2012年04月13日

道灌ゆかりの三貫清水(196か所目)

JR高崎線の宮原駅から十分も歩くか、国道17号線大宮バイパスの奈良町で西へ入ると、埼玉県立大宮北高等学校があります。その学校のグラウンドの近くに「三貫清水(さんがんしみず)緑地」があります。
この緑地は南北に約350m、東西で約40m〜70mの雑木林で形成されており、その西側の低地に、三貫清水とよばれる、水深の浅い湧水池が2箇所あります。三貫清水のいわれは、池のほとりに立つさいたま市の説明板に記されています。その昔、太田道灌がこの辺りに狩りにきたとき、土地の人がこの清水を汲んで茶をたてて出したところ、道灌は「とてもうまい」といって三貫文(今でいうと50万円ほど)の褒美を与えたので、三貫文の値うちのある湧き水という意味で三貫清水という名前がついたということです。
三貫清水.JPG               
(三貫清水)
さいたま市説明板.JPG 
(さいたま市の説明板)
大宮北高校の南西、鴨川との間に広がる「三貫清水緑地」は、そうした道灌の伝承を裏付けるように、中央に復元された鎌倉街道が通り、草木五百種、鳥五十 種ほどが生息する、市民の貴重な「お宝空間」となっています。地元の「歩いて作る街絵図会」のカルタの中に「名水に道灌ポンと50万」という一枚があります。

埼玉県教育委員会の「歴史の道調査報告書 鎌倉街道上道」に次のように書かれています。
「大宮台地(三貫清水緑地)に沿い北上する街道は、奥州脇道とも羽根倉道とも称されている。上道と中道の中間に位置する本道は、大宮台地上の南北に広がる地域を繋ぐ道であるとともに上野に至る要路であったと推測される」
地図で見ると、この地は川越城と岩槻城のちょうど中間点です。道灌一行が移動の際に、ここで一服したことは、おおいにありうることであります。
鎌倉街道.JPG        
(三貫清水緑地の鎌倉街道)
説明イラスト板の一部.JPG
(マンガの説明板の一部)

三貫清水と類似の道灌伝承は、東京都杉並区や練馬区にもあります。1455年(康生元年)太田道灌は武蔵野で鷹狩りを催し、その帰途、高井戸付近で日が暮れました。空には仲秋の名月が浮んでいたので道灌は、そこで家臣とともに歌宴を開きました。そのとき、土地の者が手つきの団子を献上したところ、道灌は名月に配する団子の風流をよろこんでその滋味を賞賛し、以来、折りに触れてこれを所望しました。のちに土地の者は、高井戸の地に柳茶屋を開き、道灌団子と称してその製法を家伝としました。高井戸宿から内藤新宿、追分宿へと茶屋も移転して街道を行き交う人々に親しまれ、いつしか道灌団子は追分宿にちなみ、追分団子と呼ばれるようになったということです。
練馬区上石神井の愛宕山の近くに「祝儀山」という風変わりな名前でよばれる高台があります。この地の住民の伝承によると、道灌が石神井城攻めの戦勝後に、豊島攻めに協力した農民にご祝儀としてこの土地を与えたので、そのように呼ばれるようになったということです。祝儀山という高台は今、「祝儀山ちびっこ広場」として、子供たちの遊び場となっています。
このような道灌伝承があることは、道灌が民百姓にいたるまで論功行賞をきちんと行って、味方を増やしていったことを伝えています。それにしても、お茶一杯で50万円とは、太田道灌は相当に気前のよい武将であったようです。
三貫清水の歩道には、スイセンなどいろいろな花が咲き、歩く人々を楽しませています。地元の「三貫清水の会」が毎月一回、緑地の清掃活動などをしています。
三貫清水=埼玉県さいたま市北区奈良町52の11
posted by otadoukan at 07:38| Comment(9) | 道灌ゆかりの三貫清水

2012年04月01日

大庭城址・道灌の縄張り伝承(195か所目)

小田急江ノ島線に湘南台というしゃれた名前の駅があります。新宿から急行に乗って約1時間もかかるところなので、田舎の駅かと思いきや、びっくりするような立派な駅舎です。近くに慶応大学があるせいか、駅周辺も活気にあふれています。湘南台駅前から、大辻経由藤沢行きのバスに乗ると、約30分で城下(しろした)という停留場へきます。そこで降りると、目の前に大庭城址(おおばじょうし)の城山が見えます。この城山は高さ約30メートル、南北約800メートル、東西約250メートルで全域が大庭城址公園となっています。
大庭城址遠望.JPG     
(大庭城址遠望)  
大庭城址立体模型.JPG
(大庭城址立体模型)
城山の東に引地(ひきじ)川、西側に小糸川が流れ、二つの川は城山の南部で合流し、昔は湿地帯をつくっていました。したがって城山の三方は水で囲まれ、北側の台地は細い尾根となっていました。その尾根を、土塁と空堀で遮断していたので、大庭城は相当の要害でありました。城域は概ね、三本の空掘りで四つの廓に分けられ、南端部に堀立柱建物跡があり、そこが本丸であったと思われます。

平安時代の末期、この地域は大庭御厨(おおばみくりや)とよばれる伊勢神宮の荘園でありました。この荘園は、桓武平氏の流れをくむ長尾一族であった鎌倉権五郎景政によって開拓され、伊勢神宮に寄進されました。景政の子孫はのちに大庭氏と改姓し、大庭景宗が大庭城を築城しました。大庭氏はのちに鎌倉幕府により討たれ、一時結城氏が大庭御厨を支配しました。1457年(長禄元年)扇谷上杉氏が大庭御厨を押領し、太田道灌が大庭城の本格的な築城を行ったと思われます。
建長寺の住持玉隠は「玉隠和尚語録」(1499年)の中の上杉持朝の子孫について触れた項で「一人大庭堅其、大庭氏館、此去不遠」と記しています。つまり、上杉氏の一人が大庭城の守りを固めて、かつての大庭氏(鎌倉長尾氏)の館はその近くであったということです。
「新編相模風土記稿」の大庭城の項にいわく「土人伝えて、大庭景親の居城なり、後太田道灌暫時居城とし、北条氏の頃は其の旗下某在城せり」と。
1465年(寛正6年)に伊勢神宮の神官荒木田氏経が、大庭御厨の返還を求めて太田備中入道(太田道真)、左衛門太夫(太田道灌)宛てに出した書状が残っているので、そのころ太田道真・道灌がこの地域を実効支配していたことは間違いありません。
 城址の広場.JPG       
(城址の広場)
堀立柱建物址.JPG
(堀立柱建物跡) 
城址の梅.JPG
(城址の梅)
大庭城址の説明板には「室町時代中頃には、上杉氏の執事太田道灌が、本格的な築城を行ったと伝えられています」と記されています。このことについて藤沢市教育委員会に尋ねると、大庭城の道灌縄張り(設計)説は伝承であって、そのことを確実に証明する文書は発見されていないということです。教育委員会がこの城址を発掘調査したところ、鎌倉時代から室町時代にかけての遺物が出たそうです。1512年(永正9年)に、上杉朝良が拠る大庭城は北条早雲により攻略されて落城しました。

この城址の城山の上は整地されて、高低差のある二つの広大な広場と付随するいくつかの小広場となっています。後北条氏が得意とする総郭(そうくるわ)や障子堀(しょうじほり)などがないので、この城址は基本的には上杉時代の構造を残していると思われます。城の周辺をよく観察すると、たくさんの堀や土塁があり、基本的構造が連郭式縄張りであることが分かってきます。城域の舌状地の三方が水で囲まれていて連郭式縄張り(道灌がかり)になっているところは江戸城によく似ているので、この城はやはり、太田道灌の縄張りと推定することができます。
往時このあたりは、管領府であった鎌倉と扇谷上杉氏の守護所であった伊勢原糟屋の中間点であったので、上杉氏にとっては重要な拠点であったと思われます。
城域の土塁.JPG        
(土塁)  
城域之空掘.JPG
(空掘)
大庭城址は広大なので歩き甲斐があります。早春の花の広場に梅や白木蓮の花が咲きみだれ、親子連れなどが遊んでいました。その間を、花も見ずにひたすら土塁や堀跡を見て回っては考え込んでいた一人の男の姿は、奇妙なものであったでしょう。
大庭城址公園=神奈川県藤沢市大庭
posted by otadoukan at 11:25| Comment(13) | 大庭城・道灌の縄張り伝承

2012年03月23日

平川の流路と河口を考える(194か所目)

1457年(長禄元年)4月に、太田道灌は、武蔵野丘陵の最も高い麹町台地の先端に、江戸城を築きました。その東側を流れる平川(ひらかわ)は流域が広く、河口から船舶が上り、その周辺に商業地が発達しました。商業地域の中心は高橋というところで、そのあたりは、鎌倉街道下道(しもつみち)と古甲州街道の合流点でした。
江戸城周辺は、徳川時代に度々行われた天下普請と称する土木工事や、近年の高速道路工事により、昔日のすがたをすっかり変えてしまいました。したがって、道灌築城当時の平川の流路と河口をさぐることは甚だむずかしいことです。
平川は、井之頭池(三鷹市)・善福寺池(杉並区)・妙正寺池(杉並区)を水源として、高田馬場北側の目白台を通り飯田橋へ流れました。飯田橋から河口までの平川の流路については、考古学的調査と文書の検証により、大きく分けて二つの説があります。
一つの説は、「常盤橋河口説」です。平川は、飯田橋から現在の日本橋川に沿って常盤橋のあたりで海に出ていたので、高橋という賑わい地も常盤橋付近であったとする説です。
もう一つの説は、「大手町河口説」です。平川は、飯田橋から九段下を通って江戸城大手門のあたりで日比谷の入江へ出ていたので、高橋は大手門の近くにあったとする説です。
  
