2011年09月02日

「太田道灌状」の中の気になる地名・飯塚陣

「太田道灌状」の中で、城名や戦場名のように主役的な地名ではないけれども、脇役として重要な場面でちょこちょこ顔を出す気になる地名があります。その一つは武蔵の飯塚(深谷市)です。飯塚には、なぜかいつも長尾景春が登場します。
1473年(文明5年)、太田道灌が五十子参陣の途中で小河(小川町)に一泊したとき、景春が飯塚から小河へ早朝やってきて道灌に謀反への与同を頼み、拒否されました。「飯塚より早朝景春罷り越し堅く申し留め候、意趣は、御陣に於いて屋形ならびに展厩様洩らし奉らざるよう計略最中に候」(太田道灌状)
1480年(文明12年)正月4日、長尾景春が児玉(本庄市)で蜂起したので、道灌軍は塚田(寄居町)に進軍したところ、景春軍は飯塚陣にたてこもりました。上杉方は13日に、飯塚陣の景春軍に夜襲をかけようとしていたところ、その夜景春軍は秩父へ退散しました。「その後景春飯塚陣へ夜懸け致すべく儀定まり候処、(景春は)その夜その儘秩父へ退散せしめ候」(太田道灌状)
長尾景春の軍勢が動くとき、拠点としていた飯塚陣とはいったいどこなのでありましょうか。そこには、景春が頼りにしていた人物がいて、軍勢を駐屯させる場所があったに違いありません。
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(萬福寺)
   
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(飯塚館の水堀跡)
JR八高線の用土駅から、国道254号線を南方へ約1・5キロ行くと、「仙元前」という信号交差点があります。そこから寄居方面へ少し行くと、右側に「飯塚山大通寺」の看板があり、左側へ少し行くと真言宗智山派八幡山萬福寺があります。現在このあたりは、畑と民家が混在して地名は武蔵野であるけれども、かつては飯塚という場所でありました。市町村合併で飯塚という行政地名は埋没し、バス停の名前にのみ残っています。萬福寺境内に深谷市教育委員会の説明板があり次のように記されています。
「(前略)現在の萬福寺のある場所は、中世武蔵武士猪俣党の流れをくむ飯塚掃部(かもん)氏行の館があったと言われ、本堂裏に当時の空掘りの一部が残っています」
萬福寺の後方の民家の横に、館の遺構と思われる水掘りがあります。
飯塚掃部佐衛門尉氏行は武蔵武士七党の一つ猪俣党に属し、景春に与同する土豪であり、ここに館を構えていました。景春は重要な行動を起こすときしばしば飯塚館を陣地としたに違いありません。大通寺のあたりは低い丘陵地帯なので、軍勢を隠すこともできそうです。もちろん道灌もこの場所を知っていたので、文明12年正月に、上杉軍が夜襲をかける前に親類でもあった景春に情報をリークし、秩父へ逃がしたと私は推測しています。ここから長瀞へはわずか10キロくらいです。

飯塚氏が猪俣党の土豪であることを知って、私の脳裏には、秩父の郷土史家が熱心に主張していたあることが浮かんできました。それは、景春が秩父へ退散後に拠った塩沢城は、猪俣氏に近い多比良(たひら)氏の築城した城であるということです。長尾景春、飯塚氏、猪俣氏、多比良氏は人脈でつながっていたということになります。多比良氏は平氏の別称で猪俣氏と親しく後に猪俣氏の名跡を継承し、今も塩沢城の近くにはその猪俣氏の末裔が多く住んでいます。
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(塩沢城址の平場)
私が、はじめて塩沢城のいくつも続く大規模な段郭(だんくるわ)をよじ登ったとき、これは追いつめられた景春軍が短期間で造ったものとは思えない、というのが率直な第一印象でした。塩沢城は、多比良氏が長年かかって築城した段郭の山城と思われます。「太田道灌状」で多比良氏は要害を構えていると言われていますがその要害とは塩沢城と思われます。そして多比良氏は塩沢城の隣接地である高指(たかざす)へ逃げてきた景春へ塩沢城を譲り、道灌は高指の要害と隣接する塩沢城を合わせて秩父の高佐須と呼んだと思われます。
地名は、まことに言葉の化石であり、その中に過去の歴史が秘められているのであります。
飯塚館跡・萬福寺=埼玉県深谷市武蔵野455
塩沢城址=埼玉県小鹿野町大字両神薄字塩沢5600
 

2011年08月09日

駿河・伊豆の太田道灌

JR線静岡駅北口からバスで7分、徒歩でも15分ほどで八幡(やはた)2丁目の交差点へきます。そこに立ち四囲を見ると、樹木におおわれた小高い丘すなわち八幡山城址に気づきます。市街のど真ん中にある約64メートルの城山なので、登り口はたくさんあります。登って見ると城山の傾斜がきつく、この城は崖城であることがわかります。
二ノ曲輪址に「八幡山城」の石碑と静岡県の説明板があり、それに「文明八年(一四七八年)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は、今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍で一応の決着を見た」と記されています。30メートルほど離れた本曲輪址からは展望がひらけて市街を見わたすことができ、好天のときは富士山や駿河湾も見えます。おそらく道灌軍布陣のとき、二つの曲輪の間に深く広い空堀をつくり、道灌がかりとしたと思われるけれども、今は堀が埋まっています。
           
