2013年10月02日

磯部城址と溝呂木氏

上磯部の土塁
去る2013年9月24日に、神奈川県相模原市のボーノ相模大野セミナールームという会場で、武相歴史研究会主催の文化講演会「太田道灌を学ぶ」が盛大に行われました。太田資暁氏と山田真也氏の講演の後で、参加者から、相模原市の太田道灌関連史跡磯部城址について、種々質問や説明がありました。私は以前、磯部城址を調査したことがあるけれども、いろいろな疑問を残していました。今回の講演会を契機に、もう一度磯部城址へ行かなければならないという思いが強くなり、早速、初秋の晴れた日に、車を走らせて相模原市へ向かいました。
国道16号線あるいは129号線で相模原市に入り、相模川べりに来ると、磯部という地域があります。JR相模線の下溝駅から南東へ5百メートル程歩いても磯部地区へ来ることができます。相模川沿いの磯部頭首工(いそべとうしゅこう)公園から河岸段丘沿いに三段の滝まで、遊歩道すなわちさがみグリーンラインが整備されています。頭首工とは、あまり聞きなれない言葉であるけれども1.2メートル以下の堰(せき)のことです。
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(相模川の頭首工)
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(さがみグリーンライン)
このさがみグリーンラインに沿って、約60メートルの土塁跡があり、そこに相模原市教育委員会の説明板があります。図入りの、その説明板には次のように記されています。
『相模原市登録史跡 上磯部の土塁
この土塁は、長尾景春の反乱の際に、景春方の拠点「小沢城(こさわじょう)」の支城として築城された「磯部(いそべじょう)」に伴うものではないかと考えられています。発掘調査により、土塁の北側にかつて城堀があったことが確認されましたが、時期を決める遺物は出土していません。城の中心は、現在の御嶽神社(みたけじんじゃ)や能徳寺(のうとくじ)の付近と推測されています』
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(教育委員会の説明板)
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(土塁跡)
遊歩道の中頃に「磯部民俗資料館」があるので、訪問して館長に尋ねると、「磯部城については、教育委員会の説明以上のことはわかりません」とのことでした。
磯部頭首工公園のすぐ近くに、能徳寺という曹洞宗の寺があり、その裏の方にちょっとした土塁跡があります。そこから100メートルも歩くと御嶽神社があります。能徳寺の近くで仕事をしていた壮年に尋ねると、自宅の前をさして、「ここが磯部城の本丸跡です」と言って胸をはりました。近くに「堀の内」「大門」などという地名があるそうです。壮年はまた、近くの大山道石碑を教えてくれました。御嶽神社のそばの商店で買い物をして、店の主人と話をすると、「うちの先祖は磯部城で戦った」と誇らしげに語っていました。

長老の話・生きのびた溝呂木一族
さて私が数年前に磯部城址を訪問して以来、ずっと持ちつづけている疑問があります。それは、厚木市の溝呂木城(みぞろぎじょう)址と、相模原市の磯部城址のまわりに目立つたくさんの溝呂木家とが、どういう関係にあるかということです。
頭首工公園で車を降りて歩きまわると、すぐに数軒の溝呂木家が目につきました。いずれも旧家風の門構えの家です。私が見当をつけて、一軒の溝呂木家を訪問すると、長老風の壮年が現れました。その長老は幸いに歴史好きであったので、玄関前で小一時間も私との、素人歴史談義が弾みました。長老の話を要約すると、次のようなことです。
「溝呂木一族は現在、磯部の集落に20軒ある。江戸時代初期からの位牌があるが、室町時代の資料はない。言い伝えによると、先祖は室町時代に半農半武士の地侍で、まあ野武士の集団のようなものであった。最初に厚木の溝呂木城に籠ったが、太田道灌軍に攻められて支城の磯部城へ逃げてきた。のちに道灌軍が小沢城を攻めるとき、後詰めを断つため磯部城も攻めたので降参した。最初に溝呂木一族は、長尾景春方についたが、それは今の政治家が目先の利害のためにあちこちの親分の配下に入るのと同じようなことだった。磯部という一族もいたが、のちに故あって溝呂木に改姓した。だから、溝呂木でも家紋が違う」。
能徳寺.JPG     
(溝呂木氏の菩提寺能徳寺)
大山道石碑.JPG
(磯部の大山道石碑)
私は長老の話を聞いて、磯部城と溝呂木一族について、自分が推測していたことと完全に一致した、と思いました。そしてさらに推測が深まりました。
 
「太田道灌状」(1480年)にいわく、「相州には景春被官人溝呂木、在所を要害に拵(こしら)え候。(中略)三月十八日溝呂木要害へ差し遣はし候の間、自火せしめ没落」と。「太田道灌状」によると、溝呂木氏は長尾景春の家来となり、居住していた相模川べりに要害を築きました。しかし1477年(文明9)3月18日に道灌軍に攻められたので、城主溝呂木正重は要害に火をつけて逃亡した、ということです。厚木市の教育委員会の推定では、溝呂木城は、神奈川県厚木市厚木の三川(相模川、中津川、小鮎川)合流地帯にありました。そして私は、さらに次のように推測します。道灌軍が近づいてくると、溝呂木一族は戦うことを避け、城の搦め手から船で相模川を渡り、上流の磯部城へ逃亡したのです。
 また「太田道灌状」にいわく、「二宮の事かくの如く候の間、相州磯部の城は降参せしめ、小沢城は自落いたし候」と。1478年(文明10)4月11日に道潅は小机城を陥落させ、二宮(あきる野市)の陣で大石氏を懐柔して後詰めを断ち、相模川上流の小沢城(愛川町)攻略に向かいました。そうすると、磯部城は降参しました。文面から察すると、このときも、磯部城の溝呂木氏は、戦わずして道灌軍に降伏したようです。
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(磯部民俗資料館看板)  
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(城址ちかくの相模川河川敷)
さきの長老の口ぶりからも、溝呂木氏は大義や義理には頓着せず、一族の利害のために、常に形勢のよい方へなびく嗅覚をもっていたようです。国人衆の多くが、そのような習性を持っていたことを、太田道灌はだれよりもよく知っていたので、所領安堵を約束しながら、緒戦における電光石火の速攻で、景春方優位の形勢を逆転していったのです。

相模川は、武蔵の荒川に比べると、なんとなくゆったりと流れ、流れの中に鮎釣りの男たちが散見されます。磯部城址から眺めると、広い流域のかなたに大山などがなだらかに連なって見えます。その佳景を見ていると、溝呂木一族はこの地で、戦をくぐりぬけながら、案外と優雅に生きのびたのではないかと思えてくるのであります。
上磯部の土塁は、相模原市登録史跡です。
磯部城址・上磯部の土塁=神奈川県相模原市磯部90番地他
 
posted by otadoukan at 05:25| Comment(27) | 磯部の土塁と溝呂木氏

2013年09月20日

川越の太田道灌屋敷跡

1456年(康正2)、上杉持朝の命により太田道真、道灌父子が河越城の縄張りをはじめ、翌1457年(長禄元年)に城は完成しました。江戸城と河越城は、利根川のむこうで攻勢を強める古河公方に対抗して築城されたといわれています。当時の河越城の地図等は、全く残っていません。現存する川越城の最古の地図は、江戸期元禄時代の古地図です。それらを参考にして、現在の地形から推測すると、道灌時代の河越城の城域は、現在の三芳野神社境内と本丸御殿のあたりであったと考えられます。
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(太田道灌像・川越市役所前)
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(「新編武蔵風土記稿」の図、中央に東名寺、その左下に太田道灌屋敷と多谷寺)

河越城は、新河岸川と沼沢地の水により、三方をやや開いた馬蹄形で囲まれた、高さ十数メートルの舌状の微高地に築城されました。したがって基本的には、江戸城と同じ設計思想に基づいていました。同時代に活躍した、金山城の陣僧松陰は、「江戸河越両城堅固なり、彼の城は道真道灌父子・上田・三戸・萩野谷関東巧者の面々、数年秘曲を尽して相構え」(松陰私語)と記しています。

この頃、太田道灌が居住した「太田道灌屋敷跡」が「新編武蔵風土記稿」(1830年)入間郡巻十、「河越城下町図」に記されています。下町とは現在の川越市志多町を指します。川越市の蔵造りの町並みを北へ進み、札の辻を過ぎてやや歩くと志多町となり、そこには、川越夜戦の激戦地跡と伝えられる東名寺があります。ちなみに、中世では多く「河越」と記され、近世から「川越」と記されることが多くなってきました。

さてこの「新編武蔵風土記稿」の図では、東明寺と入間川(赤間川・新河岸川)の間の多谷寺隣に、「太田道灌屋舗」と記されています。その場所は現在、新河岸川(赤間川)湾曲部分の内側の志多町北端であり、田谷堰・田谷橋があります。図中の多谷寺の多谷と現在の田谷橋の田谷が同じ地域を指しています。
したがって、太田道灌屋敷跡は、新河岸川(赤間川)の湾曲部分の内側の突端、すなわち志多町8番地と推定されます。道灌が築城する場所はいつも、馬蹄形で水に囲まれた舌状地でありました。この場所も、小規模ではあるけれども、そのような道灌好みの地形であったことが分かります。
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(志多町新河岸川の田谷橋) 
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(道灌屋敷跡近辺・彼岸花)
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(道灌橋)

東明寺西側には現在、道灌橋が架かっています。昭和6年に、この橋がコンクリート化されたとき、「新編武蔵風土記稿」の太田道灌屋敷の記述にあやかり、「道灌橋」と命名されたそうです。その近辺は今、ごく普通の住宅地であり、「太田道灌屋敷跡」であることを示す遺構や標示は何もありません。訪問者は、川べりに立って風に当たり、いにしえの道灌屋敷を偲ぶしかありません。田谷橋の下で、大きな鯉が泳ぎまわり、川に沿って桜並木がつづき、秋には彼岸花が咲いています。このあたりに、「太田道灌屋敷跡の碑」を一本建ててほしいものです。
太田道灌屋敷跡=埼玉県川越市志多町8番地
 
 
posted by otadoukan at 21:20| Comment(22) | 川越の太田道灌屋敷跡

2013年07月28日

稲付城址・靜勝寺の「道灌まつり」

稲付城址(いねつけじょうし)は、JR埼京線の赤羽駅南口から徒歩5分の高台すなわち道灌山にあります。「稲付城址」と彫られている石碑を見ながら、急な階段53段を登って城址に至ると、そこには曹洞宗の自得山静勝寺(じとくざんじょうしょうじ)があります。寺の境内は静かでセミが鳴き、夏の夕方には涼風が流れていてほっとします。本堂の屋根瓦には、太田家の桔梗紋が、寺紋として浮き出ています。
2013年7月26日は、太田道灌の527回目の祥月命日です。この日に、稲付城址すなわち靜勝寺では、夕方、道灌堂で道灌の法要が行われ、「道灌まつり」が始まりました。境内は色とりどりのちょうちんで飾られ、城址の下の広場では地元の町会の人たちが手作りの出店を出し、近隣の子供たちが集まってきました。   014.JPG        
(本堂屋根の桔梗紋)
 
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(ちょうちんで飾られた境内)

この近くでは、鎌倉街道下道(しもつみち)と奥州への街道が合流し、交通の要衝ができていました。室町時代には関も設けられ、岩淵の宿が発達しました。道灌は江戸城と川越城の築城後に、両城の中間地点に、江戸城の出城としてこの城を築いたと思われます。道灌没後、孫の太田資高が居城とした時期もありました。1987年(昭和62年)の発掘調査で、空堀の跡が発見されたけれども、現在では城の遺構は残っていません。
靜勝寺の由緒によると、1504年(永正元年)に道灌の禅の師匠であった雲綱俊徳(うんこうしゅんとく)が、道灌の菩提を弔うためにこの地に草庵を結び道灌寺とし、静勝寺の起源となりました。江戸時代の寛永年間(1633年〜16421年)に地元の僧麟的が、草庵を再興しました。そしてさらに、道灌の6代目の子孫太田資宗(江戸掛川系)が境内を整備し、太田家の菩提寺としました。言うまでもなく山号は、道灌の父道真の館である自得軒(じとくけん)に由来し、寺号は道灌の館である静勝軒(じょうしょうけん)に由来しているので、父子一体の寺名であります
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(稲付城址下の祭り会場)

