2021年02月09日

迷子の玉ちゃんを発見(道灌紀行ニュースNo.17)

東京都庁近くの新宿住友三角ビルの周辺広場は先ごろ整備されて、屋根付きガラス張りの立派な「三角広場」というイベント会場になりました。
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(新宿住友ビル・三角広場入口)
 かつての三角広場に立っていた、太田道灌ゆかりの黒猫玉ちゃんは、工事期間中に行方不明となり、愛好家を悩ませました。私は先日、三角広場の内外を歩き回り、ようやく迷子の玉ちゃんを発見しました。
今、黒猫玉ちゃんは、三角広場東のサービスセンター脇に、相変わらずしっかりと玉を抱いて、立っています。ここはやはり、待ち合わせ場所として格好です。今度はガラスホールの中ですから、風雨の日でも大丈夫です。
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(三角広場東・サービスセンター脇に玉ちゃん)
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(玉を抱いた黒猫玉ちゃん)

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(台座の説明板)
 説明板に云う。
「 ひとにいのちあれば ねこにもいのちあり
  江戸の里をひらきし太田道灌
  この地の北でいくさに敗れ
  あわやいのちを失わん時
  一匹のねこあらわれにげ道をあんない
  いのちをとりとめ江戸を開いた
  なれどこのかくれた江戸の恩猫も
  ねこなるゆえに名ものこらぬはふびん
  江戸のいいたま玉ちゃんと名づけ
  のちのちまでの江戸のまもりとす
         つくりびと  流 政之
         ねこの生まれ 文明狂年」
この猫は自性院の黒猫たまちゃんで、その由来を思い出すと、次のようです。
都営地下鉄大江戸線の落合南長崎駅で下車し、新青梅街道を三分も歩くと、小判を持った大きな招き猫のある門柱に気づきます。そこを左折すると通称猫寺こと西光山無量寺自性院です。赤い山門のそばに立派な猫地蔵堂があります。
1477年(文明9年)の江古田が原の戦いの際に、日暮れて道に迷った太田道灌の前に、一匹の黒猫が現れて一行を自性院へ案内しました。道灌はそこで一夜を過ごすことができたため、戦に勝利したということです。
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  (以前の新宿三角ビル前広場の黒猫玉ちゃん)
玉ちゃんの石像を作った流政之(ながれまさゆき)氏は、高松市庵治で創作をつづける異色の彫刻家です。玉ちゃんが両手でしっかり抱いている大きないい玉は、いったい何の玉なのでしょうか。
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(三角広場西のコーヒーショップ)

2020年12月22日

太田道灌銅像の除幕式(道灌紀行ニュースNO.16)

2020年12月21日((月)埼玉県のJR八高線越生駅の西口で「道灌おもてなしプラザ」の竣工式と太田道灌銅像の除幕式がとり行われました。新井雄啓越生町長の挨拶、NPO法人太田道灌顕彰会の太田資暁理事長のスピーチなどの後、テープカットと除幕が行われました。
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(文武両道の太田道灌銅像)
今回除幕された銅像は、1975年(昭和50年)4代目慶事丹長(けいじたんちょう)が制作した銅像です。神奈川県伊勢原市役所前に立つ「太田道灌公銅像」と同じ鋳型で造られた双子の兄弟像の一方です。この銅像は長い年月の間、日の目を見ずに埋もれていましたが今回、晴天温暖無風の冬至の日に堂々と、越生駅前広場に登場しました。台座正面には、新井越生町長の揮毫による「文武両道」の文字が刻まれています。この銅像は今後「文武両道」の道灌像と呼ばれることでありましょう。
この銅像は、駅舎から出てくる人たちを迎えるため、西を向いています。夕日に照らされると、覇気あふれる道灌の表情には、苦労人の自信と余裕がにじんでいて、訪れる人々や通学の子供たちをさりげなく勇気づけてくれます。
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(台座に「文武両道」)
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(竣工式)
今回の竣工式と除幕式にちなみ越生駅の西口は「道灌口」と呼ばれ、東口は「山吹の里歴史公園」にちなみ「山吹口」呼ばれることになり、さらに駅前の休憩広場には「道灌パーク」と命名されました。またこの日、「太田道灌の里」という、詩吟入りの新しい歌も披露されました。
今回の竣工式と除幕式はコロナ禍の中で人数を制限して行われたものの、各地の道灌まつりや道灌ウォーキングが全面的に中止になった今年、唯一つの記念すべき道灌イべントとなりました。また越生町では、龍穏寺の山吹の枝を持つ太田道灌像、役場玄関ロビーの躍動する太田道灌像につぎ三つ目の太田道灌像となりました。
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(伊勢原市役所前の太田道灌銅像)