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(八幡山城址碑) 
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(城山の登り道)
1476年(文明8年)駿河守護今川義忠が戦死し、6歳の嫡男竜王丸の一派と義忠の従兄弟今川新五郎範満の一派が跡目争いを起こしました。範満の母の実家が扇谷上杉氏であり、烏帽子親(元服名をつける仮親)が堀越公方足利政知であったので、上杉氏は太田道灌を駿河へ派遣して問題の解決を図りました。駿河で竜王丸の伯父伊勢新九郎と太田道灌が談合し、竜王丸が成人するまでの間だけ範満が駿河守護職を代行するという妥協案で一応の決着を見ました。この間のことについて、司馬遼太郎は小説「箱根の坂」の一節「太田道灌」に書いています。
「太田道灌状」には、次のように記されています。
「翌年(文明八年)三月道灌は駿州へ向かひ、今河新五郎殿合力として相州を罷り立ち六月足柄に越し、九月末本意の如くして豆州北条に参上致し、十月末帰宅せしめそのまま出頭に及ばず候。其の意諏は、他国に罷り立ち既に十カ月に及ぶ難儀に取り合候処、忠景の一度の音信に預からず候。若干の公私のご無為を成し奉り、親疎を論ぜず粉骨を励まし候処、幾程もなく思い忘れ此くの如く候の間、且つは恨み入り且つは陣労も候間、かたがたの儀を以って差し籠り候」
道灌はおそらく手勢2,3百騎を連れて駿河へ向かい、半年間も兵を八幡山に駐屯させて今川家の駿河舘で度々伊勢新九郎等と交渉しました。したたかでしぶとい新九郎相手に相当骨の折れる交渉でありました。しかし両上杉氏は、内弁慶で外交交渉のむずかしさをしらなかったので道灌の苦労を理解できず、道灌の報告に対してなんの音信もしなかったのでした。道灌は駿河で任務をはたし、八幡山城から江戸城へ帰る途中、豆州北条へ寄って堀越公方足利政知に一部始終を報告しました。道灌にとって、前後の段取り等をふくめて約8か月の難儀でありました。
八幡山城はその後、1569年(永禄12年)武田信玄が攻略し、江戸時代には廃城となりました。
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(伝・太田道灌築造嵯峨流名園)
ところで、静岡市には太田道灌にかかわる史跡がもう一カ所伝えられています。JR静岡駅北口よりバスで北へ向かい、駿府公園を過ぎたあたりの赤鳥居というバス停で下車します。そこから浅間神社を巻いて進むと東雲神社という小さな社があり、そのとなりに庭園があり、芝生に「太田道灌築造嵯峨流名園」と彫られた石碑が立っています。池と石を配したすばらしい庭園であるけれども、現在は静岡鉄道株式会社の所有となり、一般には公開されていません。ここに今川氏ゆかりの邸があり、道灌はそこに滞在中、庭園の築造を指し図したという伝承があります。この名園のいわれについて、静岡市教育委員会文化財保護課に尋ねてみると「太田道灌築造嵯峨流名園」は静岡市指定史跡のリストには載っていないということでありました。

JR東海道本線三島駅から伊豆箱根鉄道に乗り換えて修善寺方面へ向かうと、約20分で伊豆の国市の韮山へつきます。韮山駅から狩野川の方へ30分程歩くと、伝北条政子の産湯井戸や北条館跡など鎌倉北条氏発祥の地があり、その近くに「伝堀越御所跡」があります。現在、そこには伊豆の国市教育委員会の詳しい説明板があるけれども邸跡は野原になっています。
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(伝堀越公方館跡) 
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(伝北条政子産湯の井戸)
私がそこを訪れたとき、ちょうど伊豆の国市の職員が、史跡公園を造るため地面の測量をしているところで、むかし池があった位置などを説明してくれました。職員の話では、伊豆の国市には南条、中条という地名があるけれども北条という行政地名はなぜか現在なくなっていて、ここから北条館跡あたりは北条あるいは堀越と呼ばれていたと思われるということでした。太田道灌が駿河で交渉を終えてから、9月に訪問した豆州北条とは、この場所に違いありません。道灌は堀越御所で、今川範満の烏帽子親であった堀越公方足利政知に今川家の後継問題の一部始終を説明しました。足利政知は1457年(長禄元年)8代将軍足利義政より鎌倉公方として任命されました。しかし古河公方の圧力が強くて政知は箱根の山を越えて鎌倉へ入ることができずに伊豆に留まっていたのです。頼りない公方であったけれども、道灌は主命により政知と面談するため堀越すなわち豆州北条へ寄ったのです。
このあと道灌が、天城山を越えて伊豆の東海岸へ行き、熱川温泉を発見したという伝承があります。しかし、その少し前まで伊豆半島は流人の地ともなっていた僻地であったから、道灌が騎馬隊を率いて天城山を越えることは不可能に近かったと思われます。道灌が伊豆半島の東海岸へ行ったとすれば、それはやはり拙著「道灌紀行」で論じたごとく船で海岸沿いに行ったに違いありません。
道灌は上杉家より命ぜられた困難な任務を忠実に実行し終え、1476年(文明8年)10月に半年ぶりで関東へ戻りました。両上杉家からはなんのねぎらいもないので、陣労をいやすため道灌は、江戸城に引き籠ってしまいました。その間の上杉方の対応と道灌の心情は、「太田道灌状」の行間にあからさまに表われています。まもなく長尾景春とその与党の動きが活発になり、道灌は江戸城を出て関八州の戦野を駆け巡ることになります。
伝堀越御所跡は国指定の史跡です。
八幡山城址=静岡県静岡市駿河区八幡5丁目八幡山
太田道灌築造嵯峨流名園=静岡県静岡市葵区丸山町13
伝堀越公方邸跡=静岡県伊豆の国市四日町寺家

