2012年08月31日

伝・滝の御陣址と倉賀野御陣

太田道灌自らが、布陣したわけではないけれども、「太田道灌状」に登場する気になる上州の陣地名があります。それは、滝の御陣と倉賀野御陣です。1477年(文明9年)夏7月、鉢形城の長尾景春から援軍要請を受けた古河公方足利成氏が、宇都宮、結城、両那須、佐々木、岩松氏等の大軍を率いて古河を出て、滝の御陣(高崎市)に布陣して白井城攻略をもくろみました。
「太田道灌状」にいわく、「定めて滝の御陣より御勢を分けられ候か」と。またいわく、「公方様滝の御陣を御立ち」と。古河公方の軍勢は、滝の御陣から出発し、片貝、荒巻原、塩売原、広馬場とめまぐるしく動く道灌軍と対峙しながら、半年間の上州合戦を開始したのです。
東京より関越道を走って高崎ICで降り、少し南下してナビゲーションでさがすと、段丘の上に高崎市立滝川小学校がみつかります。高崎市立図書館で「新編高崎市史・資料編3」を見ると、この小学校敷地が、五左衛門原屋敷跡であり、古河公方の伝・滝の御陣跡でもあることがわかります。
滝川小学校.JPG  
(伝・滝の御陣跡)
「新編高崎市史」には、滝川小学校敷地について「足利成氏が、滝陣張りの際(文明9年)の河岸かもしれない」と記されています。滝川小学校の敷地の高台は、東半分が半円形に蛇行する滝川に囲まれ、約6メートルの崖の上にあります。滝川は今も、幅3メートルほどの小川であるけれども清水が勢いよく流れ、滝の名にふさわしい急流です。したがって、滝川にかこまれた滝の御陣は当時、要害の地であったことがわかります。「新編高崎市史」の中で、このあたりには遺構も伝承もないけれども、滝川小学校からほど遠くない下滝町前畑の下滝館跡が、古河公方の本陣跡であろうと推定しています。
滝川小学校の敷地半分を馬蹄形にかこむ滝川は、今も深く切り込み、その急こう配の地勢と柵が、多大なセキュリティ効果を小学校にもたらしています。ちょうど昼さがりに、私は滝川小学校の敷地の周囲を歩き、地勢を見て回りました。夏の終わりの高崎市は、名にしおう酷暑地域です。カンカン照りに私は、少々めまいを感じたものの樹間から聞こえる子供たちの歓声に蘇生する思いでありました。

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(倉賀野城址碑)
「太田道灌状」にいわく「倉賀野の御陣より当方相分かれ候て」と。1478年(文明10年)、広馬場の合戦が相引に終わったあと道灌軍は、倉賀野御陣の上杉本隊から分かれ、川越城へ向いました。
倉賀野御陣は、その名称から考えると、現在の高崎市倉賀野町のどこかにあったと思われます。
伝・滝の御陣跡から西の方へ5キロも移動すると、烏川の崖の上に倉賀野城址があり、本丸跡に倉賀野城址碑があります。倉賀野城は、山内上杉氏与党の倉賀野氏の居城であったので、上杉軍が文明10年、ここを倉賀野御陣として駐屯したとしても不思議ではありません。しかしそのことは、確証もなく蓋然性も弱いためか、「新編高崎市史」には記されていません。
伝・滝の御陣址・滝川小学校=群馬県高崎市下滝町585‐2
下滝館=群馬県高崎市下滝町前畑
倉賀野城址=群馬県高崎市倉賀野町字上町、中町
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2012年06月22日

鉢形から釜伏を越える(地名考察・一試論)(200ヶ所目)

「太田道灌状」の中には、秩父高佐須、秩父口表、御敵城、多比良治部少輔の所帯、秩父御陣、(多比良の)要害、秩父、日野の要害、大森御陣、浦山河、浦山河の切所、太山、田野陣、峠などの埼玉県秩父地域の地名が出てきます。それらの地名がどこを指すのか特定することが難しく、郷土史家の間でも種々の議論があります。
秩父高佐須、日野の要害については、地元の郷土史家がすでに、それぞれ塩沢城、熊倉城であるという結論をだしています。
秩父御陣という言葉で道灌は、秩父での戦、あるいは上杉顕定のいる本陣というようなやや抽象的な意味で使っています。
多比良(たびら)氏は小鹿野町薄(すすき)にいた土豪猪俣氏で、その地域に所領を持ち、その要害とは塩沢城であると、郷土史家は推測しています。
長尾景春が出入りした秩父とは、具体的には長尾城(秩父市)とその根小屋堀の内を指すと思われます。
その他の地名、秩父口表、御敵城、大森御陣、浦山河、浦山河の切所、太山、田野陣、峠について今回考察します。とりわけ浦山河、田野陣については、同様の地名と地勢が秩父市荒川方面と 皆野町にあるために論争が賑やかです。私はこの度あえて、自分の見解を述べてこの論争に分け入ります。
「太田道灌状」を注意深く読み、その行間に秘められた意味を探ろうとしても、出来事について複数の可能性が浮かびあがってきて結論が出ない場合があります。このようなときは、両地域をフィールドワークして地勢的に整合性のある方を選ぶしかありません。そしてさらに、その時の時代状況や道灌はもちろん長尾景春、上杉定正、上杉顕定、長尾忠景など登場人物の心情も勘案しなければなりません。最初に、難解な「太田道灌状」の関連部分を、省略を補いながら口語訳で読み、そのあとで地名を一つひとつ考察します。 

1 秩父口表、御敵城
「太田道灌状」にいわく、
「毛呂三河守父子の進退の事、秩父口表で最初に御敵城より(味方に)招き出したので(顕定が)許した。そしてすぐに(毛呂)左近太郎が出仕した」。
1478年(文明10年)7月、道灌は鉢形城(寄居町)を攻撃し、景春を秩父へ追いました。このとき毛呂氏が城を脱出し、景春方から道灌方へ転じたと思われます。
中世の秩父往還のメインロードは、釜伏峠(寄居町)越えの道でありました。荒川沿いの現在の国道140号線の道は、近年に開通した道であり、中世には波久礼の難所(はぐれのなんしょ)(長瀞町)のために、秩父往還のメインロードではありませんでした。したがって私は、秩父口表とは寄居町の釜伏峠入口であると考えます。
釜伏山参道の碑から、3キロ程東方に鉢形城があるので、御敵城とは鉢形城であると考えます。なぜかならば、秩父への出入り口近傍で道灌が攻めた城は、鉢形城だけであるからです。そして景春が古河公方に与同していたため、道灌は、景春の鉢形城に「御」の字を冠して敬語としたと思われます。あるいはまた「御」の字は、一般的な「怨」の字の書写まちがいかもしれません。
したがって、武蔵野から秩父へ向かう秩父口表は釜伏峠登り口であり、御敵城とは鉢形城ということになります。  
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(釜伏峠入口の釜伏山参道碑)
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(関所跡の説明板)

先日私は、秩父の「長尾景春の伝承地を歩く会」のメンバーとともに、鉢形城を見てから釜伏峠を越えました。まず鉢形城から釜伏峠の登り口が予想外に近いのでびっくりしました。また釜伏峠(580m)越えの道は、旧正丸峠(760m)越えの道に比べるとはるかに短く楽な道であることに二度びっくりしました。そして、1476年(文明8年)長尾景春が、鉢形城で決起して乱を起こしたとき、秩父の傍輩を頼りにしていた景春の心情が、実感をともなって思い起こされたのであります。
峠の途中にヒノキ並木の古道や江戸時代の忍藩(おしはん)関所跡と一里塚があります。峠の上には釜山神社があり、かなり広い平場もあるので、ここに軍勢をとどめることもできました。したがって「太田道灌状」で秩父の峠と言えば、釜伏峠を指したと思われます。乗馬の名手をそろえた長尾景春の騎馬隊が、利根川と秩父の間を短期間に激しく往復したとき、この峠を駆け抜けたと考えると合点がいきます。

2 大森御陣、浦山河、浦山河の切所、太山、田野陣
「太田道灌状」にいわく、
「(文明12年、長尾景春の越生急襲後、道灌は長尾景春与党の斎藤氏が拠る)長井城を攻略に向かったところ、(顕定から宿老の)大石名字中が派遣されたので、共同作戦で(長井城)を落城させた。武蔵国中が平穏であるため、(顕定が)秩父へ出発したところ、(想定外なことであるけれども)古河公方が方針転換をして(再び長尾景春を支援し始めたから、秩父)郡内の御陣が危うくなってきた。
(道灌は)『先ず、日野の要害はあとまわしにして、(武蔵)国中を安泰にすべきです』とお屋形のいる大森御陣に行って申しあげたところ、(顕定)の了解を得られなかった。
『それならば、(道灌は)大石名字中と連れ立って、(扇谷領の)竹沢か高見へ出陣するので、(顕定は)目立たないように太山に陣取り、錦の御旗を浦山河を前にして、森に隠して立てて、田野陣の者を励ましてください。もし(武蔵)国中が危うくなったら、(顕定が)浦山河の切所に馬を出して旗本衆に警護させ、田野陣の衆を移動させ、高見在陣衆を峠へ馳せのぼらせて山中を警護させてください』と(古河公方軍対策を)十分に考えて、新しい意見として述べたところ(顕定の)承認は得られなかった。 
(そればかりか)『もっぱら道灌は、険難の地を罷り逃れたいからそう言っているのだ』と非難する者も現れてきたので、老父(道真)を呼んで屋形(顕定)に付き添わせた。
(道灌は)五月十三日に秩父へ出発し、大石両人は翌日出発したところ、東上(こう)野(ずけ)の敵(古河公方の与党)が蜂起し、方々を討ち散らした。そうしている間に、武蔵国の南方が心配になったので、道灌はにわかに江戸城へ戻り、しっかり警護するよう申しつけた。一両日してから高見へ帰り、帰宅していた味方の者を少々集めて、利根川端へ陣を寄せようと思っていたところ、凶徒は退散した。長尾忠景と、新田(岩松氏の金山城)に向かって利根川を越えることを相談したところ、(忠景は)最初は賛成していたが、すでに日程が決まったときに、『自分は行けない』と言ってきた。
(道灌は)六月十三日に秩父の御陣へ参陣し、翌日長尾孫五郎(忠景の子)と(新田へ)出陣しようとしていたところ、『秩父御陣へ出仕して先ず日野城攻略を急ぐよう』命令されたので、色々様々心を尽くして日野城を落城させた。あの城を落城させたこともまた道灌の功労ではないだろうか。何もかもご存知のとおりであるが、いかほどもなく(顕定は)そのことを忘れている。道灌の意見を妨害した人を許しているけれども、彼らにいかほどの功績があるのか聞きたく思う。ほんとうに(彼らの)自らを称えた言い分は、かえって傍若無人であろう」。

「太田道灌状」全編に流れている道灌のいらだちの一つは、彼自身と山内上杉家の家宰であった長尾忠景との不協和音です。先の引用部分の中でも道灌は、忠景に土壇場でのキャンセルを食わされています。二人の出す作戦案は常に異なり、二人の戦場での行動は常にちぐはぐでありました。そのことは、後の道灌謀殺に関わりがあると思われます。

