2022年03月30日

続き・千駄木・太田資宗屋敷跡

東京メトロ千代田線の千駄木(せんだぎ)駅で降り、団子坂(汐見坂)を上りきると、森鴎外記念館があります。 本郷台地の森鴎外記念館は、鴎外の住居・観潮楼の址です。そこから東京湾の帆船がよく見えたので鴎外は、観潮楼と名付けて終生暮らしました。
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  (重厚な森鴎外記念館)
記念館を左折して、文京八中を左に見ながら藪下通りを通り、急坂を下って右折すると、杜が見えます。そこが、「千駄木ふれあいの杜」すなわち太田資宗の屋敷跡の一部です。
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  (薮下通りの老桜)
花冷えの日、満開の桜が咲きとどまっていました。
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(千駄木ふれあいの杜入口)
「千駄木ふれあいの杜」のフェンスにある、文京区土木部みどり公園課の説明版には、次のように記されています。
『江戸時代、この辺りは太田道灌の子孫である太田備中守資宗が三代将軍徳川家光から賜った下屋敷で、現千駄木1丁目一帯に及ぶ、広大な敷地でした。そこからの眺めは「太田備牧駒籠別荘八景十境詩、画巻」に描かれています。そこには湧水を源泉とする池があり、明治以降これは、「太田が池」と呼ばれました。近くには森鴎外、夏目漱石などの文化人が住まいを構え、その作品の中に当時の風景を書き残しています。
昭和の初めまでに「太田が池」はなくなりましたが、昭和40年代まで屋敷内の庭には湧水が残っていました。しかし時代の変遷とともに、その湧水も涸れ、本郷台地東緑崖線の崖地の緑も、現在は「千駄木ふれあいの杜」を残すのみとなりました。
「千駄木ふれあいの杜」は、所有者である太田氏と文京区の間で契約が結ばれ、平成13年10月より市民緑地として一般公開されてきましたが、できる限り樹林を後世まで残すよう配慮することを条件として、平成20年3月に太田氏より区に寄付されました。
区ではその意向に沿うよう都市に残る多様な動植物の生息空間の保全をする都市公園と位置づけ、多くの方が自然に親しんでいただけるよう公開しています。』
この説明版にすべてが語られています。この土地の所有者であった、太田資宗の子孫の方は、今もこの近傍に住んでいます。
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  (「太田が池」の遺構を巡る道)
崖下の「太田が池」の遺構には、水は涸れているもののよくみると池の縁の石や石灯篭がコケに覆われて残っています。
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(石灯籠の遺構)
地元の「千駄木の杜を考える会」が「屋敷森通信」を発行して、入り口に置いてあります。それによるとこの杜では冬になると、縁起物として名高い千両、万両が赤い実をつけるそうです。
この杜は一見、藪のように見えますが、それは地元の関係者が「生き物を一切を持ち出さない、持ち込まない」という原則にしたがい、環境を守りつづけているからであります。
posted by 道灌紀行 at 19:47| Comment(0) | 二つの三芳野天神社と平河天満宮