posted by otadoukan at 10:28| Comment(9) | 駿河・伊豆の太田道灌

2011年07月20日

地形肝要・鉢形城の合戦

JR八高線、東武東上線、秩父鉄道の寄居駅から徒歩10分で、荒川にかかる正喜橋に着きます。この橋の歩道に立って上流を見ると、河床の岩塊とともに、すぐ左側に垂直の絶壁が見えます。万里集九が「鉢形の城壁、鳥も窺い(うかがい)がたし」(梅花無尽蔵)と記したその断崖の上が鉢形城の本丸跡です。荒川とこの川に注ぐ深沢川が鉢形城をはさんでいます。深沢川もその名のとおり、深く切りこんだ谷となって四十八釜といわれる淵を連ねています。二つの川が、三角形の広大な城域の二辺を形成して崖城をつくっています。この地は鎌倉古道と秩父往還が通り、上州や信濃へ通ずる交通の要衝であり、山内上杉家の平井城(藤岡市)と扇谷上杉家の川越城の中間の位置でもありました。鉢形城は1476年(文明8年)、長尾景春が築城したと伝えられています 
      
道灌軍は、相模の景春与党を一掃したその翌月すなわち1478年(文明10年)7月に、上杉定正を迎えるため川越城を発って井草(川島町)、青鳥城(おおどりじょう)(東松山市)を経て、鉢形と成田の間に陣張しました。そのとき足利成氏の側近簗田持助が来て、景春が成氏の古河城帰還を妨げている、と苦情を述べました。そこで7月18日、道灌軍は鉢形城を攻めたので景春軍は逃走し、成氏は無事に古河城へ帰還しました。このときの鉢形城合戦について、道灌は「景春陣に馳せ向かい候処、退散せしめ候」(太田道灌状)と簡単に述べているだけです。おそらくこの頃、大方の景春与党は道灌軍に敗退し、景春の本隊も相当弱体化していたと思われます。
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(荒川から鉢形城本丸を望む)
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(鉢形城の曲輪配置模型)

川越市より国道254線を北上すると川島町に伊草という所があり、さらに北上すると東松山市の石橋という所に青鳥城址があり、約500メートルの土塁・空掘り跡があります。二の丸土塁には、折邪(おりひずみ)というクランク状に曲がった珍しい土塁があります。この城は、平安末期に築かれたようで道灌の時代の城主はわかりません。
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(青鳥城址二の丸の折邪)

鉢形城の落城後道灌は、地形肝要の原則から、管領上杉顕定が上野と武蔵に睨みを利かすためには、上野北端の平井城を去って、荒川の崖の上の堅城鉢形城へ入城するべきである、と主張して実現し、そのことにより上野、武蔵が安泰となりました。道灌は「「武上の両国を相兼ねたる地形肝要の由申候(中略)両国安全に御拘え候事、道灌の功に候に非ざらんや」(太田道灌状)と述べています。
「太田道灌状」には、切所(難所)という言葉が度々出てきます。野戦における道灌の戦略は、敵軍を切所へおびきだす作戦であったと思われます。上州の合戦では、利根川沿いで古河公方の軍勢と対峙しながら、道灌は自軍の陣地をたびたび移動して変えるなど、道灌の作戦は常に地形と一体になっていました。地形肝要とは、道灌の戦略の根本方針であり、道灌は築城に於いても野戦においても地形と地相を最優先条件としました。
鉢形城は、日本百名城の一つとして国の指定史跡となっています。
青鳥城址は、埼玉県指定史跡です。 
鉢形城址=埼玉県大里郡寄居町大字鉢形2496‐2
青鳥城址=埼玉県東松山市大字石橋城山

