2011年03月05日

祝儀山

西武新宿線の上石神井駅から徒歩10分のところに、祝儀山という風変わりな名前を持った高台があります。その場所は雑木林であったけれども、今は「祝儀山ちびっこ広場」となり、ブランコなどの遊具が並んでいます。
1477年(文明9年)4月、太田道灌が豊島氏を攻めるため愛宕山(早稲田高等学院の敷地)に陣を敷きました。伝承によれば、戦勝後に道灌は、城攻めに協力した地元の農民に対して、ご祝儀として土地を与えたので、その土地は祝儀山と呼ばれるようになりました。祝儀山は愛宕山から約500メートルのところにあります。    
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(祝儀山ちびっこ広場の看板)
祝儀山に隣接するところに居住する高橋氏は、この辺に多い尾崎家、田中家などの旧家とともにご祝儀をもらった家の子孫なので、昔は「祝儀山」という屋号でよばれていました。高橋家には系図などないけれども、祝儀山のことは先祖からの伝承として伝わっているそうです。今では高橋さんを屋号で呼ぶ人もいなくなり、祝儀山のいわれを知る人もだんだんすくなくなってきたそうです。また祝儀山を下ったところには、「グレードハイツ祝儀山」というマンションが建っています。
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(ちびっこ広場)
太田道灌は、戦で味方した者には必ず論功行賞をしました。太田道灌状の冒頭で道灌は、寝返って道灌軍に味方し豪族たちへの所領安堵を管領の上杉顕定に懇願しています。祝儀山の伝承は、道灌が民百姓であっても味方したものには、きちんと褒美を取らせたことを伝えています。このことにより道灌は諸人の信頼を増し、道灌軍は急速に勢力を強めたものと思われます。
祝儀山ちびっこ広場=東京都練馬区上石神井4丁目20番8号
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2011年02月02日

雉岡城址・児玉の陣と群書類従

JR八高線の児玉駅から西へ500メートルも歩くと、雉岡城(きじがおかじょう)=八幡山城(はちまんやまじょう)址へきます。関越道の本庄児玉で下り、約15分走ってもきます。この城は15世紀に築かれた平山城で当初、山内上杉家の本拠地であったけれども、手狭であったので山内氏は平井城(藤岡市)へ移り、城代として夏目(有田)氏をおきました。
「太田道灌状」には、「(文明12年)正月四日、景春児玉へ蜂起せしめ候の間、(道灌は)同六日塚田へ罷り越し、其の儘諸勢を相集め(中略)その後景春を飯塚陣へ夜懸け致すべく儀定まり候所、(景春は)其の儘秩父へ退散せしめ候」と記されています。
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(雉岡城址入口) 
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(水堀と土塁)
このとき、長尾景春が蜂起した児玉の陣とは、どこを指すか明確ではないものの、前島康彦氏によると、それは雉岡城かもしれないということです。この辺りは、鎌倉街道の上道と上杉道が分岐する交通の要衝にある小丘陵でした。景春が蜂起した日の2日後には、道灌軍が塚田(寄居町)へ進軍しました。上杉方は、景春が駐屯する荒川の向うの飯塚(寄居町)へ夜襲をかけようと打ち合わせをしていたところ、景春軍は素早く秩父へ退散しました。
その2週間後の1月20日、景春軍は越生を急襲して太田道真に押し返され、さらにその数日後、利根川沿いの長井城(熊谷市)へ移動しています。その動きの素早さと激しさを考えると、景春軍は騎馬隊であったとしか考えられません。長尾家の菩提寺双林寺(渋川市)に伝わる「双林寺本系図」には「伊玄入道(景春)従壮年有乗馬術頗得精妙」と記され、景春が優れた騎馬武者であったことを示しています。また秩父には昔から牧が多く、強盛な秩父駒を多く生み出していました。長尾景春は騎馬隊を率い、秩父の峠を越えて出撃したり撤退したりしていたのです。

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(塙保己一記念館入口の保己一坐像)
城址の中に、この地に生まれた盲目の国学者塙保己一(はなわほきいち)の記念館があり、保己一が集大成した和綴じの「群書類従」666冊の複製等が展示してあります。寒い冬の日のせいか他に来訪者もなく、館長は私のために約30分も展示物と保己一について説明してくれました。保己一は、膨大な文献を弟子に読ませて全て暗記し、41年かけて1819年(文政2年)に「群書類従」として集大成しました。保己一の凄まじいばかりの記憶力と情熱と労苦に畏れかつ圧倒されて、私は深く頭を垂れて一言も発することができませんでした。
太田道灌が文明6年6月17日に江戸城で催した「武州江戸歌合せ」の作品も、保己一のおかげで「群書類従」に収録されました。私は早速、資料室で「群書類従」をひもときました。この本は、ちょっとした図書館であればどこにでもある本であるけれども、編者保己一の生地で読むと、その感慨もまたひとしおであります。
 海原や水まくたつの雲のなみはやくもかえす夕立の雨   道灌
 夏の日をよそにみやまのから衣たもとすずしき瀧の音かな 資忠
心敬判で、資常、資俊、資雄など太田家の面々も登場して、見事な歌を詠んでいます。太田道真、道灌はもちろん太田一族はみな、優れた歌人であったと思われます。
雉岡城は、その後北条氏邦の支配下となり、1590年(天正18年)には豊臣軍に攻略されました。徳川時代には松平清宗が入り、関が原合戦後には廃城となりました。現在は、城址の二の丸に本荘市立児玉中学校が、三の丸には埼玉県立児玉高等学校が建っています。雉岡城址は、埼玉県指定文化財です。
雉岡城址の近くに、保己一の生家(国指定史跡)が保存されています。
雉岡城(八幡山城)址・塙保己一記念館=埼玉県本庄市児玉八幡山446

2011年01月20日

長井城址・西条本丸跡


東京から関越道または国道17号線を小一時間走ると熊谷市へいたり、さらに国道407号線を北上すると道の駅「めぬま」があります。この駅の名物は、世にも珍しい細長い稲荷寿司で、たいへん美味です。この駅の近くに、西城(にしじょう)という地名の田園地帯があり、その一角に、長井城址すなわち西城の「史跡・西城本丸跡」の碑があります。碑の裏面に、詳細な由緒が記されています。それによると、前九年の役で武功をあげた斎藤実遠が源頼朝から長井庄を与えられ、西城を築き長井斎藤氏の祖となりました。往時は、本丸の周囲は福川と沼で囲まれ、水城となっていたようです。碑文の最後は「そよ風に稲穂がゆれる西城跡」という「妻沼カルタ」の一句で結ばれています。
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(田園の中の「西城本丸跡碑」)
「旧妻沼町史」に次のように記されています。「1478年(文明10年)7月17日、長尾景春は鉢形城を捨てて敗走、各地を転々とした後、長井城(西城)に移った。足利成氏に属していた関係から、(長井斎藤)利家は景春を迎え入れたが、1480年(文明12年)1月20日太田道灌に攻められて落城、かくして平安時代、横山覚所属の藤原道宗が築いた長井城も、幾多の変遷を経て廃城となった。」
「太田道灌状」にも、この間の込み入った経緯が記されています。とにかく長尾景春は、長井城で太田道灌に敗れてからは秩父へ移動し、秩父の景春与党を率いて最後の低抗をすることになりました。
現在西城は完全に区画整理された広大な耕作地なので、この碑を探すのに少々苦労します。私は、10分間ほど車で走りまわりましたが尋ねる人もいなかったので、勘を働かせて発見しました。慶安寺という寺の看板があるところから、約200メートル耕作地にはいり猿田彦大神という小社を見つけると、その近くに碑を発見できます。

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(手鏡を見て墨で白髪を染める斎藤実盛)
国道407号線を利根川沿いまで北上すると、妻沼聖天山(めぬましょうてんざん)という古刹があり、その境内に、長井斎藤氏の先祖斎藤別当実盛の見事な銅像があります。平家物語にも登場する実盛は、白髪を墨で染めて73歳で出陣し、木曽義仲と勇敢に戦って果てたということです。
西城本丸跡之碑=埼玉県熊谷市西城
妻沼聖天山=埼玉県熊谷市妻沼1627
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2010年12月23日

再び調布へ・深大寺城の連郭式縄張り

調布市郷土博物館で何気なく手に入れた「調布の文化財第42号」と云う冊子に、少々気になることが書いてありました。それは、(深大寺城は)「三つ郭が直線状に配置された連郭式縄張りの中世城郭です」という一節で、それだけならば江戸城の「道灌がかり」の説明にもなります。この城が太田道灌の主君筋にあたる扇谷上杉氏が道灌没後約50年頃に、後北条氏から江戸城奪還のための前進基地として築城したということを知ると、益々気になってきます。しかも都心近郊にありながら、城の遺構が良好な状態で残っているということですから、行って見ることにしました。
国道20号線を調布市で北へ曲がり武蔵境通りへ入るとすぐに、有名な観光地である深大寺のそば屋通りにきます。通りの外れに都立神代植物公園水生植物園があり、その中の高台が深大寺城址です。水生植物が茂っている沼沢地の端の約10メートルの崖の上が第一郭で土塁に囲まれています。第一郭と第二郭の間の空掘りは、平地に掘ったもので幅約8メートルあって土橋がかかっています。第二郭は芝生広場となって堀と土塁で囲まれ、虎口が三カ所と馬出しが一カ所あります。第三郭はほとんど住宅地になっています。
 