2022年03月03日

太田資宗、江戸城静勝軒の道潅を偲ぶ

1. 太田備牧駒籠別荘、八景十境詩画巻
東京メトロ丸の内線の本郷三丁目駅から案内板にしたがい、春日通りを5分も歩き真砂坂上で右折すると「文京ふるさと歴史館」が見えます。途中春日通りに、太田道灌ゆかりの櫻木神社があるので、帰り道に見ることができます。
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(文京ふるさと歴史館標示)
歴史館の入口をはいると、1,2階には常設展示があり、日本史の教科書にもでている文京区弥生町出土の弥生式土器が展示されています。地階に、太田道灌の江戸掛川系の子孫太田資宗(おおたすけむね)にかかわる特別展会場があります。
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(文京ふるさと歴史館入口)
さて、この歴史館地階で開催されている太田備牧駒籠別荘、八景十境詩画巻(おおたびぼくこまごめべっそう、はっけいじっきょうしえまき)とは、詩巻と画巻からなる二巻の巻物です。江戸時代の大名太田資宗(1600〜1680)の駒込屋敷(現・千駄木1丁目)からの眺めを八景、そして屋敷内の見どころを十境としたものです。詩は儒学者・林鵞峯によって詠まれ、その子梅洞により墨書されました。詩文をもとに制作されたと思われる画巻は、絵師・狩野安信により画かれました。(撮影不可)
絵の中に富士山や筑波山がでてきます。資宗の祖先太田道灌の江戸城静勝軒の詩板にも、富士山や筑波山の山容が記されています。資宗は駒籠屋敷から富士や筑波の山容をみて、昔日の道灌の心情と労苦をしのんだのでありましょう。
全長約6メートル(詩巻)、11メートル(画巻)の全体が、太田家より当館に寄贈され、区の文化財に指定されました。今回はじめて、この詩画が完全公開されたので、このチャンスを逃すべきではないと思います。この特別展の開催期間は、2022年2月5日(土)〜3月21日(月)です。
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(図録の表紙、中央に富士の絵)

2.太田資宗の出世街道
太田資宗は、太田道灌より6代目の子孫で、1606年(慶長11)7歳のとき徳川家康に拝謁しました。資宗は10歳で、豊島郡蓮沼にて500石の太田家の家督を継ぎました。その後資宗は家康の側近となり、書院番頭、御小姓番頭、六人衆(松平信綱等とともに)などの要職を歴任、目を見張るスピードで昇進し加増され続けました。そして1635年(宝永12)には、下野群山川で15600石の大名に列せられ備中守となり、1638年(寛永15)には、35000石にて三河国幡豆群西尾に移封しました。
1643年(寛永20)資宗が奉行となり、林羅山を実務担当として『寛永諸家系図伝』を完成しました。1644年(正保1)遠江浜松に35000石で移封、1680年(延宝8)81歳で没しました。そしてその子孫は、掛川藩50000石の城主となり、幕府の寺社奉行、老中などの要職につきました。
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(掛川城天守閣)
太田資宗のスピード出世は、彼自身の志と才覚によるとはいえその背後には、太田家再興を願う叔母のお勝さん(徳川家康の側室、英勝院)の強い思念とバックアップを私は感じます。そしてそれはまた、上杉家に生涯忠義をつくした挙句の果てに、非業の最期を遂げた太田道灌への、諸天善神の憐れみと加護であったというべきでしょう。

3.道灌有縁の櫻木神社
帰り道春日通りに、太田道灌勧請の櫻木神社があり、入口に紅白の梅が咲き、都会のど真ん中で春の訪れを告げています。
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(桜木神社の紅白梅)
境内に「縁起の略記」と称する碑があり、太田道灌に関する部分には次のように記されています。
「(前略)太田道灌が江戸築城の際、菅原道真公の神霊を京都北野の祠より同城内に勧請せられしものを、その後湯島高台なる旧桜の馬場の地に神祠を建立して、その近隣の産土神として、仰がしめ櫻木神社と名付けられたといわれる。元禄三年徳川綱吉が同所に御学問所昌平黌建設するに当たり、更に現在地に遷座、即ち今を去る実に二百七十年前の事である(後略)櫻木神社氏子中」
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(縁起の略記)
この縁起を読んで私は「産土神(うぶすなかみ)」の一説に注目しました。道灌は、江戸城に天神を勧請したが、それが城外に勧請されて、産土神すなわちその土地の土着の守護神に変身したということです。
道灌有縁の神社は多数ありますが、産土神への変身はしばしば見られます。道灌の好みは、源氏ゆかりの八幡社や学問の神である天神社でしたが、民衆の好みに合わせて多くの土地の神や稲荷社も勧請(おそらく大多数は承認しただけ)したと伝えられています。
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2021年12月19日