大森御陣
私は、大森御陣の地を、秩父市上影森の諏訪神社付近と想定しました。その地は、荒川と浦山川による崖の上にある要害の地であり、境内を秩父往還道が通っていました。現在も神社の境内に樹齢700年の巨木があるので、往時は樹木が多数あって大森と呼ばれた可能性があります。また地名の大森と影森が森の字を共有していることは、その関連性を示しています。ここから熊倉城は指呼の間であるから、上杉顕定は熊倉城攻略の対城として、この地を選んだ可能性はあると思います。江戸時代の文政年間に記されたといわれる「秩父風土記」の古城跡十九か所の項に、上影森が含まれています。近くに神原(じんばら)と呼ばれる平地があり、往時は陣原であったかもしれません。
「太田道灌状」によると、大森御陣には上杉顕定の旗本衆がいて警護していました。そして顕定が、道灌にしきりに熊倉城攻めを促しているところをみると、そこには、顕定自身の大軍が駐屯してはいなかったと思われます。顕定は、大森御陣で諏訪神社に戦勝祈願をし、熊倉城の景春の動きを監視しながら指揮をとっていたと思われます。
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(道の駅「あらかわ」から見た熊倉城址=中央の山)
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(樹齢700年の諏訪神社の古木)

浦山河、浦山河の切所
「太田道灌状」の中で、「荒川」の名はただ一度だけ、道灌が青鳥城(川島町)から北方へ移動して荒川を越えたときに使われています。荒川が波久礼の難所をすぎて秩父盆地に入ると、両岸の様相も一変して流れる方角も違うため、道灌は荒川であるという認識を持っていなかった、と私は考えます。道灌は、秩父の荒川を浦山河と呼んだ、と考えることが私の推論のキーポイントであります。そのように考えると、「太田道灌状」の記述内容は全て整合性を持ち、すんなりと理解できます。逆に、そう考えなければ、「太田道灌状」の記述内容は実際の地勢と矛盾して、解釈不能となるのであります。
川は環境が違うと異なった名称で呼ばれることは珍しくありません。例えば今でも、神奈川県の相模川は山梨県に入ると桂川と呼ばれています。道灌の時代には、荒川は秩父で浦山河と呼ばれていた可能性もあると思います。因みに、現在の浦山川は、浦山ダムに満々と水をたたえたあと、秩父市荒川上田野で荒川へ注いでいます。浦山河が荒川であるとすると、その切所とは荒川の渡河地点すなわち皆野町親鼻(おやはな)の渡しということになります。当時は橋がなかったので、谷の底にある渡河地点が戦の勝敗を左右する修羅場となったのです。私は道灌が、錯誤あるいは当時の慣例的な呼称により、秩父盆地を流れる荒川を浦山河と呼び、釜伏峠への道に通ずる親鼻の渡しを浦山河の切所と呼んだと推定します。
国道140号線沿いの親鼻の下川原には今、親鼻橋と秩父鉄橋がかかり、夏には長瀞ライン下りの乗船場ができ、日曜日には秩父鉄道のSLが古風な鉄橋を渡ります。
親鼻橋.JPG  
(荒川の親鼻橋下河原)
一方、皆野町の浦山城址は皆野駅からバスで35分もかかる西方の山の中にあるので、釜伏峠を越えて攻め込んでくる軍勢に対する対城としては、殆んど役には立ちません。

太山
太山(ふとさん)とは長瀞町の宝登山(ほどさん)と考えるのが妥当です。宝登山神社の説明によると、宝登山はその縁起伝説から火止山(ほどさん)とも書かれました。一般的に、音による言葉の連鎖は相当高い確率で事実の連鎖を伴うので、宝登山(ほどさん)が太山(ふとさん)である確率は高いと思います。当時、軍勢が社寺で戦勝祈願をし、境内に駐屯することはよくあることでした。したがって道灌は、古河公方の軍勢が秩父往還すなわち釜伏峠を越えて攻め込んでくることに備えて、上杉軍の前進基地を宝登山・太山につくることを提案したのです。宝登山から親鼻の渡しまでは約1キロであるから、ちょうどよい距離といえます。
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(宝登山)
荒川久那の城山(室山城址)を太山と考えることには、少々無理があると思います。地名の音が一致しないこと、秩父往還を越えて攻め入る敵に対する陣地の位置としては、戦略的に有効ではないことなどの理由があります。

田野陣、峠
田野陣とは現在の皆野町下田野にあった、急造りの陣地を指すと私は思います。そこでは、駆り出された田野陣衆が釜伏峠への道を警護していたのでしょう。
皆野町に下田野、隣の秩父市に荒川上田野という地名があるので、話が厄介です。上杉方が、宝登山・太山に陣を構えたとすると、陣地から皆野町の下田野まで約一キロであるのに対して、秩父市の荒川上田野までは十キロもあります。したがって敵来襲のとき、上田野の田野陣衆を呼んで緊急配備することは、戦略的に無理があります。
そして峠とは、先に述べたように釜伏峠を指すと思います。当時の兵士とりわけ道灌の足軽隊は健脚であったので、高見から釜伏峠のうえまで、半日もあれば悠々と移動でき、「高見在陣衆を峠へ馳せのぼらせて、山中を警護させる」という道灌の提案は決して、現実離れした話でなかったのです。
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(釜伏峠の上・釜山神社の碑)

以上のように考えると、高見、竹沢、秩父口表、(釜伏)峠、田野陣、浦山河の切所、太山などは、鉢形城の隣接地域の連鎖的地点であるから、道灌の提案はにわかに現実味を帯びてきます、道灌の提案は、古河公方の軍勢が釜伏峠を越えて長尾景春救援に秩父盆地へ来襲することを前提にした案であったのです。

また「太田道灌状」の文意から考えると、上杉顕定は一貫して、熊倉城(日野城)攻撃を優先しようとしていました。一方、太田道灌は武蔵の古河公方方の動きを理由にして、秩父往還の要すなわち釜伏峠で、古河公方軍を阻止する作戦を顕定に提案したけれども、顕定はその提案をあっさり拒否しました。道灌は心中で、親類である長尾景春を滅ぼしたくなかったので熊倉城(日野城)の攻激を引き延ばそうとしてこの提案をしたと思われます。一部の人々(顕定も含み)は、道灌の心底を読んで、「道灌は険難の地を避けている」と非難したのでありましょう。道灌はその非難に耐えられなくなり、やがて熊倉城攻撃を決行したのであります。

皆野町の下田野のとなりに戦場という地名があり、下田野では毎年3月に「下田野行灯まつり」が行われ、あぜ道にある300余の行灯に灯がともされます。戦国時代に鉢形攻防戦ではてた武士や百姓すなわち田野陣衆を追善する行事だそうです。
私は、道灌の提案の中の太山、浦山河、田野陣、峠などの地点特定のために、方々を駆けずりまわってたいへんな苦労をしたけれども、この提案は実行されなかった机上プランであったのでなんだか虚しい感じもします。しかし、地形肝要を根本に孫子の兵法を用いた道灌の思考を理解するためには意味のあることであります。
そして、「太田道灌状」に記された秩父御陣の全貌が、かくも混沌としていることに、私には少々の感慨があります。それは、秩父には余りに多くの峠と沢があるため、景春一統は沢にかくれ峠を越えて、多くの伝説につつまれてしまったという心地よさです。
そしてまた、秩父の道灌軍と景春軍の攻防については、多くの熱心な郷土史家の、百花繚乱ともいうべきたくさんの見解があるのに、秩父の歴史にも地理にも疎い私がその中に割り込んで恐縮しています。したがって以上の見解は、一試論としておきます。
釜伏峠=埼玉県大里郡寄居町風布1969
諏訪神社=埼玉県秩父市上影森255‐1
宝登山・宝登山神社=埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828
親鼻橋=埼玉県秩父郡皆野町皆野

2012年06月07日

「太田道灌状」の脇役・竹沢と高見(199か所目)


「太田道灌状」の中にその地名が登場するけれども、道灌の時代には特別なことが何も起こっていない竹沢と高見という場所があります。1480年(文明12年)上杉軍が長尾景春の軍勢を秩父に追いつめたところ、古河公方が再び景春支援の動きを見せました。そこで道灌は、大森御陣で「然らば大石名字中道灌相共にし、当所竹沢辺か高見辺かに討ち出で」(太田道灌状)と述べ、古河公方軍を阻止するために、竹沢か高見に大石氏と共同の前線基地をおく作戦を、管領の上杉顕定に提案しました。
埼玉県小川町の竹沢という所は、越生と寄居の中間点にあり、児玉党竹澤氏ゆかりの地であったけれども、今は何一つ目立つものがない街道筋の田舎です。私は、鉢形城や雉が岡城方面へ行く際、何度も竹沢を通っていたけれども、気にも止めませんでした。今回ふと急に気になり、竹沢地域を回ってみました。
先ず竹沢駅を探すのが大変です。実は、JR線の竹沢駅は、国道254号線小川バイパス沿いに人影もなくひっそり建っています。車で走っていると決して気付かない、道端の小屋のような駅です。
JR線と東武東上線は、このあたりで交差しています。東武竹沢駅を探すのは、さらに難儀です。仕事中の里人に尋ねてようやくわかりました。この駅は、何もない、山あいのちょっとした広場に立つやや立派な駅です。周囲に小山がいくつもあるので、前線基地として兵を隠すにはもってこいの地形です。
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(JR線竹沢駅) 
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(東武線東武竹沢駅)
竹沢駅近くの靭負(ゆぎえ)という地名と兜川(かぶとがわ)という川の名前は、この地が中世戦国時代の由緒を持った地であることをさりげなく語っています。往時このあたりを駆け回った道灌と景春のことをなにもかも知っていて、黙っているような雰囲気が、ここにはあります。
国道254号線小川バイパスを少し東へいくと、高谷交差点の手前左側に高谷砦(こうやとりで)址があります。農家の犬に吠えられながら裏山を登ると、小振りの連郭式城址があります。この砦は、誰が築いたかわからないけれども、道灌軍が駐屯した可能性はあります。

高谷交差点から県道184号線をちょっと北上すると高見城址があります。このあたりは往時、鎌倉街道上道(かみつみち)をおさえる要衝の地でありました。四津山神社の参道を登ると、連郭式の高見城址があります。本丸跡から高見が原古戦場を一望できます。この城山は、高見が原の独立峯なので見晴らしがよく、天気の良い日にここで弁当などを食べるとご機嫌です
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(高谷砦の空掘)
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(高見が原古戦場)
小川町教育委員会の説明板に次のようにあります。
「(前略)本城の築城年代や城主については不明な点が多いのですが『新編武蔵風土記稿』では、長享元年(1487)に没した増田四郎重富の居城と伝えています。また長享2年(1488)及び延徳3年(1491)の二度にわたり、城の北東方面の高見ヶ原において、山内上杉氏と扇谷上杉氏の激しい合戦が繰り広げられたと伝えられています」。
道灌は、この年一度江戸城へ戻って体制固めを終え、「一両日候て高見へ打ち帰り」(太田道灌状)とあるので、高見城の増田氏が上杉氏に与同し、道灌軍に駐屯地を提供したと、私は推測しています。
道灌が「竹沢辺か高見辺」と言って想定した前線基地は、高谷砦か高見城のことと思われるけれども、道灌のこの作戦は、管領上杉顕定に拒否されたので結局実行されませんでした。
高谷砦址は、由緒不明なのでまだ史跡として認定されていないけれども、高見城址は埼玉県指定史跡です。

