神社の創立は、平安末期頃で、伊勢物語に出てくる入間の郡「三芳野の里」円墳三芳野塚の前に建てられたものである。菅原道真公が祀られており、別当は北條寺がつとめるようになった。中世になり、このご神体を今の河越城中にうつしたけれども、神慮が旧地を慕われたため、元和6年(1620)に再びこの寺の境内に移した。(後略)」 
別当とは、神仏習合の江戸時代に、神社を管理する任務を持った寺のことです。北條寺が法城寺になりました。
社の傍らに碑があり、「わらべ歌生れしと云う 三芳野の天神さまに ほそき道あり」と彫られています。
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(三芳野天神社) 
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(天神さまの細道の碑)
「新編武蔵風土記稿」の「的場村」の項に、三芳野塚の記述があります。また近くに霞が関遺跡があり、東山道武蔵路が通っていたので、存原業平が来たのは的場の三芳野である、という説もあります。

「通りゃんせ」の唄の、1930年(大正9年)作のレコードには、作詩・野口雨情と記されてけれどもはっきりしません。作曲は、本居長世とされています。本居長世は、本居宣長の6代目の義理の子孫で、「赤い靴」「七つの子」などたくさんの童謡を作詩しました。
ちなみに、私はまだ行ったことがありませんが、小田原市の菅原神社(山角天神社)にも「通りゃんせ発祥の碑」があるそうです。
「通りゃんせ」の唄は、その成立の過程が朦朧としていて、発祥の地も方々にあるので、太田道灌の山吹伝説に似ています。
三芳野天満宮=埼玉県川越市的場1902

3・道灌有縁の平河天満宮
東京メトロ半蔵門線の半蔵門駅から5分も歩くと、江戸三大天神の一つ、太田道灌建立の平河天満宮へきます。
太田道灌は、おそらくは河越城にならって、江戸城にも天満宮を建立したと思われます。道灌の心友万里集九の「梅花無尽蔵」(1506年)に次のようにしるされています。(現代語訳)
「江戸平川城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見ました。そして、その翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であると思い、文明十年に城内の北に、自らが施主となり、天満宮を建立しました」。
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(平河天満宮)  
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(合格祈願絵馬)   
その後道灌は、天満宮の周囲にたくさんの梅の木を植えたので、やがてそこが梅林坂と呼ばれ、今も江戸城址の東御苑にその名を残しています。
その後、徳川家康が江戸城拡張のため、この天満宮は平川門外へ移され、さらに1607年(慶長12年)2代将軍秀忠により貝塚(現在地)に移されました。その場所は、本社にちなみ平河町と名付けられました。
いまこの天満宮の境内では、紅白の梅が満開で、時節がら様々な学校の合格祈願の絵馬がところ狭しと掲げられています。
平河天満宮=東京都千代田区平河町1‐7‐5

2014年02月05日

国府台城址周辺・社寺と榎

      
首都圏を歩きまわってその地の郷土史家に会うと、どこへ行っても次から次と、太田道灌の史跡や伝承地を紹介されます。浜の真砂はつきるとも、関八州に太田道灌の史跡と伝承地はつきることなし、と言いたくなります。
今回は、千葉県市川市の郷土史家の案内で、国府台城址(こうのだいじょうし)とその周辺を歩きました。市川市を訪れる人はまず、JR市川駅に隣接する、45階のタワービルの展望台から周辺を俯瞰するべきです。国府台城址の起伏と江戸川が蛇行して東京湾に入るまでの様子が一望のもとに見え、国府台城が天嶮の要害であったことがよくわかります。この展望台は、市川市が管理する無料の展望台なので、観光の穴場です。
国府台城址から江戸川に沿っての南側の高台に、現在、多くの教育機関があります。それらの敷地内には、太田道灌により天満宮が建立された、法皇塚の墳頂部といわれる前方後円墳や太田道灌手植えの榎と伝えられる大木があります。そして、高台の南端には和洋女子大学の学舎がそびえ立っています。昨年(2013年)、この大学の最上階・17階の展望ロビーで「太田道灌展」が開催され、興味深い資料が展示されました。その展望ロビーから見下ろす国府台城址と江戸川の風景もまた圧巻でありました。
45階からの展望.JPG       
(45階からの展望)
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(17階からの展望・城址と江戸川)
1478年(文明10年)太田道灌は、都鄙の和睦に反対する千葉氏を討伐するために、下総の国府台城に入り、この城を拠点として境根原(柏市)で戦い、臼井城(佐倉市)、真里谷城(木更津市)、長南城(長南町)、飯沼城(銚子市)などを攻めました。国府台城等の城址については、拙著「道灌紀行」にすでに掲載してあるので、ここでは、その周辺の、道灌有縁の社寺と榎について記します。
 
1・国府台天満宮
JR「市川駅」北口もしくは京成線の国府台駅から「松戸駅行き」バスに乗り、「国立病院前」で下車してすこし歩くと、安国山総寧寺(あんこくざんそうねいじ)という曹洞宗の古刹へきます。その寺を通りすぎるとすぐに、国府台天満宮へきます。境内にある市川市教育委員会の説明板には、次のように記されています。
この天満宮は文明11年(1479年)、当地の鎮守として、太田道灌持資が建立したと伝えています。もと法皇塚の墳頂部に祀られていましたが、明治8年(1875年)大学校設立の用地として、周辺地域が買い上げられたとき農家と共に現在地に移されました。
この地域では古くから獅子舞・辻切りといった民俗行事が行われてきました。「辻切り」とは人畜に危害を与える悪霊や悪疫が部落に侵入するのを防ぐため、部落の出入口にあたる四隅の辻を、霊力によって遮断してしまうことから起こった名称です。(中略)
国府台天満宮.JPG     
(国府台天満宮) 
魔よけの大蛇.JPG
(辻切りの大蛇)
辻切り行事は毎年1月17日、この天満宮境内で行われ、ワラで二メートルほどの大蛇を四体作り、お神酒を飲ませ魂入れをして、町の四隅にある樹に頭を外に向けて結び付けます。こうして大蛇は一年間風雨にさらされながら、町内安全のため目を光らせているのです。(後略)辻切りは、市川市指定の無形民俗文化財です

太田道灌は、1478年(文明10年)12月10日、国府台城に陣をとり、臼井城攻撃をつづける太田資忠軍の後詰めとして、約7カ月この城を拠点として方々へ出撃しました。その間道潅は、城の鎮守としてまた周辺の民衆の求心力を高めるため、国府台天満宮を勧請したと思われます。
国府台天満宮は、市川市の市指定の民俗文化財です
国府台天満宮=千葉県市川市国府台3‐11‐9  
 