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(第一郭の深大寺城址碑)
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(第二郭の土塁と空掘)
1486年(文明18年)太田道灌が上杉定正に謀殺されると後北条氏が勢いを増し、扇谷上杉方の江戸城を奪いました。定正から四代目の上杉朝定が1537年(天文6年)、江戸城を奪還しようとして深大寺城を築きました。深大寺城は、天嶮に拠る江戸城に比べるとはるかに小振りではあるけれども、舌状台地の平地を空掘りと土塁により三つの郭に区切った縄張りは、城郭研究家の西ヶ谷恭弘氏が描いた道灌の江戸城想像図と似たところがあります。江戸城にこだわる朝定は、江戸城の「道灌がかり」をまねて深大寺城の縄張りをしたと思われます。
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(深大寺城縄張り図)
1537年(天文6年)の7月、北条氏綱は深大寺城を無視して素通りし、上杉朝定が籠る川越城を攻略しました。かくて深大寺城はその役目をはたさないまま廃城となりました。結果的には、扇谷上杉氏は全く役立たない城を、大々的に築城したことになりました。道灌没後、気の利いた家臣や優秀な軍師は扇谷上杉氏を去り、トンチン漢な鈍物が幅を利かしていたからそういうことになったのでしょう。今日で云えば、無駄な函モノ行政で市民の税金を浪費したようなことです。
しかし今では、この城址は国の史跡に指定されて都民の憩いの場となっているので、扇谷朝定の怪我の功名というべきであります。それにしても、城址のどこにもこの城の歴史的いわく因縁が記されている説明板などがないのは、しかたのないことです。
深大寺城址=東京都調布市深大寺元町二丁目

2010年11月17日

石原太田氏(リニューアル版)

2010年10月19日から11月28日まで、調布市郷土博物館で「企画展・武州多摩郡下石原村」が開催され、石原太田氏関連の虫に食われた文書や絵図等がたくさん展示されています。この博物館は、京王多摩川駅から徒歩4分、あるいは20号線(甲州街道)の小島町交差点からすぐのところですが、意外とわかりにくい場所にあります。この企画展を見て、拙著「道灌紀行」の石原太田氏の項をリニューアルしたので改めて掲載させていただきます。
    
東京都調布市下石原3丁目の「品川通り」という風変わりな名前の道に「太田塚」と地名標識が架かる信号があり、そのすぐそばにこんもりと茂った木立に囲まれた「太田塚」があります。木立の中に入ると、石原太田氏の先祖代々の墓が四基あります。石原太田氏の先祖は、下総臼井城の激戦で戦死した太田図書之助資忠です。道灌の弟・資忠が、おそらくは相模の小机城、小沢城などの長尾景春与党の動きに備えて、武蔵府中に滞陣した際、地元の石原出雲守の娘をめとり、生まれた男子が太田新六郎を名乗りました。1579年(天正7年)資忠から3代目の太田対馬守盛久が開基となり、甲州街道沿いに太田家の菩提寺として臨済宗建長寺派源正寺を建立しました。そして太田家の鬼門の方には八幡神社が建立されました。その後太田氏の子孫は下石原村で、代々善右衛門を名乗って名主を務めました。
かつて私が石原太田氏のことを調べるため源正寺を訪れたとき、住職は私の質問を聞いたあと「太田さんはうちの檀家だからよく知っているけれども、直接太田家へ行って聞いた方がいいですよ」と言って、石原太田氏20代目の太田家をていねいに教えてくれました。それが機縁となり、私はその後、太田道灌の子孫の方々と親しく交流するようになりました。
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(調布市品川通りの太田塚)
16世紀中葉にこの辺りは後北条氏の支配下となり、太田新六郎康資(道灌の曾孫)の所領となり、石原地域は大いに栄えました。平成7年11月に、太田塚からほど遠くない所の道路工事現場から、壺に入った約一万枚の古銭が発見されました。古銭の7割は当時一般に流通していた「開元通宝」など唐銭であり、壺の生産年代は1550年から1600年と推定されています。私は調布市郷土博物館のショウケースの中に展示されているその古銭の山を見て「あっ」と腰が抜けるほど驚きました。その壺と大金の所有者は一体誰なのでしょうか。博物館の学芸員に尋ねると「出土物により証明されてはいないけれども、付近から屋敷の溝跡が発見されているので、太田家の所有物であった可能性はあります」と説明してくれました。こんな大金を持っていたのは一般庶民であるはずがありません。当時この辺りには太田氏以外の豪族はいなかったので、壺の大金は太田家の軍資金であったことは間違いありません。なぜ太田氏は壺の埋蔵金を忘れてしまったのか、あたらしい謎が深まります。
太田塚のある品川通りは、その名のごとくかつて道灌も住んでいた品川の御殿山(東京都品川区)のあたりまで通じていました。今も断片的に当時の古道が確認されます。当時品川は、陸海通商の結節地点であったので、「品川通り」の名がかつての石原地域の繁栄を伝えています。現在は太田資忠から21代目の太田盛明氏が石原太田家を継ぎ、太田道灌顕彰会専務理事として活躍されています。
太田塚=東京都調布市下石原3

2010年10月14日

消えゆく道灌史跡・太田道灌塁等

都市の宅地化や農村の土地区画整備・土地改良事業などで多くの史跡が消滅し、その位置さえ定かでなくなることは珍しくありません。太田道灌の関連史跡もまたその例外ではなく、今ではその史跡が他に利用されて、その位置が正確にはわからなくなっていることがよくあります。私はそのような場所にも出かけてかすかな痕跡を探し、その土地の気配を嗅ぎまわりました。地名が残っているだけでもうれしいことです。消えゆく史跡をいくつか記します。

(1) 太田道灌塁 東京都港区虎ノ門5丁目付近
東京メトロ日比谷線神谷町で下車すると、眼の前にオランダヒルズが見え、虎ノ門五丁目の坂を登ると仙石山があり、その高台はホテルオークラのあたりまで続いています。ここは小諸藩の初代藩主仙石秀久の江戸屋敷があったところです。「日本城郭体系」(1979年)によると最近までここに、太田道灌が江戸城の出城として築いた番神山城の跡すなわち太田道灌塁がありました。この城址は江戸時代から土の取り場となり、近年のバブル景気の頃にさらに開発され、今は高層ビルが林立してその遺構は消えました。近くの西久保八幡神社の由緒に「(当社は)石清水八幡宮の神霊を請じて、霞が関のあたりに創建したという。太田道灌が江戸城を築いたとき、現在地に遷された」と記されています。
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(仙石山に林立する高層ビル)

(2) 丸子陣場 神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町2丁目付近
JR南武線武蔵小杉で下車して北へ十分も歩くと、西明寺という古刹があり、その近くに小杉陣屋跡の碑があり、さらに少し歩くと西丸子小学校と等々力緑地があります。
1478年(文明10年)1月25日に、太田道灌は平塚城から逃走した豊島泰経を追い「翌朝丸子に陣張り候」(太田道灌状)とあります。新編武蔵風土記稿(1830年)には、丸子陣場について「今村内を尋ねるにその旧地をえず」とあります。行政当局も丸子陣場の位置を比定することはできず、小杉陣屋跡か多摩川べりの西丸子小学校と等々力緑地のあたりにあったのではないかと推定しています。
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(等々力緑地)

 長井城址(埼玉県熊谷市)、羽生古戦場(埼玉県羽生市)、浅羽古戦場(埼玉県坂戸市)などは地名が残っていても、その場所が正確にはわからなくなっています。
 道灌畑(神奈川県横浜市)、那波城址(群馬県伊勢崎市)などは、その土地が他に転用されて原形をとどめていません。
 勝原古戦場(埼玉県坂戸市)、用土が原古戦場(埼玉県寄居町)などは、史跡として行政当局が認識していませんので甚だ残念です。
 JR南武線の溝の口駅近くに川崎市立地名資料館・日本地名研究所という面白い資料館があります。消えゆく地名の調査や紀行の資料を探すにはもってこいの施設です。