東京メトロの飯田橋駅から、ホテルメトロポリタンエドモントの方へ歩いてそのホテルを過ぎ、外堀通りへ出る手前にくると日本橋川の新三崎橋があります。新三崎橋近くの路傍に、千代田区教育委員会の説明板があり、「飯田町遺跡周辺の歴史」と題して平川の事が詳しく記されています。千代田区教育委員会は、平川「大手町河口説」に立ち、その推定流路を記しています。その推定流路によると、平川の河口は、東京駅前の丸ビルのあたりとも思われるのでたいへん面白くなります。 
新三崎橋.JPG
(高速道路でおおわれている日本橋川の新三崎橋)
千代田区教育委員会の説明板.JPG    
(千代田区教育委員会の説明板) 
第5章:平川推定流路.JPG   
(説明板の部分・平川の推定流路)

一方、江戸城の西側には、千鳥が渕すなわち局沢川(つぼねざわかわ)という渓流が流れていました。1963年(昭和38年)の代官町高速道路工事の際、千鳥が渕は約16メートルの堰堤によってせき止められたダムであることが判明しました。千鳥が渕は往時、切り込んだ渓谷であり、乾濠(いぬいぼり)、蓮池濠(はすいけぼり)、蛤濠(はまぐりぼり)へと続いて海へ出ていたと考えられます。
江戸城の静勝軒の詩板に刻まれた万里集九の「静勝軒銘詩並序」(1486年)の中に「城之東畔有河 其流曲折而南方入海((中略) 到高橋之下」とあり、また「西者兌也 兌者沢也 沢者地之潤沢也」ともあります。
千鳥が渕の桜.JPG
(千鳥が渕の桜)
乾濠.JPG
(千鳥が渕につづいていた乾濠)
地形肝要を根本とする道灌の築城思想から考えると、江戸城の城域は、東の平川、西の局沢川、南の日比谷入江により、三方が馬蹄形で水に囲まれ、唯一の地続きの場所は現在の北撥橋門のところだけであったと考えられます。したがって、平川の流路と河口については、「大手町河口説」の方が有力であると私も考えます。
太田道灌が江戸城にいたころ、大手町のあたりで平川が度々氾濫したので、道灌自身が土木工事を推進し、平川を日本橋川の方へ付けかえたという説もあります。しかしそれでは、城の防衛線としての平川がなくなってしまうので違う、と私は思います。 
      
1620年(元和6年)に江戸幕府は、江戸城を洪水から守るため平川を改修して日本橋川へつけ、さらに1660年(万治3年)日本橋川を神田川につけかえ、元の川は埋められました。したがって今、平川の流路を正確にたどることはできず、推測するしかありません。私は飯田橋から、平川の推定流路を歩いてみようとしましたが、残堀や高速道路などに阻まれて危険なので、途中であきらめました。
先に言及したホテルメトロポリタンエドモントの地階に「平川」と称する日本料理屋があります。「平川」で食事をしながら、昔日の平川に思いをはせるのもまた一興であります。
新三崎橋=東京都千代田区飯田橋3丁目・三崎町3丁目
千鳥が渕・千鳥が渕公園=東京都千代田区麹町1丁目2番地
posted by otadoukan at 06:25| Comment(9) | 平川の流路と河口を考える

2012年03月15日

道灌の家臣の子孫を訪問(193か所目)

小田急線の伊勢原駅前から産業能率大学行きバスに乗ると、約10分で道灌塚というバス停にきます。そのバス停から10分ほど歩くと、上粕屋の曹洞宗番竜山洞昌院の入り口にある道灌の墓にきます。道灌が遭難した上杉館跡から徒歩で約10分です。
道灌が、糟屋の上杉館で遭難したとき、付き従っていた部下達もまた不意打ちをくらって果てたということです。その部下達の正確な人数も名前もわかりませんが、部下たちの供養塚が「七人塚」と呼ばれて上粕屋神社にありました。今は、洞昌院から徒歩3分の山王原公民館の隣に、その「七人塚」と説明板があります。公民館の筋向いの山口家は道灌の家臣の子孫で、先祖代々道灌とその家臣たちの墓を守って追善供養をつづけてきたということです。 
七人塚の碑.JPG       
(七人塚の碑) 
七人塚.JPG
(七人塚)
私は、この3月、春は名のみの晴れた風の寒い日に、道灌の家臣の子孫、山口義幸氏宅を訪ねました。家人は、道灌について一番よく知っていた先代の新太郎氏が先年亡くなってしまったのであまりわからなくなりました、といいながら、山口家の道灌伝承を次のように語ってくれました。
1486年(文明18年)糟屋の上杉館で、太田道灌が上杉定正のだまし討ちに会って非業の最期を遂げたとき、九人の家臣が道灌の首をもって洞昌院へ駆けこみました。上杉勢が道灌の首を取り返しに来たけれども、九人は断固として拒否し、そこで腹を切ろうとしました。そのとき、道灌遭難の一部始終を後世に伝えるために、二人の家臣は生き残ることになりました。その二人の家臣の一人の子孫が山口義幸氏であり、もう一人の家臣の子孫も山口氏です。両家とも「七人塚」の近くに住み、代々「七人塚」の墓守をしてきました。
「七人塚は」、往時、上粕屋神社の境内にあったけれども、発掘したところ六基は盗掘されて空だったので、一基のみ現在地に移し、山口新太郎氏が元気なころは正月に餅などを供えて供養していました。今は事情があって餅は供えていないけれども、山口家がなにくれとなく塚の世話をしています。道灌に仕えた山口家のご先祖の名前はわからないけれども、山口家の家紋は丸桔梗です。
 上粕屋神社.JPG  
(上粕屋神社)
一方「七人塚」の傍らに立つ、環境省・神奈川県の説明板には、次のように記されています。
江戸城築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌謀反心あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした七人の墓で「七人塚」と伝えられています。その塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に並んでいましたが、明治の末に開墾するとき、一つ残された伴頭(ともかしら)のものといわれ、今でも「七人塚」と呼ばれています。 
山口家の道灌伝承と環境省・神奈川県の説明板の内容は、すこし違っているけれども、まあ歴史の真相というものは、大部分は確認できないものであるからやむを得ません。唯一つ明確なことは、道灌が「主君への謀反心」をもっていなかったことです。もし道灌に下剋上をする気があったならば、当時の彼の実力からいってそれも可能であり、糟屋館には大軍を率いて来たでありましょう。身に迫るリスクを承知の上で、わずか7人や9人の供まわりの者だけを引き連れてきたこと自体が、道灌の忠義心のあらわれでありました。

「七人塚」のとなりの山王原公会堂で、先頃、伊勢原観光ボランティア&ウオーク協会の方々が、太田道灌についての研修会を行いました。道灌有縁の場所であったので皆さんの熱意は大いに盛りあがりました。
洞昌院=神奈川県伊勢原市上粕屋1160
七人塚=神奈川県伊勢原市上粕屋1345
posted by otadoukan at 11:26| Comment(5) | 道灌の家臣の子孫を訪問

2012年02月28日

道灌の銅像、新発見! そして川越館跡(192か所目)

さる2月25日、私は埼玉県越生町の中央公民館で「太田道灌に学ぶ」と題して講演を行いました。その際に参加者の方から、太田道灌の銅像が川越市の長福寺にもあるという情報をいただきましたので、早速行ってみたところ、そこで11体目の太田道灌銅像を発見しました。
埼玉県川越市から県道39号線に入り、入間川の雁見橋(かりみはし)を渡って約500メートルもいくと鯨井(くじらい)という面白い名前の地域があり、そこに曹洞宗の吉祥山長福寺があります。この寺は、1436年(永享8年)雲崗俊徳(うんこうしゅんとく)が開山となり創建された古刹です。
この寺の本堂前に、太田道灌を曹洞宗に導いた雲崗俊徳と道灌の銅像があります。銅像の台座には、「開山 雲崗俊徳禅師 弟子 太田道灌公」と彫られています。この銅像は、2011年(平成23年)3月、静岡県伊東市の彫刻家重岡建治氏により制作されました。長福寺の住職によると、道灌は雲崗俊徳禅師から嗣法(しほう)を受けたので、そのことを表した銅像だそうです。嗣法とは俗な言葉でいうと、曹洞宗の免許皆伝のようなことです。
嗣法の像.JPG    
(雲崗俊徳と太田道灌・右の銅像)
これで太田道灌の銅像は11体となったので、種類別に整理してみます。
◎ 狩姿の道灌像=東京国際フォーラム、川越市役所前、伊勢原市役所前、越生町の龍穏寺、新宿中央公園、佐久市立美術館。
◎ 騎馬の道灌像=荒川区日暮里駅前、さいたま市岩槻区の芳林寺
◎ 文人の道灌像=さいたま市旧岩槻区役所跡地
◎ 猿を連れた道灌像=東伊豆町熱川温泉
◎ 嗣法の道灌像=川越市の長福寺
道灌銅像のタイプはヴァライエティに富み、文武両道の多チャンネル武将、太田道灌の面目躍如というべきであります。
  
長福寺から5分も歩くと、川越市立上戸小学校のそばに、約200メートル四方の川越館跡(かわごえやかたあと)史跡公園があります。ここは、太田道真・道灌が川越に城をきづく前にこの地域を支配していた川越氏の館跡であります。川越氏は、桓武平氏の秩父氏を祖とする関東武士の名族であったけれども、鎌倉府と対立し、1368年(応安元年)の川越館の戦(武蔵平一揆)で敗れて没落しました。
道灌没後に両上杉氏が戦をはじめたので、山内上杉氏はここに、扇谷上杉方の川越城攻撃のために陣所を築きました。発掘された土塁や堀跡の写真をみると、川越氏時代の地層と山内上杉氏時代の地層が重なっていることがよく分かります。今は発掘調査が終わったので、井戸跡や塚状遺構を残して埋め戻され、一面芝生の公園となっています。
川越館跡.JPG
  