posted by otadoukan at 18:03| Comment(15) | 地形肝要・鉢形城の合戦

2011年06月23日

小山田城址・多摩の古城址

小田急線の唐木田駅から南へすこし行き、大妻女子大学と清掃工場の間の道路を下り2キロも行くと曹洞宗の補陀山大泉寺という古刹へきます。その境内と裏山が小山田城址です。周囲が小高い丘陵で複雑に十重二十重と囲まれているので、往時は相当の要害であったと思われます。今もここへくるときは、ナビゲーターがなければかならず迷います。
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(小山田城址遠望)
大泉寺の本堂の横に、小山田一族の故事来歴を記した石碑があります。それによると、1171年(承安元年)この地に桓武平氏の流れをくむ国人領主小山田有重が居城を構えました。小山田家は一度没落したけれども、1333年(元弘3年)末裔の小山田高家が復活して多摩丘陵全域を支配し、その後扇谷上杉家の配下に入りました。1477年(文明9年)太田道灌の軍勢が小沢城(こさわじょう)(愛川町)を攻めたとき、長尾景春の腹心吉里宮内(よしさとくない)の軍勢は、小沢城の後詰めとして府中に陣をとり、小山田城の扇谷上杉家の守備兵を追い散らし、道灌の心胆を寒からしめました。小山田城から小沢城まで約12キロであったので、道灌軍は吉里軍に背後を脅かされ、小沢城攻略のために1カ月も難儀をしました。後詰めとは、攻城軍の背後を脅かすため布陣することで、現代でいう集団的自衛権行使のようなことでした。後詰めを絶って本陣を攻めるのが、攻城側戦略の定石でありました。太田道灌状に曰く「吉里以下小沢陣の後詰めとして当国府中に陣を取り、小山田を相散らし、相州難儀に及び候」と。
同じころ、道灌軍の一部は宿阿内城(前橋市)の顕定のもとへ派遣し、本隊は石神井城を攻め、道灌の弟資忠軍は川越城から出撃して勝原で矢野兵庫の軍勢と戦いました。太田家に江戸城を守る兵はいなくなったので、盟友の三浦介義同などが江戸城守備のため呼ばれていました。長尾景春の乱の勃発当初、破竹の勢いの景春軍に与同する国人衆は多く、道灌軍はまさに腹背に敵をかかえる恐怖の中で勝ちつづけました。その渦中での小山田城の攻防は、両勢力のつば競り合いを象徴するような取り合いでありました。
「太田道灌状」を読むと、太田道灌が同時多発的な危機に対して、各地と連携を密にとり迅速かつ適切に手をうつ能力をもっていたことがわかります。もちろんそれは、各地の部下と盟友が道灌を信頼し、道灌もまた彼らを信頼していたことが基礎にあります。この道灌の人間力が、上杉方劣勢の潮目を優勢に転換していった原動力でした。
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(小山田城址・大泉寺境内)

多摩ニュータウンに囲まれたこのあたりは、今、小山田風致地区として整備され、小鳥の声がたえず聞こえ、市民のウォーキングの場所となっています。
小山田城址・小山田要害址(大泉寺)=東京都町田市下小山田332
posted by otadoukan at 11:20| Comment(5) | 小山田城址・多摩の古城址

2011年06月06日

道灌草(ナデシコ科ドウカン属ドウカンソウ)

JR山手線の西日暮里(にしにっぽり)駅の奥山が道灌山です。現在そこは西日暮里公園となり、道灌山の由来を記したパネルが設置されています。それによると、この高台から近くの開成学園のあたりまでは、かつて太田道灌が出城を造ったところです。開成学園の北東に道灌山坂があります。

江戸時代の観光ガイドブック「江戸名所図絵(えどめいしょずえ)」(1836年)には、「道灌船繋松(どうかんふなつなぎまつ)」の絵が出ています。「つなぐ」とは「目的にする」という意味だそうです。当時、道灌山の近くまで海が入り込んでいて、この高台に松の巨木が二本あり、船人はこの松を目当てに船を操ったといわれています。江戸時代にはこの高台からの眺めがよく、富士山や筑波山、日光山も見えたそうです。江戸時代の安藤広重の錦絵に、当時の眺望が描かれています。 
また当時、このあたりは薬草が豊富で、一年中採取者が訪れました。江戸時代に南ヨーロッパから中国を経て伝えられたバッカリア・サボナリヤ(ナデシコ科ドウカン属)という草花は、道灌山に群生して晩春にピンク色の花を咲かせたので「道灌草」と呼ばれ、今では都立舎人(とねり)公園などに植えられています。またこのあたりは虫聞き、月見、雪見、花見の名所としても知られ、庶民が一日中過ごせたので「ひぐらしの里」すなわち「日暮里(ひぐらしのさと)」と呼ばれました。十返舎一九が次のように詠みました。
 桃さくら鯛より酒のさかなには見どころ多く日ぐらしの里

さて道灌草を求めて都立舎人公園へ行ってみました。JR山手線の日暮里で舎人ライナーという無人運転の電車に乗ると、約20分で広大な舎人公園へ着きます。舎人公園サービスセンターの近くのボランティア花壇で、津村昭人氏の案内によりようやく道灌草を見つけました。昨年はたくさん咲いていましたが、今年はわずかしかありません。道灌草はナデシコの仲間で、高さ50センチメートル位の一本の茎に小さくうすいピンク色の花をたくさん咲かせます。色も形も控えめな花です。
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(広大な舎人公園)                 
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(道灌草)
以下は、津村氏の提供による道灌草の詳細です。
ナデシコ科ドウカン属(旧ナデシコ科サポナリア属):ドウカンソウ(種名)
名前は、バッカリア・ピラミダタ(学名Vaccaria pyramidataより)、ドウカンソウ(現属名より)、サポナリア(旧属名より)などの呼び名があります。日本帰化植物写真図鑑や牧野植物図鑑にも紹介されています。
似た花にサクラマンテマ(フクロナデシコ、オオマンテマ)がありますが、これはサクラに似た花形でドウカンソウとは異なります。また、花の基部の膨らみが角ばっているのも区別点です。以下に引用したものを紹介させていただきました。
ドウカンソウ(どうかんそう) [ 日本大百科全書(小学館) ] 【道灌草】
[学名:Vaccaria pyramidata Medik
(=Lychnis vaccaria Scop. =Saponaria vaccaria L.)]
ナデシコ科の一年草。カスミソウに似た草姿で、全株無毛。茎は上部でまばらに分枝し、高さ約50センチメートル、ろう質で粉緑色にみえる。5月、集散花序をつくり、淡紅色で径約2センチメートルの5弁花を開く。白色花の変種もある。南ヨーロッパ、西アジア原産。江戸時代に中国から導入され、江戸郊外の道灌山(どうかんやま)で栽培されたので、ドウカンソウの名がある。今日、学名のバッカリアの名で栽培され、花壇植えや切り花にする。
切り花ではカスミソウのように添え花に利用する。性質は強健で、土質を選ばないが、日当りと排水のよい場所で育てる。おもに秋播(ま)きにするが、春播きもできる。[ 執筆者:山口美智子 ]