道灌の命日である毎月の26日には、道灌堂が開扉されて太田道灌の木像を拝観できます。この木像は、胎内の銘札により当山六世の風全恵釧が元禄時代に造ったと伝えられています。また太田資高が稲付城に在城当時、画像によって造ったとか、あるいはまた道灌生存中に自ら名工に命じて造らせたという説もあります。この木像には、造立後に6回の修復が施されました。現在の彩色は1987年(昭和62年)に行われた修復によるものです。
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(道灌堂) 
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(安置された太田道灌像)

この太田道灌像は剃髪,道服姿で立膝をして手に払子(ほっす)を持ち、傍らに脇刀が置かれています。高さは60センチで、その眼光は威あって猛からず、広い額には知略をたたえて口元には決断力をうかべています。万里集九は、道灌没後の二七日(ふたなのか)の忌日に読んだ祭文の中で、道灌の人品について「(道灌は)人の英と為るが如し(英傑であった)曖然たる和気は花の栄に就くが如し(穏やかな人柄でなにかしら華やぐところがあった)」と述べています。この木像には、静中動あり、思索則行動の道灌の雰囲気がよく表れています。この像のレプリカが、江戸東京博物館、北区立飛鳥山博物館、川越市立博物館にあります。
靜勝寺の太田道灌像は道灌の風貌を伝える木像として、道灌所持軍扇の写し図、その他の古文書とともに北区の有形文化財に指定されています。靜勝寺の道灌位牌には「香月院殿春苑靜勝道灌大居士」と記されています。
静勝寺の寺域一帯は、東京都旧跡の指定を受けています。
ちなみに、今年7月21日には、静岡県東伊豆町で「熱川道灌石曳きまつり」が行われ、巨大な石を300人で曳き動かしました。また今年10月5日、6日には、神奈川県伊勢原市で恒例の「伊勢原道灌観光まつり」が行われます。(写真の一部は、佐藤哲男氏が提供)

2013年07月02日

「道灌紀行」200か所探訪を終えて

 太田道灌の関連史跡と伝承地200か所の探訪を終え、あたかも道灌の祥月命日を迎える時となりました。この時にちなみ、「道灌紀行」(増補版)を発刊しました。その本のはしがきの一部を掲載させていただき、ひと区切りとします。

 この紀行は、太田道灌を現代によみがえらせるための探訪です。訪ねた太田道灌関連の史跡や伝承地は、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県、群馬県、栃木県、静岡県などの二百か所です。道灌は、江戸の庶民から「道灌びいき」ともいうべき親愛を寄せられ、そのため各地に道灌の名前がつけられました。首都圏には今も道灌山、道灌通り、道灌橋、道灌坂、道灌濠、道灌公園などがたくさんあります。また江戸落語で語られ、画にえがかれ、各地の祭りで山車に乗せられ、方々に山吹伝説の地が生じました。太田道灌は今も各地で愛好家の熱い支持を受け、首都圏にはたくさんの銅像がつくられました。道灌の銅像は、東京都に三体、埼玉県に五体、神奈川県に一体、静岡県に一体、長野県に一体、合計十一体あります。先の大戦の最中には、東京市庁舎の正面にあった太田道灌像が撤去されて供出され、戦場に消えました。

 太田道灌が生きた中世の関東は、地方分権が乱立した複雑な時代でありました。その複雑で先行き不透明な時代と場所での、太田道灌の劇的な生きざまは、ひときわ鮮烈な光彩を放っていました。道灌は、混乱の時代に「関東(かんとう)御静謐(ごせいひつ)」すなわち関東の平穏と民生の安定という大義をかかげ、「道灌がかり」といわれる縄張り(設計)で江戸城を築き、現在の東京の基礎を築きました。彼はまた「足軽戦法」という新戦術を駆使して関八州を駆けぬけました。道灌が武人でありながらみずから歌を詠み、連歌師の心敬や詩人の万里集九など当代一流の文人と深い心の交流をもっていたことは、彼が通常の武人とは違う感性をもっていたことを示しています。その人間的な器量は実に広く多彩であり、世に喧伝された「山吹伝説」は、激動の中の一場の劇中劇のごときであります。 

 道灌の生涯には、たくさんの謎があります。各地を歩きながら、山吹の里の謎、道灌三十連勝の謎、道灌非業の最期の謎等を考えます。この紀行の主役は、言うまでもなく太田道灌その人と、彼が息づき駆けぬけた山谷広野そのものです。人間の人生は、生命と環境が表裏一体となって発現する現象であるので、道灌ゆかりの土地に立って記念碑を見つめ、地勢を眺めて風にあたると、道灌の志操や心意気がよみがえってきて、歴史の真実が見えてきます。とりわけ太田道灌は「地形肝要」を戦略の基本としていたので、各地の城址を調べて古戦場を歩くと、彼の戦略と作戦が見えてきて興味がつきません。それがこの紀行の最もおもしろいところです。

 道灌が今日の我々に残した重要なメッセージは、彼が身を賭して記した「太田道灌状」(一四八〇年)の最終条にあります。「古来、国家を鎮め大乱を治める事は、人を得るに候。古人曰く、国に三不祥有り。賢人有るを知らず一不詳、知って用いざる二不詳、用いるも任せざる三不祥」と。そしてその言葉の通りの悲劇的な彼の生涯の結末には、現代にも通ずる人の世の危うさや不条理があって、深い感慨を覚えます。

 道灌の史跡と伝承の地二百か所を踏査し、彼の人生終焉の地である伊勢原市の道灌墓所に立ち、しみじみと感ずることは、太田道灌が現代の日本人には少なくなった、ストイックな志操と強い意志を持った行動者であったということです。彼は大義のために、自己保身の道を去り、大きなリスクを取ってロマンを追う道を敢えて進んだのでした。そのことにより道灌は、足軽から国人衆に至るまでの幅広い支持を集め、急速に勢力を拡大しました。そういう道灌の生きざまが、行き詰っている現代を打開するための示唆を与えてくれます。また道灌の心友万里集九が、道灌の二七日忌(ふたなのかき)にささげた祭文の中で述べた「訴える所なしといえども、天鑑これ明らかなり」という言葉は、リスクを避けずに生き抜く人間が持つ、究極のキーワードであることがわかります。

 太田道灌の生涯を辿ると、いつどこででも登場するのは、道灌の親類でありかつ好敵手でもあった長尾景春であります。当時関東で長尾家は、太田家をはるかに凌ぐ所領と人的ネットワークを誇っていました。したがって、関八州を駆け抜けた太田道灌と長尾景春はちょうど団扇の表裏のように離すことができない関係であり、「道灌紀行」はおのずと「景春紀行」をも含むことになりました。

 伝説や伝承は、民俗学的に当時の雰囲気を伝えるものとして、またエンターテインメントとして、それなりに価値を認め、そのゆかりの地を訪問しました。伝承の中に、歴史の事実が秘められていることも少なくないと思います。五百年以上も前の一武将であった太田道灌の伝承が、関八州全体の処々方々にかくもたくさん生きつづけ、それらは相互にほとんどつながりがないということも驚きです。それはおそらく、道灌の動きが速く激しく広かったことと、民衆が道灌に強い愛着を持ってその伝承を地元で大切に伝えつづけていることによると思います。(「道灌紀行」【増補版】はネット販売中) 
 

2013年06月09日

道灌船繋松・日暮里船繋松の碑・青雲寺

JR山手線西日暮里駅前の道灌山の奥の崖下に、臨済宗の浄居山青雲寺があります。道灌山から道灌山通りにでて迂回すると、奥まったところに青雲禅寺と記された石碑が見えます。境内正面の本堂右脇に「日暮里舟繋松(ふなつなぎまつ)の碑」があります。船繋松とは、舟人が目印とした高台の松すなわち現在の灯台に当たるものです。
この碑は、安永5年から天明5年のあいだに、道灌山すなわち当時の青雲寺境内東北の崖に建てられました。1874年(明治7年)に、道灌山が加賀前田家に売却されたので、碑は現在地に移転されました。
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(江戸名所図会・道灌船繋松・図中右奥の大木) 

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(青雲寺・日暮里船繋松の碑・中央)

その後、1973年(昭和㊽年)道灌山は、西日暮里公園となりました。
「新編武蔵風土記稿」(1830年)に次のように記されています。
「船繋ぎ松・境内東北の崖にあり、古木は枯れて植え継ぎしものとみゆ。往昔、この崖下まで入り海なりし時、船を繋ぎしゆへかく名付くと言い伝ふれど、もとより確かなる拠なし。樹下に船繋松の碑を建て銘文を刻す」。
また、「江戸名所図会」(1836年)には、道灌山の船繋ぎ松の絵が画かれ、「崖に臨み、鬱蒼としてそびえた松」と記されています。この絵の中の、右奥の一番高い木が船繋松です。この船繋松は、大田道灌の砦にちなみ、道灌船繋松とも呼ばれるようになりました。また、この江戸名所図会によると、入江が道灌山の下まで迫っていたことがよくわかります。また、青雲寺は当時、道灌山の麓にあったとも思われます。
青雲寺の境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(1809年)、滝沢馬琴の硯塚の碑、狂歌師安井甘露庵の碑があります。
西日暮里公園=東京都荒川区西日暮里3
青雲寺=東京都荒川区西日暮里3―6

2013年06月01日

道灌の宝刀・久国神社

東京都港区六本木に久国神社があります。六本木の交通網は複雑なので、さがすのに少々苦労します。
この神社の御由緒には、次のように記されています。
「当社は元千代田村紅葉(現皇居内)に鎮守されていましたが、長禄3年(西暦1457年)太田道灌江戸城築城につき、寛正6年、(西暦1465年)溜池に城皇の鎮守として遷座され、のちに、久国作の刀が寄進されましたので久国神社と称しました。」
当社は、その後1741年(寛保元年)に六本木へ遷座され、1874年(明治7年)に青山火災の類焼にあい、さらに1945年(昭和20年)に太平洋戦争の空襲で全焼したけれども、久国の名刀は守られ、1953年(昭和28年)に社殿が再建されました。
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(勝海舟筆の額)      
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(久国神社)
宮司の説明によると、太田道灌奉納の久国作の名刀は、桐の箱に収められた、約三尺の長刀で、秘蔵しているため、一切公開していないということです。年に一度、この名刀をさる所で磨いてもらっているということです。
この神社の額は、勝海舟筆で、神像は高村光雲作です。境内には、その名前のためか、「国威宣揚」と彫られた碑があります。
妙義神社(豊島区)に奉納された太田道灌の名刀菊一文字は、先の大戦の空襲で焼失したので、当社の久国の名刀は貴重です。私は、是非一度、記念のときに、当社の久国の名刀を公開してください、とお願いしました。
久国は、京都東山で栄えた粟田口一門の名匠です。江戸時代の刀剣解説書「懐宝剣尺」のなかで、久国は美術的価値で古刀最上位にランクされています。現在、この神社の久国の名刀は一切公開されていないので、この名刀を見たいという人たちが神社に押し寄せてきては宮司が困惑します。したがって、当社の住所とアクセスは記さないでおきます。
港区にはその他に、太田道灌江戸築城の際に遷座した西久保八幡神社(虎ノ門)と太田道灌が勧請したと伝えられる麻布氷川神社(元麻布)があります。
posted by otadoukan at 10:04| Comment(7) | 道灌の宝刀・久国神社

2013年05月15日

秩父の「高佐須」と「高指」考察

1.夜討沢双龍の巖
「太田道灌状」の冒頭の段には、「秩父高佐須」という言葉が登場します。「高佐須」とは「高指」と同義で、高みを目指して築きあげていく段々畑の意味と思われます。柳田国男の「地名の研究」によると、「サス」とは関東山間の焼き畑・切り替え畑を言い表す言葉だそうです。「秩父高佐須」が、具体的に秩父のどこをさしているのかについては、諸説があるけれども、多くの郷土史家は、高佐須とは塩沢城をさすと言っています。今回は、「秩父高佐須」の考察を深めるため、「長尾景春の伝承地を歩く会」のメンバーとともに、埼玉県小鹿野町(おがのまち)小森の高指(たかざす)を踏査しました。
私たちは日曜日の朝9時に、小鹿野町の道の駅「両神温泉薬師の湯」の前に結集し、小森へ向かいました。初夏の青空と山並は涙が出るほど美しく、山藤がいたるところで満開でした。車で10分も走ると、景春伝説の地夜討沢(ようちざわ)にきます。
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(夜討沢双龍の巌・二つの岩の間が夜討沢) 
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(説明板)
沢の入り口に、最近作られた説明板にいわく、
「夜討沢(ようちざわ)双龍(そうりゅう)の巌(いわ) 正二書
室町時代の1476年、関東管領山内上杉家の重臣である長尾景春は、古河公方を後ろ盾として主家へ反逆します。
やがて太田道灌に追い詰められ、この地の山城塩沢城に籠城し抵抗しますが、ある夜、道灌の命で夜討ちが行われ、この沢は戦いの場となりました。景春らは夜陰にまぎれてどこかへ消え去ります。
夜討沢の呼び名は、その史実がもとになっています
この沢の周辺は繁茂した樹木に覆われ、その全容は久しく幻のものとなっていました。
このほど、それを復活させたいという機運がたかまり、小森川右岸の地主の今井正二様、両神興行株式会社様、左岸の地主今井栄之助様等の理解善意により樹木の伐採が行われ、迫力ある景観が戻りました。
そそり立つ巨岩には、その勇姿と往古の伝承から『夜討沢双龍の巌』という名が付けられました。」と。
今、この夜討沢を直登することは無理なので、私たちは付近の民家の横から、昔の山道を登りました。昔は、峠を越える馬も通っていたという立派な道であったけれども、今では途中から道は崩壊して消えていました。私たちは、地元の案内人にしたがい、急斜面をトラバースして登りました。秩父の山の斜面は、“半端な”角度ではありません。私は、秩父の友からもらった南天の木の杖をピッケルのように使いながら、ようやく登りきりました。