2010年09月06日

長野県の太田道灌

(1)佐久の「久遠の像」
長野県に太田道灌が行ったという記録は見えませんが、佐久市に道灌の銅像が1体あります。JR小海線北中込駅から約15分歩くか長野新幹線の佐久平駅から車で10分も走ると、駒場公園内の佐久市立近代美術館に至り、そこに太田道灌の銅像に会えます。実際に銅像が建っているところは、すぐ近くの佐久市立図書館の前庭です。その銅像は、東京都の新宿中央公園にある山本豊一氏制作の「久遠の像」と同じものです。ちょっと見ると配置も背景も違うので気づきませんが、よく見ると確かに道灌と山吹を捧げる少女の像です。
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(久遠の像)
なぜここに「久遠の像」があるのでしょうか。その縁起を理解するためには、佐久市出身の実業家で美術年鑑社社長であった油井一二(ゆいいちじ)氏のことを知らなければなりません。油井氏は1909年(明治42年)に佐久市に生まれ、上京して絵画販売会社の出張販売員になりました。やがてふろしき画商として成功し、昭和40年に美術年鑑社社長となりました。着想の人、行動の人であった油井氏は、業績を飛躍的に拡大するとともに、45年をかけて400点に及ぶ美術作品を収集しました。1975年(昭和50年)、油井氏は全コレクションを郷里の佐久市に寄贈し、コレクションは佐久市立近代美術館(油井一二記念館)に収蔵されました。収蔵品の中には、横山大観、平山郁夫、奥村土牛、平櫛田中などの傑作とともに、山吹の里の彫刻「久遠の像」がありました。油井氏は武者小路実篤に私淑して、自分の人生訓を実篤の次の言葉で語っています。
   この道より 我を生かす道なし
   この道を行く
ちなみに太田道灌の銅像は、東京都に3体、埼玉県に5体、神奈川県に1体、静岡県に1体、長野県に1体、合計11体あります。
久遠の像・佐久市立近代美術館・図書館=長野県佐久市猿久保35‐5 

(2)苅谷原の道灌子孫
佐久市から国道18号線で小諸へ移動し、さらに国道143号線で青木峠を越えると松本市へ来ます。刈谷原トンネル手前のわき道を入ると真言宗の性徳山洞光寺があります。この寺に、道灌の二男、三男と思われる太田資行、中澤資盛の子孫の墓があります。寺の裏の墓域へ行ってみると、太田家と中澤家の墓所が何十も連なり壮観であります。しかし長年月風雨にさらされた碑文は、ほとんど判読できません。住職は、土地の旧家の蔵を開いて文書を調べると、この寺の墓の主である太田家、中澤家の先祖関係がわかるでしょうと語っていました。これが解明されれば、歴史上の大発見になります。
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(太田家、中澤家の墓所)
寺の斜め後ろの山が、資行の子資忠が城主を勤めた刈谷原城の址です。私は、またの来訪調査を期して、洞光寺をあとにしました。
性徳山洞光寺=長野県松本市苅谷原町692
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2010年09月04日

嬉野太田氏の先祖祭り

リクエストにより、「嬉野太田氏の先祖祭り」を再度増補版として掲載いたします。

福岡市で九州自動車道に入り、さらに長崎自動車道を少し走ると左手に吉野ヶ里遺跡があります。それから30分も車を走らせると、温泉とお茶と焼物のふるさと佐賀県嬉野市へ到着します。
嬉野市では、毎年9月18日に下岩屋で太田一族が先祖祭りを行っています。今年(2009年)の先祖祭りには、太田資暁氏等とともに、私も参加させていただきました。
9月18日朝、嬉野太田家本家11代の太田資信(すけのぶ)さんのお宅を訪問し、ご先祖の話を聞きました。資信さんは50年間もの間、自らのルーツを調べ続けたと語っていました。それによると、松山衆であった太田資政は相模の戦で戦死し、その息子資長、資重の二人が、1589年(天正17年)ゆえあって、肥前の国大村へ来ました。大村で志を得なかった二人は、嬉野に住みついて土着し、嬉野太田氏の始祖となりました。その後、太田氏は築堤の功績により鍋島藩に召抱えられ、1763年(宝暦13年)より始祖太田資長の命日9月18日に、先祖祭りを行い続けています。 現在嬉野太田氏は、下岩屋地区だけでも97世帯、約450人となりました。
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(太田資信氏・右と太田資暁氏・左  机上の刀の鍔に桔梗紋)
資信さんは、床の間に飾ってあった、先祖伝来の大小の刀と認定書を見せてくれました。その刀の鍔には桔梗紋がくりぬいてあります。ふんかん園といわれている広い庭を案内していただいたあと、先祖まつりの会場へ向かいました。
下岩屋には、地名のとおり石垣で囲まれた家がたくさんあります。太田家の先祖墓の墓域も石垣で囲まれた高みにあり、登り口の横に嬉野太田家の由来を刻んだ石碑があります。午前11時には、中央の大きな太田家先祖墓の碑の前に一族の人々約50人が並び、婦人が御詠歌を詠い、浄土宗宋運寺の住職が読経しました。その後別会場で祝宴があり、太田道灌公についての講演がありました。
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(太田家先祖墓) 
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(嬉野太田氏の由来説明碑)
太田資信さんは87歳の高齢ですが、太田道灌公墓前祭実行委員長である太田資暁氏の初訪問を大いに喜び、終始溢れるような笑みを満面にたたえて一行を迎え、なにくれとなく心配りをしてくれました。製茶工場を経営する太田重喜氏が、この地の太田一族の活躍をいろいろ説明してくれました。太田一族と会い、語り合った太田資暁氏は思わず「太田の一族は、どこでも真面目な働き者ばかりだ」とつぶやきました。
私はその言葉を聞いて、太田道灌の人柄について、ある確信的な考えがふと浮かんできました。万里集九が、道灌追悼の祭文の中で、道灌の人柄がかもしだす雰囲気について「曖然たる和気」と述べています。確かに戦をしてないときの道灌は、おだやかで包容力深い人柄の人であったと思います。しかし戦っているときの道灌の人間像は「鋭い真面目人間」の権化であったという気がしてきました。「鋭い」から隙(すき)がない。真面目だから部下の信頼が厚い。鋭い真面目人間の軍勢が、疾風怒涛のごとく攻め込んだのだから、長尾景春はさぞかし怖かったに違いない。景春とて人望があり、長尾家の地盤と人脈は太田家のそれに比べて圧倒的に大きかったけれども、するどい真面目人間の軍団には敵わなかった。それゆえ景春は、秩父の山に逃れて神出鬼没のゲリラ戦を展開せざるをえなかったのです。道灌のDNAを持った人たちの話を聞いて、私はそんな確信的な思いにとらわれてきたのでありました。
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(先祖祭りの参列者)
太田資信氏等一族の方々と懇談し、興味深い話をたくさん聞きました。資信氏は39歳の頃より嬉野太田家の調査を始めました。そしてついに次のような後北条氏の文書を発見しました。
「永禄二年(一五五九年)二月十二日『小田原衆所領役帳』なる。太田を称する者次の如く。
江戸衆に
太田新六郎  一千四百十九貫百文 (康資)
太田大膳亮  五百四十四貫五文  (左京亮)
太田源七郎  三十六貫五百文   (資康弟)
太田四郎兵尉 八十五貫文     (資康弟)
太田新次郎  二十二貫九十四文    
松山衆(岩槻系)
太田豊後守  三百七十六貫二十二文 (資政)
                   三楽別人」
この文書によると、岩槻系の太田資政は江戸系の太田康資等とともに後北条方に属していたので、1560年(永禄3年)に太田資正が上杉謙信の先鋒として小田原城を攻めたとき、太田一族は敵味方に分かれて戦ったかもしれません。
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(先祖祭りで婦人たちが御詠歌を詠う)
資長・資重兄弟が秀吉の朝鮮出兵に応じて肥前へ来たとか、どこかの大将に呼ばれてここへ来たが志を得ず土着したと言う人もいます。
豊臣秀吉は1590年(天正18年)に後北条氏を滅ぼしたあと、肥前の名護屋より朝鮮出兵を断行しました。やがて秀吉は没して関が原の戦いとなったわけですから、この疾風怒涛の時代の全貌を知っていた人も記録した人もいないのは仕方のないことです。
資長・資重兄弟がなぜ嬉野に来たかは、嬉野の太田資信氏にとって依然として謎です。資信氏は「私は50年間余りもそのことを調べ続けてきたけれども、まだわからないのです」と頭を抱えていました。
「いずれにしてもご先祖は勇敢に戦って戦死したのだから、勇者であったことは間違いありません」と私は資信さんに申しあげました。
私の勘ではこの謎の底に、戦国の複雑で非情なしがらみによる言うに言われぬ深い苦渋があったように思います。その深い事情と資政の熱い思いは、資政とともに太田家先祖墓に秘められていて、資政はそれを決して語ることはないでありましょう。
各地に桔梗紋の太田氏はたくさんいるけれども、家系図を遡ると、戦国時代の部分が欠落している場合がよくあります。そのことは、その時代の生活が不安定で流動的であったことにもよりますが、身の安全のため移住して敢えて出自を隠し続けたこともあったと思います。 
太田資信氏は、2010年(平成22年)に、「嬉野太田家先祖祭り二四七回年忌」と題する立派な記録集を発刊し、自宅の庭には「太田道灌公之像」を設置しました。