2・道灌手植えの榎
総寧寺から約100メートル離れた、江戸川べりの土手の上に、みごとな枝ぶりの榎があり、太田道灌手植えと伝えられています。江戸時代には、このあたりに総寧寺の大門と下馬の石碑がありました。下馬とは、寺に入る前に馬から降りなさい、という意味です。
「江戸名所図会」(1836年)安国山総寧寺の項に、「太田道灌手植え榎と称するは、大門の通り列樹(なみき)の中、下馬の石碑に相対して右の傍にあり」と記されています。
道潅手植え榎.JPG  
(道灌手植えの榎)   
この榎の場所は現在、教育機関の奥まったところになっているので、一般の人は入れません。私たちは、特別の許可を得て見せていただきました。この榎は、太田道灌手植えの榎と伝えられているものの、老齢のため幹が割れてきたので、最近枝先が切られました。高さ約14メートルのこの大木は、樹齢約300年と推定されるので、2代目の道灌手植えの榎といわれています。しかし私には、その風格と老齢振りからいって、この榎は、特別に長寿の初代道灌手植えの榎であるように思われてなりません。
  
3・弘法寺と中山法華経寺
京成線の国府台駅から国府台城址の方向へ5分も歩き、右手の坂をのぼるとすぐに、日蓮宗の真間山弘法寺(ままざんぐほうじ)があります。弘法寺は、奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされ、平安時代に空海が、伽藍を構えて弘法寺と改称したということです。その後、鎌倉時代に、時の住持、了性法印が中山法華経寺の富木常忍(ときじょうにん)との問答にやぶれ、日蓮宗に改宗しました。常忍の子の日頂が初代の貫主となりました。
寺の事務所で聞くと、この寺には長禄元年に太田道灌が寄進した茶室があったけれども、今は朽ちてしまって伝承だけになっている、とのことでした。
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(弘法寺)   
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(遠寿院の太田家墓碑)
京成線の京成中山駅で降りると、駅前から中山法華経寺への参道がはじまります。参道の途中の黒門に、掛川城主太田資順(おおたすけのぶ)が寄進した、巨大な扁額がかかっています。額にいわく「如来滅後 閻浮提内 本化菩薩 初転法輪 法華道場」と。中山法華経寺は、日蓮大聖人の有力な弟子であった富木常忍と太田乗明(おおたじょうみょう)の屋敷跡に建立されました。法華経寺の塔頭(たっちゅう)遠寿院(おんじゅいん)の太田家墓碑には太田家碑文が記されています。
太田道灌は曹洞宗であったけれども、その子孫にはなぜか、日連宗系がたくさんいます。道灌から5代目の於勝の方・英勝院や大名となった掛川太田氏は法華経寺の大檀那です。
鎌倉時代に、日蓮大聖人の有力な弟子であった、領主の富木常忍の家紋が土岐桔梗で鎌倉御家人の太田乗明の家紋が太田細桔梗であったことにちなみ、法華経寺の寺紋も桔梗です。太田乗明と太田道灌は家紋が共通なので、何か関係があるのではないか、と市川市の郷土史家は推測しています。それは、今後の研究課題です。
弘法寺=千葉県市川市真間4ー9(中山)
法華経寺・遠寿院=千葉県市川市中山2‐10‐1
posted by otadoukan at 10:49| Comment(6) | 国府台城址周辺・社寺と榎

2014年01月22日

北区の八幡社と太田家の所領考察

        
清和源氏の氏神は古来、武人の守護神である八幡神でありました。源氏の流れをくむ太田道灌も各地に八幡社を勧請し、しばしば八幡社で戦勝祈願をして出陣しました。今回は、北区の道灌有縁の八幡社を訪ねて太田家の所領の一端を考察します。
1・田端八幡神社
JR山手線田端駅北口から、458号線を南へ5分も歩いて右へ入ると、田端八幡神社があります。神社の由緒書の碑によれば、この八幡社は、1189年(文治5)源頼朝が奥州藤原氏征伐を終えて凱旋した際に、この地に寄り、鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。その後室町時代に、太田道灌がこの地に江戸城の出城を築いたので、城山八幡と呼ばれるようになった、と記されています。
田端八幡.JPG     
(田端八幡神社)
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(田端八幡神社の由緒書の碑・部分)

このあたりは、やや高台になっていて、道路のために堀り切られた部分を勘案すると、日暮里の道灌山に連なっていることがすぐ分かります。道灌山には、豊島氏が勧請した諏訪神社があります。したがって道灌山から田端八幡神社にかけての丘陵は、もともと豊島氏の所領であったけれども、豊島氏没落後に、太田道灌の支配地になったと思われます。

2・赤羽八幡神社
JR赤羽駅南口から、岩淵街道を東北・上越新幹線に沿って北方へ5分も歩き、右手の高台を登ると赤羽八幡神社があります。ここは、太田道灌有縁の靜勝寺すなわち稲付城址からも指呼の距離であるから、往時は当然、太田道灌の実効支配地でありました。境内にある、北区教育委員会の説明板によると、この神社は、延暦年間(782年〜806年)に、坂上田村麻呂により創建され、その後源頼光、頼政が社殿を整えました。その後室町時代に、太田資清(道真)が社領として一貫文の地を寄進し、1469年に(文明元)に、太田道灌が社殿を再建したとされています。
そしてさらに、太田新六郎康資(道灌の曾孫)の1551年(天文20)の寄進状が記されています、その文面は、次の通りです。
 岩淵之内赤場根八幡領之事  合一貫文之所者
 右為社領如前々闕之候 且且私之修理おも加可申候 萬一自分を為本沙汰に
 付而は可放取者也 仍而如件天文二十年辛亥十二月二十八日 太田新六郎
                            康 資 華押
 八幡禰祇 朝日與五右衛門殿

 太田道真から赤羽八幡神社に寄進され、さらに太田康資により安堵された一貫文の土地とは、現在の神社境内とその周辺をふくめた、相当広い地域であったと思われます。現在、この神社の境内の真下の地中トンネルを、東北・上越新幹線の特急が走っています。
赤羽八幡神社.JPG     
(赤羽八幡神社) 
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(北区教育委員会の説明板・部分)

3・北条家所領役帳《小田原衆所領役帳》
後北条氏は、1559年(天文20)に、家臣たちの知行地、賦課の状況を調査し、基本台帳である「北条家所領役帳」を作成しました。この文書には、太田家の所領について、たいへん興味深いことが記されています。
太田道灌没後、その子孫たちは、戦乱の非情にもまれ、それぞれの道で辛酸を嘗めつくしました。太田資正(岩槻系)は、北条氏と戦って上杉謙信に与しました。一方、太田資高(江戸系)は、江戸城を確保しようとして北条氏へ与しました。資高の子、康資の所領が、「北条家所領役帳」に記されています。
これによると、太田新六郎(康資)の所領は、直轄地(広沢、岩淵、志村、平塚、豊島、雑司ヶ谷、石神井など)として931貫384文、寄子衆分として488貫900文、同心方分として約57貫文、合計約2000貫文になります。このなかでもっと多いのが、岩淵五ヶ村(赤場根村、下村、袋村、稲付村、岩淵宿)の186貫文です。したがって、今日の靜勝寺、赤羽八幡神社のあたりは、太田康資知行地の中核的な地域であったと思われます。近くの岩淵街道沿いには、往時のにぎわいのなごりとして「岩淵街道岩淵宿問屋跡の碑」があります。
岩淵宿.JPG  
(岩淵街道岩淵宿問屋場跡の碑)