2.高指の壮大な段々畑遺構 
途中のゆるやかな斜面は杉林で覆われているけれども、ふと気がつくと、石垣で土どめをした大小の平場が次々と目につきました。
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(急斜面の段々畑) 
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(石垣で土どめをした畑の遺構)
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(斜面の出小屋跡)
私は最初、山城の段郭かと思って興奮したけれども、秩父の郷土史家の説明では、これらは要するに、高指(たかざす)すなわち高みを目指して登りつづけた、南側の斜面の段々畑の跡だそうです。灌漑用の井戸跡や崩れかけた出小屋もあります。
中腹の肩状のところに廃屋が一軒ありました。実は、今日の一行の中に、この家の縁者の方が、特別参加していました。縁者の方の話では、かつてこの家の子供たちは、毎日この山道を通り学校へ通っていたそうです。近年になっても電気がこないので、この家の住人はついに山を下りたそうです。
そこから少々登ると、「あっ」と驚くような立派な平場が数段つづきます。そこにはかつて、7所帯の家族が住んでいたので、今も周りに孟宗竹やお茶の木が生え、石臼などの道具とともに人の気配を残しています。
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(山中の廃屋)   
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(住居跡の平場)
これらの平場を越えて尾根を行くと、塩沢城址へ出ます。私は、ここ高指の段々畑や住居跡の平場を見て、すっかり考え込んでしまいました。なぜならば、高指の段々畑や平場が、高佐須すなわち塩沢城址の段郭とあまりにも感じが似ているからです。

3.高佐須・塩沢城のルーツ
塩沢城のルーツについては、郷土史家の間でも種々の見解が交わされているけれども、私自身は、高指の段々畑を見たあと、次のように考えて自分を納得させました。
高佐須・塩沢城もここ高指も、往古より人が住みつき、何代もかけて築きあげた、焼き畑農業の段々畑でありました。文明の頃、太田道灌に追われた長尾景春は、高佐須すなわち塩沢の段々畑を土地の者から譲り受けあるいは奪い、砦として楯籠もりました。その段々畑は、すぐに砦に転用できるような格好の地形であったからです。
一方道灌は、1480年(文明12年)土地の者に案内させ、意表をつく方角すなわち小森の夜討沢から高指を通って尾根をわたり、夜中に高佐須・塩沢城を攻めました。道灌の城攻めはいつもどこででも、城方の意表をつく孫子の戦術でした。塩沢城の発掘調査で、錆びた刀の切れ端などが出てきたということであるから、景春軍が、高佐須・塩沢城に短期間籠城し、道灌軍が夜討沢から攻めたことは、事実であるような気がします。
塩沢城址平場.JPG
(塩沢城址の平場) 
道灌軍に情報提供をした大串弥七郎については、「太田道灌状」(1480年)原注に、「武州七党ノ中横山党なり」とあるけれども詳細はわかりません。「新編武蔵風土記稿」(1830年)の小森村の項に「往昔、長尾四郎左衛門意玄入道薄村塩沢の城に籠りたるを此処にありし嶋村近江守及び小沢左近なるもの大谷沢より攻登りて夜討し意玄は遂に日野村なる熊倉城へ立退きしことを土人云伝えり」とあります。夜討沢の道案内者島村近江や小沢左近などについても、今後の研究課題です。
「太田道灌状」の中で道灌は城や陣地を、川越城、五十子御陣、羽生陣、鉢形要害、日野要害などと表現しています。道灌はおそらく、塩沢城がまだ城や陣地というよりは、高みを目指す段々畑の原形をとどめていることを知っていたので、「高佐須(高指)」という地形をあらわす普通名詞で呼んだと思われます。

小鹿野町高指の段々畑遺構は、道灌軍の高佐須攻めの通過ルートであった可能性があるので、歴史学的にも民俗学的にも貴重な所です。私は、ここを史跡として保存整備するべきであると思います。そこから塩沢城址への踏査はまたの日に行うことにして、私たちは、薬師の湯にもどり温泉で汗を流し、秩父名物のそばと味噌田楽を食し、帰途につきました。
高指の段々畑遺構=埼玉県小鹿野町両神小森 

2013年04月23日

「道灌紀行」お勧め探訪地20か所

筆者の「道灌紀行」探訪地は200か所となりましたので、現在、それらの探訪記を、「道灌紀行」(増補版)として出版する準備をしているところです。
さていよいよ、山吹の候となり、行楽シーズンを迎えました。この時節に因み、「道灌紀行」お勧め探訪地20か所を考えてみます。これらは、私の一存で、観光的視点から選んだ史跡あるいは伝承地です。歴史的に興味深いところ、絶景のところ、なんとなくおもしろいところなどがたくさんあり、選ぶのに苦労します。各項に、少々のコメントを添えます。

1、ちょこっと行ける、東京都内の道灌スポット
@東京国際フォーラム(東京都千代田区)
朝倉文夫氏制作の太田道灌像が、江戸城を向いて立っています。着物に、太田家の家紋「桔梗」と「違い鏑矢」が浮き出ています。
 35.浅田氏撮影太田道灌の写真 031.jpg     
(太田道灌像)     
A新宿住友ビル前広場(東京都新宿区)
道灌を助けた黒猫たまちゃんが、いい玉を抱いています。都庁横なので、待ち合わせスポットに役立つところです。道灌と黒猫たまちゃんの因縁は、台座の詩に述べられています。
  19.新宿の玉チャン.JPG 
(新宿の黒猫たまちゃん)
B日暮里駅前(東京都荒川区)
先駆けする太田道灌の騎馬像「回天一枝」の像と碑文があります。今は、道灌像の上を舎人ライナーが疾駆しています。
 36.日暮里駅前.jpg
 (「回天一枝」の像)

2、道真・道灌縄張りの城址
@江戸城址・江戸城東御苑(東京都千代田区)
北桔橋門から入ると、道灌築城当時の面影をのこす乾濠が見えます。石垣の高さは約30メートルです。
本丸跡に、巨大な天守台があります。明暦の大火復興の任についた第4代将軍徳川家綱の大政参与保科正之(初代会津藩主)は、江戸の街の復興を優先し、天守閣は建築経費が巨額すぎるとして予算をカットし ました。以来今日にいたるまで、天守は再建されていません。
 江戸城乾濠.JPG
 (北桔橋門からみる乾濠)
A川越城址(川越市)
二の丸跡にある川越市立博物館の太田道灌コーナーには、道灌木像のレプリカや「太田道灌状」など関連文書の複製があり、たいへん勉強になります。近くの大手門跡(川越市役所)に、太田道灌像があります。
B岩槻城址(さいたま市岩槻区)
ここは今、全国的に有名な人形の町です。近くの岩槻区役所跡地には道灌の文人像があり、芳林寺には、勇壮な道灌の騎馬像があります。

3、道灌、悪戦苦闘の古戦場址
@石神井城址(東京都練馬区)
豊島一族との激戦の地です。城址の三宝寺池は植物と野鳥の宝庫です。
A臼井城址(佐倉市)
臼井城攻めの激戦で、道灌の弟・太田資忠が戦死しました。臼井城三の丸址に、太田資忠の墓(太田図書の墓)が立っています
 太田図書之墓.JPG 
 (太田図書之助資忠の墓)
B小机城址(横浜市)
みごとな土塁と空掘りが、よく保存されています。中世山城の見本のような縄張りです。文明10年、道灌は、この城を3か月間包囲したあと、奇襲により攻略しました。

4、散策コースベスト3
@小磯城址(大磯市)
太田道灌軍と越後五郎四郎軍の古戦場で、今はみごとな庭園になっています。城山の下の、織田有楽斎ゆかりの茶室「城山庵」での一服をお勧めします。
A菅谷館跡(嵐山町)
道灌の没後、万里集九がこの地で道灌の嫡男資康と会い、36日間も滞在しました。ここは、熟年夫婦が木漏れ日をあびて、のんびり散歩するところです。
菅谷館址.JPG
(菅谷館址)
B大庭城址(藤沢市)
太田道灌の縄張りと伝えられています。広い城域で、こどもが駆け回ることができます。

5、道灌の伝承地
@山吹の里歴史公園(越生町)
4月下旬に、山吹3000本が咲き乱れます。近くに道灌出生地の三枝庵と道灌の墓所龍穏寺があります。
A夢見ヶ崎・加瀬山(川崎市)
道灌築城伝説の地で、周囲の眺望は絶佳です。子供のための動物園があります。
B細間の段(下田市)
道灌の時代からの石切り場跡は、まことに奇観です。そこから望む太平洋は、天下の絶景です。
 9.細間の段・石切り場).JPG
 (石切り場跡)

6、おもしろい崖城と山城
@鉢形城址(寄居町)
長尾景春の築城と伝えられる、荒川の崖の上の城です。鉢形城歴史館では現在、関東管領上杉顕定の企画展(2/16〜5/6)が行われています。この展示は、相当の力作です。その中で、顕定は道灌の勧め(地形肝要)に従い、平井城から鉢形城へ移ったと説明されています。それはさりながら、道灌が今現れたら、やはりこの展示を敬遠するでしょう。
A金山城址(大田市)
道灌が訪問した山上の本丸(実城)に、みごとな石垣があります。道灌が「近比名城」とほめた難攻不落の堅城です。
 33.金山城址.JPG 
 (金山城址の石垣)
B熊倉城址(秩父市)
太田道灌と長尾景春の最終戦の地です。道の駅「あらかわ」の背後に見える逆すり鉢型の山城です。クマ出没注意の看板があります。

7、道灌有縁の社寺
@靜勝寺(東京都北区)
毎年7月26日、道灌の命日に道灌まつりが行われます。毎月の26日に、道灌堂の太田道灌木像を拝観することができます。
A洞昌院(伊勢原市)
1486年(文明18年)に、道灌が非業の最期を遂げた地です。道灌墓所には、道灌にかかわる、いろいろな記念碑があります。

願わくは、この季節に、道灌の史跡あるいは伝承地1か所を訪ねていただき、困難な時代に、「関東御静謐」をかかげて、関八州を駆け抜けた道灌の志操と行動を偲んでいただくことであります。

2013年03月07日

五十子周辺の地名考察

埼玉県本庄市の国道17号線沿いに、東五十子(ひがしいかっこ)字城跡という地名があり、そこに五十子城址があります。1477年(文明9年)に、この地で長尾景春の乱が勃発したので、「太田道灌状」の第15段には、五十子城周辺の地名がいくつか登場します。しかし、それらの地名が、具体的にどこをさしているのか諸説があってよくわかりません。今回は、それらの場所を確かめるため、5回目の五十子城址訪問をします。
私は例によって、多摩地域から東村山、所沢、越生、寄居経由の道、つまり中世の鎌倉街道上道(かみつみち)沿いの田舎の街道を本庄市まで、車で約3時間突っ走りました。寄居町の鉢形城址から本庄市の五十子城址までは、県道31号線で約10キロであるので、往時は、道灌も景春もこの道を何回も往復したであろう、と思いを馳せながら北上しました。先ずは、本庄市役所に寄って教育委員会の文化財保護課でいろいろ教えていただきました。そのあとは地図を片手にして、ようやく吹き始めた春風の花粉をおそれながら、フィールドワークにでかけました。