   

 
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2010年08月15日

太田資正終焉の地・片野城址

茨城県の石岡市が太田資正終焉(しゅうえん)の地です。東京都のJR日暮里駅で常磐線に乗ると約2時間で石岡市へきます。茨城県に入ると、車窓からレンコン畑が見えてきて、夏の朝には見事な花を咲かせています。
太田道灌の曾孫太田資正三楽斎道誉は、道灌の再来といわれたほどの名将であったけれども、長男の氏資と仲違をし、1565年(永禄8年)岩槻城を追われました。資正は常陸の佐竹氏の客将となって片野城に拠り、息子の梶原政景は柿岡城に入りました。
片野城址がある石岡市根小屋地域へのアクセスはやや難儀で、車で行くか石岡駅から途中までバスで行き三キロほど歩くしかありません。城址への道標など全くないので、地元の人に尋ねるか地元の詳細な地図を持参する必要があります。集落の中の小山が片野城址です。入口に「片野城址」という石碑と石岡市教育委員会の説明板が立っています。
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(片野城址碑)
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(土塁跡)
説明板によると、1566年(永禄9年)ごろ太田資正がこの城を築き、柿岡城の梶原政景と協力して、佐竹氏に対立した国人領主・小田氏を国外に追い払いました。資正は三男資武とともにこの城に居住し、1591年(天正19年)秋に、その豪勇かつ多彩な生涯を終えました。時に資正69歳でありました。
城址の入り口を登ると本丸らしい空間があり、今は畑となっています。周囲に土塁と思われる遺構が数か所あります。城址入口に至る深く切り込んだ道路も、空掘りの跡と思われます。城址に立つと、はるかに筑波山がよい具合に見えて一幅の絵のようであります。晩年の太田資正は、朝夕にここに立って筑波山を眺め、自らの来し方を振り返ったことでありましょう。
この城址に隣接している佐久山も片野城の一部分で、その小山の向うに太田資正の墓所があります。城址の登り口から佐久山を小さく巻くと、真言宗豊山派浄瑠璃光山と称する無人の堂があります。その墓域の奥に、「太田資正公之墓所」と彫られた石柱と五輪塔が三基あります。波乱万丈の生涯を駆け抜けた太田資正は、田んぼやハス畑に囲まれた静かな里の小山で永遠の眠りに就いたわけです。
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(太田資正墓所)
片野城址から恋瀬川に沿って約3キロ北へ移動すると、丘の上に石岡市立柿岡小学校があり、そこが柿岡城址です。校門への登り道の側面が土塁の遺構と思われます。学校の敷地全体が小高い丘の上にあり、かつての城山は想像するしかありません。この城には、太田資正の次男梶原政景が拠り、父とともにその存在感を発揮し続けました。
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(柿岡城城址) 
石岡駅から歴史コースを10分も歩くと、常陸国総社神社があります。この神社はその名のようにいろいろな神社の総代の役目を果たした由緒ある古社です。この神社に太田道灌遺愛の軍配が伝っていました。神社の説明板には次のように記されています。
県指定有形文化財(工芸品)漆皮軍配 伝太田道灌奉納
小型の軍配と長い柄の形式は古く、室町時代の作と推定されている。総長48・9センチメートル、最大幅19・1センチメ ートル、柄幅2.6センチメートル、なめし革製黒漆の軍配。表には朱漆で種子を描いている。
寛文8年(1668年)太田資宗、資次の寄進銘のある箱に収められてあり、保存状態も良好である。
太田道灌が石岡まで来た記録はないので、岩槻城に伝わっていた道灌の軍配を岩槻城主太田資正が所持し続け、資正が晩年になってから総社神社へ奉納したのではないかと私は推測しています。太田資宗、資次は江戸時代の掛川藩太田家の初代と2代です。
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(総社神社)
片野城址と柿岡城址は石岡市指定史跡です。
太田道灌遺愛の漆皮軍配は、レプリカが埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で展示されています。
片野城址=茨城県石岡市根小屋
太田資正墓所=茨城県石岡市根小屋
柿岡城址・柿岡小学校=茨城県石岡市柿岡2151
常陸国総社神社=茨城県石岡市総社2
*この記事に関連して、先に掲載して引き揚げた「武州松山城と太田資正」を再度掲載します。

 太田資正と武州松山城址                            
武州松山城の城主であった太田美濃守資正入道三楽斎道誉は、道灌の曾孫に当たり、道灌の再来といわれた名将でありました。この勇猛果敢でやや不遇な智将のことを、私は深い感慨を持って述べなければなりません。
埼玉県東松山市から吉見町に入ると、すぐに吉見百穴(よしみひゃくあな)という有名な国指定史跡の観光スポットがあります。東武東上線の東松山駅から、徒歩25分です。この百穴のとなりの城山が松山城址です。百穴の観光案内所の人に松山城址の登り口を尋ねると、親切に教えてくれて「本丸までは道がありますが、その先はけもの道です」と言い、意味ありげににやりと笑いました。登ってみてその意味がわかりました。本丸から先では次第に道が消えて、やがて深い空堀の底に迷い込んだりします。城域がけもの道になっているということは、極めて良好に保存されているということです。
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(吉見百穴)
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(松山城の深く広い空堀)
松山城は1399年(応永6年)この地の国人領主上田氏により築城されたといわれていますが、武蔵国中原の要衝であったため、常に諸勢力の争奪戦の的となって城主は度々変わりました。城の構造は梯郭(ていかく)式平山城とされ、舌状の城山の先端を市野川が半円状に囲み、本丸、二の丸、春日丸、三の丸などを中心に段差を持った多くの腰郭と深く広い空堀をもっている堂々たる山城です。
1561年(永禄4年)から3年間、太田資正は松山城の城主として上杉謙信に忠誠を尽くし、後北条氏と武田氏に対抗して道灌譲りの奇抜な戦法で戦い続けました。  
「三楽犬の入れ替え」として面白い挿話が伝えられています。資正は岩槻城と松山城で各50匹の犬を飼って、土地になれた頃に犬たちを他方の城に移しました。資正は後北条軍の急襲を受けて城を包囲されると、直ちに10匹の犬の首に文を入れた竹筒を結わえて放ちました。犬の帰郷本能を活用した緊急通信システムであり、日本軍用犬の起源です。犬たちは包囲網をかいくぐって約29キロの道をおそらく小一時間で走ったから、すぐに後詰めが押し寄せて来ました。後北条方はこの不思議を訝り、大いに恐れたということです。現代で言えば、太田資正は暗号による情報戦で勝っていたということです。
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(三の丸跡)
1560年(永禄3年)2月に、上杉謙信が小田原を攻めたとき、資正は先鋒として兵3500名を率いて小田原城に迫り、後北条軍の心胆を脅かしました。「北条記」という軍記ものには「太田資正は一騎当千の兵なり」と伝えています。
1590年(天正18年)、今を時めく天下人豊臣秀吉がその総力を結集して関東に攻め込み、小田原城を包囲しました。秀吉から小田原城攻撃の戦術を問われた資正は、並みいる宿将の前で城の無血開城の策を進言しました。このようなときに非戦論を唱えると宿将の嘲笑に合い、まかり間違うと自らの命運も危なくなるのが戦陣の常であります。しかしこのとき、後北条軍の精強さと小田原城の堅固さを知り尽くしていた太田資正の一言は重く、諸将に強いインパクトを与えました。秀吉はこのとき、自分の腹の中の図星をさされたので敢えて不快そうな顔をつくり、着ていた陣羽織を資正に与えて退出させたということです。結局は資正の進言通り、主戦派の北条氏政、氏照と数名の重臣の切腹で小田原城は明け渡されました。
太田資正の唯一つの失敗は、二男の梶原政景を溺愛して長男氏資と仲違いをし、岩槻城を追われたことです。その後、氏資は後北条氏に取り込まれてさらに謀略にはまり、上総三船山合戦で戦死しました。時に氏資は26才の若さでありました。
資正は客将として常陸の片野城に移ってからも、佐竹氏を補佐してその存在感を発揮し続け、1591年(天正19年)その波乱万丈の生涯を終えました。太田資正の三男資武の子資信が祖父三楽斎資正の戦歴を次のように記しています。
  出陣数  79度
  一番槍  23度
  組み打ち 34度
  太刀打ち 覚え申し候はず
太田資正ほどの勇将・智将であっても、時と所に利がなければやや不遇の生涯を送らねばならなかったのです。このように無情な時と厳しい境遇の中で、戦い続けて燃え尽きた太田資正は巷間、「日本13大将」に列せられてその名を後世に伝えています。
松山城址は埼玉県指定史跡であり、かつ比企郡城跡群として国指定史跡です。
片野城址は石岡市指定有形文化財(史跡)です。
武州松山城址=埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山
片野城址=茨城県石岡市根古屋