「北条家所領役帳」によると、太田康資の所領は、北条家臣の中では突出して多く、武蔵北東部のみならず登戸(川崎市)や小机(横浜市)なども含まれ、北条家の家老級の持ち分でした。康資の母は、北条氏綱の娘であったので、そのような処遇が維持されたと思われます。

太田道灌在世中の道灌の支配地域は、相当広大であったと思われるものの、その広さを具体的な数値で示した文書は見あたりません。その時代に、道潅が実効支配した地域の一部が、曾孫の太田資康に移譲されたと思われます。道灌の時代に、所領安堵や代官任免について、太田道真・道灌に宛てた陳情文書がすくなからず残っていることと併せて考えると、当時、太田道灌の実効支配地域は驚くほど広く、その権限はまことに恐るべきものがあったと推察されます。そのことにより、関東管領上杉顕定や道潅の主君上杉定正等は、道潅に対して猜疑心と恐怖心を抱くようになったと思います。
田端八幡神社=東京都北区田端2-7-2
赤羽八幡神社=東京都北区赤羽台4-1-6

2013年12月28日

飯能の高指山(熊倉城とその周辺・補遺)

私たちは過日の熊倉城址探訪の際に、熊倉城に隣接する高指(たかさす)を、熊倉城の見張り台と考えました。そして私はさらに、熊倉城本体の本郭と第二郭などが、元々は高指と呼ばれていた焼き畑農地であったのではないかと推測しました。この点に関連して若干の補遺を記します。
柳田国男氏の「地名の研究」(角川書店)の一節に次にようにあります。「関東四周の山地には、サスという語とソリという語があり、前者はやや狭く武蔵・相模くらいに限られている。ソリを動詞にしてソラスというのが、荒らすことである。あるいは一つの行為の裏と表とで、三年と五年と山を畑にして作るのがサス、それを樹林地にもどすのがソラスであったかもしれない」と。
先日、飯能の郷土史家から、飯能市に高指山(たかさすやま)というところがあると聞いたので、私は早速、車で行ってみました。西武新宿線の高麗駅から、国道299号線を西方に1キロほど行き、高麗川に沿って右折し、500メートルもいくと、高指山、日和田山への案内板があります。そこを左折し、曲がりくねった山道を1キロも登ると高指山へきます。

高指山テレビ搭.JPG
 高指山のテレビ塔 
高指山.JPG 
 高指山頂上
高指山は、ハイキングコースの途中にある高台で、現在そこにはテレビ搭とその関連施設が建っているので入ることはできません。しかしその地形は、つぶさに見ることができます。ここの高指山もその頂上はやはり、30アールくらいの平場であるから、昔は、焼き畑農地であったと思われます。
柳田国男氏によると、地名に宛てる文字については、用字法とかかわりない、無理な宛て字がいくらでもあるということです。音声の転訛や誤謬により、意味不明の地名になっていることも多いということであります。
「太田道灌状」の冒頭にでてくる「秩父高佐須」が、熊倉城を指すか塩沢城を指すかについては、双方の隣接地に高指という場所があり、郷土史家のあいだでも種々の議論があるので、それについての考察は他日に譲ります。

2013年12月03日

熊倉城とその周辺

初冬の晴れた日に、秩父の郷土史家等と総勢6名で、太田道灌と長尾景春の最終戦の地、秩父市の熊倉城(日野城)へ出かけました。山が美しく色づき、広葉樹が葉を落とし、見晴らしがきくタイミングをねらってやってきました。今回の目的は、熊倉城周辺の遺構を調べ、道灌軍が攻めのぼったと推測される城山直登の尾根道を踏査することです。
1480年(文明12年)、太田道灌は親類である長尾景春を最終的に追いつめることをためらっていたけれども、秩父の大森御陣に参上したとき、総大将の上杉顕定に背中を押され、遂に熊倉城(日野城)攻撃を決意しました。道灌が色々様々と作戦を実行したので、6月24日に熊倉城は落城し、景春の兵たちは、複雑な尾根を伝って沢にすいこまれるように四散していきました。
「太田道灌状」第26条にいわく「当御陣に伺候致し、先に日野城落居急ぐべき旨仰せ蒙り候間、色々様々心を尽くし仕り候故、彼の城討ち落とされ候事、是又道灌の巧に非ず候哉」と。
熊倉城址・中央.JPG     
(熊倉城・中央)  
根倉神社.JPG
(根倉神社)

1 月ヶ峰の空掘とキャンプ場の廃墟
秩父鉄道の白久駅から約百メートルも山側へ行くと、根倉(ねくら)神社という小さな社があります。この神社は、まるで農機具の小屋かと見まがうほどの小さな神社ですが、「新編武蔵風土記稿」(1830年)白久村の条にも載っている歴(れっき)とした社です。いわく「根倉社、村鎮守、例祭八月五日・二月二十日」と。
神社脇の農家で駐車を頼むと、主人は快く庭先を提供してくれました。主人は家の前の畑を見ながら、鹿にやられるから網で囲っているんだ、と渋い顔です。一見のどかな山里の最前線でも、人間と動物の熾烈な駆け引きがつづいています。
神社から山裾を巻きながら三百メートルも登ると、小学校ができる程の平坦地(4・5ヘクタール)へきます。ここは、月ヶ峰という、優雅な名前の台地で、ここから谷津川という沢を越えると熊倉城です。同行した秩父の郷土史家によると、長尾景春が約一年半も熊倉城に籠城したとき、ここを根小屋としたそうです。兵たちはここに物資を貯えて日常生活をし、事あるときに城に籠り戦いました。根倉神社の「根倉」とは、「根小屋」と同じ意味だということです。同行の博物館学芸員氏は、笹の中を探しまわり、早速、空掘り跡を発見しました。今日の最初の成果です。
発見した空掘.JPG      
(発見した空掘跡)   
炊事場跡.JPG
(炊事場の廃墟)
この地にはかつて、二筋の大きな空掘と土塁があったけれども、昭和43年頃にキャンプ場を作るために、土塁を崩して堀を埋めてしまいました。生い茂る笹と灌木をかきわけてよく見ると、びっくり仰天です。百余のバンガローと炊事場、トイレなどの廃墟が広がっています。かつて団塊の世代が青春であった頃、都会からはみ出た若者が、大挙してここへ押し寄せ、歓声をあげていたのです。
月ヶ峰の廃墟には、景春の軍兵と団塊の若者の吐息と歓声が、「気」のようにただよっています。過去への感傷と荒涼たる現状が混然となり、幻想的な気分になります。
月ヶ峰からちょっとした尾根にとりつくと郭ができそうな平場があり、沢へおりると、周囲を石でかためた猪の水場がありました。土地の人は、この水場をヌタ場と呼んでいます。私たちはこれを、月ヶ峰の根小屋の水場の遺構であると推測しました。谷津川渓谷へおりると、秩父の札所30番の法雲寺があり、そこから林道を登ると熊倉城への登り口にきます。
                        