脇役はいつも、主役の事をすべて知っていても決して語ることがありません。埼玉県の田舎は、歴史的にどうしてこんなに奥深く奥ゆかしいのかといつも思います。脇役をして多く語らしめては、舞台が御破算になるので、今回はなにもないままこれで終わりです。
高谷砦址=埼玉県比企郡小川町高谷2283
高見城址=埼玉県比企郡小川町大字高見字四つ山1008外

2012年05月16日

武蔵千葉氏の石浜城址と赤塚城址(198か所目)

文明10年頃、東関東の大勢力であった総州の千葉氏は、古河公方と結び、上杉氏に対抗していました。その頃、千葉氏庶流の馬加孝胤(まくわりのりたね)は、宗家を滅ぼして猪ノ鼻(千葉市)の本城を奪いました。一方嫡流の千葉実胤、自胤(これたね)兄弟は太田道灌の庇護のもと、それぞれ石浜城(東京都荒川区)、赤塚城(東京都板橋区)に拠り、武蔵千葉氏として江戸城の東方を固めていました。

JR常磐線の南千住駅南口より南へ少々歩き、泪橋(なみだばし)交差点で左折し、明治通りへ入ります。10分も歩くと隅田川(古利根川)に架かる白髭橋へきます。このあたりは往時、武蔵と下総の境目で、渡し船による交通の要衝でした。白髭橋の手前左側に石浜神社があります。境内を囲む石格子近くに、荒川区教育委員会の説明板があり次のように記されています。
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(伝・石浜城址・石浜神社)
東京スカイツリー.JPG 
(隅田川と東京スカイツリー)
「石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573〜1591)城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡の後に、廃城になったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。(後略)」
また「新編武蔵風土記稿」(1830年)には、「(自胤は)本国を離散して武蔵江戸の地へ趣き、太田道灌に頼みければ、道灌、彼が高家にして微力なるを憐れみ、石浜の城を授けて是を守らしめ」とあります。
千葉実胤については、「太田道灌状」に次のようにあります。
「千葉実胤事は、当方の縁者に渡らせ候と雖も、大石石見守を招き出され葛西へ越され候。公方様へ内々申さるる旨候。然りと雖も、孝胤出頭の事候間、許容無きに依り濃州辺へ流落候」。
千葉実胤は上杉氏の姻戚であったけれども、(長尾景春与党の)大石氏を、居城の葛西(石浜城)へ招きました。そして(実胤の総州復帰について)古河公方へのとりなしを頼みました。しかし、千葉孝胤が妨害したので、古河公方の承諾は得られず、実胤は濃州(岐阜県)へ流落しました。
「太田道灌状」の文面から読み取れることは、千葉実胤が、孝胤と古河公方の連合軍に対して断固戦おうという道灌の意に反し、半ば交渉しようとする中途半端さを持っていたことと、そのことに対する道灌の不快感です。実胤は、病弱であったとも、讒言にあったともいわれているけれども、その後、所領の濃州へ流落して生涯を終わりました。
このあたりは、河川の流路が度々変わった地帯であるので、石浜城の遺構は全く発見されていません。石浜城は、台東区浅草の隅田公園前の本龍院・待乳山聖天(まつちやましょうでん)付近にあったという説もあります。石浜神社近辺の白髭橋の際から、東京スカイツリーが隅田川のかなたに、遮るものもなくよく見えています。

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(赤塚城址本丸跡) 
説明板.JPG
(板橋区教育委員会説明板)
都営地下鉄三田線の高島平駅から15分も歩くと、都立赤塚公園へきます。赤塚城址、梅林、桜並木、溜池があり、隣接して板橋区立郷土資料館があります。小高い城山を登ると赤塚城本丸跡があり、城址の碑と板橋区教育委員会の説明板があります。隣接する二の丸跡には、赤塚山乗蓮寺が建っています。
弟の千葉自胤については、「太田道灌状」に次のようにあります。
「自胤事は、江古田原合戦の時、刑部少輔一所に加わり、自身太刀打たれ、上州御下向の刻より江戸城へ籠り給候。彼の家風中度々の合戦の働き比類なき候」。
千葉自胤は、江古田が原合戦のとき、上杉朝昌とともに、自ら太刀を振るって戦いました。(上杉顕定が)上州で戦った頃、(道灌も前線に出ていたので)自胤が江戸城を守りました。自胤の家中の者達も度々の合戦で、目覚ましい働きでありました。
これはもう自胤に対する道灌の絶賛の言葉であり、道灌は自胤を信頼していたがゆえに、自分が上州戦線で陣頭指揮をしている間、自胤に江戸城守備を命じたのです。自胤はその後、赤塚城で武蔵千葉氏として地歩をかため、江戸城鬼門(東北)を守って存在感を発揮しました。その子孫は後に、後北条家に属し、豊臣軍に滅ぼされる1590年(天正18年)までこの地で栄えました。
赤塚城址は、板橋区指定史跡です。
伝・石浜城址・石浜神社=東京都荒川区南千住3丁目
本龍院・待乳山聖天=台東区浅草7-4-1
赤塚城址=東京都板橋区赤塚5丁目赤塚城址

2012年04月27日

柏市・道灌地名の由来(197か所目)

JR常磐線の千葉県柏市には、山手線の日暮里から急行に乗ると約30分できます。柏駅と北柏駅周辺には、道灌の名をもつ小字地名が9カ所もあります。柏市の豊四季に道灌坂、道灌掘、向道灌掘、根戸新田に道灌橋、松ヶ崎新田に道灌橋、西道灌橋、呼塚新田に北道灌橋、西道灌橋、南道灌橋といった具合です。柏市役所のHPでは「これらは近代に命名された地名とも考えられる。その起源については、今後の研究課題となっています」と記されています。
私は過日、最初に柏市の境根原古戦場、隣接する我孫子市の根戸城址を取材したので、今回は3回目の柏市訪問です。柏市にたくさんある道灌地名の謎を解くのが今回の目的です。北柏駅入口から大堀橋へきて、大堀川に沿って遊歩道をのんびり歩き、手賀沼へ向かいました。手賀沼にいたるまでの川沿いで約100名のおじさんたちが釣をしていました。釣り人は多いけれども、釣りあげている姿を、一度も見ませんでした。みなそれぞれ、土手の上や枯れ芦のかげなどお気に入りの場所を確保し、釣り糸を垂れて黙ってうきを見つめている姿は、ほとんど修行者のようでありました。
手賀沼の釣り人.JPG       
(手賀沼の釣り人) 
北柏ふるさと公園・南道灌橋.JPG
(北柏ふるさと公園・南道灌橋)
15分も歩くと手賀沼西端の「北柏ふるさと公園」にきます。湿地帯に木道の散歩道がつづき、ポピーが満開でした。実はこの公園の住所が、「柏市呼塚新田字南道灌橋」なのです。公園の中に小さな橋があるけれども、無名の橋でした。この公園から北柏駅の方へ歩くと、しばらく平地がつづき、やがて登り坂になります。
江戸時代の1727年(享保12年)から、手賀沼の新田開発がはじまりました。このあたりの地形と地名を考えあわせると、手賀沼や大堀川周辺の湿地帯を干拓して新田が作られたとき、当然、水路と橋がたくさんできたので、道灌橋や道灌堀の名がつけられたのだと思われます。他の道灌地名の場所も、大堀川の近くなので同様の事情です。しかし現在では、それらは地名のみで、実際の橋や堀などは確認できません。それにしても、当時の農民や為政者は、新田の各所に、なぜ敢えて道灌の名前をつけたのでしょうか。私は先ず、柏市立図書館へ行き、「柏市史」等の郷土資料に目を通しました。各種の郷土資料に目を通していると、私は意外なことに気づきました。それは境根原合戦にかかわることです。
境根原古戦場の塚.jpg  
(境根原古戦場の塚)
1478年(文明10年)12月、太田道灌は、都鄙の和睦に反対する千葉孝胤(のりたね)を退治して千葉自胤(これたね)へ味方するため、古河公方と交渉したあと、下総へ進発して国府台に仮陣をつくりました。12月10日、柏市の境根原で、道灌軍は孝胤軍と遭遇して激しい戦が行われました。「太田道灌状」には「合戦せしめ勝利を得」と簡潔に記されているけれども、それは境根原を中心に相当広い範囲で戦われた大激戦で、千葉氏方の木内氏,原氏などの重臣も討ち死にしています。私は道灌が、根戸城に隠していた足軽隊を出動させて勝利を得たと推測しています。道灌は、敵も味方も戦死者をねんごろに弔って塚を作ったと郷土史は伝えています。かつては境根原に数十の小塚があったけれども、昭和32年、この地の光が丘団地自治会が塚の整備を推進し、塚祭りで供養の儀式を行いました。今では団地内に、二基の大きな塚のみが、首塚、胴塚として残っています。
柏市の郷土史の諸資料には、太田道灌の境根原合戦が好意をもって記述され、柏市教育委員会編纂の「郷土かしわ」という郷土史の教科書にも、道灌が軍を進めた地域に道灌の地名が残っている、と説明されています。道灌が攻め込んだ他市町村の郷土史では、道灌は必ずしも好意的には記述されていませんが、柏市では意外にも、道灌がこの地域に好感を与えているかのようであります。その理由の一つは、道灌が戦死者を敵も味方もねんごろに弔った、ということのようです。第二に、江戸時代の1841年(天保12年)に「太田道灌雄飛録」が江戸で出版されてベストセラーになったので、道灌の人気がこのあたりまで伝わっていたのではないかと思われます。第三に、道灌と戦った千葉孝胤は主家を乗っ取った庶流の馬加(まくわり)千葉氏であったので、江戸時代の為政者が支持をしなかったのではないかとも思われます。かくて民衆は、新たに開発した田んぼの周りに、競って道灌の名前をつけたのだと思います。以上は、私の推測です。
柏市教育委員会でこのことを尋ねると、「よく理由はわからないけれども、新田を開発した当時の民衆が、道灌に好感を抱いていたからかもしれない」という曖昧な説明でした。
北柏ふるさと公園=千葉県柏市呼塚新田南道灌橋
境根原古戦場=千葉県柏市酒井根光が丘団地
根戸城址=千葉県我孫子市根戸荒追1341番外
posted by otadoukan at 16:05| Comment(6) | 柏市・道灌地名の由来

2012年04月13日

道灌ゆかりの三貫清水(196か所目)