(川越館史跡公園)
このあたりは、入間川と越辺川にはさまれた地域なので、往時は交通、防衛の要衝として相当栄えたと思われます。その後川越の中心地が現在の川越城の方へ移ったので、この地の栄華の記憶は風化してしまいました。
川越館史跡公園は、国指定史跡です。
長福寺=埼玉県川越市鯨井1142
川越館跡=埼玉県川越市上戸192‐5

2012年02月09日

道灌の物見台、亀塚(191か所目)

私の「道灌紀行」もお陰さまで、今回191か所目の太田道灌関連史跡(伝承地も含めて)探訪となりました。今回より200か所を目指してカウントアップをしていきます。今年は道灌の江戸城築城555年の佳節でありますので、今年7月の道灌忌までに200か所探訪を達成できるように頑張ります。

JR山手線田町駅から国道15号線を5分も歩き、札の辻の交差点を直進します。すこし進んでから右へ入って高台へのぼると亀塚公園へきます。比較的に東京湾に近いところで急坂に出合うのでびっくりします。このあたりの低く平らな地域は、道灌の時代には、日比谷の入江であったと思われます。したがって往時、この高台は海岸にそそり立つ物見台として格好の地であったことがわかります。港区教育委員会の説明板によると、亀塚公園が平安時代に書かれた「更級日記」に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(1469年〜1487年)には、ここに太田道灌が斥候(ものみ)を置いた、と伝えられています。
公園の中央に、古墳のような小山すなわち亀塚があり、その上に大きな「亀山碑」という石碑があります。石に亀裂があって碑文は漢文なので読むのに苦労します。古老の言によると、山頂に酒壺があってその中に出入りした亀を土地の人が神に祀った、と記されています。亀塚の名前の由来です。よく意味がわからないまま何回も読んでいると、「道灌氏置斥候」の文字が目に入ってきて喜んでしまいます。この亀山碑は、江戸時代にこの地を屋敷地としていた沼田城主の土岐氏が建てたものです。往時は、ここから360度の眺望が可能で、海岸線はもちろん房総半島まで見えたそうです。
亀塚は亀の形をしていて、子供のあそびスペースには亀の乗り物がいくつもあるので笑ってしまいます。
亀塚.JPG     
(亀塚)
亀山碑.JPG
(亀山碑)
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(亀山碑文の中に「道灌氏置斥候」の文字)

すぐ近くに、亀塚稲荷神社があります。太田道灌が亀塚に物見台をつくったとき、亀の霊を守護神とし、この神社を創建したそうです。境内にある板碑は、文明三年の年号が刻まれているものであり、港区指定有形文化財です。
江戸城と亀塚とのちょうど中間地点すなわち現在のホテルオークラのあたりに、江戸城の出城跡である太田道灌塁跡があります。道灌は、その出城と亀塚の物見台で海辺の治安を維持し、江戸城下の通商の発展を計ったと思われます。

田町駅の反対側つまり亀塚の海寄り約半キロのところに「道灌かがり」という面白い名前のレストランがあります。この店の主人は、もちろん熱心な道灌ひいきで、「道灌は昔、このあたりの海岸で漁をしたとき、よくかがり火をたいた」という伝承があり、その故事にちなみ店の名を「道灌かがり」にしました、と語っています。
亀塚公園=東京都港区544‐16‐15
亀塚稲荷神社=東京都港区三田4‐14‐18
posted by otadoukan at 17:15| Comment(8) | 道灌の物見台、亀塚

2012年01月30日

都心の道灌有縁の社・さらに2か所

読者からの情報により、日本橋界隈の道灌有縁の社(やしろ)をさらに2カ所訪ねます。
東京メトロ日比谷線の人形町駅から地上に出ると甘酒横丁の交差点があります。甘酒横丁と反対側の道を3分も行くと日本橋小学校の建物が見えます。そのあたりできょろきょろすると小網神社への案内標柱が目につきます。この神社もまた、都心のビルの谷間にある小さいけれども由緒ありげな神社です。鳥居の右側に由緒書きがあり、次のように記されています。
「当神社は伊勢神宮を本宗として、文正元年(1466年)今より約550年前に、商売繁盛、疫病鎮静の神として鎮座した。(中略)その後太田道灌は当社への崇敬篤く、時折参拝し、社地を奉じ社殿を造営したといわれる。社名も公の命名によると伝えられる。(後略)」
小網神社.JPG    
(小網神社) 
小網神社由緒.JPG
(由緒書き)
境内には、1929年(昭和4年)の造営になる社殿と神楽殿があります。この神社は、小網町および人形町の一部の氏神として、東京下町の人々の信仰を広く集めています。私が見ている間にも参詣の人が絶えませんでした。出口の見えない不況のご時世のためか、カバンを提げた立派なサラリーマン氏も少なくありません。その中には、賽銭を上げないで拝んでいくだけのちゃっかり組もいます。
小網神社は中央区民文化財に登録されています。

人形町から都営浅草線で二駅移動すると浅草橋へきます。浅草橋駅から南へ3分も歩くと浅草橋があり、橋の上から赤ちょうちんをつけた船がたくさん見えます。橋をわたってすぐに郵便局があり、その隣のビルの二階に初音森神社があります。ビルの入り口に由緒書きがあり、次のように記されています。
「当社は、元弘年間(1330年頃)に創祠され、豊受比売命を祀る。文明年中太田道灌公により大社殿が建てられた。(後略)」
往時、この方面は江戸城の鬼門であったので、道灌は大社殿を建立して悪鬼を追い払おうとしたと思われます。このあたりは初音の里とよばれ、近くに初音の森があったそうです。
明暦の大火後に、初音神社の本社は墨田区に遷宮したけれども、儀式殿は昭和23年に旧蹟に戻り、さらに昭和48年近代建築すなわちビルの二階に鎮座したということです。
初音森神社.JPG     
(初音森神社儀式殿)
初音森神社由緒.JPG
(由緒書き)
人間がマンションに住む時代ですから、神様がビルの二階に住んでいてもふしぎではありません。「土一升は金一升」といわれる東京のど真ん中でも、神社が存在しつづけるということは、神様が人間と生存競争をして負けていないということの実証です。
小網神社=東京都中央区日本橋小網町16‐23
初音森神社=東京都中央区東日本橋2丁目27‐9

2012年01月16日

都心・ビルの谷間、道灌有縁の二社

東京メトロ日比谷線の人形町駅から日本橋の方へ7分も歩くと、ビルの谷間に小さな稲荷社があります。常盤稲荷(ときわわいなり)神社です。赤い鳥居の左側に由緒書きがあり、次のように記されています。
「当社は室町中期長禄元年(1457年)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神のご分霊をいただき、常盤稲荷と名づけ、同城の守護神として勧請された。後に、徳川家康公開府により、江戸城郭拡張工事が行われ現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが、当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに当社が移された。
宝暦(1751年〜)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に
  名に高き蘆のなぎさの葭原に
       鎮めまします常盤の神
の歌がしるされていたと伝えられる。(後略)」
この伝承によると、常盤橋の名前は太田道灌由来ということになります。その後、この神社は日本橋の魚市場内に移り、江戸時代には大いに繁盛したけれども、時代の変遷で今は、都心のビルの谷間にひっそりと潜んでいます。
常盤稲荷神社.JPG    
(常盤稲荷神社)
由緒.JPG  
(境内の由緒)
太田道灌は軍師でもあったので、当然陰陽道にも通じていて、石岡市の常陸国総社神社蔵の道灌遺愛の軍扇には十二支が記されています。陰陽道では、鬼門(北東)には悪鬼が集まり災難をもたらすとされます。したがって道灌は、江戸築城に際して、城の鬼門すなわち現在の神田、秋葉原のあたりに、江戸城鎮護ために盛んに社寺を勧請し、人々の江戸城への求心力を高めました。それらの社寺の多くは、徳川家康の江戸城拡張で移転し、さらに明暦の振袖火事や太平洋戦争空襲のため再度移転して方々へ分散しています。

常盤稲荷神社からさらに堀留町の方へ5分も歩くと、椙森(すぎのもり)神社があります。この神社もまた、ビルの谷間のちょっとした空間にあります。境内に、中央区教育委員会の説明板があり、次のように記されています。
「椙森神社の創建は、社殿によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森、柳森、椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。(後略)」
022.JPG   
(椙森神社)
教育委員会説明板.JPG
(教育委員会の説明板)

江戸城下の三森といわれた烏森神社(港区)、柳森神社(千代田区)、椙森神社の三社はいずれも稲荷社です。JR線秋葉原駅近くの柳森神社は、太田道灌が伏見稲荷を勧請して創建しました。JR線御茶ノ水駅近くにある太田姫稲荷神社は、太田道灌が娘の病気平癒を祈願した神社と伝えられています。昔の人は、稲荷の動物的な通力による病気平癒、商売繁盛や五穀豊穣を信じていたようです。今も椙森神社には、何やら願掛けにくる老若男女が絶えず、都会のど真ん中なのに、否それだからこそか、信心深い人が多いのに驚かされます。
椙森神社は中央区民文化財に登録されています。
常盤稲荷神社=東京都中央区日本橋本町1‐8
椙森神社=東京都中央区堀留町1‐10‐20