2 高指は熊倉城の物見台
私にとって今回は、4度目の熊倉城探訪です。いつ来ても、周囲の急峻な斜面に驚きます。攻城兵がこのきつい傾斜をよじ登っても、上から石を落とされたらひとたまりもありません。だから道灌軍は、取り囲んで兵糧攻めにしたのです。本丸跡の説明板には、景春軍は水がなくなって落城した、と記されています。小学校の敷地ほどもあるこの山頂の城域には、杉がうっそうと茂っていてやや興ざめです。
熊倉城の空掘.JPG
(空掘跡)
私たちは、熊倉城の大手から二の丸、空掘、本丸を横切ってややくだり、隣接地である高指(たかさす)へ向いました。いくつかの空掘や縦掘をすぎるとすぐに、高指と呼ばれる高みへ着きます。高指の突端に立って、私たち一同は「あっ」と息をのみました。そこからは、南西北の三方へ展望がひろがり、とりわけ北方には、荒川と秩父市の全景が一望のもとに見えるのです。私たちはしばし、時をわすれて絶景に見とれました。
高指は明らかに、人工的に整地された物見台です。往時は、周囲に木がなく、常に見晴らしがきいていました。景春軍の見張りはここから、道灌軍が釜伏せ峠を越え、荒川を渡って攻め込んでくるのを見ていたのです。
私たちの結論としては、熊倉城を考える場合に、高指を熊倉城に付属する物見台として考えるべきだということです。そしてさらに、根小屋としての月ヶ峰を含めると、長尾景春が経営したこの山城は、相当大規模かつダイナミックなものであったということになります。
t高指山からの遠望.JPG      
(高指からの秩父市遠望)
高指山 (2).JPG
(高指)
さてそこで、いつも地名にこだわる私には、新たにひとつの疑問がわいてきました。「さす」とは、柳田国男氏の説によると、焼き畑農業の畑という意味です。熊倉城の高指は、整地してあるとはいえ、畑を作るにはやや狭いのです。それよりも、熊倉城本体の頂上の平場の方が圧倒的に広く、後に植えた杉がなければ、畑にふさわしく、したがって高指の名にふさわしいのです。これは困ったことです。熊倉城が、元々は高指と呼ばれた畑であったけれども、長尾景春が譲り受けて城山にしたので、物見台のみが、高指と呼ばれるようになったのかもしれません。

3 岩角を嘗めての進軍を体験
次に私たちは、熊よけの鈴を腰につけ、地図を見ながら、道灌軍の推定攻撃ルートを熊倉城から逆行しました。このルートは、景春軍の兵が、包囲された熊倉城から落去するときにつかった険路であるかもしれません。
城の大手口から東方に、道なき尾根がつづいています。やせ尾根のアップダウンを木の根と岩角につかまりながら、地元山岳会が木の幹に巻いたスカーレット(緋色)のテープをたよりに進みました。秩父の山では、スカーレットが一番目立つ色であることをあらためて認識しました。枯れ葉の斜面ですべって転ぶこと数度、幸いに岩角で腰を打つこともなかったけれども汗だくになりました。途中で鹿に会ったけれども人の気配はなく、やや心細くなって「こんなところへひとりでは来れないよなあ」などと弱音をもらしながら約2時間、行けども、行けどもやせ尾根の起伏がつづいて里は見えません。
尾根.JPG  
(アップダウンがつづく尾根)
冬の山は日暮れが早く、つるべ落としどころか、ほとんど岩石落しです。「このまま尾根を歩きつづけて里へ出なければ、どうせ民家は近いんだから、みんな(6名)で大声を出すべえ」「そしたら消防団がくるから、年とって目も足もなまってドジ踏んだ、と言うしかないな」などと半分冗談、半分本気で言いあっていると、目のいい一人が枯れ木の間からようやく里への道を発見したので、一同胸をなでおろしました。
道灌軍の熊倉城攻撃ルートは、明らかではありません。しかし、多くのルートは、今日踏査した尾根道のような険路であったと思います。万里集九の道灌への追悼文の中には「道灌軍が岩角を嘗めるようにして進軍した(阻を踏み険をなめ)」という一節があります。
道の駅「あらかわ」まできたとき私は「今日は、万里の道灌への追悼文の一節を、身をもって体験できたので、たいへんおもしろかった」と強がりを言いました。そしてさらに「今日は、秩父名物の山猿に会えなくて残念だった」とへらず口まできいてしまいました。
私は今日、熊倉城址というすばらしい史跡を、もっと多くの人々に知らせ、かつ研究、保存の体制もしっかりつくるべきだという思いを、一層深くしました。
熊倉城址は、埼玉県選定重要遺跡です。
月ヶ峰=埼玉県秩父市荒川白久
熊倉城址=埼玉県秩父市呑だ熊
posted by otadoukan at 21:26| Comment(13) | 熊倉城とその周辺

2013年11月02日

用土が原合戦の「次郎丸」を探す

1477年(文明9年)春4月、太田道灌が豊島一族を江古田が原で打ち破ったあと、戦場は北方へ移動しました。道灌が両上杉氏を迎えに那波荘へいくと、長尾景春は上州勢を動員して梅沢へ出撃してきました。5月14日、道灌の作戦により上杉軍は、次郎丸から出撃しました。そして用土が原で、道灌、大森氏頼等の上杉軍と長尾景春軍との激戦がありました。山内上杉家の重臣大石房重や景春方の有力な傍輩であった上州一揆の長野為兼が討ち死にするほどの激戦の末、景春軍は鉢形城へ敗走しました。
道灌が「太田道灌状」(1480年)で「大軍を打ち滅ぼし」と記しているように、用土が原の合戦は、景春方の優勢をくつがえす重要な合戦でありました。しかしながら、その合戦にかかわる場所である「梅沢」「用土が原」「次郎丸」が未だに比定されていません。私は先に、拙著「道灌紀行」において、「梅沢」が小字名梅沢により、本庄市日の出四丁目付近であることを示し、また「用土が原古戦場」が用土の古老の証言により、寄居町の用土駅近くの平原であると推定しました。さらに私は、次郎丸について、用土の領主飯塚次郎の所領であろう、と推定したものの、具体的な場所を示す事はできませんでした。今回は「次郎丸」が指す具体的場所について考察します。
用土が原.JPG      
(用土が原古戦場)     

