2022年09月15日

「山吹の里」リニューアル(道灌紀行ニュースNo.19)

 面影橋の「山吹の里」(東京都豊島区)の碑が、移動したと聞きましたので、さっそく出かけました。
 JR山手線高田馬場駅の早稲田口から、早稲田通りを東へ進み、馬場口で左折して明治通りを進みます。高戸橋で右折して新目白通りをやや進むと、左側に面影橋があり右前方に都電荒川線の面影橋停留所が見えます。
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(面影橋とマンション)
 橋の下を流れるのが神田川、すなわち道灌の江戸城の東側を流れていた平川です。面影橋を渡るとすぐ右側に、巨大なマンションが新設され、その前のちょっとした空間に、山吹の碑が立っています。元の場所からすこし移動した感じです。
山吹の里の碑は、山吹の茂みに囲まれていたものの残念ながら花は咲いていませんでした。毎年四月には、実のない八重山吹の花が満開になるでしょう。豊島区教育委員会の説明版もあり、詳しい説明文が記されているので紹介します。
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(周囲に山吹と百日紅)   
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(「山吹の里」の碑)
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(豊島区教育委員会の説明版)

       「山吹の里」の碑   所在地 高田1-18-1
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一隊は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が、鷹狩りに出かけて雨にあい、。農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重花は咲けども山吹のみの(蓑)一つだに無きぞ悲しき」(御拾遺集)
の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図絵」(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。
「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町だとする説があって定かではありません。ただ神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹の里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
  平成16年(2004)3月 豊島区教育委員会
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(碑の周りに数か所の休憩スポット)
碑の周りには、数か所の休憩場所の配慮があります。JR高田馬場から山吹の里まで歩いてくると約15分かかります。歩いてきた道灌ファンは、ここに腰を下ろして、山吹の花をめで、道灌伝説に思いを馳せることができます。
ちなみに、ここから都電に乗り、荒川の町屋で降り、すこし歩くと、荒川区の山吹伝説の地へ行くことができます。


2022年07月25日

越後の管領塚

1.管領塚史跡公園
私は、太田道灌関連の史跡と伝承地、約250か所を訪問しましたが、重要史跡で1か所だけ行ってないところがありました。それは、越後の長森原古戦場すなわち上杉顕定の管領塚(かんりょうづか)です。そこははるか、三国峠を越えた新潟県南魚沼市の北部、八海山の近くであるので、私の運転能力では無理だったのです。

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(沼田駅前の天狗の銅像)

今回私は,酷暑が始まったころ思い切ってでかけました。天狗まつりで知られている沼田市まで列車で行き、そこからレンタカーで三国街道すなわち国道17号線を上りました。関越道ができた今、この街道は脇街道となっています。沼田城址や名胡桃城址をあとにして猿ヶ京温泉を過ぎると、三国峠にはトンネル(1076m)があります。このトンネルの上の峠道を、1509年(永正6)7月、関東管領上杉顕定は軍勢を率いて越え、越後へ入りました。のちには、長尾景虎すなわち上杉謙信も、この峠を越えてたびたび関東へ攻め込みました。したがって、トンネルの上の峠道を徒で越えた方が、顕定や謙信の心情に迫ることができます。しかし、徒ち越えは他日にゆずり、今回は車でトンネルを通って越後に入りました。

越後湯沢の空気は涼しく、晴れたり曇ったりでときに小雨まじりの風が吹き抜けていました。越後湯沢をすぎて六日町で右折し、国道291号線を約10分も走ると、南魚沼市下原新田の「管領塚史跡公園」につきます。

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(管領塚史跡公園)

南魚沼市教育委員会の説明では、「管領塚」は「かんりょうづか」と読み、この史跡公園に隣接する地域に大字長森というところがあるので、そのあたりが長森原古戦場であると推測されているとのことです。
私の第一印象は「(武蔵国から)ずいぶん遠いところへ来てしまったなあ」ということでした。

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(史跡公園の中央にある上杉顕定の塚)