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2010年06月30日

秩父の長尾城址と景春の墓

秩父高佐須城(塩沢城址)から再度、秩父の長尾景春の足跡を追います。従って今回は、道灌紀行から脱線して景春紀行となります。秩父市のお花畑駅から秩父鉄道に乗ると、三つ目で日本通貨発祥地である和銅黒谷(わどうくろや)駅につきます。駅のプラットホームに巨大な和銅開珎(わどうかいちん)のモニュメントがあります。このあたりに来ると、電車は30分に1本ぐらいしかないので、駅の待合室でおしゃべりをして電車を待つ里人や通学生徒の話を聞いていると、急に時間が止まったような気がしてきます。昔懐かしい里山の電車に乗りたければ、秩父鉄道がお勧めです。運が良ければ、俳句展示の電車に出会います。私がたまたま座った座席の上に記す。
 山澄みて馬がまどろむ草の海
 錦秋の秩父路夫とひもすがら
車で秩父市駅から国道140号線を走ればすぐに黒谷へきます。
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(和銅黒谷駅のモニュメント)
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(長尾城址にある和銅遺跡)
和銅黒谷駅から観光用の道標に従い、梅雨の晴れ間にふるさと歩道を歩きました。民家と畑が点在し、山の方から鶯の谷渡りがまことに心地よく聞こえてきます。のんびり歩いて10分おきぐらいに法雲寺、和銅遺跡入口、瑞岩寺があります。法雲寺には長尾景春の墓があり、和銅遺跡の奥山である美の山公園から瑞岩寺の奥の岩山あたりが長尾城であったと伝えられています。
私は先ず法雲寺こと曹洞宗の正永山法雲禅寺へ行き、寺の庫裏を訪ねると無人でした。墓域で伝・長尾景春の墓を探したけれどもそれらしきものが見つかりません。思い余って、寺の近くで仕事をしていた地元の逸見さんに尋ねました。逸見さんは快く「案内しましょう」と言って、自宅へ戻り長くつを履いて鎌をかつぎ「ときどき蛇やイノシシが出ます」と言って歩き出しました。逸見さんは寺の奥山を、雑草を切り払いながら登り始めました。立派な坂道があるけれども雑草や灌木ですっかり覆われています。息を切らしながら10分も登ると、山の中腹の50メートル四方ほどの平場に着きました。逸見さんは「昔はここに法雲寺があったと伝えられています」と言って、灌木や雑草をかきわけ、平場の中ほどに立つ苔むした一つの五輪塔へ案内してくれました。
林の中のちょっと開けた所に立つ五輪塔、いや下二段は崩れて約六〇センチメートルの三輪塔になっている石塔が、伝・長尾景春の墓です。訪ねる人もなく山の中腹で雑草と灌木に埋もれてひっそりと立っています。私は、胸騒ぎを覚えながら石塔の文字を探しました。木漏れ日が当った部分にかすかに文字の痕跡様のものを認めたものの判読できません。これが長尾景春の墓だとすると、景春没後、約500年も経っているので石塔の磨滅もしかたありません。
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(永正山法雲禅寺・奥山に景春の墓)
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(伝・長尾景春の墓)
この平場の上の稜線を東へ行けば美の森公園と和銅遺跡があり、さらに行けば瑞岩寺へ至ります。「秩父志」によるとそのあたりは長尾城址と伝えられていますが、遺構は見つかっていません。
ふるさと歩道の東の端の絶壁の下に瑞岩寺こと曹洞宗の融興山瑞岩寺(ゆうこうざんずいがんじ)があります。瑞岩寺の縁起によると、この寺は、1528年(亨録元年)長尾四郎左衛門昭国が開基となり創建されました。そしてこの寺の住職の話によると、長尾四郎左衛門昭国とは長尾景春その人であり、かつて瑞岩寺にも長尾景春の墓があったそうです。長尾景春は、1514年(永正11年)72歳で没したと伝えられています。そうすると瑞岩寺開基の年代が十数年ずれて整合しません。
ところが、瑞岩寺住職の話では、法雲寺の方が瑞岩寺より少し早く創建されたということです。法雲寺はちょうど景春が没した永正年間に恐らくは景春により創建され、年号をとって永正山と号されたのであろうと私は推測いたします。そうすると、法雲寺の奥山の五輪塔は、景春そのひとの供養墓であるという信憑性がぐっと強くなります。景春没後、秩父の人たちが景春の不運を憐れみ、景春とその家族が最期を過ごした長尾城のふもとに、景春の供養塔を立てたのだと私は推測しています。
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(瑞岩寺)

ふるさと歩道の西の端には、聖(ひじり)神社があり、その境内に「長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑」があります。長尾景春にはたくさんの名前があり、威玄(いげん)入道とは長尾景春の法名です。
また「増補秩父風土記」の黒谷村の項には、長尾城址が意玄入道の子烏坊丸と奥方ほか27人が隠れ住んだ場所であるとの伝承が記されています。
太田道灌状には、長尾城についての記述がありません。それゆえ、長尾城堀之内跡と伝えられているあたりは、戦闘用の砦ではなくいわゆる根小屋と称されるところで、景春の家族と少数の従者が住んでいた所ではないかと私は推測しています。
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(聖神社・長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑)
長尾景春と秩父の因縁はまことに深いものがあります。景春の属していた白井長尾氏と秩父の薄地域(小鹿野町)を領していた犬懸長尾氏(鎌倉長尾氏の系列)とは縁戚関係があり、景春の妻も犬懸長尾の出身でありました。薄地域は秩父でも有数の平野で水田地帯であったため、犬懸長尾氏とその地域の国人衆の経済力は強大でありました。秩父の国人衆は一揆と称する横の連携を結ぶことによって管領から独立する傾向があり、なおかつ敗れて落ちてきた人物を支援する気風が強かったといわれています。犬懸長尾氏の当主長尾景利は、景春与党として戦って秩父で戦死しています。
1476年(文明8年)景春が鉢形城に拠って上杉顕定に叛旗を翻したとき、彼はその地の戦略的利点とともに背後の秩父の人脈を頼りにしていたことは間違いありません。その後も景春は、敗れるといつも妻の里である秩父へ移動し、勢力を盛り返して山岳ゲリラ隊のように道灌軍に奇襲をかけてきたのです。そして景春が、道灌軍に追われて最後にたてこもったは秩父の高佐須城(塩沢城)と日野城(熊倉城)でした。

太田道灌の妻の甥が長尾景春で、道灌と景春は互いに熟知していた仲でした。それゆえ、景春は道灌に反乱に加わるよう頼み、道灌は加勢をことわったけれども景春の面子を立てるよう種々骨を折りました。二人はおそらく互いに親愛の情を持ちながらも、戦国のしがらみに縛られて30数回も戦い続けたのでありましょう。道灌は関東御静謐を夢見て戦い、勝ち続けたけれども道半ばの55歳で凶刃に倒れました。景春は白井長尾家再興を夢見て戦い、逃げ続けた(否、それは単に秩父へ移動したという予定の行動であったかもしれない)けれども、上杉顕定への反抗をつづけ、72歳まで生きながらえました。
二人が抱いた戦の大義は異なれども、二人に共通しているところは、人倫を踏みつけて権謀術数を振り回して戦国大名になろうという野望を持たなかったことです。そのことが後の世の人々に物足りなさを与えるともに、親愛の情を呼び起こしています。

長尾景春は幼名を孫四郎といい、長じて様々の名前を使いました。主なものは、長尾四郎右衛門尉、長尾景春、長尾左衛門昭国、長尾伊(威・意・以)玄入道ですが、種々の組合せによるバリエーションが約20種もあります。群馬県渋川市上白井の空恵寺(くえいじ)に白井長尾家累代の供養塔があり、その中の一つに景春の最後の名前すなわち戒名が「涼峯院殿大雄伊玄大居士」と刻まれています。
瑞岩寺の裏の絶壁のツツジは秩父市の天然記念物です。
聖神社は秩父市指定の有形文化財です。
伝・長尾景春の墓・法雲寺=埼玉県秩父市黒谷665
瑞岩寺=埼玉県秩父市黒谷1633
長尾城址=埼玉県秩父市黒谷
聖神社=埼玉県秩父市黒谷2191











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2010年06月19日

塩沢城址(秩父高差須城址)

