2023年03月14日

太田道真・自得軒跡で「井戸見つけた」

埼玉県越生町では毎年早春に、梅まつりが盛んにおこなわれます。梅林の向こうには、白加賀という梅の花が一面に広がっています。白い梅花一面の堀之内を行き過ぎて越辺川の「道灌橋」をわたるとそこは小杉という地で、太田道真の自得軒跡です。今はそこに建康寺がひっそりとしてあり、「太田道真退隠の地の碑」が建っています。
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(越生の白加賀)
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(道灌橋)
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(建康寺の太田道真退隠の地の碑)

建康寺の説明板に言う。
「(前略)文明18年(1486年)6月道灌は、友人万里集九を伴って、道真のもとを訪れた。万里の詩文集『梅花無尽蔵』には、その折に詠まれた次の七言絶句が収められている。
    稀郭公(ほととぎすまれなり)
 雖有千声尚合稀(喩え千声ありと雖も尚合うこと稀なり)
 況今一度隔枝飛(況や今一度枝を隔てて飛ぶをや)
 誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏の初夏に似たるを)
 細雨山中聴未帰(細雨山中に聴いていまだかえらず)(後略)」

私は、地元の郷土史家の案内で、「太田道真退隠の地の碑」の横を通りすこし進みました。するとそこには、石垣で組んだみごとな井戸が少しも崩れずに残っていました。それは直径約60センチ深さ約160センチの空井戸です。大人が入ると首のあたりまでの深さです。そこは切り立った崖の下であるから、往時は水が滾々と沸いたいたと思われます。
すぐ近くに越辺川があるから、これは灌漑用の井戸ではないことは確かです。この地の小字は陣屋であるので、太田道真がこの井戸の水を飲んでいたことは間違いありません。
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(陣屋の空井戸)
現在、事情により、この土地の所有者の許可が得られないため、この井戸へのアクアセス方法が公開されていません。私は、地元の郷土史家の案内で見に行きましたが、気が急いていたためか井戸のそばで、竹の切り株に足を引っかけて、はげしく転倒してしまいました。転んだ時に竹の切り株のわずかのすき間に顔が入り、無事でした。太田道真の加護があったとしか思えません。
私はもう何十回も越生にきていますが、今回初めてこの井戸のことを知りました。これは貴重な文化財です。一刻も早く、この井戸の周辺整備と説明板の設置をして欲しいものです。

道灌橋の下の越辺川の川べりにも、井戸と同じようなしっかりした石垣が積まれていて、意味ありげです。これは初歩的な野面積でもなく、高度な切り石積でもなく、江戸時代の八徳の三吉の積石でもありません。道真が配下に命じて作らせたもののような気がします。
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(道灌橋の下、越辺川の石垣)
この辺りは、人工的な破壊が進んでいないので、とくに梅花の頃、まだ雑草が繁茂してないので、散歩をするといたるところに石碑や地形の特徴が目につき、中世の名残りであるような気がしてきます。

2022年11月08日

三宿神社に武者小路実篤の至言

東京都の渋谷駅で、東急田園都市線に乗り一つ目の駅が池尻大橋駅です。下車して池尻口から地上に出ます。駅名ですぐ地勢が想像されますが、今は都市化していてビルや高架が林立錯綜し、どこが池の尻やら、どこに大橋があるのやら見当もつきません。すこし東へ歩くとうまいぐあいに目黒川緑道が見つかります。そこで左折し、緑道をのんびり歩きます。緑道に沿って花畑や水辺がありコイなども泳いでいるので、まことに快適なウオーキングです。20分もいくと右手に三宿神社(みしゅくじんじゃ)が見えます。
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(目黒川緑道)
この地には、文明年間(1469年〜1486年)に吉良氏の世田谷城の出城がありました。その後、多聞寺ができ毘沙門天がまつられましたが、明治の廃仏毀釈運動で毘沙門天は外来の神なので禁じられました。三宿村の村人は、役人の前で祭神申請書の毘沙門天を線引きで消し、「大物主命(おおものぬしのみこと)」と書いたので書類はパスしました。かくて1885年(明治18年)に三宿村の鎮守として三宿神社が建立され新しい神様がむかえられました。
今はここに、倉稲魂命が祀られ、なぜか依然として毘沙門天もまします。となりには稲荷社もあります。このあたりは都心なので、神様が共同住宅にいても違和感はなくかえって親近感があります。
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(三宿神社と毘沙門天碑)
ちなみに毘沙門天とは、仏法守護四天王の一尊で、人に利益をもたらす神です。この神を信じた上杉謙信の旗印は「毘」です。
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(三宿神社)
神社の神楽殿の向かいには、1956年(昭和31年)に、太田道灌の江戸築城500年を記念して、地元の有志が建立した江戸城の城石の碑があります。その碑に、武者小路実篤の筆跡で次のように彫られています。
「過去五百年之進歩道灌不知
 未来五百年之進歩我等不知  
 石又沈黙 
      太田道灌築城五百年
 武者小路実篤書 印」
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  (武者小路実篤書の碑)
ここには、文明年間に太田道灌と親しかった吉良氏の世田谷城の出城であったので、太田道灌とは有縁です。しかしなぜ武者小路がここに登場してこのような至言をしたためたのか、いまのところわかりません。
それにしても、武者小路の至言を、このように境内の片隅に置くことには納得がいきません。神様の仲間入りとまではいかないまでも、もっといい位置に設置して説明板などもほしいものです。

posted by 道灌紀行 at 14:31| Comment(0) | 下総の八幡と天神

2022年09月15日

「山吹の里」リニューアル(道灌紀行ニュースNo.19)

 面影橋の「山吹の里」(東京都豊島区)の碑が、移動したと聞きましたので、さっそく出かけました。
 JR山手線高田馬場駅の早稲田口から、早稲田通りを東へ進み、馬場口で左折して明治通りを進みます。高戸橋で右折して新目白通りをやや進むと、左側に面影橋があり右前方に都電荒川線の面影橋停留所が見えます。
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(面影橋とマンション)
 橋の下を流れるのが神田川、すなわち道灌の江戸城の東側を流れていた平川です。面影橋を渡るとすぐ右側に、巨大なマンションが新設され、その前のちょっとした空間に、山吹の碑が立っています。元の場所からすこし移動した感じです。
山吹の里の碑は、山吹の茂みに囲まれていたものの残念ながら花は咲いていませんでした。毎年四月には、実のない八重山吹の花が満開になるでしょう。豊島区教育委員会の説明版もあり、詳しい説明文が記されているので紹介します。
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(周囲に山吹と百日紅)   
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(「山吹の里」の碑)
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(豊島区教育委員会の説明版)

       「山吹の里」の碑   所在地 高田1-18-1
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一隊は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が、鷹狩りに出かけて雨にあい、。農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重花は咲けども山吹のみの(蓑)一つだに無きぞ悲しき」(御拾遺集)
の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図絵」(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。
「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町だとする説があって定かではありません。ただ神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹の里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
  平成16年(2004)3月 豊島区教育委員会
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(碑の周りに数か所の休憩スポット)
碑の周りには、数か所の休憩場所の配慮があります。JR高田馬場から山吹の里まで歩いてくると約15分かかります。歩いてきた道灌ファンは、ここに腰を下ろして、山吹の花をめで、道灌伝説に思いを馳せることができます。
ちなみに、ここから都電に乗り、荒川の町屋で降り、すこし歩くと、荒川区の山吹伝説の地へ行くことができます。