管領塚の周囲には、名にし負う南魚沼産コシヒカリの稲穂が、水もしたたるような美しさで山裾まで広がっています。そのあたりにあった「下原百塚」が、農地整備のため、この管領塚にまとめられたのでしょう。このようなことは、古戦場によくあることです。

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(管領塚の追悼碑)
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(山裾まで続く南魚沼産コシヒカリの稲穂)

 管領塚の追悼碑にいう。
「上野国守護関東管領上杉憲実永享十年(一四三八年)鎌倉を退き平井城(藤岡市)に拠る。此処に関東管領上杉氏の礎は定まる。時移り文正一年(一四六六年)六月越後上杉顕定は、足利幕府に請われて山内上杉氏を継ぎ、上野国守護関東管領となる。永正七年(一五一〇年)六月二十日長森ケ原に悲運の露と消えぬ。その間四十四年ならんか。(後略)
       昭和六十三年六月二十日  
             群馬県藤岡市長 吉野 益」

山内上杉氏の本城は藤岡市の平井城で、前線基地が道灌のすすめによる鉢形城でした。越後の管領塚が整備されたとき、藤岡市長が気張ってこの追悼文を寄せました。

2.長森原の合戦・下原百塚
1509年(永正6)7月関東管領上杉顕定は、弟の上杉房能(越後守護)のかたきを討つため三国峠を越えて越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)を攻め、越中へ放逐しました。
翌年顕定は再度越後で、長尾為景を攻めました。しかし同年6月20日に顕定は長森原で、為景方の援軍高梨政盛の軍勢に敗北して自刃しました。
この地に「下原百塚」という地名が残っていた通り、ここで大激戦が行われて多くの戦死者がでました。管領軍は追い詰められて、顕定は自刃に追い込まれたのです。ときに顕定57歳。(越後永正の乱)
太田道灌が上杉軍の前線司令官であったころはいつも、地勢を利用した足軽戦法等で野戦の勝利を確実にしていました。上杉顕定は武蔵から遠くに来すぎて、地勢も人の気風もわからないまま、優秀な軍師もいなかったので作戦は成功せず、敗北してしまったのです。

3.「当方滅亡」の軌跡
上杉家は藤原鎌足を祖先とし、多くの人材を輩出した、わが国では第一級の名家(セレブ)です。越後の南魚沼市の山裾にも、「雲洞庵」(曹洞宗)という上杉家の菩提寺があります。
太田道灌が非業の最期を遂げるとき叫んだ「当方滅亡」とは、その上杉家が、顕定と定正の猜疑心と忘恩により滅亡するという予言です。道灌の心友万里集九もまた、道灌二七日忌の祭文で「天艦惟明らかなり(天の鏡にすべてが映し出される)」と述べています。
道灌没後、両上杉家は争いをつづけて互いにその力を衰減させ、62年後には河越の夜戦で、道灌の予言通りに、両上杉家とも滅亡してしまいました。その主な足跡をたどります。

1486年(文明18)7月26日、太田道灌遭難、道灌は相模の糟屋館で上杉定正により謀殺され、下粕屋の洞昌院に葬られる、太田道灌55歳。
1487年(長享1)11月、長享の乱、山内上杉顕定と扇谷上杉定正の対立が深まる.
1488年(長享2)2月5日、実蒔原の合戦、両上杉軍が実蒔原(伊勢原市)で戦う。
同年6月18日、菅谷原の合戦、両上杉軍が菅谷原(嵐山町)で戦う。

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(越生駅前、「文武両道」の太田道灌像)

同年11月15日、高見原の合戦、高見原(寄居町)で両上杉軍が戦う。
1494年(明応3)同年10月5日、定正頓死、扇谷上杉定正と山内上杉顕定が高見原で対陣し、定正は荒川で落馬して頓死する(49歳)。
1504年(永正1)11月13日、立川原の合戦、扇谷上杉方を北条早雲、今川氏親が救援し、山内上杉方に足利政氏らが連合し、武蔵国立河原において決戦が行われる。
1510年(永正7)6月20日、長森原の合戦、上杉顕定敗死、山内上杉顕定は長尾為景と越後の長森原で戦い敗死する(57歳)。
1546年(天文15)河越の夜戦で上杉家滅亡、河越城救援にきた北条氏康が河越城を包囲し、両上杉と古河公方の連合軍を奇襲で破る。扇谷上杉朝定は戦死する。
山内上杉憲政は平井城へ、足利晴氏は古河城へ敗走し、上杉領は消滅して上杉家は滅亡する。
1552年(天文21)上杉謙信名乗り、山内上杉憲政は越後へ行き、名跡と関東管領を長尾景虎へ譲る。