@梅沢
日の出4丁目.JPG   
(本庄市日の出4丁目)
「太田道灌状」にいわく、「景春上州勢を引率((ひき)い、五十子・梅沢へ差し寄せ張り陣候。忠景申される如くは、梅沢へ懸かるべきの由、切所の事に候の間然るべからず候」。
教育委員会で示された、本庄市の小字名一覧によると、本庄市日の出町4丁目の、国道17号線と旧中山道が交差するあたりに、小字で梅沢という地域があります。そこはやや地勢が高く、五十子城址から西へ約1・3キロの地点です。
景春は、川むこうの上州玉村(群馬県玉村町)の長尾領の被官人や上州一揆を引き連れ、梅沢に張り陣したと思われます。山内上杉家の家宰長尾忠景は、直ちに景春を討つよう主張したけれども、扇谷上杉家の家宰太田道灌は、梅沢が攻めにくい難所であることを理由にして反対しました。道灌と忠景の作戦上の意見の違いは、頻繁に起こったけれども、孫子の兵法を究めて実戦経験が豊富な道灌が常に優位に立ちました。戦略戦術の達人であった道灌からみると、忠景の策は児戯に等しいものであったに違いありません。山内家は扇谷家より格上であったので、道灌は遠慮しながらも、忠景との不協和音にいつもいらだっていました。
五十子城址=埼玉県本庄市東五十子字城跡736‐1
五十子・梅沢=埼玉県本庄市日の出4丁目

A次郎丸
太田道灌状にいわく、「道灌存じの如くは、次郎丸より鉢形へ打ち上げ、御敵陣の間へ馬を入れるべく様の威しを成し候ば、確かに御敵は原中へ打出すべく候歟」。
次郎丸という地名は、他の資料には見えず、推測するしかありません。文意から推測すると次郎丸とは、五十子城と鉢形城の中間でかつ用土が原の近くと思われます。現在そのあたりの地名は、深谷市武蔵野であるけれども、かつては飯塚という地名であって飯塚館跡(萬福寺)があります。「太田道灌状」第6段によると、道灌が景春反乱の事を最初に知らせた相手は、山内上杉家の被官人であった飯塚次郎左衛門尉でありました。飯塚次郎はこのあたりに居住し、次郎丸とは、飯塚次郎の所領の中の駐屯地であった、と私は推測しています。
飯塚館水掘跡.JPG  
(飯塚館跡の水掘)
長尾景春が軍事行動を起こすとき、しばしば拠点としたのは飯塚であったので、飯塚氏は、そのときどきに応じて、道灌にも景春にも陣地を提供する一族であったのかもしれません。道灌と景春は親類であり、かつその勝敗はいずれともわからないときであったので、人間関係のしがらみや打算から二股膏薬をはる者がいても不思議ではありません。
次郎丸=(推定) 埼玉県深谷市武蔵野
 
B清水河畔の御陣
太田道灌状にいわく、「清水河畔の御陣場の事は、彼の大河を前に成され候の間、其の日も御滞留候は、御難儀となるべく旨存じ申し払い、次郎丸へ打ち立ち候間、御旗を進まされ候」。
本庄市の地図をみると、利根川沿いに御陣場という地名があり、近くに御陣場川という小川があります。その場所は、本庄市都島の利根グリーンセンターの付近で、坂東大橋のすこし上流です。堤防を越えると、だだ広い利根の河川敷が広がり、はるかかなたに坂東大橋の白い支柱がみえます。
錦の御旗を持った上杉顕定は、長尾景春軍が梅沢まで攻め込んできたので恐れをなし、北方の大河のほとりに御陣場を移したと思われます。その大河は、現在は利根川であるけれども、当時は烏川でありました。道灌が、なぜこの川を清水河とよんだのかはわかりません。当時、上州の山を下った清流が、特に清浄であったのでそのように呼ばれていたのかもしれません。
御陣場.JPG寄居町富田.JPG  
(寄居町富田の男衾自然公園)
用土が原=埼玉県寄居町用土
富田=埼玉県寄居町富田
    
posted by otadoukan at 17:19| Comment(7) | 五十子周辺の地名考察

2013年02月01日

波久礼の難所越え・景春の秩父ルート検証

波久礼(はぐれ)の難所は、埼玉県の寄居町と長瀞町の間の荒川沿いにあります。波久礼とは、秩父人にとっては古来、厭うべきイメージと同時になつかしい安堵感を呼びおこす地名でありました。そこは、切り込んだ荒川の急流の上に尾根の崖がそそり立ち、人も通れず物も運べない難所となっていました。しかし、その難所のおかげで、秩父はむかしから、武蔵国中からの直接的な攻撃を免れていたのです。波久礼の難所では、明治25年になりようやく道路が開通し、明治44年にはたいへんな難工事を経て秩父鉄道が開削されました。 
今回は、「長尾景春の伝承地を歩く会」のメンバーとともに総勢七人で、フィールドワークにより、太田道灌軍に追撃された長尾景春軍の秩父移動ルートすなわち波久礼の難所ルートを検証してみました。
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(矢那瀬集落から虎が丘城址を望む)

1478年(文明10年)太田道灌軍が鉢形城(寄居町)に拠る長尾景春を攻めたところ、景春軍は退散しました。「太田道灌状」にいわく、「(文明10年7月17日)未明に打ち立ち、道灌、景春陣へ馳せ向かい候処、退散せしめ候」と。その後上杉顕定は、道灌の「地形肝要」の勧めにしたがって、平井城(藤岡市)から鉢形城へ移り、武蔵と上野に目配りをしました。
1479年(文明11年)、長尾景春は長井城(熊谷市)へ拠り、古河公方の援軍を期待したけれどもそれは叶わず、道灌軍に攻められて再度秩父へ退却しました。「太田道灌状」にいわく、「同(文明11年)9月、景春長井城へ罷り移り、其れより秩父へ引き籠り候」と。
1480年(文明12年)正月、長尾景春は児玉(本庄市)で蜂起し、最期の反撃を企てました。しかし道灌軍の夜討ちを察して、なにもせずに三度秩父へ退散しました。「太田道灌状」にいわく、「(文明12年)正月4日、景春児玉へ蜂起せしめ候の間、(中略)その夜そのまま秩父へ退散せしめ候」と。
景春軍は1478年(文明10年)に、道灌軍に鉢形城を攻められたとき、おそらく鉢形城近くの釜伏峠を越えて秩父へ退散したと思われます。
しかしその後、上杉顕定が鉢形城に入城したので、景春軍は、当時の秩父往還メインルートであった釜伏峠を通れなくなりました。なぜなら、釜伏峠の登り口は、上杉顕定が入城した鉢形城の近傍であるからです。では、文明11年の景春秩父引き籠りと文明12年の景春秩父退散のとき、景春軍は、どのルートで武蔵国中より秩父へ移動したのでありましょうか。当時、武蔵国中はすでに、上杉軍とりわけ道灌軍の守備範囲になっていたので、景春軍は、波久礼の難所の上の峠を越えるしかなかったと思われます。

秩父鉄道の波久礼駅で降り、国道140号線を長瀞方面へ向かうと、すぐに矢那瀬という集落への入り口があります。八幡神社の際を抜け、農家の前を通過し、大槻(おおつき)峠を目指して山道に入ります。道標も案内板もないので、峠への取りつきを見つけるには地元の人に尋ねるしかありません。秩父路はいつも、特に人を招くこともなく来る人は拒まないという風情です。
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(大槻峠の馬頭観音板碑)
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(ゆるやかで広い尾根の道)  
山道は、傾斜も曲がりもゆるやかで幅は広く、馬が通ることができたことは一目瞭然です。20分も登ると大槻峠に着きます。この峠に馬頭観音の板碑があるので、かつてここを、馬が頻繁に通っていたにちがいありません。そこから、尾根沿いの広い道を行くと、深い堀切を三つ越えて、虎が丘城址の頂上へきます。虎が丘城址は、後北条時代に北条氏邦が鉢形城の支城として築いたもので、三段の段郭や堀切がたくさんあり、守備の砦としては立派なものです。豊臣軍により落城したあと、城の兵糧係り矢那瀬大学は城山の麓で帰農し、矢那瀬集落をつくりました。
城址にはあずまやがあり、晴れた冬の日の見晴らしは格別です。そこから秩父連山や荒川の流れ、はるかに東京スカイツリーも見えます。
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(虎が丘城址のあずまや)
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(東京方面を展望)
虎が丘城址から尾根伝いに進むと、築坂(つきさか)峠を経て、美里町の円良田(つぶらだ)集落へ抜けます。往時、秩父には牧がたくさんあり、小振りで足の強い秩父駒を育成していました。秩父駒であれば、この峠道を軽々と越えたと思います。長尾景春の騎馬軍団は、この峠道を抜けて、秩父と武蔵国中を往復し、神出鬼没の出撃を繰り返していたにちがいありません。
峠道には、動物の糞が落ちていました。秩父の郷土史家は、リックから手製のパチンコを取りだし、「猿の群れに出会ったら、これで脅かします」と言ってにやりと笑いました。秩父名物の山猿は、この辺ではどこからでもいつでも出てきます。私たちは、国道140号線へ戻り、長瀞方面へ車で少し走り、山の根の隠れ家のようなそば処で、うまいそばを食って大満足でした。
虎が岡城址(円良田城址)=埼玉県児玉郡美里町大字円良田字城山1846

2013年01月22日

《道灌余話》太田道灌の遺愛品

2013年1月2日から2月24日まで、江戸東京博物館で「尾張徳川家の至宝」特別展が開催されています。展示品の出品リストと音声案内によると、展示されている香木のひとつは、太田道灌所用とされています。これを機会に、現存する太田道灌の遺愛品をとりあげてみます。
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(江戸東京博物館の正月かざり)

1.香木伽羅(きゃら)「蘭奢待(らんじゃたい)」
今回の江戸東京博物館(東京都墨田区)で展示されている小さな香木は、源頼政、太田道灌、東福門院和子が所用したものです。これは越前の結城家(松平家)より徳川将軍家へ献上され、秀忠の八女・東福門院和子が所用し、尾張徳川家へ伝わったとされています。
伽羅はインド原産の香木です。「蘭奢待」とは、聖武天皇の代に中国より東大寺に伝わった名香で、「蘭奢待」の文字の中に東大寺の三字を含みます。長さ1.5メートル、重さ13キログラムで、足利義政、織田信長が勅許を得て切り取ったと伝えられています。
清和源氏の嫡流源頼政が、どういう経緯で「蘭奢待」を入手したかわからないけれども、それは頼政の子孫である太田家に伝えられ、道灌、資家、資頼、資正、資武が所持したと思われます。太田資武は、越前の結城秀康(徳川家康二男)の家老となったので、蘭奢待は、次に述べる琵琶とともに秀康に献上されたものと思われます。

2.道灌遺愛の琵琶「千鳥」
1590年(天正18年)、片野城(茨城県石岡市)にいた太田安房守資武は、越前の結城秀康に招かれて北の庄(福井市)へ移り、八千石を知行する重臣となりました。資武が父資正から受けつぎ所持していた太田道灌遺愛の琵琶「千鳥」が結城秀康に献上され、現在は福井市立郷土歴史博物館の越葵文庫(収蔵庫)に保管されています。この琵琶を見るためには、福井市教育委員会に許可を申請しなければなりません。おそらくは道灌が、静勝軒でこの琵琶を弾じ、客人をもてなしたのだと思います。

3.道灌遺愛の軍配団扇
茨城県石岡市の常陸国総社神社には、太田道灌奉納の漆皮軍配が伝わっています。その軍配は、1668年(寛文8年)太田資宗、資次(掛川太田家の初代と2代)寄進銘の箱に収納されています。太田道灌が石岡まで来た記録はないので、岩槻城に伝わっていた道灌の軍配を、片野城(石岡市)に入った太田資正が所持しつづけ、晩年に総社神社に奉納したものと私は推測しています。この軍配は茨城県指定有形文化財です。この軍配には、十二支などが記され、兵法に長けた太田道灌の采配を思い起こさせます。そのレプリカは、埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)に展示されています。
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(常陸国総社神社)

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(市谷亀ヶ岡八幡宮)
東京都新宿区の亀ヶ岡八幡宮の境内に、新宿区教育委員会の説明板があり、道灌の軍配団扇の事が、次のように記されています。
「古記録には『団扇一本右者太田道灌所持品図左之通』とあり、左に軍配団扇の図が記してある。当八幡宮には右記のものとして伝えられる軍配団扇が現在も保存されている。木製の柄に竹を編み、間に紙を挟み、表面は黒紫で漆を塗って仕上げてあるが文様、文字はない。製作年代は未祥であるが、太田道灌ゆかりの軍配団扇として伝えられており貴重である」。
この団扇は、3年に1度、8月15日に行われる当神社大祭で公開されます。