1.次郎丸とはどこか
「太田道灌状」にいわく、「道灌存じの如くは、次郎丸より鉢形へ打ち上げ、御敵陣の間へ馬を入れるべく様の威しを成し候えば、確かに御敵は原中へ打出すべく候歟。(道灌の考えは、次郎丸より鉢形城へ攻めこみ、敵陣の中へ馬を入れようとする威しをかければ、間違いなく敵は平原へ出てくるであろう)」と。
この文面からわかることは、次郎丸とは、道灌軍が鉢形城へ攻め込むため、また用土が原で馬返しの策を実行するための駐屯地であったということです。
前島康彦氏の「太田氏の研究」には、次郎丸について「不明、但し、五十子陣中の一拠点か」とあります。
勝守すみ氏の「太田道灌」と黒田基樹氏の「太田道灌」には、次郎丸がどこであるかは、言及がありません。
「もういちど読む山川日本史」(山川出版社)の「地名が語る歴史」の項には、次のような一節があります。
「地名にはその土地の歴史がきざまれている。人がそこに生き、自然とたたかったあと、人と土地とのかかわりが、地名にみいだされる。(中略)荘園制の名残を示しているのは、荘園の境界を示すための標識である「牓示(ぼうじ)」、地味のよい領主直営地の「佃」「用作」、百姓の名や名田につけられた「次郎丸」「石丸」「久富」などの人名のような地名である。(中略)中世の人々は地名を大切にした。それは地名を聞いただけで、その土地の自然や社会についての情報がえられるからである。また土地を開発して領主権をにぎった開発領主は、その地名を苗字として、つよい愛着を示した」
インターネットで調べると、次郎丸という地名は、全国にたくさんあり、「山川日本史」の説明を裏付けています。
次郎丸について、数名の郷土史家の友人から次のような情報をえました。@寄居町用土駅の北西に次郎平とよばれる場所がある。A小川町の中城址近くの大梅寺は小河次郎館跡といわれている。B嵐山町に太郎丸があるので、その近くに次郎丸があったのではないか。
前島氏が疑問を持ちながら示した本庄市の五十子や小川町、嵐山町は、用土が原から8キロ以上離れているので、駐屯地とするには無理があると思います。そうするとやはり、次郎丸として最も可能性があるのは、寄居町用土の次郎平ということになります。

2.次郎平を探す
台風も去った秋晴れの日に、私は例によって、越生経由の山里の道を走らせ、寄居町役場を訪れました。案内所で次郎平を尋ねるとわからず、課税課へ案内されました。課税用の土地台帳でさがしてもらうと、たしかに次郎平という小字がありました。そこは、JR八高線用土駅の北西の、線路と美里町との境界線にはさまれた狭い地域です。先に用土の古老が教えてくれた用土が原古戦場に隣接するところです。埼玉県道175号線で用土駅を過ぎ、美里町境界の道を右へまがると、すぐわかります。
用土駅.JPG013.JPG 
(起伏ある次郎平)
そこは、やや起伏がある地勢で大部分が畑であり、比較的あたらしい数軒の家が点在するだけです。私はそれらの家を訪ねて、土地の歴史を尋ねました。しかしどの家も、せいぜい数十年の居住歴があるだけで、昔のことはわかりませんでした、わかったことは、土地の人が、次郎平を「じろべえ」とか「じろへい」と呼んでいることです。
この土地が次郎平という地名をもっていること、用土が原の隣接地であること、地勢に起伏があって足軽隊をかくすことができたなどからして、次郎平とは「太田道灌状」のなかで次郎丸とよばれた場所であると、私は推定します。

3.飯塚次郎と次郎平
用土駅から、国道254号線を南方へ約1.5キロ行くと、真言宗智山派八幡山萬福寺があります。現在このあたりは、畑と民家が混在して地名は深谷市の武蔵野であるけれども、かつては飯塚という場所でありました。萬福寺境内に深谷市教育委員会の説明板があり次のように記されています。
「(前略)現在の萬福寺のある場所は、中世武蔵武士猪俣党の流れをくむ飯塚掃部(かもん)氏行の館があったと言われ、本堂裏に当時の空掘りの一部が残っています」
飯塚館説明板.JPG  
(飯塚館跡の説明板)

太田道灌状」に「彼れ仕度の趣きやがて飯塚次郎左衛門尉に相知らす」(景春の企みをすぐに飯塚次郎左衛門尉に知らせた)とあります。長尾景春は飯塚次郎左衛門尉と親しく、乱を起こす前に、飯塚館から道灌の宿営地にきて加勢を頼みました。その飯塚次郎左衛門尉とは、飯塚掃部左衛門尉氏行あるいはその係累である、と私は思います その飯塚次郎左衛門尉が武蔵武士猪俣党に属していたとすると、私にははっと思い当ることがあります。それは、次郎丸とおぼしき次郎平と隣接する美里町の大字名が猪俣であることです。山川日本史が記すように、地名をしてその歴史を語らしめると、次郎平は猪俣党の飯塚次郎左衛門尉の開発領地で、開発者の名をつけて、当時次郎丸と呼ばれていた蓋然性は、限りなく強くなるのであります。「丸」の一字は当時、子供、犬、刀、土地などにつけた、愛着を示す語です。
当時の国人の常として、その政治的立ち位置は流動的であったので、用土が原の合戦で、飯塚次郎左衛門尉は道灌側に味方したと思われます。

4.用土城址
用土駅の南方約2キロのところに、藤田院蓮光寺があり、その西約300メートルのところに、用土城址があります。猪俣党から分かれた、この地の豪族藤田氏は、山内上杉方の与党となったけれども、用土が原合戦での動静は明らかではありません。川越夜戦後に藤田重利は北条氏邦を婿として藤田康邦と改名し、さらに保身のため、あえて無防備の用土城に引き籠って用土新左衛門を名のりました。
用土城址.JPG  
(用土城址碑)

用土城址の詩碑にいわく
「 用土城懐古
赤城妙榛三山雄たり
瓊(けい)たり枝垂桜城址融(と)く
戦国の生き残り 強食の里
藤田三代 美しき民の衷(まこと)
(藤田康邦=用土新左衛門父子三代)」
群雄が割拠する北武蔵で、佳景と良民があるとはいえ、必死になって生き延びざるを得なかった藤田氏の苦渋が伝わってくる詩です。

用土が原古戦場=(推定)埼玉県大里郡寄居町用土
次郎丸=(推定)埼玉県大里郡寄居町用土字次郎平
飯塚館跡・萬福寺=埼玉県深谷市武蔵野四五五
用土城址=埼玉県大里郡寄居町用土