津村氏は、広大な舎人公園の全植物の99パーセントを知っていると語っています。ついでに、公園内の道灌有縁の花である八重山吹、一重山吹、白山吹も案内していただきました。私は津村氏に「来年は、舎人公園に道灌草をたくさん植えてください」とお願いしてきました。道灌の名がつく地名は首都圏にたくさんあるけれども、道灌さんが植物の命名にまで貢献したとは、本人が一番驚いていることでしょう。本家本元の道灌山・西日暮里公園にも、昔のように道灌草の花畑をつくってほしいと私は切望しています。

2011年05月16日

太田道灌の「硯松」と孫子の兵法

「道灌紀行」の第16章「いろはにほへとちりぢりに」(小机城址)を補足します。国道16号線で横浜市へ入り、梅の木という信号のところで109号線に入り、更に三差路で羽沢方面へ向かいます。東泉寺という寺の前の高台が目指すところです。木が生い茂った坂を登ると、羽沢名物横浜キャベツの畑が広がります。羽沢住宅の近くの道端に、枝ぶりのいい一本の松と「史蹟硯松」の碑があります。碑文の裏に「先代硯松の跡にこれを植す 昭和二七年 羽沢町有志」と彫られています。先代の松は、天を圧する巨木であったそうです。現在の松は、4代目でまだやや小振りです。 
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(4代目の太田道灌硯松)
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(史跡硯松の碑)

1478年(文明10年)太田道灌の軍勢は、長尾景春与党の矢野兵庫がたてこもる小机城を攻めました。連郭式いわゆる道灌がかりの小机城は堅城で、少勢の道灌軍は、亀の甲山に布陣して3か月間も包囲し続けました。同年4月10日に道灌は「戦の勝敗は兵の多少によらず、勢いに乗るにしかず、我今、俳諧の歌を詠みて兵士を励ますべし、声に応じてすすめ」とて、
小机は先ず手習いのはじめにていろはにほへとちりぢりになる
と戯れ歌を詠み、進軍ラッパに替えて進撃しました、兵卒はにわかに勢いついて道灌軍は大勝を博しました。当時、言葉には言霊があると信じられていたとはいえ、歌だけで戦に勝利したとするとやや荒唐無稽です。これにはなにか秘密があるに違いありません。

道灌がこの歌を詠んだのが、ここ羽沢の地の松の根元であったというのがこの地に伝わる伝承です。ここは小机城から約3キロも離れ、道灌軍の駐屯地であった亀の甲山とは小机城をはさみ反対側です。道灌はなぜあえて、こんな遠い所で歌を詠み出撃したのか、それが謎です。
この地の今昔ガイドは、次のように推測しています。道灌は、小机城と亀の甲山の間に鶴見川と水田があるので、敵を欺くために少勢は亀の甲山に残し、主力は鶴見川を渡らせて東方の六角橋を迂回して小机城から3キロも離れた羽沢に駐屯させました。道灌は、後詰めの景春軍が二宮城(あきる野市)から撤退して成田陣(熊谷市)へ移動した情報を得てから、一気に小机城を攻めたということです。健脚の足軽隊にとって、3キロぐらいは全く問題になりません。
孫子の兵法に曰く「其の無備を攻め、其の不意に出ず」。要するに相手の想定外の攻め方こそ戦術の要諦であるということです。小机城の城方にとっては、目の前の亀の甲山とは正反対のしかも3キロも離れた羽沢から、道灌軍が一気に攻め込んでくるとは、全くの想定外で、防備は混乱して落城したに違いありません。
羽沢の地に今も少し残っている木立は、軍勢を隠すのにもってこいの感じです。そして高台の上は、2千人くらいの軍勢の駐屯には充分の広さです。諸状況を考えるとこの民間伝承は、事実であるような気がしてなりません。
史蹟硯松=神奈川県横浜市神奈川区羽沢町993-2

2011年05月03日

太田道灌築城伝説・天神山

最近知人から、東京都大田区馬込の天神山にも大田道灌の築城伝説があると聞いたので、早速出かけました。地下鉄都営浅草線の西馬込駅で降り、駅前の交番で「天神山はどこですか」と聞くと、警察官は地図を見てから同僚にも相談した後「すみませんが、わかりません」とたいへん恐縮して言いました。確かに「天神山」という行政地名は存在しないのです。私は例によって勘を働かせて、南馬込の文士村へ入っていきました。10分程もぶらぶら歩くとうまい具合に大田区馬込郷土博物館があったので、立ち寄って尋ねると、学芸員が資料を開きながらていねいに教えてくれました。
大田区の区史を編纂したとき、地元の多くの古老から、地域の伝承を聞いて記録したそうです。そのとき複数の古老から、次のような道灌の築城伝説を採取した、と学芸員は記録を開きながら説明してくれました。
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(北野神社境内・天神山)
15世紀中頃の長禄年間に、太田道灌が主君の上杉氏から江戸築城を命ぜられたので、築城の場所をさがして諸所方々を調査しました。あるとき道灌は、馬込の入り組んだ山地へ来てその地勢にたいへん関心を持ち、村人にこの地の名前を尋ねました。村人が「九十九谷(くじゅうくたに)」と答えると道灌は、百に一つ足りない、と験をかついで築城を断念したということです。江戸時代の「新編武蔵風土記稿」(1829年)には、この地について「土地高低甚だし、故に土俗に九十九谷と称す」とあります。今も馬込文士村に入ると、あっち向いてもこっち向いても坂ばかりです。天神山は博物館から徒歩五分ほどの北野神社のあたりで、その境内にうっそうと巨木が茂っています。
道灌は、「地形肝要」を戦略の柱としていたので、築城でも野戦でも地形と地相には大いに拘りました。おそらく道灌は、馬込の九十九谷で、地形、千葉氏からの距離、周囲の交通路、水源などを充分調べ尽くしたうえで、地名で験を担いだふりをして築城を断念したのだと思います。