JR高崎線の宮原駅から十分も歩くか、国道17号線大宮バイパスの奈良町で西へ入ると、埼玉県立大宮北高等学校があります。その学校のグラウンドの近くに「三貫清水(さんがんしみず)緑地」があります。
この緑地は南北に約350m、東西で約40m〜70mの雑木林で形成されており、その西側の低地に、三貫清水とよばれる、水深の浅い湧水池が2箇所あります。三貫清水のいわれは、池のほとりに立つさいたま市の説明板に記されています。その昔、太田道灌がこの辺りに狩りにきたとき、土地の人がこの清水を汲んで茶をたてて出したところ、道灌は「とてもうまい」といって三貫文(今でいうと50万円ほど)の褒美を与えたので、三貫文の値うちのある湧き水という意味で三貫清水という名前がついたということです。
三貫清水.JPG               
(三貫清水)
さいたま市説明板.JPG 
(さいたま市の説明板)
大宮北高校の南西、鴨川との間に広がる「三貫清水緑地」は、そうした道灌の伝承を裏付けるように、中央に復元された鎌倉街道が通り、草木五百種、鳥五十 種ほどが生息する、市民の貴重な「お宝空間」となっています。地元の「歩いて作る街絵図会」のカルタの中に「名水に道灌ポンと50万」という一枚があります。

埼玉県教育委員会の「歴史の道調査報告書 鎌倉街道上道」に次のように書かれています。
「大宮台地(三貫清水緑地)に沿い北上する街道は、奥州脇道とも羽根倉道とも称されている。上道と中道の中間に位置する本道は、大宮台地上の南北に広がる地域を繋ぐ道であるとともに上野に至る要路であったと推測される」
地図で見ると、この地は川越城と岩槻城のちょうど中間点です。道灌一行が移動の際に、ここで一服したことは、おおいにありうることであります。
鎌倉街道.JPG        
(三貫清水緑地の鎌倉街道)
説明イラスト板の一部.JPG
(マンガの説明板の一部)

三貫清水と類似の道灌伝承は、東京都杉並区や練馬区にもあります。1455年(康生元年)太田道灌は武蔵野で鷹狩りを催し、その帰途、高井戸付近で日が暮れました。空には仲秋の名月が浮んでいたので道灌は、そこで家臣とともに歌宴を開きました。そのとき、土地の者が手つきの団子を献上したところ、道灌は名月に配する団子の風流をよろこんでその滋味を賞賛し、以来、折りに触れてこれを所望しました。のちに土地の者は、高井戸の地に柳茶屋を開き、道灌団子と称してその製法を家伝としました。高井戸宿から内藤新宿、追分宿へと茶屋も移転して街道を行き交う人々に親しまれ、いつしか道灌団子は追分宿にちなみ、追分団子と呼ばれるようになったということです。
練馬区上石神井の愛宕山の近くに「祝儀山」という風変わりな名前でよばれる高台があります。この地の住民の伝承によると、道灌が石神井城攻めの戦勝後に、豊島攻めに協力した農民にご祝儀としてこの土地を与えたので、そのように呼ばれるようになったということです。祝儀山という高台は今、「祝儀山ちびっこ広場」として、子供たちの遊び場となっています。
このような道灌伝承があることは、道灌が民百姓にいたるまで論功行賞をきちんと行って、味方を増やしていったことを伝えています。それにしても、お茶一杯で50万円とは、太田道灌は相当に気前のよい武将であったようです。
三貫清水の歩道には、スイセンなどいろいろな花が咲き、歩く人々を楽しませています。地元の「三貫清水の会」が毎月一回、緑地の清掃活動などをしています。
三貫清水=埼玉県さいたま市北区奈良町52の11
posted by otadoukan at 07:38| Comment(9) | 道灌ゆかりの三貫清水

2012年04月01日

大庭城址・道灌の縄張り伝承(195か所目)

小田急江ノ島線に湘南台というしゃれた名前の駅があります。新宿から急行に乗って約1時間もかかるところなので、田舎の駅かと思いきや、びっくりするような立派な駅舎です。近くに慶応大学があるせいか、駅周辺も活気にあふれています。湘南台駅前から、大辻経由藤沢行きのバスに乗ると、約30分で城下(しろした)という停留場へきます。そこで降りると、目の前に大庭城址(おおばじょうし)の城山が見えます。この城山は高さ約30メートル、南北約800メートル、東西約250メートルで全域が大庭城址公園となっています。
大庭城址遠望.JPG     
(大庭城址遠望)  
大庭城址立体模型.JPG
(大庭城址立体模型)
城山の東に引地(ひきじ)川、西側に小糸川が流れ、二つの川は城山の南部で合流し、昔は湿地帯をつくっていました。したがって城山の三方は水で囲まれ、北側の台地は細い尾根となっていました。その尾根を、土塁と空堀で遮断していたので、大庭城は相当の要害でありました。城域は概ね、三本の空掘りで四つの廓に分けられ、南端部に堀立柱建物跡があり、そこが本丸であったと思われます。

平安時代の末期、この地域は大庭御厨(おおばみくりや)とよばれる伊勢神宮の荘園でありました。この荘園は、桓武平氏の流れをくむ長尾一族であった鎌倉権五郎景政によって開拓され、伊勢神宮に寄進されました。景政の子孫はのちに大庭氏と改姓し、大庭景宗が大庭城を築城しました。大庭氏はのちに鎌倉幕府により討たれ、一時結城氏が大庭御厨を支配しました。1457年(長禄元年)扇谷上杉氏が大庭御厨を押領し、太田道灌が大庭城の本格的な築城を行ったと思われます。
建長寺の住持玉隠は「玉隠和尚語録」(1499年)の中の上杉持朝の子孫について触れた項で「一人大庭堅其、大庭氏館、此去不遠」と記しています。つまり、上杉氏の一人が大庭城の守りを固めて、かつての大庭氏(鎌倉長尾氏)の館はその近くであったということです。
「新編相模風土記稿」の大庭城の項にいわく「土人伝えて、大庭景親の居城なり、後太田道灌暫時居城とし、北条氏の頃は其の旗下某在城せり」と。
1465年(寛正6年)に伊勢神宮の神官荒木田氏経が、大庭御厨の返還を求めて太田備中入道(太田道真)、左衛門太夫(太田道灌)宛てに出した書状が残っているので、そのころ太田道真・道灌がこの地域を実効支配していたことは間違いありません。
 城址の広場.JPG       
(城址の広場)
堀立柱建物址.JPG
(堀立柱建物跡) 
城址の梅.JPG
(城址の梅)
大庭城址の説明板には「室町時代中頃には、上杉氏の執事太田道灌が、本格的な築城を行ったと伝えられています」と記されています。このことについて藤沢市教育委員会に尋ねると、大庭城の道灌縄張り(設計)説は伝承であって、そのことを確実に証明する文書は発見されていないということです。教育委員会がこの城址を発掘調査したところ、鎌倉時代から室町時代にかけての遺物が出たそうです。1512年(永正9年)に、上杉朝良が拠る大庭城は北条早雲により攻略されて落城しました。

この城址の城山の上は整地されて、高低差のある二つの広大な広場と付随するいくつかの小広場となっています。後北条氏が得意とする総郭(そうくるわ)や障子堀(しょうじほり)などがないので、この城址は基本的には上杉時代の構造を残していると思われます。城の周辺をよく観察すると、たくさんの堀や土塁があり、基本的構造が連郭式縄張りであることが分かってきます。城域の舌状地の三方が水で囲まれていて連郭式縄張り(道灌がかり)になっているところは江戸城によく似ているので、この城はやはり、太田道灌の縄張りと推定することができます。
往時このあたりは、管領府であった鎌倉と扇谷上杉氏の守護所であった伊勢原糟屋の中間点であったので、上杉氏にとっては重要な拠点であったと思われます。
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(土塁)  
城域之空掘.JPG
(空掘)
大庭城址は広大なので歩き甲斐があります。早春の花の広場に梅や白木蓮の花が咲きみだれ、親子連れなどが遊んでいました。その間を、花も見ずにひたすら土塁や堀跡を見て回っては考え込んでいた一人の男の姿は、奇妙なものであったでしょう。
大庭城址公園=神奈川県藤沢市大庭
posted by otadoukan at 11:25| Comment(13) | 大庭城・道灌の縄張り伝承

2012年03月23日

平川の流路と河口を考える(194か所目)

1457年(長禄元年)4月に、太田道灌は、武蔵野丘陵の最も高い麹町台地の先端に、江戸城を築きました。その東側を流れる平川(ひらかわ)は流域が広く、河口から船舶が上り、その周辺に商業地が発達しました。商業地域の中心は高橋というところで、そのあたりは、鎌倉街道下道(しもつみち)と古甲州街道の合流点でした。
江戸城周辺は、徳川時代に度々行われた天下普請と称する土木工事や、近年の高速道路工事により、昔日のすがたをすっかり変えてしまいました。したがって、道灌築城当時の平川の流路と河口をさぐることは甚だむずかしいことです。
平川は、井之頭池(三鷹市)・善福寺池(杉並区)・妙正寺池(杉並区)を水源として、高田馬場北側の目白台を通り飯田橋へ流れました。飯田橋から河口までの平川の流路については、考古学的調査と文書の検証により、大きく分けて二つの説があります。
一つの説は、「常盤橋河口説」です。平川は、飯田橋から現在の日本橋川に沿って常盤橋のあたりで海に出ていたので、高橋という賑わい地も常盤橋付近であったとする説です。
もう一つの説は、「大手町河口説」です。平川は、飯田橋から九段下を通って江戸城大手門のあたりで日比谷の入江へ出ていたので、高橋は大手門の近くにあったとする説です。
  
東京メトロの飯田橋駅から、ホテルメトロポリタンエドモントの方へ歩いてそのホテルを過ぎ、外堀通りへ出る手前にくると日本橋川の新三崎橋があります。新三崎橋近くの路傍に、千代田区教育委員会の説明板があり、「飯田町遺跡周辺の歴史」と題して平川の事が詳しく記されています。千代田区教育委員会は、平川「大手町河口説」に立ち、その推定流路を記しています。その推定流路によると、平川の河口は、東京駅前の丸ビルのあたりとも思われるのでたいへん面白くなります。 
新三崎橋.JPG
(高速道路でおおわれている日本橋川の新三崎橋)
千代田区教育委員会の説明板.JPG    
(千代田区教育委員会の説明板) 
第5章:平川推定流路.JPG   
(説明板の部分・平川の推定流路)