2013年10月02日

磯部城址と溝呂木氏

上磯部の土塁
去る2013年9月24日に、神奈川県相模原市のボーノ相模大野セミナールームという会場で、武相歴史研究会主催の文化講演会「太田道灌を学ぶ」が盛大に行われました。太田資暁氏と山田真也氏の講演の後で、参加者から、相模原市の太田道灌関連史跡磯部城址について、種々質問や説明がありました。私は以前、磯部城址を調査したことがあるけれども、いろいろな疑問を残していました。今回の講演会を契機に、もう一度磯部城址へ行かなければならないという思いが強くなり、早速、初秋の晴れた日に、車を走らせて相模原市へ向かいました。
国道16号線あるいは129号線で相模原市に入り、相模川べりに来ると、磯部という地域があります。JR相模線の下溝駅から南東へ5百メートル程歩いても磯部地区へ来ることができます。相模川沿いの磯部頭首工(いそべとうしゅこう)公園から河岸段丘沿いに三段の滝まで、遊歩道すなわちさがみグリーンラインが整備されています。頭首工とは、あまり聞きなれない言葉であるけれども1.2メートル以下の堰(せき)のことです。
頭首工.JPG     
(相模川の頭首工)
グリーンライン.JPG
(さがみグリーンライン)
このさがみグリーンラインに沿って、約60メートルの土塁跡があり、そこに相模原市教育委員会の説明板があります。図入りの、その説明板には次のように記されています。
『相模原市登録史跡 上磯部の土塁
この土塁は、長尾景春の反乱の際に、景春方の拠点「小沢城(こさわじょう)」の支城として築城された「磯部(いそべじょう)」に伴うものではないかと考えられています。発掘調査により、土塁の北側にかつて城堀があったことが確認されましたが、時期を決める遺物は出土していません。城の中心は、現在の御嶽神社(みたけじんじゃ)や能徳寺(のうとくじ)の付近と推測されています』
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(教育委員会の説明板)
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(土塁跡)
遊歩道の中頃に「磯部民俗資料館」があるので、訪問して館長に尋ねると、「磯部城については、教育委員会の説明以上のことはわかりません」とのことでした。
磯部頭首工公園のすぐ近くに、能徳寺という曹洞宗の寺があり、その裏の方にちょっとした土塁跡があります。そこから100メートルも歩くと御嶽神社があります。能徳寺の近くで仕事をしていた壮年に尋ねると、自宅の前をさして、「ここが磯部城の本丸跡です」と言って胸をはりました。近くに「堀の内」「大門」などという地名があるそうです。壮年はまた、近くの大山道石碑を教えてくれました。御嶽神社のそばの商店で買い物をして、店の主人と話をすると、「うちの先祖は磯部城で戦った」と誇らしげに語っていました。

長老の話・生きのびた溝呂木一族
さて私が数年前に磯部城址を訪問して以来、ずっと持ちつづけている疑問があります。それは、厚木市の溝呂木城(みぞろぎじょう)址と、相模原市の磯部城址のまわりに目立つたくさんの溝呂木家とが、どういう関係にあるかということです。
頭首工公園で車を降りて歩きまわると、すぐに数軒の溝呂木家が目につきました。いずれも旧家風の門構えの家です。私が見当をつけて、一軒の溝呂木家を訪問すると、長老風の壮年が現れました。その長老は幸いに歴史好きであったので、玄関前で小一時間も私との、素人歴史談義が弾みました。長老の話を要約すると、次のようなことです。
「溝呂木一族は現在、磯部の集落に20軒ある。江戸時代初期からの位牌があるが、室町時代の資料はない。言い伝えによると、先祖は室町時代に半農半武士の地侍で、まあ野武士の集団のようなものであった。最初に厚木の溝呂木城に籠ったが、太田道灌軍に攻められて支城の磯部城へ逃げてきた。のちに道灌軍が小沢城を攻めるとき、後詰めを断つため磯部城も攻めたので降参した。最初に溝呂木一族は、長尾景春方についたが、それは今の政治家が目先の利害のためにあちこちの親分の配下に入るのと同じようなことだった。磯部という一族もいたが、のちに故あって溝呂木に改姓した。だから、溝呂木でも家紋が違う」。
能徳寺.JPG     
(溝呂木氏の菩提寺能徳寺)
大山道石碑.JPG
(磯部の大山道石碑)
私は長老の話を聞いて、磯部城と溝呂木一族について、自分が推測していたことと完全に一致した、と思いました。そしてさらに推測が深まりました。
 
「太田道灌状」(1480年)にいわく、「相州には景春被官人溝呂木、在所を要害に拵(こしら)え候。(中略)三月十八日溝呂木要害へ差し遣はし候の間、自火せしめ没落」と。「太田道灌状」によると、溝呂木氏は長尾景春の家来となり、居住していた相模川べりに要害を築きました。しかし1477年(文明9)3月18日に道灌軍に攻められたので、城主溝呂木正重は要害に火をつけて逃亡した、ということです。厚木市の教育委員会の推定では、溝呂木城は、神奈川県厚木市厚木の三川(相模川、中津川、小鮎川)合流地帯にありました。そして私は、さらに次のように推測します。道灌軍が近づいてくると、溝呂木一族は戦うことを避け、城の搦め手から船で相模川を渡り、上流の磯部城へ逃亡したのです。
 また「太田道灌状」にいわく、「二宮の事かくの如く候の間、相州磯部の城は降参せしめ、小沢城は自落いたし候」と。1478年(文明10)4月11日に道潅は小机城を陥落させ、二宮(あきる野市)の陣で大石氏を懐柔して後詰めを断ち、相模川上流の小沢城(愛川町)攻略に向かいました。そうすると、磯部城は降参しました。文面から察すると、このときも、磯部城の溝呂木氏は、戦わずして道灌軍に降伏したようです。
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(磯部民俗資料館看板)  
三段の滝.JPG
(城址ちかくの相模川河川敷)
さきの長老の口ぶりからも、溝呂木氏は大義や義理には頓着せず、一族の利害のために、常に形勢のよい方へなびく嗅覚をもっていたようです。国人衆の多くが、そのような習性を持っていたことを、太田道灌はだれよりもよく知っていたので、所領安堵を約束しながら、緒戦における電光石火の速攻で、景春方優位の形勢を逆転していったのです。

相模川は、武蔵の荒川に比べると、なんとなくゆったりと流れ、流れの中に鮎釣りの男たちが散見されます。磯部城址から眺めると、広い流域のかなたに大山などがなだらかに連なって見えます。その佳景を見ていると、溝呂木一族はこの地で、戦をくぐりぬけながら、案外と優雅に生きのびたのではないかと思えてくるのであります。
上磯部の土塁は、相模原市登録史跡です。
磯部城址・上磯部の土塁=神奈川県相模原市磯部90番地他
 
posted by otadoukan at 05:25| Comment(27) | 磯部の土塁と溝呂木氏

2013年09月20日

川越の太田道灌屋敷跡

1456年(康正2)、上杉持朝の命により太田道真、道灌父子が河越城の縄張りをはじめ、翌1457年(長禄元年)に城は完成しました。江戸城と河越城は、利根川のむこうで攻勢を強める古河公方に対抗して築城されたといわれています。当時の河越城の地図等は、全く残っていません。現存する川越城の最古の地図は、江戸期元禄時代の古地図です。それらを参考にして、現在の地形から推測すると、道灌時代の河越城の城域は、現在の三芳野神社境内と本丸御殿のあたりであったと考えられます。
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(太田道灌像・川越市役所前)
太田道灌屋敷.JPG     
(「新編武蔵風土記稿」の図、中央に東名寺、その左下に太田道灌屋敷と多谷寺)