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(馬込文士村の尾崎士郎住居跡)
大正時代から昭和時代にかけ、この地に作家の尾崎士郎と宇野千代が移り住んで他の文士を呼び寄せました。川端康成、山本周五郎など数十名の文士や芸術家が集まり、九十九谷は文士村と呼ばれるようになっていろいろ話題を振りまきました。馬込文士村は現在、一種の観光地のようになり、諸所に立つ文士の住居跡表示と説明板を廻り歩く、物好きでヒマで元気な高齢者が散見されます。私もその中の一人と見えたことでありましょう。
天神山・北野神社=東京都大田区南馬込2丁目26-14 
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2011年04月23日

古河城址

「太田道灌状」を読むと、奇異の感を抱く部分があります。それは道灌が、戦った相手の古河公方のことを述べる際に、敬語を使っていることです。道灌が、上州戦線の各地で古河公方と対峙したときのことを次のように述べています。「定めて(古河公方は)滝の御陣より御勢を分けられ候歟」。道灌は、対戦相手の古河公方に対して「御陣」「御勢」という敬語を使っています。このようなことは、「太田道灌状」の随所に見られます。
戦う相手である敵の所業を敬語で語る道灌の心境は、現代の我々には理解しがたいものです。おそらくは当時、権威ある貴種に対する尊崇の思いは、その人の栄枯盛衰とかけ離れた別次元にあって、いかにしてもおかしがたいものであったに違いありません。そのことはまた、道灌の思想が極めて保守的であり、古き権威を否定する下剋上思想とは異なるものであったことを示しています。
1454年(享徳3年)、鎌倉公方の足利成氏は、関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱が勃発しました。室町幕府は成氏討伐を決め、今川範忠を上杉氏の援軍として差し向けました。翌年成氏は、鎌倉より古河(茨城県)へ逃亡し、下河辺氏の居城であった古河城を本拠地として小山氏、結城氏、宇都宮氏、千葉氏、那須氏、小田氏などを従えたので、古河公方と呼ばれるようになりました。以後約30年にわたり、古河公方の軍勢は長尾景春の援軍となって、両上杉氏の勢力とりわけ太田道灌軍と利根川の周辺で対立、抗争を続けました。
「鎌倉大草紙」に「(享徳4年6月)成氏は総州葛飾郡古河県こうのすと云う所に屋形を立つ」とあり、また「(長禄元年10月)河辺古河の城ふしむ出来して古河へ御うつりありける」とあります。
古河城址は川越城から北東へ35キロの地、利根川の向うの渡良瀬河畔にあります。JR線池袋駅より、湘南新宿ライン或は埼京線、東北線で約1時間移動すると茨城県の古河へきます。駅から徒歩あるいは観光協会の「コガッツ」という面白い名前の無料貸し出し自転車で東へ500メートルも行くと、古河城の出城跡に建つ古河歴史博物館へきます。そこからさらに東へ行くと獅子崎土塁跡を経て渡良瀬川の堤防へきます。堤防の道を河川敷の眺望を楽しみながらぶらぶら歩くと、三国橋と新三国橋の間で「古河城本丸跡」の標柱に出会います。古河城本丸の名残りを伝えるものは、この一本の標柱だけです。まさに滄桑の変を語るとはこのことかと、人の営みの激しさと虚しさに心打たれます。
古河城址碑.JPG     
(古河城本丸跡)    
古河公方館跡.JPG
(古河公方館跡)
利根川や渡良瀬川近辺の城はどこも、川や水掘りを利用した水城でありました。古河公方時代の古河城の地図は残っていないものの、江戸時代の地図によると古河城は水城の典型で、渡良瀬川と湿地帯の間の半島状の高台に建てられていました。本丸、二の丸、三の丸、丸の内、観音寺曲輪などからなる相当広い城であったと思われます。渡良瀬川とその向うの利根川が防衛線となり、かつ交通、通商の手段となっていました。
新三国橋のあたりで堤防を降りて5分も歩くと、古河総合公園へきます。春には紅白の桃が咲き乱れる公園の中に御所池があり、その中の半島状のところに空掘りがあり、ちょっとした土塁の上に「古河公方館跡」の碑があります。足利成氏は、最初ここに住み、古河城完成後に城へ移動しました。古河公方は足利成氏後、政氏、高基、晴氏、義氏と五代130年間続き、古河は関東の政治、文化の中心地となりました。