4.ある郷土史家の提言
ある郷土史家の会合で、太田道灌の大河ドラマ推進の話をしたところ、一人の郷土史家が次のように語りました。
「太田道灌の大河ドラマを実現する際、伊勢原での道灌非業の最期で終わっては、意味もわからなく面白くもない。その後の上杉氏滅亡の足跡とさらには江戸時代の英勝院や掛川太田氏等の活躍まで描かなければ、太田道灌の物語は完結しない」と。
私は、そんな長い大河ドラマを見たことがありませんが、その方の提言に大賛成です。
posted by 道灌紀行 at 11:42| Comment(0) | 前ヶ崎城と太田六郎

2022年03月30日

続き・千駄木・太田資宗屋敷跡

東京メトロ千代田線の千駄木(せんだぎ)駅で降り、団子坂(汐見坂)を上りきると、森鴎外記念館があります。 本郷台地の森鴎外記念館は、鴎外の住居・観潮楼の址です。そこから東京湾の帆船がよく見えたので鴎外は、観潮楼と名付けて終生暮らしました。
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  (重厚な森鴎外記念館)
記念館を左折して、文京八中を左に見ながら藪下通りを通り、急坂を下って右折すると、杜が見えます。そこが、「千駄木ふれあいの杜」すなわち太田資宗の屋敷跡の一部です。
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  (薮下通りの老桜)
花冷えの日、満開の桜が咲きとどまっていました。
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(千駄木ふれあいの杜入口)
「千駄木ふれあいの杜」のフェンスにある、文京区土木部みどり公園課の説明版には、次のように記されています。
『江戸時代、この辺りは太田道灌の子孫である太田備中守資宗が三代将軍徳川家光から賜った下屋敷で、現千駄木1丁目一帯に及ぶ、広大な敷地でした。そこからの眺めは「太田備牧駒籠別荘八景十境詩、画巻」に描かれています。そこには湧水を源泉とする池があり、明治以降これは、「太田が池」と呼ばれました。近くには森鴎外、夏目漱石などの文化人が住まいを構え、その作品の中に当時の風景を書き残しています。
昭和の初めまでに「太田が池」はなくなりましたが、昭和40年代まで屋敷内の庭には湧水が残っていました。しかし時代の変遷とともに、その湧水も涸れ、本郷台地東緑崖線の崖地の緑も、現在は「千駄木ふれあいの杜」を残すのみとなりました。
「千駄木ふれあいの杜」は、所有者である太田氏と文京区の間で契約が結ばれ、平成13年10月より市民緑地として一般公開されてきましたが、できる限り樹林を後世まで残すよう配慮することを条件として、平成20年3月に太田氏より区に寄付されました。
区ではその意向に沿うよう都市に残る多様な動植物の生息空間の保全をする都市公園と位置づけ、多くの方が自然に親しんでいただけるよう公開しています。』
この説明版にすべてが語られています。この土地の所有者であった、太田資宗の子孫の方は、今もこの近傍に住んでいます。
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  (「太田が池」の遺構を巡る道)
崖下の「太田が池」の遺構には、水は涸れているもののよくみると池の縁の石や石灯篭がコケに覆われて残っています。
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(石灯籠の遺構)
地元の「千駄木の杜を考える会」が「屋敷森通信」を発行して、入り口に置いてあります。それによるとこの杜では冬になると、縁起物として名高い千両、万両が赤い実をつけるそうです。
この杜は一見、藪のように見えますが、それは地元の関係者が「生き物を一切を持ち出さない、持ち込まない」という原則にしたがい、環境を守りつづけているからであります。
posted by 道灌紀行 at 19:47| Comment(0) | 二つの三芳野天神社と平河天満宮