河越城は、新河岸川と沼沢地の水により、三方をやや開いた馬蹄形で囲まれた、高さ十数メートルの舌状の微高地に築城されました。したがって基本的には、江戸城と同じ設計思想に基づいていました。同時代に活躍した、金山城の陣僧松陰は、「江戸河越両城堅固なり、彼の城は道真道灌父子・上田・三戸・萩野谷関東巧者の面々、数年秘曲を尽して相構え」(松陰私語)と記しています。

この頃、太田道灌が居住した「太田道灌屋敷跡」が「新編武蔵風土記稿」(1830年)入間郡巻十、「河越城下町図」に記されています。下町とは現在の川越市志多町を指します。川越市の蔵造りの町並みを北へ進み、札の辻を過ぎてやや歩くと志多町となり、そこには、川越夜戦の激戦地跡と伝えられる東名寺があります。ちなみに、中世では多く「河越」と記され、近世から「川越」と記されることが多くなってきました。

さてこの「新編武蔵風土記稿」の図では、東明寺と入間川(赤間川・新河岸川)の間の多谷寺隣に、「太田道灌屋舗」と記されています。その場所は現在、新河岸川(赤間川)湾曲部分の内側の志多町北端であり、田谷堰・田谷橋があります。図中の多谷寺の多谷と現在の田谷橋の田谷が同じ地域を指しています。
したがって、太田道灌屋敷跡は、新河岸川(赤間川)の湾曲部分の内側の突端、すなわち志多町8番地と推定されます。道灌が築城する場所はいつも、馬蹄形で水に囲まれた舌状地でありました。この場所も、小規模ではあるけれども、そのような道灌好みの地形であったことが分かります。
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(志多町新河岸川の田谷橋) 
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(道灌屋敷跡近辺・彼岸花)
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(道灌橋)

東明寺西側には現在、道灌橋が架かっています。昭和6年に、この橋がコンクリート化されたとき、「新編武蔵風土記稿」の太田道灌屋敷の記述にあやかり、「道灌橋」と命名されたそうです。その近辺は今、ごく普通の住宅地であり、「太田道灌屋敷跡」であることを示す遺構や標示は何もありません。訪問者は、川べりに立って風に当たり、いにしえの道灌屋敷を偲ぶしかありません。田谷橋の下で、大きな鯉が泳ぎまわり、川に沿って桜並木がつづき、秋には彼岸花が咲いています。このあたりに、「太田道灌屋敷跡の碑」を一本建ててほしいものです。
太田道灌屋敷跡=埼玉県川越市志多町8番地
 
 
posted by otadoukan at 21:20| Comment(22) | 川越の太田道灌屋敷跡

2013年07月28日

稲付城址・靜勝寺の「道灌まつり」

稲付城址(いねつけじょうし)は、JR埼京線の赤羽駅南口から徒歩5分の高台すなわち道灌山にあります。「稲付城址」と彫られている石碑を見ながら、急な階段53段を登って城址に至ると、そこには曹洞宗の自得山静勝寺(じとくざんじょうしょうじ)があります。寺の境内は静かでセミが鳴き、夏の夕方には涼風が流れていてほっとします。本堂の屋根瓦には、太田家の桔梗紋が、寺紋として浮き出ています。
2013年7月26日は、太田道灌の527回目の祥月命日です。この日に、稲付城址すなわち靜勝寺では、夕方、道灌堂で道灌の法要が行われ、「道灌まつり」が始まりました。境内は色とりどりのちょうちんで飾られ、城址の下の広場では地元の町会の人たちが手作りの出店を出し、近隣の子供たちが集まってきました。   014.JPG        
(本堂屋根の桔梗紋)
 
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(ちょうちんで飾られた境内)

この近くでは、鎌倉街道下道(しもつみち)と奥州への街道が合流し、交通の要衝ができていました。室町時代には関も設けられ、岩淵の宿が発達しました。道灌は江戸城と川越城の築城後に、両城の中間地点に、江戸城の出城としてこの城を築いたと思われます。道灌没後、孫の太田資高が居城とした時期もありました。1987年(昭和62年)の発掘調査で、空堀の跡が発見されたけれども、現在では城の遺構は残っていません。
靜勝寺の由緒によると、1504年(永正元年)に道灌の禅の師匠であった雲綱俊徳(うんこうしゅんとく)が、道灌の菩提を弔うためにこの地に草庵を結び道灌寺とし、静勝寺の起源となりました。江戸時代の寛永年間(1633年〜16421年)に地元の僧麟的が、草庵を再興しました。そしてさらに、道灌の6代目の子孫太田資宗(江戸掛川系)が境内を整備し、太田家の菩提寺としました。言うまでもなく山号は、道灌の父道真の館である自得軒(じとくけん)に由来し、寺号は道灌の館である静勝軒(じょうしょうけん)に由来しているので、父子一体の寺名であります
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(稲付城址下の祭り会場)

道灌の命日である毎月の26日には、道灌堂が開扉されて太田道灌の木像を拝観できます。この木像は、胎内の銘札により当山六世の風全恵釧が元禄時代に造ったと伝えられています。また太田資高が稲付城に在城当時、画像によって造ったとか、あるいはまた道灌生存中に自ら名工に命じて造らせたという説もあります。この木像には、造立後に6回の修復が施されました。現在の彩色は1987年(昭和62年)に行われた修復によるものです。
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(道灌堂) 
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(安置された太田道灌像)

この太田道灌像は剃髪,道服姿で立膝をして手に払子(ほっす)を持ち、傍らに脇刀が置かれています。高さは60センチで、その眼光は威あって猛からず、広い額には知略をたたえて口元には決断力をうかべています。万里集九は、道灌没後の二七日(ふたなのか)の忌日に読んだ祭文の中で、道灌の人品について「(道灌は)人の英と為るが如し(英傑であった)曖然たる和気は花の栄に就くが如し(穏やかな人柄でなにかしら華やぐところがあった)」と述べています。この木像には、静中動あり、思索則行動の道灌の雰囲気がよく表れています。この像のレプリカが、江戸東京博物館、北区立飛鳥山博物館、川越市立博物館にあります。
靜勝寺の太田道灌像は道灌の風貌を伝える木像として、道灌所持軍扇の写し図、その他の古文書とともに北区の有形文化財に指定されています。靜勝寺の道灌位牌には「香月院殿春苑靜勝道灌大居士」と記されています。
静勝寺の寺域一帯は、東京都旧跡の指定を受けています。
ちなみに、今年7月21日には、静岡県東伊豆町で「熱川道灌石曳きまつり」が行われ、巨大な石を300人で曳き動かしました。また今年10月5日、6日には、神奈川県伊勢原市で恒例の「伊勢原道灌観光まつり」が行われます。(写真の一部は、佐藤哲男氏が提供)

2013年07月02日

「道灌紀行」200か所探訪を終えて

 太田道灌の関連史跡と伝承地200か所の探訪を終え、あたかも道灌の祥月命日を迎える時となりました。この時にちなみ、「道灌紀行」(増補版)を発刊しました。その本のはしがきの一部を掲載させていただき、ひと区切りとします。