2012年01月01日

中城址・仙覚律師旧跡

JR八高線あるいは東武東上線の小川駅から10分も歩くと、小川町立図書館へきます。この図書館は、木材を基調とした心和む造りで、館内は広く、構造にもいろいろな工夫がほどこされています。私は、畳敷きの和風の閲覧室をここではじめて拝見しました。この図書館の前から東の方を見ると、八幡山とよばれる小高い岡があります。そこが中城址・仙覚律師(せんがくりつし)旧跡です。
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(中城址入口標示)  
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(中城の本丸跡)
1475年(文明7年)、長尾景春は山内上杉家の家宰人事の不満から主君上杉顕定へ叛旗を翻し、五十子(いかっこ)陣(本庄市)への通路を封鎖して上杉軍を脅かしました。その頃景春は、道灌のもとへ数回遣いを出して反乱への加勢を頼みました。そしてさらに、道灌が五十子の上杉本陣へ参陣の途中で小河(小川町)に一泊したとき、翌朝早くに、景春自身が飯塚(深谷市)から馬をとばしてやってきて反乱への与同を頼みました。しかし、道灌はそれを拒否しました。景春が道灌に対して度々重大な反乱への加勢を頼んだことを考えると、二人はやはり親類であって、若年のころより互いに熟知していた間柄であったに違いありません。「太田道灌状」には、次のように記されています。
「先年五十子御難儀の刻、道灌参陣の時、景春数ヶ度便を越され無益の由申し候と雖も、押して罷り立ち、上田上野介在郷の地小河に一宿仕り候処、飯塚より早朝景春罷り越し堅く申し留め候。意趣は、御陣に於いて御屋形並びに典厩様洩らし奉らざる様計略最中に候、道灌参り候えば時儀相違す可き旨様々申し候の処、承引する能わず参陣致し、云々」
この一節を読めば、道灌が最初から、断固として景春を諫め、上杉家を厳護しようとしていたことがわかります。このとき道灌が一泊した小河とは、城郭史家の梅沢多久夫氏によると、埼玉県比企郡小川町の中城に該当するということです。中城は、小川町の比高18メートルの台地にある単郭の城で、二重土塁、屏風折り土塁、食い違い虎口などが良好に保存されています。発掘調査の結果、中城は15世紀後半の築城と考えられています。猿尾(ましう)四郎種直が城主であったと伝えられていますが、詳しくはわかっていません。もし、太田道灌がここに一泊したとすると、そのときの城主は、道灌の盟友であった上田上野介ということになります。
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(土塁に立てられた万葉歌掲示)
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(空掘りと土塁)
中城址は、仙覚律師旧跡としてもよく整備されています。天台宗の僧であった仙覚律師は鎌倉時代の万葉学者でもあり、4500首あまりの万葉集を読み解いて、1269年(文永6年)「万葉集註訳」をつくりました。今日我々が、万葉集の万葉仮名を読んでその意味を理解できるのは、仙覚律師のおかげだそうです。仙覚律師は鎌倉の比企谷から蒙古来襲時の喧噪を逃れて、鎌倉街道上道沿いの小河へ来ました。彼がこの偉業を完成させた場所は、「比企北方痲師宇郷(ましうごう)政所(まんどころ)」と「万葉集註訳」の奥書に記されています。そして、摩師宇とは比企郡小川町増尾(ましう)の中城址と比定されました。最近では、増尾の長昌寺境内が摩師宇であるとされているけれども、中城址は仙覚律師有縁の地として城域に佐々木信綱撰文の記念碑が建立され、数十首の万葉歌が掲示されています。そしてこの山里に、おどろくほどの立派な図書館があるのは、仙覚律師が残した好学の遺風のしからしめるところであるのかな、と私は考えてしまいました。太田道灌も歌人であったから、中城で万葉集を思い出して一首を詠んだのかもしれません。
中城址・仙覚律師旧跡は埼玉県指定旧跡です。
中城址・仙覚律師旧跡=埼玉県比企郡小河町大字大塚字中城 
posted by otadoukan at 14:41| Comment(6) | 中城址・仙覚律師旧跡

2011年12月14日

上杉氏の逃亡・那波荘と宿阿内城等

1476年(文明8年)長尾景春は、山内上杉氏の家宰の人事に不満を持って五十子(いかっこ)を離れ、自らの根拠地白井(しろい)城(渋川市)で兵力をととのえ、鉢形城(寄居町)で主君上杉氏へ反旗を翻し、同年6月に五十子陣の上杉氏を脅かしました。翌年、すなわち1477年(文明9年)正月18日、景春は五十子の上杉陣を急襲し、長尾景春の乱がはじまりました。現在、全国的にはあまり知られていない本庄市の五十子は、上杉軍が古河公方と長年対峙しつづけたところであり、この場所から新たな台風ともいうべき長尾景春の乱がはじまったので、関東の混迷は一層複雑になりました。本庄市は地理的には関八州の中心地であり、当時関東では台風の目のような場所だったのです。
不意を突かれた上杉方は、利根川を渡って那波荘(なわのしょう)(伊勢崎市)すなわち那波城と今村城へ逃げました。那波荘に拠る国人領主那波氏は当時、利根川の東側にいたけれども上杉方に与していました。その後、山内上杉顕定は宿阿内(しゅこうち)城(前橋市)へ、扇谷上杉定正と太田道真は細井(前橋市)へそして越後上杉氏は白井城へ逃走しました。
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(那波城址・本丸跡の碑)
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(徳富蘇峰書の那波城址碑)
東京より国道17号線を北上して本庄市の五十子陣址を過ぎ、国道462号線で右折すると利根川に架かる坂東大橋を通ります。約千メートルの橋を渡り、県道18号線に入りやや行くと伊勢崎市堀口町へきます。伊勢崎市立名和幼稚園の近くの路傍に「那波城址・本丸跡」の碑があります。耕地整理のため城址の遺構は完全に消え、本丸跡の碑だけが残っています。「此処に城ありき」と碑文に記されています。また、この近くの伊勢埼市立名和小学校の校庭の東隅にも、徳富蘇峰の書による巨大な「那波城址」の石碑が立っています。那波城址は、五十子陣址から約5キロの地です。
さらに南西方向へ約2キロ行くと、稲荷町の水田地帯の民家の庭に、今村城址の碑があります。今村城址も、古墳を利用した那波氏の居城であった所であり、伊勢崎市指定史跡です。
景春軍の騎馬隊に恐れをなした上杉軍は、慌てふためいて渇水期の利根川を渡って一目散に逃げたのです。このことは、当初の景春軍がいかに強盛であったかを物語っています。当時、駿河から帰還して間もない太田道灌は江戸城にいました。道灌は、親類であった禅僧の統訓(とうくん)を景春のもとへ派遣し、上野の上杉定正と太田道真を追撃しないように要望し、景春に謝罪を勧めました。
「太田道灌状」にいわく、「翌年(文明九年)正月十八日、東上野へ御陣を開かれ候。其の刻も道灌、景春処へ、親類の統訓蔵主並びに卜厳を越し置き、既に屋形と老父御一所候の上は、何方へ御陣を移され候と雖も、障り申すべからざる旨様々申し候の間、襲い奉らざるに依り、御無為に利根川を御渡り越し、河内へ御移り候」と。「松陰私語」には、「越後陣は白井に陣張り、山内は阿内に陣張り、川越(扇谷)は細井口に陣張り」と記されています。 
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(今村城址碑・今は民家の庭) 
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(宿阿内城址・女体神社)
このときの取り合いは、長尾景春、上杉氏、太田道灌それぞれにとって、重大な意味のある緒戦でした。もしこのとき、道灌のとりなしがなければ、景春軍は利根川を越えて上杉氏を深追いし、つぎつぎと打ち滅ぼしていったに違いありません。このときの、関八州を俯瞰すると確かに、上杉方は、古河公方の勢力と景春与党に挟まれて、その命脈は風前のともしびといった状況でした。景春軍は、破竹の勢いではあったものの、それは不満勢力の爆発であったので、上杉氏を滅ぼして戦国大名を指向するような中長期的な視野は持っていなかったようです。
その後各地の景春与党が蜂起するや、道灌は電光石火の速攻で景春与党を次々と各個撃破し、形勢を逆転していったのです。上杉氏は、道灌の鬼人のような働きで危機を脱したのです。上杉定正がそのことを理解し、尾羽打ち枯らして利根川を渡って逃げた日の事を忘れなければ、伊勢原の糟屋館で道灌謀殺という不幸な出来事を起こさなかったはずです。しかし定正は事の重要性と道灌の尽力を理解できませんでした。それは名門の苦労知らずの世継ぎにはしばしば起ることです。この根源的な瑕疵(かし)により、のちに上杉家は滅亡することになります。
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(利根川の坂東大橋)
利根川の東岸を約10キロ遡ると畑の中に宿阿内城址・女体神社(前橋市)があり、さらに約10キロ北上し前橋市内へ入ると上細井町、下細井町があり、そのまた約10キロ北方に白井城址があります。
今、冬の日に、坂東大橋のたもとに立ってみると、だだっ広い利根の河原を上州名物のからっ風が吹き抜け、はるかに白雪をかぶった赤城の山々が連なって見えます。そして、かつてここで、あるときは攻め、あるときは逃げ、攻防を繰り返した男たちの雄叫びと叫喚が、風に乗ってかすかに聞こえてくるような気がします。
那波城本丸跡=群馬県伊勢崎市堀口町260
那波城址・名和小学校=群馬県伊勢崎市堀口町502
今村城址=群馬県伊勢崎市稲荷町772
宿阿内城址・女体神社=群馬県前橋市亀里町1138-4
細井=群馬県前橋市上細井町・下細井町
白井城址=群馬県渋川市白井2318-1