「太田道灌状」の冒頭部分に「弥七郎の事は、秩父高佐須(たかさす)に於いて、同心の傍輩中に就いて、身命相通わす旨候の故、城中の様態存ぜしめ候、それに従い行を廻らせ候の間、御方一人も恙無く、専一に御敵等数十人討ち取らせ候事、云々」とあります。道灌軍が秩父高佐須城を攻めたとき、大串弥七郎の仲間が高佐須城中の事を知らせてくれたので、道灌軍は味方を一人も失わずに数十人を討ち取り、勝利することができたということです。 
さて、秩父の高佐須とは一体どこでしょうか。「長尾景春と熊倉城」という旧荒川村の郷土研究会刊行の労作によると、秩父に「高佐須」と思われる地名は両神(りょうかみ)村の「高指(たかざす)」しかないということです。従って、高佐須城は現在の埼玉県小鹿野町大字両神薄(すすき)字塩沢(しおざわ)にある塩沢城に比定されるということです。
このあたりは、犬懸長尾氏の当主で景春の従兄弟でもあった長尾景利の所領でありました。景春は、戦に敗れるといつも秩父に逃げ込み、間もなく勢力を盛り返しました。1480年(文明12年)道灌軍は長井城(熊谷市)の長尾景春を攻めたので、景春は秩父の山峡へ逃走し、塩沢城に拠ったと思われます。

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(塩沢集落の入り口)
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(宇賀神社・塩沢城址登り口)
秩父市で国道299号線に入り、小鹿野町の黒海土の信号で左折し、県道37号線に入って少し走り、さらに右斜めの県道297号線に入ります。約2キロ行くと午房というバス停があり、そこに塩沢地区への標示板があります。左折して塩沢集落に入り、道なりに回り込みながら高みへ至ると宇賀神社という稲荷社にきます。祭り用のためか立派な駐車場があり、その奥に塩沢城址への登り口があります。この城址については地図にも記されてなく案内板など全くないので、私は土地の人三人から道を教えていただきながらようやくここへたどり着きました。

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(第1の平場)
塩沢城は長尾景春の城とされ、登り口の稲荷社は景春が勧請したそうです。
登山口から尾根道を登ると、すぐにつづら折りの急坂になり、両側は切り落としたような崖となります。最初の切り落としを越えると第1の平場にきます。
約30メートル四方の平場には杉が密生しています。さらに帯郭を2段越えて第2の平場にきます。「城の平」と呼ばれる約30メートル四方の平場です。さらに急坂をよじ登ると、約20メートル四方の第3の平場です。ここには不動、荒神、歓喜天など修験道の碑があります。さらに登ると標高760メートルの鐘つき場と呼ばれる頂上があり、修験道の碑がたくさん立っています。三方は切り落としたような崖ですから、ここは退路を断って戦う最期の詰め郭の感じです。土地の人は、頂上まで登り30分と言っていましたが、私は1時間余りかかりました。
塩沢城は、全体としては中世の山城によくある段郭(だんくるわ)の典型で、かなり大規模なものです。下から登ると郭の所在は全くわからず、這って登るような急坂に囲まれているので相当攻めにくい城です。太田道灌状によると、寝返った者が城の弱点を道灌軍に教えたので落ちたということです。
土地に伝わる景春の逃走伝説によると、薄の地頭小沢左近と小森の地頭嶋村近江守の道案内で、道灌軍が夜討ちをかけ、1480年(文明12年)1月末か2月中旬に、塩沢城は落城しました。景春は日野の熊倉城へ逃げ、家臣の深井対馬守がしんがりを勤め、防戦して深手を負い自害したということです。この地の地頭は、太田道灌状に記された大串弥七郎の配下であったかもしれません。今も塩沢城の南東に夜討ち沢という沢があります。
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(塩沢城の頂上・周囲は急坂)

登り口の手前で、私が道を尋ねた農家の人は心配そうな顔で「道標など全くなく、道が枯れ葉で覆われていますので」と言っていました。以前、道灌研究をしている知人が、塩沢城は遭難の心配がある、と言っていたので、私は登る途中で、何度も振り返って地形や倒木の様子などを覚えながら慎重に登りました。確かに途中から道は完全に消えていました。基本的に一本尾根ですから、登るときはどんどん上へ登ればよいのですが、下りがたいへんです。第一の平場から下るとき、私はルンルン気分で油断して、方角を間違えてちょっとした枝尾根へ入ってしましました。枯れ葉で覆われた急坂をスキーで降りるように一気に100メートルほど下って異変に気付きました。山で迷ったときは、元の場所へ戻れという原則に従い、私は灌木の根につかまりながらまたよじ登って第一の平場に戻りました。もう一度よく見て考えて正しい方角を見つけました。その日は快晴、無風、温暖であったし、私は若い頃に山登りをした経験があるので事なきを得ました。塩沢城址は中世の段郭として教材的価値が高くたいへん面白い城ですが、少々危ないので一般の人にはお勧めできない所です。このように、城山を落ち葉に埋もれたままにしておくことが、長尾景春に対する秩父の人たちの惻隠の情の表れであるように思えるのであります。

帰り道、国民宿舎「両神荘」で秩父温泉の露天風呂につかり、それから荒川歴史民俗資料館に寄って館長と長尾景春談義をしてきました。
塩沢城は、埼玉県選定重要遺跡です。
塩沢城址=埼玉県小鹿野町大字両神薄字塩沢5600
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2010年06月01日

平井城址・平井詰(金山)城址・山内上杉家の本城

東京から埼玉県の真ん中を横切るようにして、関越道あるいは一般道で約100キロも走ると埼玉県本庄市につきます。本庄市の国道17号線沿いに五十子(いかっこ)城址があり、そこから西へ約15キロ移動すると、群馬県藤岡市の西平井という上州の山裾につきます。金井という集落に山内上杉氏の本城であった平井城址とその詰め城であった金井城址があります。この両城は、永享の頃に関東管領上杉憲実の命を受けた、長尾忠房の縄張りで築城された見事な山城であり、現在藤岡市や地元の保存会が整備しています。
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(平井城址)
平井城址の土塁には林立する関東管領の旗が威勢よくはためいているものの、城址の真ん中の私有地にはなぜか豚小屋があります。
平井城址から500メートルほど離れた所に平井詰(金井)城址があります。この城山の上り口から本丸まで1000メートルあり、防衛のための急坂や堀切が随所にあるので高齢者は注意をしなければなりません。

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(金山城址登山口)
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(金山城址概念図)
この城は関東平野の北の端に位置しているので、五十子へ出陣するには好都合であったけれども、上杉氏が関東管領として関八州に睨みを利かすには適当ではなかったと思われます。太田道灌がこの城に来た記録は見えませんが、多分来たことがあると思います。なぜなら、道灌は、上杉顕定が関東管領として采配をふるうために平井城ではなく鉢形城へ入るよういろいろ気をつかったことが太田道灌状に見えるからです。この城は太田道灌と直接の関係はないけれども、上杉顕定の動きを理解するためには見ておく必要があるので訪れました。

両上杉氏は道灌謀殺後、同族同士の抗争を続けて勢力を消耗し続けました。時は流れて1546年(天文15年)、小田原を拠点にして北関東へ進出を図る後北条氏は、夜陰にまぎれて上杉氏の川越城を攻め落しました。この夜戦で足利晴氏は古河城(古河市)へ敗走し、山内上杉憲政は平井城へ落ち、扇谷上杉朝定(定正から4代目)は22才で討ち死し、川越城、岩槻城も後北条方に帰して上杉領は消滅しました。
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(本丸と下の避難小屋)
平井詰(金山)城址は中世の山城としてみごとな縄張りです。急峻な稜線を利用して帯郭、物見台、井戸郭などを持っているところは、北条氏照の武州八王子城に似ています。ここは山城愛好者が登ると相当喜ぶ所です。城址に稜線が数本あり、天候の悪い時は霧や雷で遭難の可能性があるためか、避難小屋が二か所にあります。
平井城址・平井詰(金山)城址は藤岡市指定史跡です。
平井城址・平井詰(金山)城址=埼玉県藤岡市西平井
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2010年05月08日