古河公方と上杉氏は、ここから約50キロ西方の五十子(本庄市)で攻防を繰り返しました。それは、五十子のあたりが、唯一カ所の利根川の渡河可能地点であったからです。そこより下流では水が深くて徒(かち)わたりできず、上流では急流となり人も馬も流されたからです。1471年(文明3年)長尾景信,景春父子と太田資忠の軍勢7000余騎が五十子陣から出撃して古河城を攻略し、古河公方を総州の千葉孝胤のもとへ敗走させました。翌年古河公方の軍勢が、逆襲して五十子陣へ攻め込みました。太田道灌は1471年(文明3年)5月、妙義神社(東京都豊島区)で古河公方との戦の戦勝祈願をしたと伝えられているものの、彼自身が古河城まで攻め込んだ記録はありません。
古河総合公園.JPG
(古河総合公園の桃の花)
江戸時代には、土井氏など有力な譜代大名が入れ替わり古河城主を勤め、城下町としてまた日光街道の宿駅として栄えました。古河城は明治時代には廃城となり、さらに渡良瀬川の治水工事でその城域は、昔日の面影を完全に失い、長い堤防とただっ広い河川敷になりました。今もあいかわず吹き抜ける渡良瀬川原の風にあたって、昔日を偲ぶしかありません。古河市民は古河公方を公方様と呼び敬愛しています。足利成氏が古河公方となって555年経ったことを記念し、2011年(平成23年)3月に古河市で古河公方行列が行われる予定であったけれども、東日本大震災のために中止となりました。
古河公方館跡は茨城県指定文化財です。古河公方の子孫は、喜連川氏となり現代に続いています。
古河城本丸跡=茨城県古河市渡良瀬川堤防上
古河公方館跡=茨城県古河市鴻巣399―1古河 総合公園内

 

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2011年04月12日

道灌有縁の社寺(続き)祝言寺

東京メトロ銀座線の田原町駅から雷門と反対方向へ5分も歩くと、曹洞宗万年山祝言寺(しゅうげんじ)へきます。この寺は文京区本駒込の諏訪山吉祥寺を御本寺とし、入口に「当山開山 太田道灌公顕彰碑」と彫られた碑を持っています。
「江戸名所図絵」に「(祝言寺は)良山存久和尚開山たり、往古江戸城の辺祝言村といへるにありて天文20年の頃太田道灌草創す。天正の頃山号を賜り又この地に遷さる」とあります。当寺は1590年(天正18年)に徳川家康より万年山の山号と松平家と同じ「丸ニ一つ葵」の紋所を賜り、江戸城大手門前から後に神田、日本橋を経て現在の浅草に移りました。祝言村とは、祝田村と同じ所と思われます。道灌が築城地を探していたころ、祝田村に来て地名を聞き、たいへん喜んでそこを築城地にしたという逸話があります。
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(太田道灌公顕彰碑)
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(祝言寺)

この寺は明暦の振袖火事、関東大震災、戦災などで何度も焼けたので、古文書や宝物は残っていないけれども、太田道灌の位牌「静勝軒春苑道灌居士」があります。
ちなみにここで、各地の太田道灌の戒名をもう一度ならべてみると九種類になりました。戒名はそれぞれの寺の住職が作るものなので、九種類有っても特段の歴史的あるいは宗教的意味があることではないそうです。一番驚いているのは、生涯に鶴千代・資長・持資・道灌と名前を変え、没後に九種類も名前をつけられた道灌自身だと思います。これも道灌の人気のなせることであります。九種類の戒名は次の通りです。
@春苑道灌禅定門(梅花無尽蔵)A春苑静勝居士(本国寺年譜)B香月院殿春苑静勝道灌大居士(東京都北区静勝寺)C静勝軒春苑道灌大居士(東京都台東区祝言寺)D蓮乗院殿道灌日恩大居士(東京都墨田区法恩寺)E洞昌院殿心円道灌大居士(伊勢原市洞昌院)F大慈寺殿心園道灌大居士(伊勢原市大慈寺・あきる野市開光院・三島市妙法華寺・太田三楽斎家系図)G香月院殿春苑道灌大居士(さいたま市芳林寺・川島町養竹院)H太田道灌斎大居士 (鎌倉市英勝寺)
祝言寺=東京都台東区松が谷1‐6‐17

2011年03月16日

道灌の「足軽戦法」考察


私は、去る2011年2月26日、「えど友」の企画により、江戸東京博物館で「太田道灌紀行」と題して90分のセミナーを行いました。その際述べた諸事のうち太田道灌の「足軽戦法(足軽軍法)」について、まとめてみます。
江戸城の「道灌がかり」や道灌の「足軽戦法」については軍事機密であるため、その実態が古書に記されていません。
「大田家記」には「道灌、平素、古今の緒家の兵書を読み、軍法の道においてよく塁の地を知る。故に世に軍法の師範と称す。その最も秘する所は、足軽の軍法なり。伝授する者少なし」と記されています。ここに記された足軽の軍法すなわち足軽戦法については、従来、伝統的な騎馬武者の一騎打ちに対して足軽による集団戦法とだけ説明され、その実態が不明でありました。今回、周辺の文書や私のフィールドワークによる情報により、その実態に迫ってみます。
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(足軽隊が駆け抜けた鎌倉古道・毛呂山町)