太田道灌有縁の二つの稲荷社

1. 渋谷道玄坂の千代田稲荷
JR山手線渋谷駅のスクランブル交差点は今や、人流を計る場所として、誰にも知られています。そこに立って周囲を見渡すと、放射状にでているまわりの道はみな、たしかにゆるやかなのぼり坂です。ブラタモリで、渋谷駅は谷底にある、と言っていたのを思い出します。
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(しぶや百軒店)
数ある坂の内でひときわ目立ってにぎやかなのが,名にし負う道玄坂です。この坂をのぼって「道玄坂」の道路標識のあるところで右を向くと「しぶや百軒店」の横看板があります。そこをくぐってまたやや登って、赤い場所をさがすとそこが千代田稲荷です。
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(千代田稲荷)
私は、史跡探訪でしばしば稲荷社をさがします。近くまで来るときょろきょろ周りを見て、赤いものを探します。すこしでも赤いものを見つけて近づけば必ず、きつねが迎えてくれます。伏見稲荷大社では、朱色が豊穣と魔除けを表す色とされています。
どこの稲荷も赤系統ですが、千代田稲荷とその横の末社中川稲荷の朱色は格別で、これほど見事な朱色を、私は初めて見ました。
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(由緒)
この稲荷社の由緒は、由緒書きに詳しく記されています。それによると当社は、1457年(長禄元年)太田道灌江戸築城のとき、守護神として伏見稲荷を勧請したのを創始としています。徳川家康の江戸築城後、千代田稲荷として各地を経て、大正12年関東大震災後、現在地である元梨本宮邸跡に遷座しました。
由緒の最後は次のように結ばれています。「稲荷の神はもともと農業の神であり、米一粒が何倍にも殖えるように、広く殖産の神としてあがめられ、商売繁盛の福の神はもとより諸産業の守護神として、あらゆる職業の人に信仰される。」と。

2.矢先稲荷の天井絵馬
東京メトロ銀座線の田原町あるいは稲荷町でおりて、合羽橋道具街を進み、合羽橋本通手前で、赤い幟旗(のぼりはた)をさがして横へはいると矢先(やさき)稲荷神社があります。
このあたりは東京のど真ん中ですが、江戸の下町の気風がやや残っているせいか、地元の人と話しても「正直と親切」という人倫の基本が感ぜられて安堵します。
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(稲荷神社の幟旗が目立つ)
1642年(寛永19年)弓師備後が幕府の土地を拝領して、三十三間堂と矢場(弓の稽古場)を造り、隣接して矢先稲荷神社が創建されました。元禄の江戸大火により三十三間堂は消失して移転しました。隣接していた矢先稲荷神社は、住民の熱誠によりこの地の産土神(うぶすなかみ)としてそのまま鎮座することになりました。
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(台東区教育委員会の説明板)
昭和35年、当社が再建された際、海老根俊堂画伯の熱誠により、社殿の格天井(ごうてんじょう)に100枚の馬乗絵を飾ることになり、約5年の歳月を費やして完成しました。社殿の格天井全面に描かれた日本史上の100人の馬乗姿は圧巻です。聖徳太子や徳川家康など超有名人から初めて名前を聞くような人物もいて、考えながら見ていると知らないうちに時間がたちます。それぞれの絵にその人のエピソードが込められているので、全部を念入りに見れば数日はかかるでしょう。
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(格天井全面の馬乗図は圧巻)
100枚の中から太田道灌の絵を探すのがたいへんです。その中の第58番目が、太田道灌の絵です。馬上の太田道灌に、賤の家の娘が雨中で山吹の枝を差し出しています。そして道灌が怪訝そうな顔をしている例の図柄です。
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(格天井の真ん中辺にある道灌の絵)
太田道灌のエピソードで最も有名なのは、この絵の山吹伝説です。事実か伝承かに関係なく、実によく人に知られています。その理由は、かつて教科書に載っていたということだけでなく、この話自体が、民衆の心にすっと入ってしまう要素を持っているからだと思います。
posted by 道灌紀行 at 11:42| Comment(0) | 太田道灌有縁の二つの稲荷社