2011年12月08日

本郷城址・傑傳寺・道灌伝説の地

東京のJR山手線駒込より、東京メトロ南北線、埼玉高速鉄道と乗り継いで鳩ヶ谷で降ります。鳩ヶ谷駅より川口駅方面へバスで10分あるいは徒歩で20分もいくと新郷農協があります。そこから高速道路沿いに北へすこし歩くと本郷城址すなわち曹洞宗の傑傳寺へきます。この寺域は、もと太田道灌築城の本郷城のあったところと伝えられています。隣接地に「曲輪」という地名もあります。
江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」の足立郡谷古田領本郷村の項に、傑傳寺と城跡について次のように記されています。「当寺境内は古(いにしえ)太田道灌が築きし塁跡なりと云。少しき高き所にして広さ六千坪許(ばかり)。南の方に表門あり、此処古の追手口なるべし。(中略)思ふに全棟寺の中興開基太田備中守輝資此処に住せしといえば、おそらくはこの人の居跡なるべし、境内の図左に出せり」。図によると、小高い舌状地に土塁で囲まれた建物があります。その図と現在のこの高台の地形から考えると、本郷城はちょっとした砦か領主の館のような所であったのではないかと思われます。この地は上総の千葉氏あるいは古河公方の領域に近いところなので、太田道灌が出城を築いた可能性はあります。
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(城址の高台・右奥)
土塁と崖.JPG   
(土塁の遺構と思われる所)
太田輝資は太田資高の子であり、康資の弟になるので、道灌の曾孫ということになります。ここはまた、太田資高が拠った稲付城・靜勝寺(東京都北区)とも近いので、太田氏有縁の地であったことは間違いありません。したがって本郷城は太田輝資の築城であった可能性も高いと思います。輝資は、兄康資とたもとを分かち後北条方についたけれども、小田原の役後に所領を失い、後に旧領谷古田(川口市)に隠棲したということです。
傑伝寺の寺域の土塁がある高台は、まわりが崖になりあるいは金網で囲まれているので、残念ながら詳細がわかりません。
川口市教育委員会にたずねると、本郷城址は道灌伝説の地として認識しており、未だ発掘調査は行っていないということです。
本郷城址・傑傳寺 =埼玉県川口市東本郷1506

2011年11月10日

道灌松の子松 (蓮田市)


東京より国道17号線を北上し、上尾市の久保という所で埼玉県道87号線を東へ入ると蓮田(はすだ)市へきます。閏戸(うるいど)というあたりへきて、土地の人に吾庵橋(ごあんばし)をたずねるとていねいに教えてくれました。この橋の周辺は農道のような道がありやや複雑です。あとでわかったけれども、農道のように見えても、かつて大山詣でをする人々が通った大山道(鎌倉古道)でありました。吾庵橋の近くに、1831年(天保2年)に建てられた庚申塚が残っています。
見沼代用水にかかる吾庵橋のそばの斎藤宅が目指すところです。斎藤宅の主人が仕事の手をやすめて「最近どういうわけかうちの道灌松を見にくる郷土史愛好者が多くなりました」と言って色々説明してくれました。
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(見沼代用水)
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(吾庵橋の銘板)
斎藤氏の先祖は、江戸時代に見沼用水で船荷をあつかう見沼通船の仕事をしていたので、今でいえば、運送会社の社長です。8代将軍徳川吉宗が、紀州流の手法で見沼用水を大きく改修し、通船業は大いに栄えました。
斎藤宅の前の道は大山道で、往時、太田道灌がここを通ったとき、松を植えて休憩所とし、五庵と名付けました。斎藤氏は「ここに庵のような休み所を五つ作って五庵と名付けたのかなあ」と言っていました。道端の道灌手植えの松が大木となり道灌松といわれるようになりました。そしてここに架けられた橋は吾庵橋と呼ばれました。
道灌手植えの松は樹盛が衰え、1896年(明治29年)にある人によって切られました。しかしその松の種が飛んできて斎藤宅の庭に生え、今ではみごとな松となっています。その松は、間違いなく道灌松の実生の子松だということです。この子松は、よく手入れをされ、枝ぶりといい、色つやといいほんとうに見事な松です。じっと見とれてしまうほどであるから、人間でいえば超美人です。
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(道灌松の子松)
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(近くの庚申塚、側面に天保2年の文字)                                    
初代の道灌松があったところに、今は巡礼碑が立っています。蓮田市教育委員会は、斎藤宅の前の大山道の道端に、道灌手植えの松があったということを、この地の伝承として認識しています。私は、この話はほんとうのことだと思います。なぜなら、往時、このあたりは元荒川沿いの沼沢地で、約10キロ北方には、古河公方軍の前線基地であった騎西城(加須市)がありました。したがって、吾庵橋のあたりは上杉領の境界領域であり、道灌は岩槻城あるいは川越城から度々状況視察にきていたに違いありません。このような道灌松は、山吹の里と同じように方々にあっても不思議ではないのです。
吾庵橋=埼玉県蓮田市閏戸

posted by otadoukan at 12:04| Comment(8) | 道灌松の小松 (蓮田市)

2011年10月20日

赤浜の川越岩・中世北武蔵のメインロード

埼玉県寄居町赤浜の荒川には往時、山王の渡しと川越岩(かわこしいわ)による徒(かち)渡りがありました。赤浜の対岸は深谷市の花園です。今では上流に花園橋、下流に関越道の荒川橋が見えます。水量の少ないときに岩礁をつたうこの個性的な渡河地点は、中世には鎌倉街道上道(かみつみち)につながり、太田道灌の足軽隊も長尾景春の騎馬隊も絶えず通りました。歴史的に意味深く地形的にもおもしろいこの場所は、今は忘れられている場所なので、今回敢えて紹介します。
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(普光寺の説明板)        
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(山王坂、鎌倉街道の標柱)
関越道の嵐山(らんざん)ICで降り、国道296号線を北上し、花園橋の手前で埼玉県道81号線を東へ入り、少し行くと赤浜字塚田というところに天台宗の普光寺が見えます。普光寺の説明板に、山王の渡しと川越岩へのルート地図が記されているので助かります。この寺の東側にある農道が鎌倉古道です。まっすぐ荒川へ向かう古道は今、建物や雑木林で遮断されているので、少々西側を迂回すると山王坂にでます。荒川筋の道に出て東へ200メートルも行くと、川越岩が見えてきます。土手を降りて川原を歩くと川越岩へきます。川のこちら側と中ほどに巨大な獅子岩が鎮座し、その他の小振りの岩塊も点在しています。獅子岩をじっとみていると確かに獅子に見えてきます。獅子は獅子でもいのししに見えてくる岩もあります。獅子岩は水量を計る目安にもされ、水面が上がったときは川止めされました。今も、水量の多いときの河原は危険です。私が訪れたときは、獅子岩の中ほどまで泥が付着していたので、この川があばれたときの濁流の凄さを思い浮かべてぞっとしました。 
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(川越岩と渡河地点) 
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(濁流の泥が付着した獅子岩)
赤浜から鎌倉街道を南へ行くと、高見、苦林(にがはやし)、久米川、府中をへて鎌倉へ向かい、荒川を渡って北へ行くとすぐに秩父往還を横切り、用土、児玉、平井をへて上野(こうずけ)へ向かいます。したがって川越岩の渡しは、鎌倉街道上道と秩父往還熊谷通りの交差点の要衝でした。その意味で、赤浜の川越岩は中世北武蔵のメインロードでありました。
「新編武蔵風土記稿」に次のように記されています。
「赤浜村、村の東の方、小名塚田の辺に、鎌倉古街道の跡あり、村内を過ぎて荒川を渡り榛澤(はんざわ)郡に至る。今もその川筋荒川の中に、半左瀬・川越岩ととなふる処あり、(中略)川越岩は川の中にある岩なり、これもその頃の渡場にて、今も官の巡検使至る時は、ここに渡船を設くと云」。
普光寺の説明板によると、荒川の渡しを「山王の渡し」と称し、大沢半左衛門が関守をしていたので、「半左の渡し」とも称されました。この渡しの南側は、寄居町赤浜字塚田であり、川の向うのには深谷市武蔵野に飯塚という地名があります。
「太田道灌状」には、塚田と飯塚の地名が度々出てきます。1473年(文明5年)、太田道灌が五十子へ参陣する途中で小河に一泊しました。翌朝「飯塚より早朝景春罷り越し堅く申し留め候」とあるように、長尾景春は飯塚館から騎馬で赤浜を渡り、道灌へ反乱への加勢を頼みにきました。
1480年(文明12年)正月4日、長尾景春が児玉で蜂起しました。「(道灌は)同六日塚田へ罷り越し(中略)、その後景春飯塚陣へ夜懸け致すベく儀定まり候処、その夜其の儘秩父へ退散せしめ候」とあります。
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(じっと見ると獅子に見える岩) 
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(渇水時に露頭する岩礁)
道灌没後1494年(明応3年)10月、扇谷上杉定正は北条早雲の援軍を得て意気揚々と高見原の戦に出陣し、山内上杉顕定と4度目の対戦をしました。定正は、荒川を渡河しようとして落馬し、濁流に流されて死去しました。時に定正は49歳あるいは52歳ともいわれ、道灌を謀殺して8年後でした。このあたりの荒川を渇水時に見ると、河床一面が、ごつごつとした岩礁を敷き詰めたように見えます。増水したときに馬で渡る危険性を、大将に知らせる気のきいた部下も土地の者もいなくなっていたのでありましょう。当時の軍師は、奥秩父の変わりやすい天候と急峻な山肌を考え、荒川の暴れ具合を推測して作戦をたてなければならなかったのです。
この河原に立てば、道灌や景春がこの川の両岸を走り回ったことが、身近な出来事のように思えてきます。昔は、武士や旅人でにぎわった川越岩にも、今は人っ子ひとりなく、岩塊の上に黒鷺がとまって餌をねらっているだけです。川越岩のあたりは歴史的にも意味深く、おもしろい地形であるので、川辺の道端に説明板を設置するとちょっとした観光スポットになります。
普光寺=埼玉県大里郡寄居町赤浜字塚田620
赤浜の川越岩=埼玉県大里郡寄居町赤浜