一方、江戸城の西側には、千鳥が渕すなわち局沢川(つぼねざわかわ)という渓流が流れていました。1963年(昭和38年)の代官町高速道路工事の際、千鳥が渕は約16メートルの堰堤によってせき止められたダムであることが判明しました。千鳥が渕は往時、切り込んだ渓谷であり、乾濠(いぬいぼり)、蓮池濠(はすいけぼり)、蛤濠(はまぐりぼり)へと続いて海へ出ていたと考えられます。
江戸城の静勝軒の詩板に刻まれた万里集九の「静勝軒銘詩並序」(1486年)の中に「城之東畔有河 其流曲折而南方入海((中略) 到高橋之下」とあり、また「西者兌也 兌者沢也 沢者地之潤沢也」ともあります。
千鳥が渕の桜.JPG
(千鳥が渕の桜)
乾濠.JPG
(千鳥が渕につづいていた乾濠)
地形肝要を根本とする道灌の築城思想から考えると、江戸城の城域は、東の平川、西の局沢川、南の日比谷入江により、三方が馬蹄形で水に囲まれ、唯一の地続きの場所は現在の北撥橋門のところだけであったと考えられます。したがって、平川の流路と河口については、「大手町河口説」の方が有力であると私も考えます。
太田道灌が江戸城にいたころ、大手町のあたりで平川が度々氾濫したので、道灌自身が土木工事を推進し、平川を日本橋川の方へ付けかえたという説もあります。しかしそれでは、城の防衛線としての平川がなくなってしまうので違う、と私は思います。 
      
1620年(元和6年)に江戸幕府は、江戸城を洪水から守るため平川を改修して日本橋川へつけ、さらに1660年(万治3年)日本橋川を神田川につけかえ、元の川は埋められました。したがって今、平川の流路を正確にたどることはできず、推測するしかありません。私は飯田橋から、平川の推定流路を歩いてみようとしましたが、残堀や高速道路などに阻まれて危険なので、途中であきらめました。
先に言及したホテルメトロポリタンエドモントの地階に「平川」と称する日本料理屋があります。「平川」で食事をしながら、昔日の平川に思いをはせるのもまた一興であります。
新三崎橋=東京都千代田区飯田橋3丁目・三崎町3丁目
千鳥が渕・千鳥が渕公園=東京都千代田区麹町1丁目2番地
posted by otadoukan at 06:25| Comment(9) | 平川の流路と河口を考える

2012年03月15日

道灌の家臣の子孫を訪問(193か所目)

小田急線の伊勢原駅前から産業能率大学行きバスに乗ると、約10分で道灌塚というバス停にきます。そのバス停から10分ほど歩くと、上粕屋の曹洞宗番竜山洞昌院の入り口にある道灌の墓にきます。道灌が遭難した上杉館跡から徒歩で約10分です。
道灌が、糟屋の上杉館で遭難したとき、付き従っていた部下達もまた不意打ちをくらって果てたということです。その部下達の正確な人数も名前もわかりませんが、部下たちの供養塚が「七人塚」と呼ばれて上粕屋神社にありました。今は、洞昌院から徒歩3分の山王原公民館の隣に、その「七人塚」と説明板があります。公民館の筋向いの山口家は道灌の家臣の子孫で、先祖代々道灌とその家臣たちの墓を守って追善供養をつづけてきたということです。 
七人塚の碑.JPG       
(七人塚の碑) 
七人塚.JPG
(七人塚)
私は、この3月、春は名のみの晴れた風の寒い日に、道灌の家臣の子孫、山口義幸氏宅を訪ねました。家人は、道灌について一番よく知っていた先代の新太郎氏が先年亡くなってしまったのであまりわからなくなりました、といいながら、山口家の道灌伝承を次のように語ってくれました。
1486年(文明18年)糟屋の上杉館で、太田道灌が上杉定正のだまし討ちに会って非業の最期を遂げたとき、九人の家臣が道灌の首をもって洞昌院へ駆けこみました。上杉勢が道灌の首を取り返しに来たけれども、九人は断固として拒否し、そこで腹を切ろうとしました。そのとき、道灌遭難の一部始終を後世に伝えるために、二人の家臣は生き残ることになりました。その二人の家臣の一人の子孫が山口義幸氏であり、もう一人の家臣の子孫も山口氏です。両家とも「七人塚」の近くに住み、代々「七人塚」の墓守をしてきました。
「七人塚は」、往時、上粕屋神社の境内にあったけれども、発掘したところ六基は盗掘されて空だったので、一基のみ現在地に移し、山口新太郎氏が元気なころは正月に餅などを供えて供養していました。今は事情があって餅は供えていないけれども、山口家がなにくれとなく塚の世話をしています。道灌に仕えた山口家のご先祖の名前はわからないけれども、山口家の家紋は丸桔梗です。
 上粕屋神社.JPG  
(上粕屋神社)
一方「七人塚」の傍らに立つ、環境省・神奈川県の説明板には、次のように記されています。
江戸城築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌謀反心あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした七人の墓で「七人塚」と伝えられています。その塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に並んでいましたが、明治の末に開墾するとき、一つ残された伴頭(ともかしら)のものといわれ、今でも「七人塚」と呼ばれています。 
山口家の道灌伝承と環境省・神奈川県の説明板の内容は、すこし違っているけれども、まあ歴史の真相というものは、大部分は確認できないものであるからやむを得ません。唯一つ明確なことは、道灌が「主君への謀反心」をもっていなかったことです。もし道灌に下剋上をする気があったならば、当時の彼の実力からいってそれも可能であり、糟屋館には大軍を率いて来たでありましょう。身に迫るリスクを承知の上で、わずか7人や9人の供まわりの者だけを引き連れてきたこと自体が、道灌の忠義心のあらわれでありました。

「七人塚」のとなりの山王原公会堂で、先頃、伊勢原観光ボランティア&ウオーク協会の方々が、太田道灌についての研修会を行いました。道灌有縁の場所であったので皆さんの熱意は大いに盛りあがりました。
洞昌院=神奈川県伊勢原市上粕屋1160
七人塚=神奈川県伊勢原市上粕屋1345
posted by otadoukan at 11:26| Comment(5) | 道灌の家臣の子孫を訪問

2012年02月28日

道灌の銅像、新発見! そして川越館跡(192か所目)

さる2月25日、私は埼玉県越生町の中央公民館で「太田道灌に学ぶ」と題して講演を行いました。その際に参加者の方から、太田道灌の銅像が川越市の長福寺にもあるという情報をいただきましたので、早速行ってみたところ、そこで11体目の太田道灌銅像を発見しました。
埼玉県川越市から県道39号線に入り、入間川の雁見橋(かりみはし)を渡って約500メートルもいくと鯨井(くじらい)という面白い名前の地域があり、そこに曹洞宗の吉祥山長福寺があります。この寺は、1436年(永享8年)雲崗俊徳(うんこうしゅんとく)が開山となり創建された古刹です。
この寺の本堂前に、太田道灌を曹洞宗に導いた雲崗俊徳と道灌の銅像があります。銅像の台座には、「開山 雲崗俊徳禅師 弟子 太田道灌公」と彫られています。この銅像は、2011年(平成23年)3月、静岡県伊東市の彫刻家重岡建治氏により制作されました。長福寺の住職によると、道灌は雲崗俊徳禅師から嗣法(しほう)を受けたので、そのことを表した銅像だそうです。嗣法とは俗な言葉でいうと、曹洞宗の免許皆伝のようなことです。
嗣法の像.JPG    
(雲崗俊徳と太田道灌・右の銅像)
これで太田道灌の銅像は11体となったので、種類別に整理してみます。
◎ 狩姿の道灌像=東京国際フォーラム、川越市役所前、伊勢原市役所前、越生町の龍穏寺、新宿中央公園、佐久市立美術館。
◎ 騎馬の道灌像=荒川区日暮里駅前、さいたま市岩槻区の芳林寺
◎ 文人の道灌像=さいたま市旧岩槻区役所跡地
◎ 猿を連れた道灌像=東伊豆町熱川温泉
◎ 嗣法の道灌像=川越市の長福寺
道灌銅像のタイプはヴァライエティに富み、文武両道の多チャンネル武将、太田道灌の面目躍如というべきであります。
  
長福寺から5分も歩くと、川越市立上戸小学校のそばに、約200メートル四方の川越館跡(かわごえやかたあと)史跡公園があります。ここは、太田道真・道灌が川越に城をきづく前にこの地域を支配していた川越氏の館跡であります。川越氏は、桓武平氏の秩父氏を祖とする関東武士の名族であったけれども、鎌倉府と対立し、1368年(応安元年)の川越館の戦(武蔵平一揆)で敗れて没落しました。
道灌没後に両上杉氏が戦をはじめたので、山内上杉氏はここに、扇谷上杉方の川越城攻撃のために陣所を築きました。発掘された土塁や堀跡の写真をみると、川越氏時代の地層と山内上杉氏時代の地層が重なっていることがよく分かります。今は発掘調査が終わったので、井戸跡や塚状遺構を残して埋め戻され、一面芝生の公園となっています。
川越館跡.JPG
  
(川越館史跡公園)
このあたりは、入間川と越辺川にはさまれた地域なので、往時は交通、防衛の要衝として相当栄えたと思われます。その後川越の中心地が現在の川越城の方へ移ったので、この地の栄華の記憶は風化してしまいました。
川越館史跡公園は、国指定史跡です。
長福寺=埼玉県川越市鯨井1142
川越館跡=埼玉県川越市上戸192‐5

2012年02月09日

道灌の物見台、亀塚(191か所目)

私の「道灌紀行」もお陰さまで、今回191か所目の太田道灌関連史跡(伝承地も含めて)探訪となりました。今回より200か所を目指してカウントアップをしていきます。今年は道灌の江戸城築城555年の佳節でありますので、今年7月の道灌忌までに200か所探訪を達成できるように頑張ります。

JR山手線田町駅から国道15号線を5分も歩き、札の辻の交差点を直進します。すこし進んでから右へ入って高台へのぼると亀塚公園へきます。比較的に東京湾に近いところで急坂に出合うのでびっくりします。このあたりの低く平らな地域は、道灌の時代には、日比谷の入江であったと思われます。したがって往時、この高台は海岸にそそり立つ物見台として格好の地であったことがわかります。港区教育委員会の説明板によると、亀塚公園が平安時代に書かれた「更級日記」に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(1469年〜1487年)には、ここに太田道灌が斥候(ものみ)を置いた、と伝えられています。
公園の中央に、古墳のような小山すなわち亀塚があり、その上に大きな「亀山碑」という石碑があります。石に亀裂があって碑文は漢文なので読むのに苦労します。古老の言によると、山頂に酒壺があってその中に出入りした亀を土地の人が神に祀った、と記されています。亀塚の名前の由来です。よく意味がわからないまま何回も読んでいると、「道灌氏置斥候」の文字が目に入ってきて喜んでしまいます。この亀山碑は、江戸時代にこの地を屋敷地としていた沼田城主の土岐氏が建てたものです。往時は、ここから360度の眺望が可能で、海岸線はもちろん房総半島まで見えたそうです。
亀塚は亀の形をしていて、子供のあそびスペースには亀の乗り物がいくつもあるので笑ってしまいます。
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(亀塚)
亀山碑.JPG
(亀山碑)
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(亀山碑文の中に「道灌氏置斥候」の文字)