4.道灌愛用の茶釜
東武野田線七里(ななさと)駅から徒歩5分で、曹洞宗の大園寺へきます。この寺は、1525年(大永5年)岩槻城主太田資高の夫人陽光院が開基となり創建されました。この寺には、陽光院が寄贈したと伝えられる道灌愛用の茶釜「古天明霰釜(こてんみょうあられかま)」があります。天明は現在の栃木県佐野市あたりの地名で、古天明は「西の芦屋、東の天明」といわれた茶釜の双璧の一つです。大円寺の「古天明霰釜」は、さいたま市指定文化財工芸品です。
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(大園寺茶釜の説明板)

5.伝・道灌の頬当て
神奈川県伊勢原市の実蒔原古戦場から大山の方へ向かうと、日向薬師(ひなたやくし)があります。石段を登り少々息が切れたころ境内につき、茅葺屋根の面白い本堂に出会います。「新編相模国風土記稿」(1841年)によると、日向薬師の宝殿には道灌の頬当てがあります。この頬当ては、革製で錆び色です。現在、日向薬師は改修工事中であるので、当分の間境内に入ることはできません。
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(お正月の日向薬師)

6.伝・道灌の鎧
神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮には、太田道灌が奉納したと伝えられる鎧一式があり、桔梗紋がついています。神官の話では、その来歴は不明ということです。この鎧は、現在一般には公開されていません。
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(伝・道灌奉納の鎧の桔梗紋)

7・伝・太田道灌着用の鎧、伝・道灌作の大黒天木像
滋賀県草津市の太田酒造の会長は、岩槻系太田道灌18代の子孫太田實則氏です。その道灌蔵には、桔梗紋が打たれた、伝・太田道灌着用の甲冑が保管されています。また太田道灌作と伝えられる大黒天の木像も陳列されています。特別な縁により太田家に渡ったこの木像の裏側には、「長禄元年、道灌之を造る」という銘が入っています。
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(太田酒造の酒蔵)

   
8.道灌の雲版(うんばん)
東京都板橋区の曹洞宗の円福寺は、開山を雲岡俊徳、開基を太田道灌とし、1479年(文明11年)川越に創建され、1608年(慶長13年)この地に移転しました。太田道灌が当寺を創建した際に、茶室にかけた青銅製の雲版(色紙額)が保存されていて寺宝となっています。このことは、板橋区教育委員会の説明板に記されています。
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(板橋区教育委員会の説明板)

我が国の博物館等では通常、残念ながら、写真撮影は許可されません。したがって、道灌の遺愛品を見るには、現場に行くしかありません。時には、教育委員会等からの特別の許可証が必要になります。


2012年11月04日

「本庄まつり」の太田道灌と五十子城址

今年も11月2日(金)と3日(土)に、埼玉県本庄市で「本庄まつり」がおこなわれました。このまつりでは、各町から合計10台の山車(だし)が出され、初日には各町内で乱曳きされ、2日目には市の中心部で、勢ぞろいして巡行パレードが行われました。諏訪町からは、太田道灌の山車が出されました。
東京都内からJR高崎線の本庄まで電車で約2時間半かかります。車であれば、関越道で1時間ほど走り、本庄児玉で降りるとすぐ着きます。国道17号線(中仙道)を利用する場合は、途中の渋滞を覚悟しなければなりません。私は、多摩地域から東村山、所沢、越生、寄居経由の道、つまり中世の鎌倉街道上道(かみつみち)沿いの田舎の街道を突っ走って約3時間で到着しました。このルートは、上州への街道として意外と便利であり、特に寄居町の鉢形城から本庄市の五十子城址まではひとっ走りであることが体感できます。往時は、荒川などいくつかの河川も、上道であれば徒渡(かちわた)りできたので、そのメリットも大きかったと思われます。
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(五十子城址のビジネスホテル) 
女堀川.JPG
(女堀川と城山橋)
本庄市の国道17号線沿いに、東五十子(いかっこ)字城跡という地名があります。土地の人たちが、この地の名を「いかっこ」と発音していることを確認できます。城跡は小山川と女堀川(おんなほりがわ)にはさまれた約4メートルの台地の先端のあたりで、地元では五十子城址とよんでいます。1456年(康生2年)頃に、上杉氏がそこに五十子城を築き、利根川を隔てて古河公方と対峙し、小競り合いをくり返していました。1471年(文明3年)には、太田道灌、資忠兄弟や長尾景仲、景春親子はここから出撃して古河城や館林城を攻略しました。
現在、国道17号線が五十子城址を横断し、本丸跡と思われるところにはかつて城山館というホテルが建っていまいました。そこに「本庄カルタの碑」が立ち、次の句が刻まれています。
 桑繁る 五十子合戦 古戦場
ホテルの裏は、河岸段丘の崖線で城の遺構と思われます。約1キロ南には御陣場と呼ばれていた小さな遺構もあります。城山もないこの地になぜ上杉氏の本陣があったのかは、現地へ行ってみれば理解できます。このあたりは上道、児玉道、本庄道という三筋の鎌倉古道があった交通の要衝であり、五十子から約1キロも北へ行くと流域面積日本一の利根川・坂東太郎があります。そこには917.5メートルの坂東大橋が、赤城の山を背景に白鳥が飛び立つイメージで架かっています。
1475年(文明7年)に長尾景春は、山内上杉氏の家宰の人事に不満を持って五十子を離れ、自らの根拠地白井(しろい)城(渋川市)で兵力をととのえました。景春は翌年鉢形城に拠り、6月には2500騎をひきいて五十子陣へ押し寄せ、主君上杉氏へ反旗を翻しました。さらにその翌年の1477年(文明9年)正月18日、景春軍は五十子の上杉陣を急襲し、上杉軍を上州那波荘(なわのしょう)(伊勢崎市)へ追い払い、長尾景春の乱が本格的にはじまりました。そのとき、破竹の勢いであった34歳の景春を前に、上杉一族はみな逃げまわったけれども、ただ一人太田道灌が、リスクを取って真っ向勝負をいどみ、景春与党を各個撃破しながら、関八州を駆け巡ることになります。現在、全国的にはあまり知られていない本庄市の五十子は、上杉軍が古河公方と長年対峙しつづけたところであり、この場所から新たな台風ともいうべき長尾景春の乱がはじまりました。本庄市は地理的には関八州の中心地であり、当時関東では台風の目のような場所だったのです。
太田道灌.JPG    
(立ちあがった太田道灌)
男前の太田道灌.JPG
(男前の太田道灌)  
道灌山車.JPG
(諏訪町の道灌山車)
五十子城址から東へ約1キロの17号線沿いに諏訪町があり、その町の山車が太田道灌山車です。まつりの初日に、山車は子供達に曳かれ、町内の一本々々の路地の奥までも入りこんでいたので、探すのがたいへんでした。私はあちこちで地元の人にたずねながら、晩秋の太陽が西に傾くころ、ようやく道灌山車を発見しました。
諏訪町の太田道灌は、綾井笠をかぶっていないので顔がよく見えます。眉目秀麗で、八髭とあごひげをはやしたなかなかの男前です。山車を指揮する恰幅のいい総代にたずねたところ、ここの太田道灌の人形は、10年程前に東京でつくった「平成の道灌」だそうです。
五十子城址=埼玉県本庄市東五十子字城跡736ー1

2012年10月21日

「富岡どんとまつり」の道灌山車

川越まつりと佐原の大祭での太田道灌の山車(だし)は、夙(つと)に有名です。しかし実は、その他いろいろなところで道灌の山車は登場しています。群馬県富岡市のどんとまつりでも毎年、道灌山車が登場しています。
JR埼京線、高崎線などに乗ると、東京都内から約2時間で高崎へ着きます。そして高崎から上信電鉄に乗りかえると、約40分で上州富岡へきます。今年の10月20日、富岡どんとまつりの日に、私が、鄙びた上州富岡駅に降り立つと、その日は上州名物からっ風も吹かず、澄みきった西の空に妙義山の奇岩がくっきりと見えました。
私は先ず、今般世界遺産への推薦が決定した富岡製糸場を訪れました。1872年(明治5年)に建てられた、木骨レンガ造りという和洋折衷の面白い建物は、一見の価値があります。製糸場前の通りは、どんとまつりの山車が集中するところです。富岡どんとまつりでは、どの山車もそれぞれの衣装で身をかためた男たちと子供で引かれ、太鼓と笛の音がたえません。富岡市の老若男女がみんなまつりに参加しているのではないかと思われるほどの、気の合った大賑わいです。私は、しばらく道灌山車をさがしたけれども見つかりません。市中には、21台の山車が処々方々を運行しているので、こういう時にめくら滅法に探しても疲れるだけです。道灌山車を運行している駅前組の事務所へ行き、道灌山車の現在位置を教えていただきようやくめぐり会いました。
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(富岡製糸場入り口) 

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(山車の出会い)
   
駅前組の道灌山車は、数十名の男たちや子供によって曳かれ、移動のときに道灌の人形は電線にあたらないように鎮座します。山車の先頭では、「山車運行責任者」と書いたたすきをかけて、ハンドマイクをもった貫禄のあるおじさんが先導しています。このおじさんは、山車を先導しながら、曳きまわしで事故が起きないように、綱をひく子供たちが交通事故に遭わないように絶えず目配りをしているので、相当気骨が折れる役目を担っています。
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(山車の太田道灌) 
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(道灌山車・中央)

私は休憩のときに、「山車運行責任者」のおじさんにいろいろ尋ねました。それによると、富岡の道灌山車のいわれは次のようです。
30年ほど前に、駅前組の町内の者が集まり、山車の人形をどうするか相談しました。その結果、山車の人形は、太田道灌に決まったということです。この地に道灌が来たという記録はないけれども、道灌に親近感を持つものは多かったということです。1477年(文明9年)、上杉軍と道灌軍は古河公方・長尾景春連合軍と対峙しながら、群馬県の荒牧原(前橋市)、塩売原(富士見村)、広馬場(榛東村)などを目まぐるしく動きました。したがって、この地の記憶に太田道灌が留まっていたのでありましょう。
どんとまつりの山車21台は、夕方になると、祭り本部のある富岡小学校の前に集結します。その光景は、まことに圧巻なので是非見るようにと、土地の人々に勧められましたが、残念ながら私は、帰路をいそぐため日暮れ前に富岡を後にしました。
道灌山車は、その他に、本庄市、上尾市、掛川市の祭りでも登場します。私は、各地の道灌山車を追いながら、しみじみと感ずることは、山車は、その地の老若男女のこころを和合させて一つにまとめる不思議な力をもっているということです。毎年祭りで、笛を吹き太鼓を打ち、山車を曳いて歓声をあげる人々の姿の中には、日本人の原風景ともいうべきなつかしい故郷の安堵感があります。
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(子供たちが、太鼓を打ち、笛を吹く)
富岡製糸場は、国指定史跡、国指定重要文化財、ユネスコ世界遺産暫定リスト記載です。
富岡どんとまつり実行委員会=群馬県富岡市富岡富岡市役所観光課
富岡製糸場=群馬県富岡市富岡1番地1

2012年09月25日

館林城址

群馬県館林市へは、東京都内の浅草、北千住などから東武伊勢崎線を利用すると約2時間余りでくることができます。館林駅からまっすぐに15分も歩くと、館林市役所すなわち館林城址へきます。館林城は江戸時代に、徳川四天王の一人榊原康政、松平氏など有力大名が城主をつとめました。そのため市内に、武家屋敷や古風な商家があり、落ちついた城下町の雰囲気を醸し出しています。
市役所の隣に市立図書館があり、その前方に土橋門と城の土塁が残っています。
城址の半分は、城沼に続く広い水掘りすなわち鶴生田川(つるうだかわ)で囲まれています。それらはみな江戸時代の城の遺構です。
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(館林城址) 
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(城沼に続く鶴生田川)