2011年10月07日

我孫子市の根戸城址

千葉県我孫子(あびこ)市の手賀沼西端の近くの舌状台地に、太田道灌築城と伝えられる根戸(ねど)城址があります。この城址は、JR常磐線の北柏駅から北東へ約1キロの地点です。東京からは外環状線を東へ向かい、三郷西TCで降りて6号線(水戸街道)に入り、手賀沼西端で地元の人に尋ねるとわかります。この城址は個人の所有地であるので、案内板など一切ありません。
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(根戸城址遠望)
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(手賀沼)
持ち主である日暮(ひぐらし)さんの許可を得て、庭を通って裏へ回るとすぐに城址の登り口です。城址には、空掘りと土塁で仕切られた主郭と二郭があり、東側に櫓台、西側に金塚古墳があります。連郭式の城域はたいへん良好に保存され、一目見て道灌くさい城だなあ、と思います。両郭ともテニスコートをつくれるくらいの広さがあり、空掘りは土塁のうえから幅、深さとも約8メートルあります。
「千葉県東葛飾郡誌」「日本城郭体系」などが記すところは、口碑によれば1478年(文明10年)太田道灌軍が境根原(柏市)で、千葉孝胤(のりたね)軍と激しい合戦を行ったとき、道灌が根戸城を築城したということです。根戸城址から境根原古戦場まで約5キロあります。根戸城に潜んでいた道灌の足軽隊が、追撃してきた千葉軍を境根原で待ち伏せし、足軽戦法で猛攻撃をしたと思われます。千葉軍は敗れて臼井城(佐倉市)へ遁走して籠城しました。今も境根原古戦場には大きな塚が2基あります。

「太田道灌状」には「関東御無為の儀候えば、以後に於いて小人等頸を出すべからず候間、旁々の儀を以って其の略を廻らし、十二月十日、下総境根原に於いて合戦せしめ勝利を得、翌年臼井へ向かって陣を寄せられ候」とあります。「其の略を廻らし」とは、境根原での足軽戦法であったと思われます。そうしなければ、少勢の道灌軍が総州の大軍である千葉軍には到底勝てません。道灌が布陣した国府台城(市川市)から見て、境根原が千葉城(千葉市)とも臼井城とも関係のない方角であるので、追撃する千葉軍が逃げる太田軍に境根原まで誘(おび)き寄せられたとしか考えられません。
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(根戸城本郭と土塁) 
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(本郭と二郭の間の空掘り)
我孫子市教育委員会に聞いてみると、根戸城址は我孫子市の埋蔵文化財としては認定しているけれども、太田道灌関連史跡としては、確かな古文書や埋蔵物で証明されていないので認定していないということです。
舌状地の先端に連郭があって城下まで手賀沼が迫っていたとすると、この城は益々道灌流の縄張り(道灌がかり)ということになり、相当の要害であったと推測できます。そしてあの日、根戸城の木立に隠れていた道灌の足軽隊は、突然姿を現し、道灌橋をわたって疾風のように境根原へ向かって駆け抜けたに違いありません。

道灌軍が、根戸城に帯陣したという伝承は、緒状況から考えて、私には事実であると思われてしかたがありません。根戸城址は太田道灌伝承の地として、隣接している金塚古墳と合わせて史跡公園にする願望が市民の間にあります。
日暮家のおばあちゃんは「昔は城址のすぐ下まで手賀沼が伸びていて、うちの庭から魚釣りができました。沼のつづきに『道灌橋』と呼ばれる橋がかかっていたけれども、今は干拓と区画整理で橋もなくなって畑となりました。年寄りがいなくなったら、そういうこともわからなくなるでしょう」と語っていました。
かつて手賀沼の水をたたえていた城下は、今はいも堀り農園となっています。そこの紅あずまを掘らせていただいて帰り、食べるとたいへん美味でした。
根戸城址は、我孫子市の指定埋蔵文化財です。
根戸城址=千葉県我孫子市根戸荒追1341番外 
posted by otadoukan at 07:42| Comment(8) | 我孫子市の根戸城址

2011年09月23日

杉並区の矢倉台・道灌の物見台か。

東京都杉並区で五日市街道の「緑地公園前」という信号標示で北へ曲がると、すぐに善福寺川緑地公園があります。東京メトロ丸の内線南阿佐ヶ谷駅から徒歩10分でも来ることができます。公園内の善福寺川に屋倉橋という橋がかかっているので、その橋をわたってすこし直進すると、右側に小高い地点があります。今は、学校法人の研修センターになっている、その場所が矢倉台(山)といわれるところです。
徳川幕府の未刊の地誌「新編武蔵風土記稿」(1830年)には、「矢倉、四方田園にて高き場所あり、伝に云う、鎌倉時代より陣屋跡ありしを、其の後、太田道灌の持となり家臣某をして守らしめしが、道灌滅亡にいたりて廃したりと、或は云う、成宗(なりむね)が柵跡なりと、此の事まことならんには、彼陣屋櫓のありし処へ成宗移りて籠居せしなるべし、されどその詳なること伝えざればうけがいがたきことなり。此の辺に鎌倉街道の迹ありなど云う」と記されています。
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(屋倉橋)
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(橋名)
矢倉とは矢を収納する建造物であるけれども、物見台を兼ねることが多く、やがて見張り台を櫓(やぐら)というようになりました。杉並区成田西の矢倉台と言われているところは、三方を曲がりくねった善福寺川に囲まれ、このあたりでは珍しい小高い丘であるから、物見台をかねた陣屋の場所として最適であります。鎌倉時代には、御家人の中野左衛門尉成宗が砦を構えて鎌倉街道を監視し、周辺を開拓したので、今も成宗公園という地名が残っています。伝承によると、室町時代には、太田道灌が物見台をおいて眼下の街道を見張りました。おそらくこのあたりが、江戸城主としての道灌の統治範囲の境界であったので、砦をおいて監視したのだと、私は推測します。道灌は、江戸へ通ずる全ての街道にそのような物見台を設置して、自己の版図を確保、拡大していったに違いありません。
現在では、杉並区の矢倉台の近くに中央道と首都高速の境目である高井戸ICがあり、料金所となっていることは面白いことです。今も昔も人間の感覚では、このあたりが江戸(首都)と郊外の境目となるのかもしれません。
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(矢倉台)
成宗公園といい屋倉橋といい、歴史を伝える地名が残っていてほっとします。
杉並区教育委員会に訊いてみると、矢倉台が物見台であったことは認識しているけれども、いまだ太田道灌の史跡としては認定していないということでした。
屋倉橋=東京都杉並区成田東善福寺川公園
矢倉台=東京都杉並区成田西4丁目12番地 

2011年09月02日

「太田道灌状」の中の気になる地名・飯塚陣

「太田道灌状」の中で、城名や戦場名のように主役的な地名ではないけれども、脇役として重要な場面でちょこちょこ顔を出す気になる地名があります。その一つは武蔵の飯塚(深谷市)です。飯塚には、なぜかいつも長尾景春が登場します。
1473年(文明5年)、太田道灌が五十子参陣の途中で小河(小川町)に一泊したとき、景春が飯塚から小河へ早朝やってきて道灌に謀反への与同を頼み、拒否されました。「飯塚より早朝景春罷り越し堅く申し留め候、意趣は、御陣に於いて屋形ならびに展厩様洩らし奉らざるよう計略最中に候」(太田道灌状)
1480年(文明12年)正月4日、長尾景春が児玉(本庄市)で蜂起したので、道灌軍は塚田(寄居町)に進軍したところ、景春軍は飯塚陣にたてこもりました。上杉方は13日に、飯塚陣の景春軍に夜襲をかけようとしていたところ、その夜景春軍は秩父へ退散しました。「その後景春飯塚陣へ夜懸け致すべく儀定まり候処、(景春は)その夜その儘秩父へ退散せしめ候」(太田道灌状)
長尾景春の軍勢が動くとき、拠点としていた飯塚陣とはいったいどこなのでありましょうか。そこには、景春が頼りにしていた人物がいて、軍勢を駐屯させる場所があったに違いありません。
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(萬福寺)
   
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(飯塚館の水堀跡)
JR八高線の用土駅から、国道254号線を南方へ約1・5キロ行くと、「仙元前」という信号交差点があります。そこから寄居方面へ少し行くと、右側に「飯塚山大通寺」の看板があり、左側へ少し行くと真言宗智山派八幡山萬福寺があります。現在このあたりは、畑と民家が混在して地名は武蔵野であるけれども、かつては飯塚という場所でありました。市町村合併で飯塚という行政地名は埋没し、バス停の名前にのみ残っています。萬福寺境内に深谷市教育委員会の説明板があり次のように記されています。
「(前略)現在の萬福寺のある場所は、中世武蔵武士猪俣党の流れをくむ飯塚掃部(かもん)氏行の館があったと言われ、本堂裏に当時の空掘りの一部が残っています」
萬福寺の後方の民家の横に、館の遺構と思われる水掘りがあります。
飯塚掃部佐衛門尉氏行は武蔵武士七党の一つ猪俣党に属し、景春に与同する土豪であり、ここに館を構えていました。景春は重要な行動を起こすときしばしば飯塚館を陣地としたに違いありません。大通寺のあたりは低い丘陵地帯なので、軍勢を隠すこともできそうです。もちろん道灌もこの場所を知っていたので、文明12年正月に、上杉軍が夜襲をかける前に親類でもあった景春に情報をリークし、秩父へ逃がしたと私は推測しています。ここから長瀞へはわずか10キロくらいです。