すぐ近くに、亀塚稲荷神社があります。太田道灌が亀塚に物見台をつくったとき、亀の霊を守護神とし、この神社を創建したそうです。境内にある板碑は、文明三年の年号が刻まれているものであり、港区指定有形文化財です。
江戸城と亀塚とのちょうど中間地点すなわち現在のホテルオークラのあたりに、江戸城の出城跡である太田道灌塁跡があります。道灌は、その出城と亀塚の物見台で海辺の治安を維持し、江戸城下の通商の発展を計ったと思われます。

田町駅の反対側つまり亀塚の海寄り約半キロのところに「道灌かがり」という面白い名前のレストランがあります。この店の主人は、もちろん熱心な道灌ひいきで、「道灌は昔、このあたりの海岸で漁をしたとき、よくかがり火をたいた」という伝承があり、その故事にちなみ店の名を「道灌かがり」にしました、と語っています。
亀塚公園=東京都港区544‐16‐15
亀塚稲荷神社=東京都港区三田4‐14‐18
posted by otadoukan at 17:15| Comment(8) | 道灌の物見台、亀塚

2012年01月30日

都心の道灌有縁の社・さらに2か所

読者からの情報により、日本橋界隈の道灌有縁の社(やしろ)をさらに2カ所訪ねます。
東京メトロ日比谷線の人形町駅から地上に出ると甘酒横丁の交差点があります。甘酒横丁と反対側の道を3分も行くと日本橋小学校の建物が見えます。そのあたりできょろきょろすると小網神社への案内標柱が目につきます。この神社もまた、都心のビルの谷間にある小さいけれども由緒ありげな神社です。鳥居の右側に由緒書きがあり、次のように記されています。
「当神社は伊勢神宮を本宗として、文正元年(1466年)今より約550年前に、商売繁盛、疫病鎮静の神として鎮座した。(中略)その後太田道灌は当社への崇敬篤く、時折参拝し、社地を奉じ社殿を造営したといわれる。社名も公の命名によると伝えられる。(後略)」
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(小網神社) 
小網神社由緒.JPG
(由緒書き)
境内には、1929年(昭和4年)の造営になる社殿と神楽殿があります。この神社は、小網町および人形町の一部の氏神として、東京下町の人々の信仰を広く集めています。私が見ている間にも参詣の人が絶えませんでした。出口の見えない不況のご時世のためか、カバンを提げた立派なサラリーマン氏も少なくありません。その中には、賽銭を上げないで拝んでいくだけのちゃっかり組もいます。
小網神社は中央区民文化財に登録されています。

人形町から都営浅草線で二駅移動すると浅草橋へきます。浅草橋駅から南へ3分も歩くと浅草橋があり、橋の上から赤ちょうちんをつけた船がたくさん見えます。橋をわたってすぐに郵便局があり、その隣のビルの二階に初音森神社があります。ビルの入り口に由緒書きがあり、次のように記されています。
「当社は、元弘年間(1330年頃)に創祠され、豊受比売命を祀る。文明年中太田道灌公により大社殿が建てられた。(後略)」
往時、この方面は江戸城の鬼門であったので、道灌は大社殿を建立して悪鬼を追い払おうとしたと思われます。このあたりは初音の里とよばれ、近くに初音の森があったそうです。
明暦の大火後に、初音神社の本社は墨田区に遷宮したけれども、儀式殿は昭和23年に旧蹟に戻り、さらに昭和48年近代建築すなわちビルの二階に鎮座したということです。
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(初音森神社儀式殿)
初音森神社由緒.JPG
(由緒書き)
人間がマンションに住む時代ですから、神様がビルの二階に住んでいてもふしぎではありません。「土一升は金一升」といわれる東京のど真ん中でも、神社が存在しつづけるということは、神様が人間と生存競争をして負けていないということの実証です。
小網神社=東京都中央区日本橋小網町16‐23
初音森神社=東京都中央区東日本橋2丁目27‐9

2012年01月16日

都心・ビルの谷間、道灌有縁の二社

東京メトロ日比谷線の人形町駅から日本橋の方へ7分も歩くと、ビルの谷間に小さな稲荷社があります。常盤稲荷(ときわわいなり)神社です。赤い鳥居の左側に由緒書きがあり、次のように記されています。
「当社は室町中期長禄元年(1457年)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神のご分霊をいただき、常盤稲荷と名づけ、同城の守護神として勧請された。後に、徳川家康公開府により、江戸城郭拡張工事が行われ現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが、当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに当社が移された。
宝暦(1751年〜)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に
  名に高き蘆のなぎさの葭原に
       鎮めまします常盤の神
の歌がしるされていたと伝えられる。(後略)」
この伝承によると、常盤橋の名前は太田道灌由来ということになります。その後、この神社は日本橋の魚市場内に移り、江戸時代には大いに繁盛したけれども、時代の変遷で今は、都心のビルの谷間にひっそりと潜んでいます。
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(常盤稲荷神社)
由緒.JPG  
(境内の由緒)
太田道灌は軍師でもあったので、当然陰陽道にも通じていて、石岡市の常陸国総社神社蔵の道灌遺愛の軍扇には十二支が記されています。陰陽道では、鬼門(北東)には悪鬼が集まり災難をもたらすとされます。したがって道灌は、江戸築城に際して、城の鬼門すなわち現在の神田、秋葉原のあたりに、江戸城鎮護ために盛んに社寺を勧請し、人々の江戸城への求心力を高めました。それらの社寺の多くは、徳川家康の江戸城拡張で移転し、さらに明暦の振袖火事や太平洋戦争空襲のため再度移転して方々へ分散しています。

常盤稲荷神社からさらに堀留町の方へ5分も歩くと、椙森(すぎのもり)神社があります。この神社もまた、ビルの谷間のちょっとした空間にあります。境内に、中央区教育委員会の説明板があり、次のように記されています。
「椙森神社の創建は、社殿によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森、柳森、椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。(後略)」
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(椙森神社)
教育委員会説明板.JPG
(教育委員会の説明板)

江戸城下の三森といわれた烏森神社(港区)、柳森神社(千代田区)、椙森神社の三社はいずれも稲荷社です。JR線秋葉原駅近くの柳森神社は、太田道灌が伏見稲荷を勧請して創建しました。JR線御茶ノ水駅近くにある太田姫稲荷神社は、太田道灌が娘の病気平癒を祈願した神社と伝えられています。昔の人は、稲荷の動物的な通力による病気平癒、商売繁盛や五穀豊穣を信じていたようです。今も椙森神社には、何やら願掛けにくる老若男女が絶えず、都会のど真ん中なのに、否それだからこそか、信心深い人が多いのに驚かされます。
椙森神社は中央区民文化財に登録されています。
常盤稲荷神社=東京都中央区日本橋本町1‐8
椙森神社=東京都中央区堀留町1‐10‐20

2012年01月01日

中城址・仙覚律師旧跡

JR八高線あるいは東武東上線の小川駅から10分も歩くと、小川町立図書館へきます。この図書館は、木材を基調とした心和む造りで、館内は広く、構造にもいろいろな工夫がほどこされています。私は、畳敷きの和風の閲覧室をここではじめて拝見しました。この図書館の前から東の方を見ると、八幡山とよばれる小高い岡があります。そこが中城址・仙覚律師(せんがくりつし)旧跡です。
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(中城址入口標示)  
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(中城の本丸跡)
1475年(文明7年)、長尾景春は山内上杉家の家宰人事の不満から主君上杉顕定へ叛旗を翻し、五十子(いかっこ)陣(本庄市)への通路を封鎖して上杉軍を脅かしました。その頃景春は、道灌のもとへ数回遣いを出して反乱への加勢を頼みました。そしてさらに、道灌が五十子の上杉本陣へ参陣の途中で小河(小川町)に一泊したとき、翌朝早くに、景春自身が飯塚(深谷市)から馬をとばしてやってきて反乱への与同を頼みました。しかし、道灌はそれを拒否しました。景春が道灌に対して度々重大な反乱への加勢を頼んだことを考えると、二人はやはり親類であって、若年のころより互いに熟知していた間柄であったに違いありません。「太田道灌状」には、次のように記されています。
「先年五十子御難儀の刻、道灌参陣の時、景春数ヶ度便を越され無益の由申し候と雖も、押して罷り立ち、上田上野介在郷の地小河に一宿仕り候処、飯塚より早朝景春罷り越し堅く申し留め候。意趣は、御陣に於いて御屋形並びに典厩様洩らし奉らざる様計略最中に候、道灌参り候えば時儀相違す可き旨様々申し候の処、承引する能わず参陣致し、云々」
この一節を読めば、道灌が最初から、断固として景春を諫め、上杉家を厳護しようとしていたことがわかります。このとき道灌が一泊した小河とは、城郭史家の梅沢多久夫氏によると、埼玉県比企郡小川町の中城に該当するということです。中城は、小川町の比高18メートルの台地にある単郭の城で、二重土塁、屏風折り土塁、食い違い虎口などが良好に保存されています。発掘調査の結果、中城は15世紀後半の築城と考えられています。猿尾(ましう)四郎種直が城主であったと伝えられていますが、詳しくはわかっていません。もし、太田道灌がここに一泊したとすると、そのときの城主は、道灌の盟友であった上田上野介ということになります。
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(土塁に立てられた万葉歌掲示)
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(空掘りと土塁)
中城址は、仙覚律師旧跡としてもよく整備されています。天台宗の僧であった仙覚律師は鎌倉時代の万葉学者でもあり、4500首あまりの万葉集を読み解いて、1269年(文永6年)「万葉集註訳」をつくりました。今日我々が、万葉集の万葉仮名を読んでその意味を理解できるのは、仙覚律師のおかげだそうです。仙覚律師は鎌倉の比企谷から蒙古来襲時の喧噪を逃れて、鎌倉街道上道沿いの小河へ来ました。彼がこの偉業を完成させた場所は、「比企北方痲師宇郷(ましうごう)政所(まんどころ)」と「万葉集註訳」の奥書に記されています。そして、摩師宇とは比企郡小川町増尾(ましう)の中城址と比定されました。最近では、増尾の長昌寺境内が摩師宇であるとされているけれども、中城址は仙覚律師有縁の地として城域に佐々木信綱撰文の記念碑が建立され、数十首の万葉歌が掲示されています。そしてこの山里に、おどろくほどの立派な図書館があるのは、仙覚律師が残した好学の遺風のしからしめるところであるのかな、と私は考えてしまいました。太田道灌も歌人であったから、中城で万葉集を思い出して一首を詠んだのかもしれません。
中城址・仙覚律師旧跡は埼玉県指定旧跡です。
中城址・仙覚律師旧跡=埼玉県比企郡小河町大字大塚字中城 
posted by otadoukan at 14:41| Comment(6) | 中城址・仙覚律師旧跡