「松陰私語」(1500年頃)の中に、次のような一節があり、これは館林城について書かれた最古の文書です。
「その後(文明3年)佐貫庄へ向い、館林城を差し寄せ陣を取る。彼の城主は舞木方の被官赤井文三、文六是なり。彼の城の地湖水を利し、三方を押し廻し、責め口は一方なり。長尾左衛門尉父子、同舎弟忠景、太田道灌以下武上相の諸家六千余騎」。
この城の城主は、佐貫一族の赤井文三で、城は三方が湖水で囲まれていました。1471年(文明3年)上杉方の長尾景信、景春、忠景、太田道灌等六千余騎が城を取り囲みました。この城を支援する足利成氏方の結城・佐野・小山などの諸氏は、夜に湖水を渡って城を支援しました。この援軍を阻止するため、上杉方の諸家は順番で見張りを行い、夜間の舟行を阻止したので、80日余りの陣張りで館林城は落城しました。
このときの戦の原因はわからないけれども、利根川に近いところであるから、上杉方と古河公方方の勢力争いの一環であったと推測されます。またこのとき太田道灌は40歳で、ともに参戦した長尾景春は29歳であったので、二人は親しく語り合いながら戦ったと思われることが、たいへん興味深いことであります。

江戸時代になり、1728年(享保13年)、館林城には太田道灌の子孫太田資晴が五万石で入封し、6年後に資晴が大阪城代となって城は天領となりました。その後1740年(元文5年)資晴の子資俊が5万石で館林へ入封しました。これも、かつて道灌がここへ来たことの因縁かもしれません。資俊は6年後に、遠州掛川へ転封となって掛川太田氏の祖となりました。
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(館林城址説明板) 
    
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(田山花袋の胸像) 
自然主義作家の田山花袋は、1871年(明治4年)館林で生まれ、ここで少年時代を過ごしたので、城址の近くに「田山花袋記念文学館」があります。田山花袋の紀行文「日本一周」の冒頭の部分には、太田道灌の江戸城とその周辺のことが、描写されていて興味深いのでその一部を記します。
「武蔵野以前の東京、浅草の観音堂が入海の岸にある時分のことが私の頭に上って来た。その時分は日比谷公園のある辺りは、一面の海で、本町、人形町あたりの賑やかなところは、ぐちゃぐしゃした沼地であった。皇居の丘陵の上には、今、麹町の平川町にある平川天神がしょんぼり立っていて、そこからさびしい海が展開された。今の東京の繁華な部分は、そのころは全く海の中にあったのだ。道灌山の下のあたりまで波が寄せていたので、道灌舟つなぎの松などという名の残っているのがその証拠である。(中略)太田道灌のいた館、それは今の坂下門のあたりにあった。私は、太田道灌が近国の豪族を風靡した光景を想像した。英雄心緒乱如(えいゆうのしんちょみだれていとの)糸(ごとし)というような光景までも絵のようになって私の頭に浮かんできた」。
花袋がどうしてこんなに正確に、昔の江戸城のことを知っていたのか、不思議です。太田道灌の江戸城のことは、明治時代まで、東京の庶民はだれでも知っている伝承であったのかもしれません。
毎年春には、館林城址のまわりで「世界一鯉のぼりの里まつり」が行われ、鶴生田川から城沼にかけての空を、数千匹の鯉のぼりが泳ぎます。
館林城址=群馬県館林市城町3‐1
posted by otadoukan at 06:20| Comment(10) | 館林城址

2012年09月11日

目黒のさんま祭りと太田道灌

今年も9月9日(日)に、目黒のさんま祭りがおこなわれました。JR山手線の目黒駅東口近くの誕生八幡神社が、さんま祭りの会場です。岩手県宮古市からのさんま7000匹がふるまわれ、目黒のさんま寄せでは落語「目黒のさんま」が語られ、35000人が押し寄せる大盛況でありました。
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(誕生八幡神社)
さて、このさんま祭りの会場になっている誕生八幡神社が、太田道灌有縁であります。江戸幕府公認の地誌「御府内寺社備考」やこの神社の御由緒によると、「文明年間に、太田道灌が夫人の懐妊にあたり筑前国(福岡県)の宇美八幡を当地に勧請したものが、当社の始まりと伝えられている。そのため、男児が無事出産したということで誕生八幡と呼ばれている。そのため安産の守り神とされていて、安産の腹帯が授与されている」ということです。
「江戸名所図会」(1836年)には、誕生八幡神社について「文明の頃、筑前宇美の地より勧請す」と記されています。
「宇美」は「産み」すなわち「誕生」につながります。1476年(文明8年)太田道灌の息子資康が生まれています。この年の初めに、長尾景春が鉢形城で決起して乱を起こしたので、道灌の身辺がにわかに慌ただしくなってきた頃です。
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(目黒通り)

誕生八幡神社から5分も歩くと、「自然教育園」という広大な緑地があり、うっそうと繁る森と散歩道があります。落語「目黒のさんま」に登場する殿さまは、鷹狩のためこのあたりにきて、帰りに町人の家の前を通り、さんまを焼くにおいをかいだのか、と思うと、落語の内容にもまた急に現実味がでてきます。
誕生八幡神社前の2本の大いちょうの木は、品川区指定天然記念物です。
誕生八幡神社=東京都品川区上大崎2‐13‐36
posted by otadoukan at 11:04| Comment(61) | 目黒のさんま祭りと太田道灌

2012年08月31日

伝・滝の御陣址と倉賀野御陣

太田道灌自らが、布陣したわけではないけれども、「太田道灌状」に登場する気になる上州の陣地名があります。それは、滝の御陣と倉賀野御陣です。1477年(文明9年)夏7月、鉢形城の長尾景春から援軍要請を受けた古河公方足利成氏が、宇都宮、結城、両那須、佐々木、岩松氏等の大軍を率いて古河を出て、滝の御陣(高崎市)に布陣して白井城攻略をもくろみました。
「太田道灌状」にいわく、「定めて滝の御陣より御勢を分けられ候か」と。またいわく、「公方様滝の御陣を御立ち」と。古河公方の軍勢は、滝の御陣から出発し、片貝、荒巻原、塩売原、広馬場とめまぐるしく動く道灌軍と対峙しながら、半年間の上州合戦を開始したのです。
東京より関越道を走って高崎ICで降り、少し南下してナビゲーションでさがすと、段丘の上に高崎市立滝川小学校がみつかります。高崎市立図書館で「新編高崎市史・資料編3」を見ると、この小学校敷地が、五左衛門原屋敷跡であり、古河公方の伝・滝の御陣跡でもあることがわかります。
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(伝・滝の御陣跡)
「新編高崎市史」には、滝川小学校敷地について「足利成氏が、滝陣張りの際(文明9年)の河岸かもしれない」と記されています。滝川小学校の敷地の高台は、東半分が半円形に蛇行する滝川に囲まれ、約6メートルの崖の上にあります。滝川は今も、幅3メートルほどの小川であるけれども清水が勢いよく流れ、滝の名にふさわしい急流です。したがって、滝川にかこまれた滝の御陣は当時、要害の地であったことがわかります。「新編高崎市史」の中で、このあたりには遺構も伝承もないけれども、滝川小学校からほど遠くない下滝町前畑の下滝館跡が、古河公方の本陣跡であろうと推定しています。
滝川小学校の敷地半分を馬蹄形にかこむ滝川は、今も深く切り込み、その急こう配の地勢と柵が、多大なセキュリティ効果を小学校にもたらしています。ちょうど昼さがりに、私は滝川小学校の敷地の周囲を歩き、地勢を見て回りました。夏の終わりの高崎市は、名にしおう酷暑地域です。カンカン照りに私は、少々めまいを感じたものの樹間から聞こえる子供たちの歓声に蘇生する思いでありました。

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(倉賀野城址碑)
「太田道灌状」にいわく「倉賀野の御陣より当方相分かれ候て」と。1478年(文明10年)、広馬場の合戦が相引に終わったあと道灌軍は、倉賀野御陣の上杉本隊から分かれ、川越城へ向いました。
倉賀野御陣は、その名称から考えると、現在の高崎市倉賀野町のどこかにあったと思われます。
伝・滝の御陣跡から西の方へ5キロも移動すると、烏川の崖の上に倉賀野城址があり、本丸跡に倉賀野城址碑があります。倉賀野城は、山内上杉氏与党の倉賀野氏の居城であったので、上杉軍が文明10年、ここを倉賀野御陣として駐屯したとしても不思議ではありません。しかしそのことは、確証もなく蓋然性も弱いためか、「新編高崎市史」には記されていません。
伝・滝の御陣址・滝川小学校=群馬県高崎市下滝町585‐2
下滝館=群馬県高崎市下滝町前畑
倉賀野城址=群馬県高崎市倉賀野町字上町、中町
posted by otadoukan at 16:03| Comment(15) | 伝・滝の御陣址と倉賀野御陣

2012年06月22日

鉢形から釜伏を越える(地名考察・一試論)(200ヶ所目)

「太田道灌状」の中には、秩父高佐須、秩父口表、御敵城、多比良治部少輔の所帯、秩父御陣、(多比良の)要害、秩父、日野の要害、大森御陣、浦山河、浦山河の切所、太山、田野陣、峠などの埼玉県秩父地域の地名が出てきます。それらの地名がどこを指すのか特定することが難しく、郷土史家の間でも種々の議論があります。
秩父高佐須、日野の要害については、地元の郷土史家がすでに、それぞれ塩沢城、熊倉城であるという結論をだしています。
秩父御陣という言葉で道灌は、秩父での戦、あるいは上杉顕定のいる本陣というようなやや抽象的な意味で使っています。
多比良(たびら)氏は小鹿野町薄(すすき)にいた土豪猪俣氏で、その地域に所領を持ち、その要害とは塩沢城であると、郷土史家は推測しています。
長尾景春が出入りした秩父とは、具体的には長尾城(秩父市)とその根小屋堀の内を指すと思われます。
その他の地名、秩父口表、御敵城、大森御陣、浦山河、浦山河の切所、太山、田野陣、峠について今回考察します。とりわけ浦山河、田野陣については、同様の地名と地勢が秩父市荒川方面と 皆野町にあるために論争が賑やかです。私はこの度あえて、自分の見解を述べてこの論争に分け入ります。
「太田道灌状」を注意深く読み、その行間に秘められた意味を探ろうとしても、出来事について複数の可能性が浮かびあがってきて結論が出ない場合があります。このようなときは、両地域をフィールドワークして地勢的に整合性のある方を選ぶしかありません。そしてさらに、その時の時代状況や道灌はもちろん長尾景春、上杉定正、上杉顕定、長尾忠景など登場人物の心情も勘案しなければなりません。最初に、難解な「太田道灌状」の関連部分を、省略を補いながら口語訳で読み、そのあとで地名を一つひとつ考察します。 

1 秩父口表、御敵城
「太田道灌状」にいわく、
「毛呂三河守父子の進退の事、秩父口表で最初に御敵城より(味方に)招き出したので(顕定が)許した。そしてすぐに(毛呂)左近太郎が出仕した」。
1478年(文明10年)7月、道灌は鉢形城(寄居町)を攻撃し、景春を秩父へ追いました。このとき毛呂氏が城を脱出し、景春方から道灌方へ転じたと思われます。
中世の秩父往還のメインロードは、釜伏峠(寄居町)越えの道でありました。荒川沿いの現在の国道140号線の道は、近年に開通した道であり、中世には波久礼の難所(はぐれのなんしょ)(長瀞町)のために、秩父往還のメインロードではありませんでした。したがって私は、秩父口表とは寄居町の釜伏峠入口であると考えます。
釜伏山参道の碑から、3キロ程東方に鉢形城があるので、御敵城とは鉢形城であると考えます。なぜかならば、秩父への出入り口近傍で道灌が攻めた城は、鉢形城だけであるからです。そして景春が古河公方に与同していたため、道灌は、景春の鉢形城に「御」の字を冠して敬語としたと思われます。あるいはまた「御」の字は、一般的な「怨」の字の書写まちがいかもしれません。
したがって、武蔵野から秩父へ向かう秩父口表は釜伏峠登り口であり、御敵城とは鉢形城ということになります。  
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(釜伏峠入口の釜伏山参道碑)
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(関所跡の説明板)

先日私は、秩父の「長尾景春の伝承地を歩く会」のメンバーとともに、鉢形城を見てから釜伏峠を越えました。まず鉢形城から釜伏峠の登り口が予想外に近いのでびっくりしました。また釜伏峠(580m)越えの道は、旧正丸峠(760m)越えの道に比べるとはるかに短く楽な道であることに二度びっくりしました。そして、1476年(文明8年)長尾景春が、鉢形城で決起して乱を起こしたとき、秩父の傍輩を頼りにしていた景春の心情が、実感をともなって思い起こされたのであります。
峠の途中にヒノキ並木の古道や江戸時代の忍藩(おしはん)関所跡と一里塚があります。峠の上には釜山神社があり、かなり広い平場もあるので、ここに軍勢をとどめることもできました。したがって「太田道灌状」で秩父の峠と言えば、釜伏峠を指したと思われます。乗馬の名手をそろえた長尾景春の騎馬隊が、利根川と秩父の間を短期間に激しく往復したとき、この峠を駆け抜けたと考えると合点がいきます。