飯塚氏が猪俣党の土豪であることを知って、私の脳裏には、秩父の郷土史家が熱心に主張していたあることが浮かんできました。それは、景春が秩父へ退散後に拠った塩沢城は、猪俣氏に近い多比良(たひら)氏の築城した城であるということです。長尾景春、飯塚氏、猪俣氏、多比良氏は人脈でつながっていたということになります。多比良氏は平氏の別称で猪俣氏と親しく後に猪俣氏の名跡を継承し、今も塩沢城の近くにはその猪俣氏の末裔が多く住んでいます。
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(塩沢城址の平場)
私が、はじめて塩沢城のいくつも続く大規模な段郭(だんくるわ)をよじ登ったとき、これは追いつめられた景春軍が短期間で造ったものとは思えない、というのが率直な第一印象でした。塩沢城は、多比良氏が長年かかって築城した段郭の山城と思われます。「太田道灌状」で多比良氏は要害を構えていると言われていますがその要害とは塩沢城と思われます。そして多比良氏は塩沢城の隣接地である高指(たかざす)へ逃げてきた景春へ塩沢城を譲り、道灌は高指の要害と隣接する塩沢城を合わせて秩父の高佐須と呼んだと思われます。
地名は、まことに言葉の化石であり、その中に過去の歴史が秘められているのであります。
飯塚館跡・萬福寺=埼玉県深谷市武蔵野455
塩沢城址=埼玉県小鹿野町大字両神薄字塩沢5600
 

2011年08月09日

駿河・伊豆の太田道灌

JR線静岡駅北口からバスで7分、徒歩でも15分ほどで八幡(やはた)2丁目の交差点へきます。そこに立ち四囲を見ると、樹木におおわれた小高い丘すなわち八幡山城址に気づきます。市街のど真ん中にある約64メートルの城山なので、登り口はたくさんあります。登って見ると城山の傾斜がきつく、この城は崖城であることがわかります。
二ノ曲輪址に「八幡山城」の石碑と静岡県の説明板があり、それに「文明八年(一四七八年)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は、今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍で一応の決着を見た」と記されています。30メートルほど離れた本曲輪址からは展望がひらけて市街を見わたすことができ、好天のときは富士山や駿河湾も見えます。おそらく道灌軍布陣のとき、二つの曲輪の間に深く広い空堀をつくり、道灌がかりとしたと思われるけれども、今は堀が埋まっています。
           
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(八幡山城址碑) 
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(城山の登り道)
1476年(文明8年)駿河守護今川義忠が戦死し、6歳の嫡男竜王丸の一派と義忠の従兄弟今川新五郎範満の一派が跡目争いを起こしました。範満の母の実家が扇谷上杉氏であり、烏帽子親(元服名をつける仮親)が堀越公方足利政知であったので、上杉氏は太田道灌を駿河へ派遣して問題の解決を図りました。駿河で竜王丸の伯父伊勢新九郎と太田道灌が談合し、竜王丸が成人するまでの間だけ範満が駿河守護職を代行するという妥協案で一応の決着を見ました。この間のことについて、司馬遼太郎は小説「箱根の坂」の一節「太田道灌」に書いています。
「太田道灌状」には、次のように記されています。
「翌年(文明八年)三月道灌は駿州へ向かひ、今河新五郎殿合力として相州を罷り立ち六月足柄に越し、九月末本意の如くして豆州北条に参上致し、十月末帰宅せしめそのまま出頭に及ばず候。其の意諏は、他国に罷り立ち既に十カ月に及ぶ難儀に取り合候処、忠景の一度の音信に預からず候。若干の公私のご無為を成し奉り、親疎を論ぜず粉骨を励まし候処、幾程もなく思い忘れ此くの如く候の間、且つは恨み入り且つは陣労も候間、かたがたの儀を以って差し籠り候」
道灌はおそらく手勢2,3百騎を連れて駿河へ向かい、半年間も兵を八幡山に駐屯させて今川家の駿河舘で度々伊勢新九郎等と交渉しました。したたかでしぶとい新九郎相手に相当骨の折れる交渉でありました。しかし両上杉氏は、内弁慶で外交交渉のむずかしさをしらなかったので道灌の苦労を理解できず、道灌の報告に対してなんの音信もしなかったのでした。道灌は駿河で任務をはたし、八幡山城から江戸城へ帰る途中、豆州北条へ寄って堀越公方足利政知に一部始終を報告しました。道灌にとって、前後の段取り等をふくめて約8か月の難儀でありました。
八幡山城はその後、1569年(永禄12年)武田信玄が攻略し、江戸時代には廃城となりました。
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(伝・太田道灌築造嵯峨流名園)
ところで、静岡市には太田道灌にかかわる史跡がもう一カ所伝えられています。JR静岡駅北口よりバスで北へ向かい、駿府公園を過ぎたあたりの赤鳥居というバス停で下車します。そこから浅間神社を巻いて進むと東雲神社という小さな社があり、そのとなりに庭園があり、芝生に「太田道灌築造嵯峨流名園」と彫られた石碑が立っています。池と石を配したすばらしい庭園であるけれども、現在は静岡鉄道株式会社の所有となり、一般には公開されていません。ここに今川氏ゆかりの邸があり、道灌はそこに滞在中、庭園の築造を指し図したという伝承があります。この名園のいわれについて、静岡市教育委員会文化財保護課に尋ねてみると「太田道灌築造嵯峨流名園」は静岡市指定史跡のリストには載っていないということでありました。

JR東海道本線三島駅から伊豆箱根鉄道に乗り換えて修善寺方面へ向かうと、約20分で伊豆の国市の韮山へつきます。韮山駅から狩野川の方へ30分程歩くと、伝北条政子の産湯井戸や北条館跡など鎌倉北条氏発祥の地があり、その近くに「伝堀越御所跡」があります。現在、そこには伊豆の国市教育委員会の詳しい説明板があるけれども邸跡は野原になっています。
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(伝堀越公方館跡) 
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(伝北条政子産湯の井戸)
私がそこを訪れたとき、ちょうど伊豆の国市の職員が、史跡公園を造るため地面の測量をしているところで、むかし池があった位置などを説明してくれました。職員の話では、伊豆の国市には南条、中条という地名があるけれども北条という行政地名はなぜか現在なくなっていて、ここから北条館跡あたりは北条あるいは堀越と呼ばれていたと思われるということでした。太田道灌が駿河で交渉を終えてから、9月に訪問した豆州北条とは、この場所に違いありません。道灌は堀越御所で、今川範満の烏帽子親であった堀越公方足利政知に今川家の後継問題の一部始終を説明しました。足利政知は1457年(長禄元年)8代将軍足利義政より鎌倉公方として任命されました。しかし古河公方の圧力が強くて政知は箱根の山を越えて鎌倉へ入ることができずに伊豆に留まっていたのです。頼りない公方であったけれども、道灌は主命により政知と面談するため堀越すなわち豆州北条へ寄ったのです。
このあと道灌が、天城山を越えて伊豆の東海岸へ行き、熱川温泉を発見したという伝承があります。しかし、その少し前まで伊豆半島は流人の地ともなっていた僻地であったから、道灌が騎馬隊を率いて天城山を越えることは不可能に近かったと思われます。道灌が伊豆半島の東海岸へ行ったとすれば、それはやはり拙著「道灌紀行」で論じたごとく船で海岸沿いに行ったに違いありません。
道灌は上杉家より命ぜられた困難な任務を忠実に実行し終え、1476年(文明8年)10月に半年ぶりで関東へ戻りました。両上杉家からはなんのねぎらいもないので、陣労をいやすため道灌は、江戸城に引き籠ってしまいました。その間の上杉方の対応と道灌の心情は、「太田道灌状」の行間にあからさまに表われています。まもなく長尾景春とその与党の動きが活発になり、道灌は江戸城を出て関八州の戦野を駆け巡ることになります。
伝堀越御所跡は国指定の史跡です。
八幡山城址=静岡県静岡市駿河区八幡5丁目八幡山
太田道灌築造嵯峨流名園=静岡県静岡市葵区丸山町13
伝堀越公方邸跡=静岡県伊豆の国市四日町寺家

posted by otadoukan at 10:28| Comment(9) | 駿河・伊豆の太田道灌

2011年07月20日

地形肝要・鉢形城の合戦

JR八高線、東武東上線、秩父鉄道の寄居駅から徒歩10分で、荒川にかかる正喜橋に着きます。この橋の歩道に立って上流を見ると、河床の岩塊とともに、すぐ左側に垂直の絶壁が見えます。万里集九が「鉢形の城壁、鳥も窺い(うかがい)がたし」(梅花無尽蔵)と記したその断崖の上が鉢形城の本丸跡です。荒川とこの川に注ぐ深沢川が鉢形城をはさんでいます。深沢川もその名のとおり、深く切りこんだ谷となって四十八釜といわれる淵を連ねています。二つの川が、三角形の広大な城域の二辺を形成して崖城をつくっています。この地は鎌倉古道と秩父往還が通り、上州や信濃へ通ずる交通の要衝であり、山内上杉家の平井城(藤岡市)と扇谷上杉家の川越城の中間の位置でもありました。鉢形城は1476年(文明8年)、長尾景春が築城したと伝えられています 
      