忍(おし)城址、成田陣

JR山の手線の池袋から湘南新宿ラインで熊谷まで来て、秩父鉄道に乗り換えます。熊谷から二つ目で行田市駅へ来ます。駅前は人も車もまばらで、商店街も見立たず、かつては「行田のたび」で世に知られたこの町の経済不況が感ぜられます。駅前から125号線へ出て右へ曲がり、道の両側に飾ってある面白い金属製の童(わらべ)人形を見ながら10分も歩くと市役所へ来ます。市役所の庭園を歩いて城址に近づくと三層櫓が見え、冠木門をくぐると忍(おし)城址の堀へ来ます。この城は、周囲が水に囲まれて浮き城とよばれたそうです。かつての本丸跡には今、郷土博物館が建っています。
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(忍城址の三層櫓)
騎西郡成田郷を本拠地とするろ国人領主成田氏は元々、忍城から約4キロの成田陣跡(熊谷市上之堀之内)に舘を構えていました。文明11年ごろ成田顕泰は忍城の忍大丞を追って忍城に入りました。その後約100年間成田氏がこの城を中心に近隣を支配しました。この城地はちょうど利根川と荒川に挟まれた中間の位置にあったので、古河公方方の上杉方に対する前線基地であったことが一目瞭然です。
「太田道灌状」には、度々成田陣、忍城という言葉が出てきます。
「(文明10年3月、長尾景春が小机城に後詰しようとしたが、上杉軍に攻められて)千葉介・景春一戦におよばず退散せしめ、成田陣へ逃げ参り候」
「(文明10年7月、道灌が上杉顕定の着陣を待って)然る間、修理太夫(上杉定正)は森腰に取り陣、道灌は其のまま成田に張り陣」
「(文明11年12月、道灌が長井城攻略に向かったとき)忍城雑説の由粗あら申し来たり候間、不慮の落度候てはいよいよ難儀たるべき旨存じ、翌日29日久下(熊谷市)へ陣を寄せ、成田下総守に力をつけさせ候間、彼の城無為に候」
長尾景春も対立する太田道灌も成田陣へ入城しています。それは、成田氏が最初上杉方につき、長尾景春の乱のあとには景春方につき、さらに上杉方に寝返ったけれども、雑説(ぞうせつ)(謀反の噂)が立つなどその政治的また軍事的去就が常に不安定であったからです。
再建された三層櫓の展望室に上がって周囲を見渡すと、四方は見渡す限り畑作地帯で、山も川も見えません。しかし往時は、周囲が湿地帯で難攻不落の水城でした。成田氏が古河公方・景春方に与したり上杉氏に従ったりしたことは、忍城の武人たちが特に変節漢であったとか恩知らずであったとかいうことではなく、この地理的条件ではお家と領民安泰のためやむをえない選択であっただろうと推察されます。
行田市から電車でちょっと移動すると羽生市へ来ます。周辺には五十子や騎西など「太田道灌状」にでてくる地名が多く、このあたりへ来ると古河公方方と上杉方が領地を奪い合って激しく動き回ったことを追体験することができます。
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(行田市の童人形)
成田氏のように去就を変えた国人衆に対して、道灌は柔軟に対応しました。「太田道灌状」の冒頭部分で道灌は、大串弥七郎や毛呂三河守など最初反上杉であったけれども後に上杉方に帰服している国人衆の所領安堵のことを、上杉氏に懇願しています。太田道灌は、諸勢力が入り混じった上野や北武蔵では、一度は敵対しても降参した国人衆を所領安堵して召し抱え、勢力を拡大していったのでした。それに対して、上杉氏は、そのような道灌のやり方に好感をもっていなかったことが読み取れます。つまり太田道灌は柔軟な現実主義者であり、反対に上杉氏はかたくなな観念論者であったといえます。この両者の考え方の違いもまた、後の悲劇につながる伏線になったと思われます。
現代的に言えば、筆頭重役太田道灌は、競業する同業他社が倒産した場合、その相手方の有能な社員を積極的に取り込んで業績を拡大したけれども、創業家の社長上杉氏は純血主義にこだわりそのことを嫌がったのでした。
忍城址=埼玉県行田市本丸17-23
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2010年03月06日

扇谷上杉定正の最期を追う

1486年(文明16年)7月26日、上杉定正は太田道灌を相模国の糟屋館に招き謀殺しました。時に道灌55歳、今はの際に道灌は「当方滅亡」と叫んだということです。理不尽な道灌謀殺により、道灌の子資康をはじめ多くの家臣・重臣が扇谷上杉家を離反し、山内上杉家へつきました。
両上杉家の緊張は高まりついに1488年(長享2年、)戦端が開かれました。(長享の乱) 定正は道灌の軍師であった斎藤加賀守安元を重用して実蒔原(伊勢原市)の戦い、菅谷原(嵐山町)の戦い、高見原(寄居町)の戦いで優位を保ち続けました。
1494年(明応3年)10月、定正は北条早雲の援軍を得て意気揚々と4度目の高見原の戦に出陣し、山内上杉顕定と対戦しました。定正は、荒川を渡河しようとして落馬し、濁流に流されて死去しました。道灌没後8年、時に定正は49歳あるいは52歳ともいわれています。

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(荒川の川越岩)

小田急線の伊勢原駅から七沢方面へ車を15分も走らせて伊勢原市と厚木市の境目のあたりに来ると、実蒔原古戦場があり、大山がよい具合に見えます。厚木よりの民家の近くに古戦場碑と伊勢原市教育委員会の説明板があります。そこから県道64号線を車で5分も走ると、小高い所に上杉定正の居城であった七沢城址があります。城址の高台全体に今、七沢リハビリ病院が建っていて構内に七沢城址の碑があります。
城址を降りて、また坂道を少し登ると、臨済宗の吉祥山徳雲寺があり、隣接する墓地に上杉定正夫妻の五輪塔があります。
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(七沢城址)
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(上杉定正の墓)

実蒔原古戦場=神奈川県厚木市七沢
高見原古戦場(推定)=埼玉県寄居町今市
菅谷原古戦場=埼玉県嵐山町大字菅谷
七沢城址=神奈川県厚木市七沢
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2010年02月05日

道灌有縁の社寺(続き)

私は「道灌紀行」(平成21年10月発刊)で、道灌ゆかりの社寺について書きました。最近、先に記したあきる野市の開光院の他に、さらに二か所の道灌有縁の社寺がわかったので訪問しました。誠に、「道灌紀行は限りなく」であります。

(1)渓照山光岳寺・太田道灌稲荷
国道20号線(甲州街道)で調布市に入り、東京電気通信大学の交差点を北へ曲がると富士見町の石原小学校があり、そのすぐ近くに浄土宗の渓照山光岳寺があります。山門を入るとすぐ右側に太田道灌稲荷が祀られています。このいわれを住職から詳しく聞きました。
この寺は、徳川家康の母であった於大の方の法名に由来する旗本寺で、寺紋は葵紋です。当初小石川(東京都文京区)にあり、明治初年、先々代の住職の頃、近くの一口坂(いもあらいざか)(神田駿河台)にあった一口稲荷(いもあらいいなり)が、さびれていたので引き取ったということです。当時は、神仏習合の時代だったので気にもしなかたそうです。
その後、この寺は寺域が狭くなったので昭和9年に調布の飛田給に移転し、さらに先の大戦の最中昭和19年に、陸軍の調布飛行場拡大のため現在地に移転したそうです。その都度、道灌稲荷も一緒に移転したそうです。

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(光岳寺の太田道灌稲荷)

太田道灌の娘が天然痘に罹ったとき、京都の山城の国一口稲荷(いもあらいいなり)に人を遣わして祈って全快したそうです。1457年(長禄元年)、道灌の枕元に白狐が現れて「われ城の鬼門を守るべし」と言ったので、道灌はこの神を江戸城の鬼門(北東)に祀ったということです。この一口稲荷は、江戸城の東北地域を3回遷座しました。1590年(天正18年)に家康入城で神田錦町へ、1606年(慶長11年)に江戸城拡張で神田の聖橋の袂へ、そして1931年(昭和6年)に総武線建設で現在地の神田駿河台へ移転しました。
1866年(慶応2年)大火により御神体を除き社殿を全焼し、1872年(明治5年)に太田姫稲荷神社と改称し、大正12年には震災で類焼しました。
一口坂(ひとくちざか・いもあらいざか)は各地にありますが、聖橋の袂の坂も一口稲荷に因み、一口坂(いもあらいざか)と呼ばれていました。

以上の史実と先の光岳寺の住職の話を照らし合わせて推測すると、明治初年、火災で焼けた一口稲荷の社殿がまだ復興しないときに、稲荷が小石川の光岳寺の寺域にいうなれば仮住まいをし、そのまま調布の飛田給に分社・移転して太田道灌稲荷と改称したのではないかと思います。光岳寺の住職が先々代(祖父)から聞かされていた「一口坂(いもあらいざか)の稲荷」という一言がキーワードになります。一方神田では、その後本社が社殿を復興し、「太田姫稲荷神社」と改称し、さらに現在地に移転したのだと思います。
一口(いもあらい)は「穢(え)もあらい」とよみ疱瘡快癒に通じ、太田姫は一口稲荷のご神体である「太田姫の命(みこと)」の意味ではあるけれども、一般民衆は道灌の娘の意味に受け取って親しんだのかもしれません。
光岳寺=東京都調布市富士見町1-36‐2

 (2)鷲嶽山大円寺・道灌愛用の茶釜
東武野田線の七里駅から徒歩5分で、曹洞宗の鷲嶽山大円寺に来ます。大円寺は、1525年(大永5年)岩槻城主太田資高の夫人・陽光院が開基となり創建されました。この寺には、太田道灌が茶の湯で愛用したという「古天明霰釜(こてんみょうあられがま)」があります。寄贈者は陽光院です。天明は現在の栃木県佐野市あたりの地名で、茶の湯釜の生産地として「西の芦屋、東の天明」と言われました。

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(道灌が愛用した古天明霰釜の説明板)

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(大円寺本堂)

陽光院は、この寺に参詣すると「古天明霰釜」で茶をたて、道灌の位牌に供えたということです。この霰釜は、通常は観覧できません。
大円寺の「古天明霰釜」は大宮市指定文化財工芸品です。(大宮市は現在さいたま市に属しますが、説明板の通り記します)
大円寺=埼玉県さいたま市見沼区風渡野335
 