 この紀行は、太田道灌を現代によみがえらせるための探訪です。訪ねた太田道灌関連の史跡や伝承地は、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県、群馬県、栃木県、静岡県などの二百か所です。道灌は、江戸の庶民から「道灌びいき」ともいうべき親愛を寄せられ、そのため各地に道灌の名前がつけられました。首都圏には今も道灌山、道灌通り、道灌橋、道灌坂、道灌濠、道灌公園などがたくさんあります。また江戸落語で語られ、画にえがかれ、各地の祭りで山車に乗せられ、方々に山吹伝説の地が生じました。太田道灌は今も各地で愛好家の熱い支持を受け、首都圏にはたくさんの銅像がつくられました。道灌の銅像は、東京都に三体、埼玉県に五体、神奈川県に一体、静岡県に一体、長野県に一体、合計十一体あります。先の大戦の最中には、東京市庁舎の正面にあった太田道灌像が撤去されて供出され、戦場に消えました。

 太田道灌が生きた中世の関東は、地方分権が乱立した複雑な時代でありました。その複雑で先行き不透明な時代と場所での、太田道灌の劇的な生きざまは、ひときわ鮮烈な光彩を放っていました。道灌は、混乱の時代に「関東(かんとう)御静謐(ごせいひつ)」すなわち関東の平穏と民生の安定という大義をかかげ、「道灌がかり」といわれる縄張り(設計)で江戸城を築き、現在の東京の基礎を築きました。彼はまた「足軽戦法」という新戦術を駆使して関八州を駆けぬけました。道灌が武人でありながらみずから歌を詠み、連歌師の心敬や詩人の万里集九など当代一流の文人と深い心の交流をもっていたことは、彼が通常の武人とは違う感性をもっていたことを示しています。その人間的な器量は実に広く多彩であり、世に喧伝された「山吹伝説」は、激動の中の一場の劇中劇のごときであります。 

 道灌の生涯には、たくさんの謎があります。各地を歩きながら、山吹の里の謎、道灌三十連勝の謎、道灌非業の最期の謎等を考えます。この紀行の主役は、言うまでもなく太田道灌その人と、彼が息づき駆けぬけた山谷広野そのものです。人間の人生は、生命と環境が表裏一体となって発現する現象であるので、道灌ゆかりの土地に立って記念碑を見つめ、地勢を眺めて風にあたると、道灌の志操や心意気がよみがえってきて、歴史の真実が見えてきます。とりわけ太田道灌は「地形肝要」を戦略の基本としていたので、各地の城址を調べて古戦場を歩くと、彼の戦略と作戦が見えてきて興味がつきません。それがこの紀行の最もおもしろいところです。

 道灌が今日の我々に残した重要なメッセージは、彼が身を賭して記した「太田道灌状」(一四八〇年)の最終条にあります。「古来、国家を鎮め大乱を治める事は、人を得るに候。古人曰く、国に三不祥有り。賢人有るを知らず一不詳、知って用いざる二不詳、用いるも任せざる三不祥」と。そしてその言葉の通りの悲劇的な彼の生涯の結末には、現代にも通ずる人の世の危うさや不条理があって、深い感慨を覚えます。

 道灌の史跡と伝承の地二百か所を踏査し、彼の人生終焉の地である伊勢原市の道灌墓所に立ち、しみじみと感ずることは、太田道灌が現代の日本人には少なくなった、ストイックな志操と強い意志を持った行動者であったということです。彼は大義のために、自己保身の道を去り、大きなリスクを取ってロマンを追う道を敢えて進んだのでした。そのことにより道灌は、足軽から国人衆に至るまでの幅広い支持を集め、急速に勢力を拡大しました。そういう道灌の生きざまが、行き詰っている現代を打開するための示唆を与えてくれます。また道灌の心友万里集九が、道灌の二七日忌(ふたなのかき)にささげた祭文の中で述べた「訴える所なしといえども、天鑑これ明らかなり」という言葉は、リスクを避けずに生き抜く人間が持つ、究極のキーワードであることがわかります。

 太田道灌の生涯を辿ると、いつどこででも登場するのは、道灌の親類でありかつ好敵手でもあった長尾景春であります。当時関東で長尾家は、太田家をはるかに凌ぐ所領と人的ネットワークを誇っていました。したがって、関八州を駆け抜けた太田道灌と長尾景春はちょうど団扇の表裏のように離すことができない関係であり、「道灌紀行」はおのずと「景春紀行」をも含むことになりました。

 伝説や伝承は、民俗学的に当時の雰囲気を伝えるものとして、またエンターテインメントとして、それなりに価値を認め、そのゆかりの地を訪問しました。伝承の中に、歴史の事実が秘められていることも少なくないと思います。五百年以上も前の一武将であった太田道灌の伝承が、関八州全体の処々方々にかくもたくさん生きつづけ、それらは相互にほとんどつながりがないということも驚きです。それはおそらく、道灌の動きが速く激しく広かったことと、民衆が道灌に強い愛着を持ってその伝承を地元で大切に伝えつづけていることによると思います。(「道灌紀行」【増補版】はネット販売中) 
 

2013年06月09日

道灌船繋松・日暮里船繋松の碑・青雲寺

JR山手線西日暮里駅前の道灌山の奥の崖下に、臨済宗の浄居山青雲寺があります。道灌山から道灌山通りにでて迂回すると、奥まったところに青雲禅寺と記された石碑が見えます。境内正面の本堂右脇に「日暮里舟繋松(ふなつなぎまつ)の碑」があります。船繋松とは、舟人が目印とした高台の松すなわち現在の灯台に当たるものです。
この碑は、安永5年から天明5年のあいだに、道灌山すなわち当時の青雲寺境内東北の崖に建てられました。1874年(明治7年)に、道灌山が加賀前田家に売却されたので、碑は現在地に移転されました。
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(江戸名所図会・道灌船繋松・図中右奥の大木) 

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(青雲寺・日暮里船繋松の碑・中央)

その後、1973年(昭和㊽年)道灌山は、西日暮里公園となりました。
「新編武蔵風土記稿」(1830年)に次のように記されています。
「船繋ぎ松・境内東北の崖にあり、古木は枯れて植え継ぎしものとみゆ。往昔、この崖下まで入り海なりし時、船を繋ぎしゆへかく名付くと言い伝ふれど、もとより確かなる拠なし。樹下に船繋松の碑を建て銘文を刻す」。
また、「江戸名所図会」(1836年)には、道灌山の船繋ぎ松の絵が画かれ、「崖に臨み、鬱蒼としてそびえた松」と記されています。この絵の中の、右奥の一番高い木が船繋松です。この船繋松は、大田道灌の砦にちなみ、道灌船繋松とも呼ばれるようになりました。また、この江戸名所図会によると、入江が道灌山の下まで迫っていたことがよくわかります。また、青雲寺は当時、道灌山の麓にあったとも思われます。
青雲寺の境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(1809年)、滝沢馬琴の硯塚の碑、狂歌師安井甘露庵の碑があります。
西日暮里公園=東京都荒川区西日暮里3
青雲寺=東京都荒川区西日暮里3―6