道灌軍は、相模の景春与党を一掃したその翌月すなわち1478年(文明10年)7月に、上杉定正を迎えるため川越城を発って井草(川島町)、青鳥城(おおどりじょう)(東松山市)を経て、鉢形と成田の間に陣張しました。そのとき足利成氏の側近簗田持助が来て、景春が成氏の古河城帰還を妨げている、と苦情を述べました。そこで7月18日、道灌軍は鉢形城を攻めたので景春軍は逃走し、成氏は無事に古河城へ帰還しました。このときの鉢形城合戦について、道灌は「景春陣に馳せ向かい候処、退散せしめ候」(太田道灌状)と簡単に述べているだけです。おそらくこの頃、大方の景春与党は道灌軍に敗退し、景春の本隊も相当弱体化していたと思われます。
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(荒川から鉢形城本丸を望む)
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(鉢形城の曲輪配置模型)

川越市より国道254線を北上すると川島町に伊草という所があり、さらに北上すると東松山市の石橋という所に青鳥城址があり、約500メートルの土塁・空掘り跡があります。二の丸土塁には、折邪(おりひずみ)というクランク状に曲がった珍しい土塁があります。この城は、平安末期に築かれたようで道灌の時代の城主はわかりません。
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(青鳥城址二の丸の折邪)

鉢形城の落城後道灌は、地形肝要の原則から、管領上杉顕定が上野と武蔵に睨みを利かすためには、上野北端の平井城を去って、荒川の崖の上の堅城鉢形城へ入城するべきである、と主張して実現し、そのことにより上野、武蔵が安泰となりました。道灌は「「武上の両国を相兼ねたる地形肝要の由申候(中略)両国安全に御拘え候事、道灌の功に候に非ざらんや」(太田道灌状)と述べています。
「太田道灌状」には、切所(難所)という言葉が度々出てきます。野戦における道灌の戦略は、敵軍を切所へおびきだす作戦であったと思われます。上州の合戦では、利根川沿いで古河公方の軍勢と対峙しながら、道灌は自軍の陣地をたびたび移動して変えるなど、道灌の作戦は常に地形と一体になっていました。地形肝要とは、道灌の戦略の根本方針であり、道灌は築城に於いても野戦においても地形と地相を最優先条件としました。
鉢形城は、日本百名城の一つとして国の指定史跡となっています。
青鳥城址は、埼玉県指定史跡です。 
鉢形城址=埼玉県大里郡寄居町大字鉢形2496‐2
青鳥城址=埼玉県東松山市大字石橋城山

posted by otadoukan at 18:03| Comment(15) | 地形肝要・鉢形城の合戦

2011年06月23日

小山田城址・多摩の古城址

小田急線の唐木田駅から南へすこし行き、大妻女子大学と清掃工場の間の道路を下り2キロも行くと曹洞宗の補陀山大泉寺という古刹へきます。その境内と裏山が小山田城址です。周囲が小高い丘陵で複雑に十重二十重と囲まれているので、往時は相当の要害であったと思われます。今もここへくるときは、ナビゲーターがなければかならず迷います。
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(小山田城址遠望)
大泉寺の本堂の横に、小山田一族の故事来歴を記した石碑があります。それによると、1171年(承安元年)この地に桓武平氏の流れをくむ国人領主小山田有重が居城を構えました。小山田家は一度没落したけれども、1333年(元弘3年)末裔の小山田高家が復活して多摩丘陵全域を支配し、その後扇谷上杉家の配下に入りました。1477年(文明9年)太田道灌の軍勢が小沢城(こさわじょう)(愛川町)を攻めたとき、長尾景春の腹心吉里宮内(よしさとくない)の軍勢は、小沢城の後詰めとして府中に陣をとり、小山田城の扇谷上杉家の守備兵を追い散らし、道灌の心胆を寒からしめました。小山田城から小沢城まで約12キロであったので、道灌軍は吉里軍に背後を脅かされ、小沢城攻略のために1カ月も難儀をしました。後詰めとは、攻城軍の背後を脅かすため布陣することで、現代でいう集団的自衛権行使のようなことでした。後詰めを絶って本陣を攻めるのが、攻城側戦略の定石でありました。太田道灌状に曰く「吉里以下小沢陣の後詰めとして当国府中に陣を取り、小山田を相散らし、相州難儀に及び候」と。
同じころ、道灌軍の一部は宿阿内城(前橋市)の顕定のもとへ派遣し、本隊は石神井城を攻め、道灌の弟資忠軍は川越城から出撃して勝原で矢野兵庫の軍勢と戦いました。太田家に江戸城を守る兵はいなくなったので、盟友の三浦介義同などが江戸城守備のため呼ばれていました。長尾景春の乱の勃発当初、破竹の勢いの景春軍に与同する国人衆は多く、道灌軍はまさに腹背に敵をかかえる恐怖の中で勝ちつづけました。その渦中での小山田城の攻防は、両勢力のつば競り合いを象徴するような取り合いでありました。
「太田道灌状」を読むと、太田道灌が同時多発的な危機に対して、各地と連携を密にとり迅速かつ適切に手をうつ能力をもっていたことがわかります。もちろんそれは、各地の部下と盟友が道灌を信頼し、道灌もまた彼らを信頼していたことが基礎にあります。この道灌の人間力が、上杉方劣勢の潮目を優勢に転換していった原動力でした。
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(小山田城址・大泉寺境内)

多摩ニュータウンに囲まれたこのあたりは、今、小山田風致地区として整備され、小鳥の声がたえず聞こえ、市民のウォーキングの場所となっています。
小山田城址・小山田要害址(大泉寺)=東京都町田市下小山田332
posted by otadoukan at 11:20| Comment(5) | 小山田城址・多摩の古城址

2011年06月06日

道灌草(ナデシコ科ドウカン属ドウカンソウ)

JR山手線の西日暮里(にしにっぽり)駅の奥山が道灌山です。現在そこは西日暮里公園となり、道灌山の由来を記したパネルが設置されています。それによると、この高台から近くの開成学園のあたりまでは、かつて太田道灌が出城を造ったところです。開成学園の北東に道灌山坂があります。

江戸時代の観光ガイドブック「江戸名所図絵(えどめいしょずえ)」(1836年)には、「道灌船繋松(どうかんふなつなぎまつ)」の絵が出ています。「つなぐ」とは「目的にする」という意味だそうです。当時、道灌山の近くまで海が入り込んでいて、この高台に松の巨木が二本あり、船人はこの松を目当てに船を操ったといわれています。江戸時代にはこの高台からの眺めがよく、富士山や筑波山、日光山も見えたそうです。江戸時代の安藤広重の錦絵に、当時の眺望が描かれています。 
また当時、このあたりは薬草が豊富で、一年中採取者が訪れました。江戸時代に南ヨーロッパから中国を経て伝えられたバッカリア・サボナリヤ(ナデシコ科ドウカン属)という草花は、道灌山に群生して晩春にピンク色の花を咲かせたので「道灌草」と呼ばれ、今では都立舎人(とねり)公園などに植えられています。またこのあたりは虫聞き、月見、雪見、花見の名所としても知られ、庶民が一日中過ごせたので「ひぐらしの里」すなわち「日暮里(ひぐらしのさと)」と呼ばれました。十返舎一九が次のように詠みました。
 桃さくら鯛より酒のさかなには見どころ多く日ぐらしの里

さて道灌草を求めて都立舎人公園へ行ってみました。JR山手線の日暮里で舎人ライナーという無人運転の電車に乗ると、約20分で広大な舎人公園へ着きます。舎人公園サービスセンターの近くのボランティア花壇で、津村昭人氏の案内によりようやく道灌草を見つけました。昨年はたくさん咲いていましたが、今年はわずかしかありません。道灌草はナデシコの仲間で、高さ50センチメートル位の一本の茎に小さくうすいピンク色の花をたくさん咲かせます。色も形も控えめな花です。
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(広大な舎人公園)                 
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(道灌草)
以下は、津村氏の提供による道灌草の詳細です。
ナデシコ科ドウカン属(旧ナデシコ科サポナリア属):ドウカンソウ(種名)
名前は、バッカリア・ピラミダタ(学名Vaccaria pyramidataより)、ドウカンソウ(現属名より)、サポナリア(旧属名より)などの呼び名があります。日本帰化植物写真図鑑や牧野植物図鑑にも紹介されています。
似た花にサクラマンテマ(フクロナデシコ、オオマンテマ)がありますが、これはサクラに似た花形でドウカンソウとは異なります。また、花の基部の膨らみが角ばっているのも区別点です。以下に引用したものを紹介させていただきました。
ドウカンソウ(どうかんそう) [ 日本大百科全書(小学館) ] 【道灌草】
[学名:Vaccaria pyramidata Medik
(=Lychnis vaccaria Scop. =Saponaria vaccaria L.)]
ナデシコ科の一年草。カスミソウに似た草姿で、全株無毛。茎は上部でまばらに分枝し、高さ約50センチメートル、ろう質で粉緑色にみえる。5月、集散花序をつくり、淡紅色で径約2センチメートルの5弁花を開く。白色花の変種もある。南ヨーロッパ、西アジア原産。江戸時代に中国から導入され、江戸郊外の道灌山(どうかんやま)で栽培されたので、ドウカンソウの名がある。今日、学名のバッカリアの名で栽培され、花壇植えや切り花にする。
切り花ではカスミソウのように添え花に利用する。性質は強健で、土質を選ばないが、日当りと排水のよい場所で育てる。おもに秋播(ま)きにするが、春播きもできる。[ 執筆者:山口美智子 ]

津村氏は、広大な舎人公園の全植物の99パーセントを知っていると語っています。ついでに、公園内の道灌有縁の花である八重山吹、一重山吹、白山吹も案内していただきました。私は津村氏に「来年は、舎人公園に道灌草をたくさん植えてください」とお願いしてきました。道灌の名がつく地名は首都圏にたくさんあるけれども、道灌さんが植物の命名にまで貢献したとは、本人が一番驚いていることでしょう。本家本元の道灌山・西日暮里公園にも、昔のように道灌草の花畑をつくってほしいと私は切望しています。