2011年12月14日

上杉氏の逃亡・那波荘と宿阿内城等

1476年(文明8年)長尾景春は、山内上杉氏の家宰の人事に不満を持って五十子(いかっこ)を離れ、自らの根拠地白井(しろい)城(渋川市)で兵力をととのえ、鉢形城(寄居町)で主君上杉氏へ反旗を翻し、同年6月に五十子陣の上杉氏を脅かしました。翌年、すなわち1477年(文明9年)正月18日、景春は五十子の上杉陣を急襲し、長尾景春の乱がはじまりました。現在、全国的にはあまり知られていない本庄市の五十子は、上杉軍が古河公方と長年対峙しつづけたところであり、この場所から新たな台風ともいうべき長尾景春の乱がはじまったので、関東の混迷は一層複雑になりました。本庄市は地理的には関八州の中心地であり、当時関東では台風の目のような場所だったのです。
不意を突かれた上杉方は、利根川を渡って那波荘(なわのしょう)(伊勢崎市)すなわち那波城と今村城へ逃げました。那波荘に拠る国人領主那波氏は当時、利根川の東側にいたけれども上杉方に与していました。その後、山内上杉顕定は宿阿内(しゅこうち)城(前橋市)へ、扇谷上杉定正と太田道真は細井(前橋市)へそして越後上杉氏は白井城へ逃走しました。
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(那波城址・本丸跡の碑)
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(徳富蘇峰書の那波城址碑)
東京より国道17号線を北上して本庄市の五十子陣址を過ぎ、国道462号線で右折すると利根川に架かる坂東大橋を通ります。約千メートルの橋を渡り、県道18号線に入りやや行くと伊勢崎市堀口町へきます。伊勢崎市立名和幼稚園の近くの路傍に「那波城址・本丸跡」の碑があります。耕地整理のため城址の遺構は完全に消え、本丸跡の碑だけが残っています。「此処に城ありき」と碑文に記されています。また、この近くの伊勢埼市立名和小学校の校庭の東隅にも、徳富蘇峰の書による巨大な「那波城址」の石碑が立っています。那波城址は、五十子陣址から約5キロの地です。
さらに南西方向へ約2キロ行くと、稲荷町の水田地帯の民家の庭に、今村城址の碑があります。今村城址も、古墳を利用した那波氏の居城であった所であり、伊勢崎市指定史跡です。
景春軍の騎馬隊に恐れをなした上杉軍は、慌てふためいて渇水期の利根川を渡って一目散に逃げたのです。このことは、当初の景春軍がいかに強盛であったかを物語っています。当時、駿河から帰還して間もない太田道灌は江戸城にいました。道灌は、親類であった禅僧の統訓(とうくん)を景春のもとへ派遣し、上野の上杉定正と太田道真を追撃しないように要望し、景春に謝罪を勧めました。
「太田道灌状」にいわく、「翌年(文明九年)正月十八日、東上野へ御陣を開かれ候。其の刻も道灌、景春処へ、親類の統訓蔵主並びに卜厳を越し置き、既に屋形と老父御一所候の上は、何方へ御陣を移され候と雖も、障り申すべからざる旨様々申し候の間、襲い奉らざるに依り、御無為に利根川を御渡り越し、河内へ御移り候」と。「松陰私語」には、「越後陣は白井に陣張り、山内は阿内に陣張り、川越(扇谷)は細井口に陣張り」と記されています。 
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(今村城址碑・今は民家の庭) 
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(宿阿内城址・女体神社)
このときの取り合いは、長尾景春、上杉氏、太田道灌それぞれにとって、重大な意味のある緒戦でした。もしこのとき、道灌のとりなしがなければ、景春軍は利根川を越えて上杉氏を深追いし、つぎつぎと打ち滅ぼしていったに違いありません。このときの、関八州を俯瞰すると確かに、上杉方は、古河公方の勢力と景春与党に挟まれて、その命脈は風前のともしびといった状況でした。景春軍は、破竹の勢いではあったものの、それは不満勢力の爆発であったので、上杉氏を滅ぼして戦国大名を指向するような中長期的な視野は持っていなかったようです。
その後各地の景春与党が蜂起するや、道灌は電光石火の速攻で景春与党を次々と各個撃破し、形勢を逆転していったのです。上杉氏は、道灌の鬼人のような働きで危機を脱したのです。上杉定正がそのことを理解し、尾羽打ち枯らして利根川を渡って逃げた日の事を忘れなければ、伊勢原の糟屋館で道灌謀殺という不幸な出来事を起こさなかったはずです。しかし定正は事の重要性と道灌の尽力を理解できませんでした。それは名門の苦労知らずの世継ぎにはしばしば起ることです。この根源的な瑕疵(かし)により、のちに上杉家は滅亡することになります。
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(利根川の坂東大橋)
利根川の東岸を約10キロ遡ると畑の中に宿阿内城址・女体神社(前橋市)があり、さらに約10キロ北上し前橋市内へ入ると上細井町、下細井町があり、そのまた約10キロ北方に白井城址があります。
今、冬の日に、坂東大橋のたもとに立ってみると、だだっ広い利根の河原を上州名物のからっ風が吹き抜け、はるかに白雪をかぶった赤城の山々が連なって見えます。そして、かつてここで、あるときは攻め、あるときは逃げ、攻防を繰り返した男たちの雄叫びと叫喚が、風に乗ってかすかに聞こえてくるような気がします。
那波城本丸跡=群馬県伊勢崎市堀口町260
那波城址・名和小学校=群馬県伊勢崎市堀口町502
今村城址=群馬県伊勢崎市稲荷町772
宿阿内城址・女体神社=群馬県前橋市亀里町1138-4
細井=群馬県前橋市上細井町・下細井町
白井城址=群馬県渋川市白井2318-1

2011年12月08日

本郷城址・傑傳寺・道灌伝説の地

東京のJR山手線駒込より、東京メトロ南北線、埼玉高速鉄道と乗り継いで鳩ヶ谷で降ります。鳩ヶ谷駅より川口駅方面へバスで10分あるいは徒歩で20分もいくと新郷農協があります。そこから高速道路沿いに北へすこし歩くと本郷城址すなわち曹洞宗の傑傳寺へきます。この寺域は、もと太田道灌築城の本郷城のあったところと伝えられています。隣接地に「曲輪」という地名もあります。
江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」の足立郡谷古田領本郷村の項に、傑傳寺と城跡について次のように記されています。「当寺境内は古(いにしえ)太田道灌が築きし塁跡なりと云。少しき高き所にして広さ六千坪許(ばかり)。南の方に表門あり、此処古の追手口なるべし。(中略)思ふに全棟寺の中興開基太田備中守輝資此処に住せしといえば、おそらくはこの人の居跡なるべし、境内の図左に出せり」。図によると、小高い舌状地に土塁で囲まれた建物があります。その図と現在のこの高台の地形から考えると、本郷城はちょっとした砦か領主の館のような所であったのではないかと思われます。この地は上総の千葉氏あるいは古河公方の領域に近いところなので、太田道灌が出城を築いた可能性はあります。
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(城址の高台・右奥)
土塁と崖.JPG   
(土塁の遺構と思われる所)
太田輝資は太田資高の子であり、康資の弟になるので、道灌の曾孫ということになります。ここはまた、太田資高が拠った稲付城・靜勝寺(東京都北区)とも近いので、太田氏有縁の地であったことは間違いありません。したがって本郷城は太田輝資の築城であった可能性も高いと思います。輝資は、兄康資とたもとを分かち後北条方についたけれども、小田原の役後に所領を失い、後に旧領谷古田(川口市)に隠棲したということです。
傑伝寺の寺域の土塁がある高台は、まわりが崖になりあるいは金網で囲まれているので、残念ながら詳細がわかりません。
川口市教育委員会にたずねると、本郷城址は道灌伝説の地として認識しており、未だ発掘調査は行っていないということです。
本郷城址・傑傳寺 =埼玉県川口市東本郷1506

2011年11月10日

道灌松の子松 (蓮田市)


東京より国道17号線を北上し、上尾市の久保という所で埼玉県道87号線を東へ入ると蓮田(はすだ)市へきます。閏戸(うるいど)というあたりへきて、土地の人に吾庵橋(ごあんばし)をたずねるとていねいに教えてくれました。この橋の周辺は農道のような道がありやや複雑です。あとでわかったけれども、農道のように見えても、かつて大山詣でをする人々が通った大山道(鎌倉古道)でありました。吾庵橋の近くに、1831年(天保2年)に建てられた庚申塚が残っています。
見沼代用水にかかる吾庵橋のそばの斎藤宅が目指すところです。斎藤宅の主人が仕事の手をやすめて「最近どういうわけかうちの道灌松を見にくる郷土史愛好者が多くなりました」と言って色々説明してくれました。
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(見沼代用水)
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(吾庵橋の銘板)
斎藤氏の先祖は、江戸時代に見沼用水で船荷をあつかう見沼通船の仕事をしていたので、今でいえば、運送会社の社長です。8代将軍徳川吉宗が、紀州流の手法で見沼用水を大きく改修し、通船業は大いに栄えました。
斎藤宅の前の道は大山道で、往時、太田道灌がここを通ったとき、松を植えて休憩所とし、五庵と名付けました。斎藤氏は「ここに庵のような休み所を五つ作って五庵と名付けたのかなあ」と言っていました。道端の道灌手植えの松が大木となり道灌松といわれるようになりました。そしてここに架けられた橋は吾庵橋と呼ばれました。
道灌手植えの松は樹盛が衰え、1896年(明治29年)にある人によって切られました。しかしその松の種が飛んできて斎藤宅の庭に生え、今ではみごとな松となっています。その松は、間違いなく道灌松の実生の子松だということです。この子松は、よく手入れをされ、枝ぶりといい、色つやといいほんとうに見事な松です。じっと見とれてしまうほどであるから、人間でいえば超美人です。
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(道灌松の子松)
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(近くの庚申塚、側面に天保2年の文字)                                    
初代の道灌松があったところに、今は巡礼碑が立っています。蓮田市教育委員会は、斎藤宅の前の大山道の道端に、道灌手植えの松があったということを、この地の伝承として認識しています。私は、この話はほんとうのことだと思います。なぜなら、往時、このあたりは元荒川沿いの沼沢地で、約10キロ北方には、古河公方軍の前線基地であった騎西城(加須市)がありました。したがって、吾庵橋のあたりは上杉領の境界領域であり、道灌は岩槻城あるいは川越城から度々状況視察にきていたに違いありません。このような道灌松は、山吹の里と同じように方々にあっても不思議ではないのです。
吾庵橋=埼玉県蓮田市閏戸

posted by otadoukan at 12:04| Comment(8) | 道灌松の小松 (蓮田市)