2 大森御陣、浦山河、浦山河の切所、太山、田野陣
「太田道灌状」にいわく、
「(文明12年、長尾景春の越生急襲後、道灌は長尾景春与党の斎藤氏が拠る)長井城を攻略に向かったところ、(顕定から宿老の)大石名字中が派遣されたので、共同作戦で(長井城)を落城させた。武蔵国中が平穏であるため、(顕定が)秩父へ出発したところ、(想定外なことであるけれども)古河公方が方針転換をして(再び長尾景春を支援し始めたから、秩父)郡内の御陣が危うくなってきた。
(道灌は)『先ず、日野の要害はあとまわしにして、(武蔵)国中を安泰にすべきです』とお屋形のいる大森御陣に行って申しあげたところ、(顕定)の了解を得られなかった。
『それならば、(道灌は)大石名字中と連れ立って、(扇谷領の)竹沢か高見へ出陣するので、(顕定は)目立たないように太山に陣取り、錦の御旗を浦山河を前にして、森に隠して立てて、田野陣の者を励ましてください。もし(武蔵)国中が危うくなったら、(顕定が)浦山河の切所に馬を出して旗本衆に警護させ、田野陣の衆を移動させ、高見在陣衆を峠へ馳せのぼらせて山中を警護させてください』と(古河公方軍対策を)十分に考えて、新しい意見として述べたところ(顕定の)承認は得られなかった。 
(そればかりか)『もっぱら道灌は、険難の地を罷り逃れたいからそう言っているのだ』と非難する者も現れてきたので、老父(道真)を呼んで屋形(顕定)に付き添わせた。
(道灌は)五月十三日に秩父へ出発し、大石両人は翌日出発したところ、東上(こう)野(ずけ)の敵(古河公方の与党)が蜂起し、方々を討ち散らした。そうしている間に、武蔵国の南方が心配になったので、道灌はにわかに江戸城へ戻り、しっかり警護するよう申しつけた。一両日してから高見へ帰り、帰宅していた味方の者を少々集めて、利根川端へ陣を寄せようと思っていたところ、凶徒は退散した。長尾忠景と、新田(岩松氏の金山城)に向かって利根川を越えることを相談したところ、(忠景は)最初は賛成していたが、すでに日程が決まったときに、『自分は行けない』と言ってきた。
(道灌は)六月十三日に秩父の御陣へ参陣し、翌日長尾孫五郎(忠景の子)と(新田へ)出陣しようとしていたところ、『秩父御陣へ出仕して先ず日野城攻略を急ぐよう』命令されたので、色々様々心を尽くして日野城を落城させた。あの城を落城させたこともまた道灌の功労ではないだろうか。何もかもご存知のとおりであるが、いかほどもなく(顕定は)そのことを忘れている。道灌の意見を妨害した人を許しているけれども、彼らにいかほどの功績があるのか聞きたく思う。ほんとうに(彼らの)自らを称えた言い分は、かえって傍若無人であろう」。

「太田道灌状」全編に流れている道灌のいらだちの一つは、彼自身と山内上杉家の家宰であった長尾忠景との不協和音です。先の引用部分の中でも道灌は、忠景に土壇場でのキャンセルを食わされています。二人の出す作戦案は常に異なり、二人の戦場での行動は常にちぐはぐでありました。そのことは、後の道灌謀殺に関わりがあると思われます。

大森御陣
私は、大森御陣の地を、秩父市上影森の諏訪神社付近と想定しました。その地は、荒川と浦山川による崖の上にある要害の地であり、境内を秩父往還道が通っていました。現在も神社の境内に樹齢700年の巨木があるので、往時は樹木が多数あって大森と呼ばれた可能性があります。また地名の大森と影森が森の字を共有していることは、その関連性を示しています。ここから熊倉城は指呼の間であるから、上杉顕定は熊倉城攻略の対城として、この地を選んだ可能性はあると思います。江戸時代の文政年間に記されたといわれる「秩父風土記」の古城跡十九か所の項に、上影森が含まれています。近くに神原(じんばら)と呼ばれる平地があり、往時は陣原であったかもしれません。
「太田道灌状」によると、大森御陣には上杉顕定の旗本衆がいて警護していました。そして顕定が、道灌にしきりに熊倉城攻めを促しているところをみると、そこには、顕定自身の大軍が駐屯してはいなかったと思われます。顕定は、大森御陣で諏訪神社に戦勝祈願をし、熊倉城の景春の動きを監視しながら指揮をとっていたと思われます。
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(道の駅「あらかわ」から見た熊倉城址=中央の山)
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(樹齢700年の諏訪神社の古木)

浦山河、浦山河の切所
「太田道灌状」の中で、「荒川」の名はただ一度だけ、道灌が青鳥城(川島町)から北方へ移動して荒川を越えたときに使われています。荒川が波久礼の難所をすぎて秩父盆地に入ると、両岸の様相も一変して流れる方角も違うため、道灌は荒川であるという認識を持っていなかった、と私は考えます。道灌は、秩父の荒川を浦山河と呼んだ、と考えることが私の推論のキーポイントであります。そのように考えると、「太田道灌状」の記述内容は全て整合性を持ち、すんなりと理解できます。逆に、そう考えなければ、「太田道灌状」の記述内容は実際の地勢と矛盾して、解釈不能となるのであります。
川は環境が違うと異なった名称で呼ばれることは珍しくありません。例えば今でも、神奈川県の相模川は山梨県に入ると桂川と呼ばれています。道灌の時代には、荒川は秩父で浦山河と呼ばれていた可能性もあると思います。因みに、現在の浦山川は、浦山ダムに満々と水をたたえたあと、秩父市荒川上田野で荒川へ注いでいます。浦山河が荒川であるとすると、その切所とは荒川の渡河地点すなわち皆野町親鼻(おやはな)の渡しということになります。当時は橋がなかったので、谷の底にある渡河地点が戦の勝敗を左右する修羅場となったのです。私は道灌が、錯誤あるいは当時の慣例的な呼称により、秩父盆地を流れる荒川を浦山河と呼び、釜伏峠への道に通ずる親鼻の渡しを浦山河の切所と呼んだと推定します。
国道140号線沿いの親鼻の下川原には今、親鼻橋と秩父鉄橋がかかり、夏には長瀞ライン下りの乗船場ができ、日曜日には秩父鉄道のSLが古風な鉄橋を渡ります。
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(荒川の親鼻橋下河原)
一方、皆野町の浦山城址は皆野駅からバスで35分もかかる西方の山の中にあるので、釜伏峠を越えて攻め込んでくる軍勢に対する対城としては、殆んど役には立ちません。

太山
太山(ふとさん)とは長瀞町の宝登山(ほどさん)と考えるのが妥当です。宝登山神社の説明によると、宝登山はその縁起伝説から火止山(ほどさん)とも書かれました。一般的に、音による言葉の連鎖は相当高い確率で事実の連鎖を伴うので、宝登山(ほどさん)が太山(ふとさん)である確率は高いと思います。当時、軍勢が社寺で戦勝祈願をし、境内に駐屯することはよくあることでした。したがって道灌は、古河公方の軍勢が秩父往還すなわち釜伏峠を越えて攻め込んでくることに備えて、上杉軍の前進基地を宝登山・太山につくることを提案したのです。宝登山から親鼻の渡しまでは約1キロであるから、ちょうどよい距離といえます。
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(宝登山)
荒川久那の城山(室山城址)を太山と考えることには、少々無理があると思います。地名の音が一致しないこと、秩父往還を越えて攻め入る敵に対する陣地の位置としては、戦略的に有効ではないことなどの理由があります。

田野陣、峠
田野陣とは現在の皆野町下田野にあった、急造りの陣地を指すと私は思います。そこでは、駆り出された田野陣衆が釜伏峠への道を警護していたのでしょう。
皆野町に下田野、隣の秩父市に荒川上田野という地名があるので、話が厄介です。上杉方が、宝登山・太山に陣を構えたとすると、陣地から皆野町の下田野まで約一キロであるのに対して、秩父市の荒川上田野までは十キロもあります。したがって敵来襲のとき、上田野の田野陣衆を呼んで緊急配備することは、戦略的に無理があります。
そして峠とは、先に述べたように釜伏峠を指すと思います。当時の兵士とりわけ道灌の足軽隊は健脚であったので、高見から釜伏峠のうえまで、半日もあれば悠々と移動でき、「高見在陣衆を峠へ馳せのぼらせて、山中を警護させる」という道灌の提案は決して、現実離れした話でなかったのです。
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(釜伏峠の上・釜山神社の碑)

以上のように考えると、高見、竹沢、秩父口表、(釜伏)峠、田野陣、浦山河の切所、太山などは、鉢形城の隣接地域の連鎖的地点であるから、道灌の提案はにわかに現実味を帯びてきます、道灌の提案は、古河公方の軍勢が釜伏峠を越えて長尾景春救援に秩父盆地へ来襲することを前提にした案であったのです。

また「太田道灌状」の文意から考えると、上杉顕定は一貫して、熊倉城(日野城)攻撃を優先しようとしていました。一方、太田道灌は武蔵の古河公方方の動きを理由にして、秩父往還の要すなわち釜伏峠で、古河公方軍を阻止する作戦を顕定に提案したけれども、顕定はその提案をあっさり拒否しました。道灌は心中で、親類である長尾景春を滅ぼしたくなかったので熊倉城(日野城)の攻激を引き延ばそうとしてこの提案をしたと思われます。一部の人々(顕定も含み)は、道灌の心底を読んで、「道灌は険難の地を避けている」と非難したのでありましょう。道灌はその非難に耐えられなくなり、やがて熊倉城攻撃を決行したのであります。

皆野町の下田野のとなりに戦場という地名があり、下田野では毎年3月に「下田野行灯まつり」が行われ、あぜ道にある300余の行灯に灯がともされます。戦国時代に鉢形攻防戦ではてた武士や百姓すなわち田野陣衆を追善する行事だそうです。
私は、道灌の提案の中の太山、浦山河、田野陣、峠などの地点特定のために、方々を駆けずりまわってたいへんな苦労をしたけれども、この提案は実行されなかった机上プランであったのでなんだか虚しい感じもします。しかし、地形肝要を根本に孫子の兵法を用いた道灌の思考を理解するためには意味のあることであります。
そして、「太田道灌状」に記された秩父御陣の全貌が、かくも混沌としていることに、私には少々の感慨があります。それは、秩父には余りに多くの峠と沢があるため、景春一統は沢にかくれ峠を越えて、多くの伝説につつまれてしまったという心地よさです。
そしてまた、秩父の道灌軍と景春軍の攻防については、多くの熱心な郷土史家の、百花繚乱ともいうべきたくさんの見解があるのに、秩父の歴史にも地理にも疎い私がその中に割り込んで恐縮しています。したがって以上の見解は、一試論としておきます。
釜伏峠=埼玉県大里郡寄居町風布1969
諏訪神社=埼玉県秩父市上影森255‐1
宝登山・宝登山神社=埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828
親鼻橋=埼玉県秩父郡皆野町皆野

2012年06月07日

「太田道灌状」の脇役・竹沢と高見(199か所目)


「太田道灌状」の中にその地名が登場するけれども、道灌の時代には特別なことが何も起こっていない竹沢と高見という場所があります。1480年(文明12年)上杉軍が長尾景春の軍勢を秩父に追いつめたところ、古河公方が再び景春支援の動きを見せました。そこで道灌は、大森御陣で「然らば大石名字中道灌相共にし、当所竹沢辺か高見辺かに討ち出で」(太田道灌状)と述べ、古河公方軍を阻止するために、竹沢か高見に大石氏と共同の前線基地をおく作戦を、管領の上杉顕定に提案しました。
埼玉県小川町の竹沢という所は、越生と寄居の中間点にあり、児玉党竹澤氏ゆかりの地であったけれども、今は何一つ目立つものがない街道筋の田舎です。私は、鉢形城や雉が岡城方面へ行く際、何度も竹沢を通っていたけれども、気にも止めませんでした。今回ふと急に気になり、竹沢地域を回ってみました。
先ず竹沢駅を探すのが大変です。実は、JR線の竹沢駅は、国道254号線小川バイパス沿いに人影もなくひっそり建っています。車で走っていると決して気付かない、道端の小屋のような駅です。
JR線と東武東上線は、このあたりで交差しています。東武竹沢駅を探すのは、さらに難儀です。仕事中の里人に尋ねてようやくわかりました。この駅は、何もない、山あいのちょっとした広場に立つやや立派な駅です。周囲に小山がいくつもあるので、前線基地として兵を隠すにはもってこいの地形です。
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(JR線竹沢駅) 
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(東武線東武竹沢駅)
竹沢駅近くの靭負(ゆぎえ)という地名と兜川(かぶとがわ)という川の名前は、この地が中世戦国時代の由緒を持った地であることをさりげなく語っています。往時このあたりを駆け回った道灌と景春のことをなにもかも知っていて、黙っているような雰囲気が、ここにはあります。
国道254号線小川バイパスを少し東へいくと、高谷交差点の手前左側に高谷砦(こうやとりで)址があります。農家の犬に吠えられながら裏山を登ると、小振りの連郭式城址があります。この砦は、誰が築いたかわからないけれども、道灌軍が駐屯した可能性はあります。