2020年11月03日

太田道灌有縁・三つの八幡宮

東京都江東区の富賀岡八幡宮と富岡八幡宮、神奈川県伊勢原市の西富岡八幡宮に共通する伝承は、太田道灌が崇敬したと伝えられる八幡像に由来します。

1.富賀岡八幡宮
地下鉄東西線の南砂町駅東口より徒歩10分程の所に、富賀岡八幡宮があります。駅周辺にこの八幡の案内板はありませんが、元八幡通りを目指して行けば見つかります。
当宮は深川の富岡八幡宮の元宮として、また、砂村総鎮守として広く知られています。その創建は古く、藤原鎌足の孫、藤原豊成卿が下総守に任じられ下向のみぎり、749年(天平勝宝元年)に創立された区内屈指の古社であります。
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(富賀岡八幡宮)
ご由緒によると、当宮に奉祭されていた「八幡像」は、源三位頼政、千葉氏、足利尊氏、鎌倉公方基氏、管領上杉氏から太田道灌へと伝えられ、特に道灌より厚い崇敬を受けていたものであります。
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(ご由緒に太田道灌のこと)
広重の『江戸名所百景』を見ると、かつて当宮は海の近くにあり、桜並木の参詣道をもっていましたが、今はその面影もありません。
富賀岡八幡宮=東京都江東区南砂7-14-18

2.富岡八幡宮
地下鉄東西線の門前仲町駅を出ると、目の前に富岡八幡と深川不動の門前町が一気に広がり、江戸の下町の雰囲気に包まれます。
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(富岡八幡宮)
富岡八幡宮は、深川八幡宮とも称され、天平宝字年間(757〜765)の創建と伝えられます。『江戸名所図会』には富岡八幡の八幡像について「源三位頼政が尊崇した神像を千葉・足利両氏が伝え、のち太田道灌の守護神になる」とあります。現在当宮の境内に、そのことが書かれた由緒書きが見つかりません。
当宮は1627年(寛永4)に永代島に再建、江戸下町の繁盛につれて特に深川木場の尊崇を集めました。8月15日が例祭で、神田祭、山王祭とともに江戸三大祭りの一つです。
鳥居をくぐると左右に、かつてこのあたりに住んでいた伊能忠敬の銅像と大関力士碑があります。
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(伊能忠敬の銅像)
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(大関力士碑)
富岡八幡宮=東京都江東区富岡1-20-3

3.西富岡八幡宮 
小田急線の伊勢原駅より、県道63号線を北へ車で10分も走ると、分かれ道の手前の西富岡八幡神社にきます。
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  (西富岡八幡神社)
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   (由緒書きの碑)
 この八幡神社の創立は詳(つまびらか)ではないものの、由緒には「当地草創に当り氏子庶民の天神を奉斎したに始まると言う。即ち当社の例祭に当り神事草分け祭りを奉行し、祖先の此の地を開いた功に報い生存の喜びを祝ったものである。
文明年間(1469〜87年)に関東管領上杉定正の臣大田道灌が下総国葛飾郡の富岡八幡宮を此の地に遷座し、厚く尊信し、これより富岡村と呼び、元亀年間(1570〜73年)に西富岡村と呼ぶとも伝える。」とあります。
 東京の江東区と伊勢原が、「富岡」という地名でつながっていることに、不思議な因縁を感じます。
西富岡八幡神社=神奈川県伊勢原市西富岡890
posted by 道灌紀行 at 14:16| Comment(0) | 太田道灌有縁・三つの八幡宮