2011年10月20日

赤浜の川越岩・中世北武蔵のメインロード

埼玉県寄居町赤浜の荒川には往時、山王の渡しと川越岩(かわこしいわ)による徒(かち)渡りがありました。赤浜の対岸は深谷市の花園です。今では上流に花園橋、下流に関越道の荒川橋が見えます。水量の少ないときに岩礁をつたうこの個性的な渡河地点は、中世には鎌倉街道上道(かみつみち)につながり、太田道灌の足軽隊も長尾景春の騎馬隊も絶えず通りました。歴史的に意味深く地形的にもおもしろいこの場所は、今は忘れられている場所なので、今回敢えて紹介します。
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(普光寺の説明板)        
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(山王坂、鎌倉街道の標柱)
関越道の嵐山(らんざん)ICで降り、国道296号線を北上し、花園橋の手前で埼玉県道81号線を東へ入り、少し行くと赤浜字塚田というところに天台宗の普光寺が見えます。普光寺の説明板に、山王の渡しと川越岩へのルート地図が記されているので助かります。この寺の東側にある農道が鎌倉古道です。まっすぐ荒川へ向かう古道は今、建物や雑木林で遮断されているので、少々西側を迂回すると山王坂にでます。荒川筋の道に出て東へ200メートルも行くと、川越岩が見えてきます。土手を降りて川原を歩くと川越岩へきます。川のこちら側と中ほどに巨大な獅子岩が鎮座し、その他の小振りの岩塊も点在しています。獅子岩をじっとみていると確かに獅子に見えてきます。獅子は獅子でもいのししに見えてくる岩もあります。獅子岩は水量を計る目安にもされ、水面が上がったときは川止めされました。今も、水量の多いときの河原は危険です。私が訪れたときは、獅子岩の中ほどまで泥が付着していたので、この川があばれたときの濁流の凄さを思い浮かべてぞっとしました。 
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(川越岩と渡河地点) 
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(濁流の泥が付着した獅子岩)
赤浜から鎌倉街道を南へ行くと、高見、苦林(にがはやし)、久米川、府中をへて鎌倉へ向かい、荒川を渡って北へ行くとすぐに秩父往還を横切り、用土、児玉、平井をへて上野(こうずけ)へ向かいます。したがって川越岩の渡しは、鎌倉街道上道と秩父往還熊谷通りの交差点の要衝でした。その意味で、赤浜の川越岩は中世北武蔵のメインロードでありました。
「新編武蔵風土記稿」に次のように記されています。
「赤浜村、村の東の方、小名塚田の辺に、鎌倉古街道の跡あり、村内を過ぎて荒川を渡り榛澤(はんざわ)郡に至る。今もその川筋荒川の中に、半左瀬・川越岩ととなふる処あり、(中略)川越岩は川の中にある岩なり、これもその頃の渡場にて、今も官の巡検使至る時は、ここに渡船を設くと云」。
普光寺の説明板によると、荒川の渡しを「山王の渡し」と称し、大沢半左衛門が関守をしていたので、「半左の渡し」とも称されました。この渡しの南側は、寄居町赤浜字塚田であり、川の向うのには深谷市武蔵野に飯塚という地名があります。
「太田道灌状」には、塚田と飯塚の地名が度々出てきます。1473年(文明5年)、太田道灌が五十子へ参陣する途中で小河に一泊しました。翌朝「飯塚より早朝景春罷り越し堅く申し留め候」とあるように、長尾景春は飯塚館から騎馬で赤浜を渡り、道灌へ反乱への加勢を頼みにきました。
1480年(文明12年)正月4日、長尾景春が児玉で蜂起しました。「(道灌は)同六日塚田へ罷り越し(中略)、その後景春飯塚陣へ夜懸け致すベく儀定まり候処、その夜其の儘秩父へ退散せしめ候」とあります。
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(じっと見ると獅子に見える岩) 
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(渇水時に露頭する岩礁)
道灌没後1494年(明応3年)10月、扇谷上杉定正は北条早雲の援軍を得て意気揚々と高見原の戦に出陣し、山内上杉顕定と4度目の対戦をしました。定正は、荒川を渡河しようとして落馬し、濁流に流されて死去しました。時に定正は49歳あるいは52歳ともいわれ、道灌を謀殺して8年後でした。このあたりの荒川を渇水時に見ると、河床一面が、ごつごつとした岩礁を敷き詰めたように見えます。増水したときに馬で渡る危険性を、大将に知らせる気のきいた部下も土地の者もいなくなっていたのでありましょう。当時の軍師は、奥秩父の変わりやすい天候と急峻な山肌を考え、荒川の暴れ具合を推測して作戦をたてなければならなかったのです。
この河原に立てば、道灌や景春がこの川の両岸を走り回ったことが、身近な出来事のように思えてきます。昔は、武士や旅人でにぎわった川越岩にも、今は人っ子ひとりなく、岩塊の上に黒鷺がとまって餌をねらっているだけです。川越岩のあたりは歴史的にも意味深く、おもしろい地形であるので、川辺の道端に説明板を設置するとちょっとした観光スポットになります。
普光寺=埼玉県大里郡寄居町赤浜字塚田620
赤浜の川越岩=埼玉県大里郡寄居町赤浜

2011年10月07日

我孫子市の根戸城址

千葉県我孫子(あびこ)市の手賀沼西端の近くの舌状台地に、太田道灌築城と伝えられる根戸(ねど)城址があります。この城址は、JR常磐線の北柏駅から北東へ約1キロの地点です。東京からは外環状線を東へ向かい、三郷西TCで降りて6号線(水戸街道)に入り、手賀沼西端で地元の人に尋ねるとわかります。この城址は個人の所有地であるので、案内板など一切ありません。
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(根戸城址遠望)
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(手賀沼)
持ち主である日暮(ひぐらし)さんの許可を得て、庭を通って裏へ回るとすぐに城址の登り口です。城址には、空掘りと土塁で仕切られた主郭と二郭があり、東側に櫓台、西側に金塚古墳があります。連郭式の城域はたいへん良好に保存され、一目見て道灌くさい城だなあ、と思います。両郭ともテニスコートをつくれるくらいの広さがあり、空掘りは土塁のうえから幅、深さとも約8メートルあります。
「千葉県東葛飾郡誌」「日本城郭体系」などが記すところは、口碑によれば1478年(文明10年)太田道灌軍が境根原(柏市)で、千葉孝胤(のりたね)軍と激しい合戦を行ったとき、道灌が根戸城を築城したということです。根戸城址から境根原古戦場まで約5キロあります。根戸城に潜んでいた道灌の足軽隊が、追撃してきた千葉軍を境根原で待ち伏せし、足軽戦法で猛攻撃をしたと思われます。千葉軍は敗れて臼井城(佐倉市)へ遁走して籠城しました。今も境根原古戦場には大きな塚が2基あります。

「太田道灌状」には「関東御無為の儀候えば、以後に於いて小人等頸を出すべからず候間、旁々の儀を以って其の略を廻らし、十二月十日、下総境根原に於いて合戦せしめ勝利を得、翌年臼井へ向かって陣を寄せられ候」とあります。「其の略を廻らし」とは、境根原での足軽戦法であったと思われます。そうしなければ、少勢の道灌軍が総州の大軍である千葉軍には到底勝てません。道灌が布陣した国府台城(市川市)から見て、境根原が千葉城(千葉市)とも臼井城とも関係のない方角であるので、追撃する千葉軍が逃げる太田軍に境根原まで誘(おび)き寄せられたとしか考えられません。
本郭と土塁.JPG
(根戸城本郭と土塁) 
本郭と2郭の間の空掘り.JPG
(本郭と二郭の間の空掘り)
我孫子市教育委員会に聞いてみると、根戸城址は我孫子市の埋蔵文化財としては認定しているけれども、太田道灌関連史跡としては、確かな古文書や埋蔵物で証明されていないので認定していないということです。
舌状地の先端に連郭があって城下まで手賀沼が迫っていたとすると、この城は益々道灌流の縄張り(道灌がかり)ということになり、相当の要害であったと推測できます。そしてあの日、根戸城の木立に隠れていた道灌の足軽隊は、突然姿を現し、道灌橋をわたって疾風のように境根原へ向かって駆け抜けたに違いありません。

道灌軍が、根戸城に帯陣したという伝承は、緒状況から考えて、私には事実であると思われてしかたがありません。根戸城址は太田道灌伝承の地として、隣接している金塚古墳と合わせて史跡公園にする願望が市民の間にあります。
日暮家のおばあちゃんは「昔は城址のすぐ下まで手賀沼が伸びていて、うちの庭から魚釣りができました。沼のつづきに『道灌橋』と呼ばれる橋がかかっていたけれども、今は干拓と区画整理で橋もなくなって畑となりました。年寄りがいなくなったら、そういうこともわからなくなるでしょう」と語っていました。
かつて手賀沼の水をたたえていた城下は、今はいも堀り農園となっています。そこの紅あずまを掘らせていただいて帰り、食べるとたいへん美味でした。
根戸城址は、我孫子市の指定埋蔵文化財です。
根戸城址=千葉県我孫子市根戸荒追1341番外 
posted by otadoukan at 07:42| Comment(8) | 我孫子市の根戸城址

2011年09月23日

杉並区の矢倉台・道灌の物見台か。

東京都杉並区で五日市街道の「緑地公園前」という信号標示で北へ曲がると、すぐに善福寺川緑地公園があります。東京メトロ丸の内線南阿佐ヶ谷駅から徒歩10分でも来ることができます。公園内の善福寺川に屋倉橋という橋がかかっているので、その橋をわたってすこし直進すると、右側に小高い地点があります。今は、学校法人の研修センターになっている、その場所が矢倉台(山)といわれるところです。
徳川幕府の未刊の地誌「新編武蔵風土記稿」(1830年)には、「矢倉、四方田園にて高き場所あり、伝に云う、鎌倉時代より陣屋跡ありしを、其の後、太田道灌の持となり家臣某をして守らしめしが、道灌滅亡にいたりて廃したりと、或は云う、成宗(なりむね)が柵跡なりと、此の事まことならんには、彼陣屋櫓のありし処へ成宗移りて籠居せしなるべし、されどその詳なること伝えざればうけがいがたきことなり。此の辺に鎌倉街道の迹ありなど云う」と記されています。
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(屋倉橋)
屋倉橋.JPG
(橋名)
矢倉とは矢を収納する建造物であるけれども、物見台を兼ねることが多く、やがて見張り台を櫓(やぐら)というようになりました。杉並区成田西の矢倉台と言われているところは、三方を曲がりくねった善福寺川に囲まれ、このあたりでは珍しい小高い丘であるから、物見台をかねた陣屋の場所として最適であります。鎌倉時代には、御家人の中野左衛門尉成宗が砦を構えて鎌倉街道を監視し、周辺を開拓したので、今も成宗公園という地名が残っています。伝承によると、室町時代には、太田道灌が物見台をおいて眼下の街道を見張りました。おそらくこのあたりが、江戸城主としての道灌の統治範囲の境界であったので、砦をおいて監視したのだと、私は推測します。道灌は、江戸へ通ずる全ての街道にそのような物見台を設置して、自己の版図を確保、拡大していったに違いありません。
現在では、杉並区の矢倉台の近くに中央道と首都高速の境目である高井戸ICがあり、料金所となっていることは面白いことです。今も昔も人間の感覚では、このあたりが江戸(首都)と郊外の境目となるのかもしれません。
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(矢倉台)
成宗公園といい屋倉橋といい、歴史を伝える地名が残っていてほっとします。
杉並区教育委員会に訊いてみると、矢倉台が物見台であったことは認識しているけれども、いまだ太田道灌の史跡としては認定していないということでした。
屋倉橋=東京都杉並区成田東善福寺川公園
矢倉台=東京都杉並区成田西4丁目12番地