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2010年01月10日

道灌本隊の甲州への道と開光院

ひょんなことから、東京都あきる野市五日市に太田道灌ゆかりの寺があると聞いたので、冬の晴れた日に車を飛ばして訪ねてみました。JR五日市線の終点五日市駅から檜原街道へ入ってすぐ右側に都立五日市高校があります。その背後の丘陵地域に、臨済宗建長寺派の幽遠山開光院があります。由緒ありげな山門と本堂の屋根には、太田家と同じ細桔梗の寺紋があり、早速胸騒ぎがしてきました。山門の横にあきる野市教育委員会の説明板があり、この寺が1448年(文安5年)の開創であり、あきる野市指定文化財であると記されています。
本堂へ入ると住職がいましたので太田道灌のことを尋ねました。住職は心安く対応してくれ、私が詳しく質問すると、奥の方から秘蔵の住職手製の太田道灌覚書帳を持ってきて見せてくれました。それには次のように記されています。
「開光院に伝わる慶安5年5月の文書によると、開創間もない頃太田道灌公が、この地で取り合いがあったとき開光院に滞在し、ご運が開けたご褒美に寺領十六石の寄進を取り計らい、そのため寺では道灌公の位牌を立て置き、朝夕茶湯を献じてきたとある。今も寺では、道灌公の位牌をまつっている」

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(開光院の山門)
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(本堂の屋根に太田細桔梗の寺紋)         
 
この地は、「太田道灌状」に記されているあきる野市二宮から約3キロも離れた山裾の小高い所です。「道灌は一体何のためにここへ来たのですか」と私は聞きました。住職は「多分檜原を通って峠を越え、上野原へ行ったのでしょう」と言いながらも「寺の文書は江戸時代のものですから」と自信なさそうでした。私は逆に、これは何か曰く因縁があるのではないかと心に引っかかってきました。

私は家に帰ってから「太田道灌状」を舐めるようにして読み、地図を見ながら考えると、重大なことに思い至ったのです。それは、1478年(文明10年)太田道灌が長尾景春の与党を掃討するため、村山の陣から甲州へ向かったとき、道灌の本隊がほんとうに開光院で戦勝祈願(休憩)をし、檜原街道を通って人里(へんぼり)のあたりから峠を一つ(今は武甲トンネル)越えて上野原へ入ったのではないかということです。その理由は三つあります。
(1)「太田道灌状」によると、1478年(文明10年)6月、道灌の本隊は村山の陣(武蔵村山市)に留まり、大田資忠、六郎等の先遣隊が奥(おくの)三保(さんほ)(神奈川県津久井方面)で長尾景春与党の本間氏、海老名氏、加藤氏等を打ち破りました。続いて次のように記されています。
「夜中村山の陣へ告げ来たり候間、未明に罷り立ち、同16日甲州境を越え、加藤の要害へ差し寄せ打ち散らし、鶴河の所を始めとして放火せしめ候間、其の儘甲州東西静謐仕り候」
「太田道灌状」に「甲州境を越え」とあるからには、道灌の本隊は檜原から峠を越えて上野原へ向かったに違いありません。峠を越えるとすぐ加藤氏の本拠地上野原城が桂川の岸壁の上にあり、近くに鶴河宿もあります。奥三保ルート(八王子、津久井経由相模川沿い)では、敢えて越えるような峠も山もありません。
(2)道灌軍が16日未明に村山を出発してその日のうちに上野原の鶴河を攻撃したとすると、奥三保ルートではいかに健脚の足軽隊でも距離が遠すぎます。私はかつて両ルートとも車で走ったことがありますが、檜原ルートは約50キロと思われ、奥三保ルートの約三分の二の距離です。
(3)苦林(にがばやし)の戦でもその後の総州攻略でも、道灌と資忠とは本隊、別動隊となることがよくありました。両方向から加藤氏要害を攻めることは、道灌の作戦上考えられることであります。
以上のような理由で私は、道灌の本隊は、村山から秋川沿いに五日市へ至り、中間地点の開光院で休憩をとり、檜原街道に入って峠越えをしたと推定いたします。五日市辺りの人は今も、上野原をすぐ隣村のような言い方をします。檜原から上野原への峠道は、当時の幹線道路であったと思います。

開光院の住職の道灌覚書帳には11か所7種類の道灌の戒名が記されてありました。戒名は、それぞれの寺の住職が思いを込めて作るものなので、七種類有っても特段の歴史的意味があることではない、と住職は語っていました。一番驚いているのは、生涯に鶴千代・資長・持資・道灌と名前を変え、没後に7種類も名前をつけられた道灌自身だと思います。これも道灌の人気のなせることであります。7種類の戒名は次の通りです。
@大慈寺殿心園道灌大居士 (あきる野市開光院・伊勢原市大慈寺
 三島市妙法華寺・太田三楽斎家系図) 
A春苑道灌禅定門 (梅花無尽蔵)
B春苑静勝居士 (本国寺年譜)
C香月院殿春苑静勝道灌大居士 (東京都北区静勝寺)
D蓮乗院殿道灌日恩大居士 (東京都墨田区法恩寺)
E洞昌院殿道灌大居士 (伊勢原市洞昌院)
F香月院殿春苑道灌大居士 (さいたま市芳林寺・川島町養竹院)
私の知るところでは、鎌倉市の太田道灌出生地と言われる英勝寺の奥山にある供養墓に「太田道灌斎大居士」と彫ってあります。これをカウントすると、道灌の戒名は8種類ということになると思います。

私が開光院を訪れた日が五の日であったので、五日市駅近くの広場で、文字通り五日市ふるもの市が開催されていました。近在の旧家に伝わった陶器や道具などがたくさん並べられていましたが、骨董に目が利かない私には残念なことでありました。
開光院=東京都あきる野市五日市691
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2009年03月04日

自性院の道灌招き猫

地下鉄都営大江戸線の落合南長崎駅で下車して、新青梅街道を3分も歩くと小判を持った大きな招き猫のある門柱に気づきます。そこを左折すると通称猫寺こと自性院です。赤い山門のそばに立派な猫地蔵堂があります。
1477年(文明9年)の江古田が原の戦いの際、日暮れて道に迷った太田道灌の前に一匹の黒猫が現れて一行を自性院へ案内しました。道灌はそこで一夜を過ごすことができたため戦に勝利したということです。
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(自性院門柱の招き猫)

このお手柄猫は猫地蔵となり、毎年節分のとき猫地蔵堂で参詣者を迎えてくれます。会った人の話では、猫の顔は道灌にあやかる江戸の庶民になでられ続けたため磨り減って丸くなっているということです。
自性院から江古田はすぐ近くであるから、江古田が原へ向かった道灌は確かにこのあたりを通った可能性があります。このような伝承ができたということは、道灌が民衆の支持を受けていたため、随所で名もなき人々の支援を受けて苦境を脱したということです。
伝承はともかく私がもっと注目したものは、この寺にあるという私(し)年号(ねんごう)の板碑です。新宿区教育委員会の説明板によると、道灌が駆け抜けた混乱の時代には、室町幕府の力が弱ったため、関東の豪族や寺社は勝手に年号を決めました。この寺の板碑に記された私年号「福徳元年」は「延徳2年=1490年」のことです。この「福徳」という私年号には混乱のなかで現世安穏をひたすら願った民衆の思いが込められています。この板碑は新宿区指定有形民俗文化財です。
自性院=東京都新宿区西落合1-11-23

2017年05月24日

新宿の玉ちゃん

さて、東京都庁の近くの通称「三角ビル」こと新宿住友ビルデングの前の広場に黒猫の石像があります。台座の説明版に曰く、

  ひとにいのちあれば ねこにもいのちあり
  江戸の里をひらきし太田道灌
  この地の北でいくさに敗れ
  あわやいのちを失わん時
  一匹のねこあらわれにげ道をあんない
  いのちをとりとめ江戸を開いた
  なれどこのかくれた江戸の恩猫も
  ねこなるゆえに名ものこらぬはふびん
  江戸のいゝたま玉ちゃんと名づけ
  のちのちまでの江戸のまもりとす
        つくりびと  流 政之
         ねこの生まれ 文明狂年

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(写真は新宿三角ビル前の黒猫玉ちゃん)
  
丸の内の旧都庁舎の前に立っていた太田道灌の銅像は、現在東京フォーラムの中に立ち江戸城を見つめています。私は、新都庁舎の前にも太田道灌の銅像が欲しいなあと残念がっていたら、都庁横の広場で黒猫の玉ちゃんに出会い慰められました。今もやはりひそかに黒猫が道灌を助けています。玉ちゃんが両手でしっかり抱いている大きな玉は、いったい何の玉なのでしょうか。
新宿住友ビル=東京都新宿区西新宿2―6―1