高谷交差点から県道184号線をちょっと北上すると高見城址があります。このあたりは往時、鎌倉街道上道(かみつみち)をおさえる要衝の地でありました。四津山神社の参道を登ると、連郭式の高見城址があります。本丸跡から高見が原古戦場を一望できます。この城山は、高見が原の独立峯なので見晴らしがよく、天気の良い日にここで弁当などを食べるとご機嫌です
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(高谷砦の空掘)
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(高見が原古戦場)
小川町教育委員会の説明板に次のようにあります。
「(前略)本城の築城年代や城主については不明な点が多いのですが『新編武蔵風土記稿』では、長享元年(1487)に没した増田四郎重富の居城と伝えています。また長享2年(1488)及び延徳3年(1491)の二度にわたり、城の北東方面の高見ヶ原において、山内上杉氏と扇谷上杉氏の激しい合戦が繰り広げられたと伝えられています」。
道灌は、この年一度江戸城へ戻って体制固めを終え、「一両日候て高見へ打ち帰り」(太田道灌状)とあるので、高見城の増田氏が上杉氏に与同し、道灌軍に駐屯地を提供したと、私は推測しています。
道灌が「竹沢辺か高見辺」と言って想定した前線基地は、高谷砦か高見城のことと思われるけれども、道灌のこの作戦は、管領上杉顕定に拒否されたので結局実行されませんでした。
高谷砦址は、由緒不明なのでまだ史跡として認定されていないけれども、高見城址は埼玉県指定史跡です。

脇役はいつも、主役の事をすべて知っていても決して語ることがありません。埼玉県の田舎は、歴史的にどうしてこんなに奥深く奥ゆかしいのかといつも思います。脇役をして多く語らしめては、舞台が御破算になるので、今回はなにもないままこれで終わりです。
高谷砦址=埼玉県比企郡小川町高谷2283
高見城址=埼玉県比企郡小川町大字高見字四つ山1008外

2012年05月16日

武蔵千葉氏の石浜城址と赤塚城址(198か所目)

文明10年頃、東関東の大勢力であった総州の千葉氏は、古河公方と結び、上杉氏に対抗していました。その頃、千葉氏庶流の馬加孝胤(まくわりのりたね)は、宗家を滅ぼして猪ノ鼻(千葉市)の本城を奪いました。一方嫡流の千葉実胤、自胤(これたね)兄弟は太田道灌の庇護のもと、それぞれ石浜城(東京都荒川区)、赤塚城(東京都板橋区)に拠り、武蔵千葉氏として江戸城の東方を固めていました。

JR常磐線の南千住駅南口より南へ少々歩き、泪橋(なみだばし)交差点で左折し、明治通りへ入ります。10分も歩くと隅田川(古利根川)に架かる白髭橋へきます。このあたりは往時、武蔵と下総の境目で、渡し船による交通の要衝でした。白髭橋の手前左側に石浜神社があります。境内を囲む石格子近くに、荒川区教育委員会の説明板があり次のように記されています。
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(伝・石浜城址・石浜神社)
東京スカイツリー.JPG 
(隅田川と東京スカイツリー)
「石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573〜1591)城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡の後に、廃城になったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。(後略)」
また「新編武蔵風土記稿」(1830年)には、「(自胤は)本国を離散して武蔵江戸の地へ趣き、太田道灌に頼みければ、道灌、彼が高家にして微力なるを憐れみ、石浜の城を授けて是を守らしめ」とあります。
千葉実胤については、「太田道灌状」に次のようにあります。
「千葉実胤事は、当方の縁者に渡らせ候と雖も、大石石見守を招き出され葛西へ越され候。公方様へ内々申さるる旨候。然りと雖も、孝胤出頭の事候間、許容無きに依り濃州辺へ流落候」。
千葉実胤は上杉氏の姻戚であったけれども、(長尾景春与党の)大石氏を、居城の葛西(石浜城)へ招きました。そして(実胤の総州復帰について)古河公方へのとりなしを頼みました。しかし、千葉孝胤が妨害したので、古河公方の承諾は得られず、実胤は濃州(岐阜県)へ流落しました。
「太田道灌状」の文面から読み取れることは、千葉実胤が、孝胤と古河公方の連合軍に対して断固戦おうという道灌の意に反し、半ば交渉しようとする中途半端さを持っていたことと、そのことに対する道灌の不快感です。実胤は、病弱であったとも、讒言にあったともいわれているけれども、その後、所領の濃州へ流落して生涯を終わりました。
このあたりは、河川の流路が度々変わった地帯であるので、石浜城の遺構は全く発見されていません。石浜城は、台東区浅草の隅田公園前の本龍院・待乳山聖天(まつちやましょうでん)付近にあったという説もあります。石浜神社近辺の白髭橋の際から、東京スカイツリーが隅田川のかなたに、遮るものもなくよく見えています。

赤塚城址.JPG            
(赤塚城址本丸跡) 
説明板.JPG
(板橋区教育委員会説明板)
都営地下鉄三田線の高島平駅から15分も歩くと、都立赤塚公園へきます。赤塚城址、梅林、桜並木、溜池があり、隣接して板橋区立郷土資料館があります。小高い城山を登ると赤塚城本丸跡があり、城址の碑と板橋区教育委員会の説明板があります。隣接する二の丸跡には、赤塚山乗蓮寺が建っています。
弟の千葉自胤については、「太田道灌状」に次のようにあります。
「自胤事は、江古田原合戦の時、刑部少輔一所に加わり、自身太刀打たれ、上州御下向の刻より江戸城へ籠り給候。彼の家風中度々の合戦の働き比類なき候」。
千葉自胤は、江古田が原合戦のとき、上杉朝昌とともに、自ら太刀を振るって戦いました。(上杉顕定が)上州で戦った頃、(道灌も前線に出ていたので)自胤が江戸城を守りました。自胤の家中の者達も度々の合戦で、目覚ましい働きでありました。
これはもう自胤に対する道灌の絶賛の言葉であり、道灌は自胤を信頼していたがゆえに、自分が上州戦線で陣頭指揮をしている間、自胤に江戸城守備を命じたのです。自胤はその後、赤塚城で武蔵千葉氏として地歩をかため、江戸城鬼門(東北)を守って存在感を発揮しました。その子孫は後に、後北条家に属し、豊臣軍に滅ぼされる1590年(天正18年)までこの地で栄えました。
赤塚城址は、板橋区指定史跡です。
伝・石浜城址・石浜神社=東京都荒川区南千住3丁目
本龍院・待乳山聖天=台東区浅草7-4-1
赤塚城址=東京都板橋区赤塚5丁目赤塚城址

2012年04月27日

柏市・道灌地名の由来(197か所目)

JR常磐線の千葉県柏市には、山手線の日暮里から急行に乗ると約30分できます。柏駅と北柏駅周辺には、道灌の名をもつ小字地名が9カ所もあります。柏市の豊四季に道灌坂、道灌掘、向道灌掘、根戸新田に道灌橋、松ヶ崎新田に道灌橋、西道灌橋、呼塚新田に北道灌橋、西道灌橋、南道灌橋といった具合です。柏市役所のHPでは「これらは近代に命名された地名とも考えられる。その起源については、今後の研究課題となっています」と記されています。
私は過日、最初に柏市の境根原古戦場、隣接する我孫子市の根戸城址を取材したので、今回は3回目の柏市訪問です。柏市にたくさんある道灌地名の謎を解くのが今回の目的です。北柏駅入口から大堀橋へきて、大堀川に沿って遊歩道をのんびり歩き、手賀沼へ向かいました。手賀沼にいたるまでの川沿いで約100名のおじさんたちが釣をしていました。釣り人は多いけれども、釣りあげている姿を、一度も見ませんでした。みなそれぞれ、土手の上や枯れ芦のかげなどお気に入りの場所を確保し、釣り糸を垂れて黙ってうきを見つめている姿は、ほとんど修行者のようでありました。
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(手賀沼の釣り人) 
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(北柏ふるさと公園・南道灌橋)
15分も歩くと手賀沼西端の「北柏ふるさと公園」にきます。湿地帯に木道の散歩道がつづき、ポピーが満開でした。実はこの公園の住所が、「柏市呼塚新田字南道灌橋」なのです。公園の中に小さな橋があるけれども、無名の橋でした。この公園から北柏駅の方へ歩くと、しばらく平地がつづき、やがて登り坂になります。
江戸時代の1727年(享保12年)から、手賀沼の新田開発がはじまりました。このあたりの地形と地名を考えあわせると、手賀沼や大堀川周辺の湿地帯を干拓して新田が作られたとき、当然、水路と橋がたくさんできたので、道灌橋や道灌堀の名がつけられたのだと思われます。他の道灌地名の場所も、大堀川の近くなので同様の事情です。しかし現在では、それらは地名のみで、実際の橋や堀などは確認できません。それにしても、当時の農民や為政者は、新田の各所に、なぜ敢えて道灌の名前をつけたのでしょうか。私は先ず、柏市立図書館へ行き、「柏市史」等の郷土資料に目を通しました。各種の郷土資料に目を通していると、私は意外なことに気づきました。それは境根原合戦にかかわることです。
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(境根原古戦場の塚)
1478年(文明10年)12月、太田道灌は、都鄙の和睦に反対する千葉孝胤(のりたね)を退治して千葉自胤(これたね)へ味方するため、古河公方と交渉したあと、下総へ進発して国府台に仮陣をつくりました。12月10日、柏市の境根原で、道灌軍は孝胤軍と遭遇して激しい戦が行われました。「太田道灌状」には「合戦せしめ勝利を得」と簡潔に記されているけれども、それは境根原を中心に相当広い範囲で戦われた大激戦で、千葉氏方の木内氏,原氏などの重臣も討ち死にしています。私は道灌が、根戸城に隠していた足軽隊を出動させて勝利を得たと推測しています。道灌は、敵も味方も戦死者をねんごろに弔って塚を作ったと郷土史は伝えています。かつては境根原に数十の小塚があったけれども、昭和32年、この地の光が丘団地自治会が塚の整備を推進し、塚祭りで供養の儀式を行いました。今では団地内に、二基の大きな塚のみが、首塚、胴塚として残っています。
柏市の郷土史の諸資料には、太田道灌の境根原合戦が好意をもって記述され、柏市教育委員会編纂の「郷土かしわ」という郷土史の教科書にも、道灌が軍を進めた地域に道灌の地名が残っている、と説明されています。道灌が攻め込んだ他市町村の郷土史では、道灌は必ずしも好意的には記述されていませんが、柏市では意外にも、道灌がこの地域に好感を与えているかのようであります。その理由の一つは、道灌が戦死者を敵も味方もねんごろに弔った、ということのようです。第二に、江戸時代の1841年(天保12年)に「太田道灌雄飛録」が江戸で出版されてベストセラーになったので、道灌の人気がこのあたりまで伝わっていたのではないかと思われます。第三に、道灌と戦った千葉孝胤は主家を乗っ取った庶流の馬加(まくわり)千葉氏であったので、江戸時代の為政者が支持をしなかったのではないかとも思われます。かくて民衆は、新たに開発した田んぼの周りに、競って道灌の名前をつけたのだと思います。以上は、私の推測です。
柏市教育委員会でこのことを尋ねると、「よく理由はわからないけれども、新田を開発した当時の民衆が、道灌に好感を抱いていたからかもしれない」という曖昧な説明でした。
北柏ふるさと公園=千葉県柏市呼塚新田南道灌橋
境根原古戦場=千葉県柏市酒井根光が丘団地
根戸城址=千葉県我孫子市根戸荒追1341番外
posted by otadoukan at 16:05| Comment(6) | 柏市・道灌地名の由来