1.太田道灌の兵力
○「双林寺本系図」
渋川市子持(旧長尾村)は白井長尾家の根拠地で、そこに長尾景仲が創建した双林寺という古刹があります。双林寺に伝わる長尾家の系図「双林寺本系図」の中の長尾景仲の項に次のような農民リクルートシステムが記されています。
(景仲は百姓を)「是より弓鑓に加ふ、是の如くの者少たりとも戦場に於いて三度迄志を顕す者には、あるいは言葉の褒美を出し、あるいは禄を充て本給と号す、故に民は戦場に趣く事を悦び、是に因り武功の者多く民より見出し物頭になす」
当時、長尾景仲と太田道真は関東無双の案者(知恵者)と呼ばれ、両上杉家の家宰として重きをなし、景仲の娘が道灌の妻ともいわれています。したがって「双林寺本系図」に記されている農民リクルートシステムについては、太田道真、道灌も熟知していたと思われます。のみならず道灌は、太田家の騎馬の不足を補うため、このようなリクルートシステムをより積極的に活用して足軽隊を編成したに違いありません。
○「梅花無尽蔵」
道灌の詩友万里集九が残した漢詩文集「梅花無尽蔵」は、歴史的にも地理的にも資料的価値が高いと評価されていますが、その中で万里は兵の訓練をする道灌について、「毎日幕下の士数百人を駆りその弓手(ゆんで)を試む。上中下に分つ(中略)その令甚だ厳なり」と記しました。毎朝、足軽が江戸城で射術の厳しい訓練を受けました。怠るものからは罰金三百斤をとり、親睦会のときの茶菓費としました。
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(道灌築城当時の雰囲気をつたえる江戸城乾濠)
○「大森氏頼書状」
大森氏頼は上杉家の同盟者で太田家と親しく、上杉家の兵力を知悉していたので、その書状につぎのように記しました。
「上杉の棟梁(上杉顕定)、しかる間諸家彼の旗本を守り、尊敬比類無く、御勢二十万騎と云う」「扇谷の御事は、僅かに百騎計り也」。
管領山内上杉家が20万騎を動員できたのに対して、扇谷上杉家は約100騎しか持っていなかったとは、両家の経済力の差は驚くほどでありました。扇谷上杉家またその家宰である太田家の騎馬の不足すなわち財政的劣勢を補うために、太田道灌は農民を足軽として取り立て、足軽戦法を考案したに違いありません。

2.長尾景春の兵力
○「双林寺本系図」
先の「双林寺本系図」には長尾景春について、「伊玄入道(景春)従壮年有乗馬術頗得精妙」とあり、長尾景春は優れた騎馬武者であったことがわかります。
○「松陰私語」
金山城(太田市)岩松家の陣僧であった松陰西堂は、道灌と会談したこともある優れた軍配者であり、その著書「松陰私語」は当時の歴史記録として資料的価値が高く評価されています。「松陰私語」には、「景春二千五百騎を率いて五十子陣を囲む」と記されています。
優れた騎馬武者であった景春は2500騎の軍勢を率い、疾風のように五十子陣を攻めました。その後も景春軍は、神出鬼没の素早さで道灌軍の前に現れては去り、また現れては消えました。その移動距離の長さと動きの速さから、景春の戦法は騎馬による山岳ゲリラ戦法とも称されるものでありました。景春の根拠地上野(群馬県)や秩父には山裾を利用した牧が多くあり、馬の生育がさかんでありました。

3.馬返しの策
○「太田道灌状」
太田道灌状をつぶさに読むと、「まねき出して」とか「馬を返して」という気になる表現が随所にあります。
1477年(文明9年)4月、太田資忠は勝原(坂戸市)の合戦で「凶徒を勝原にまねき出して合戦」し、矢野兵庫の軍勢を蹴散らしました。
1477年(文明9年)、江古田が原(中野区)の合戦について、「(道灌は)馬を返し、江古田原において合戦せしめ勝利を得候」とあります。武蔵の雌雄を決する合戦で、道灌軍は最初は逃走したけれども、江古田が原で突然Uターンして、豊島軍をせん滅しました。
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(江古田が原古戦場碑)
1477年4月、用土が原(寄居町)の合戦について、「用土原に至り御馬を返され、ご眼前において各々手をくだき、大軍を討ち滅ぼし」と記されています。
道灌軍は兵が少なく、城攻めでは難儀をしたので、戦はできるだけ野戦へ持ち込んだのです。その際、草原の中ほどに予め伏していた足軽隊が、おびき出された景春軍を攻撃し、鉢形城へ退却させました。
○「甲陽軍鑑」
後に記された「甲陽軍鑑」の中に、武田信玄の二十四将の一人であった足軽大将原美濃守が戦場で、長槍を持った足軽に対して「馬を突け、武者を突くべからず」と下知している場面があります。道灌の足軽戦法を取り入れたと思われる甲州武田軍の足軽隊は馬を突いて、落馬した武者を打ち取りました。
平原に隠れていた道灌軍の足軽隊は、騎馬隊の馬を突きあるいは射って、落馬した武者を打ち取り、敵軍を大混乱に陥れたと思われます。
○用土の古老の話と境根原の塚
JR八高線の用土駅近くの旧家の池田氏が、今は亡きかつての村の収入役から「後世に伝えよ」と言われて聞いた秘話を語ってくれました。
「かつて用土が原は草原で、江戸時代に開拓したとき、錆びた刀や馬の骨がたくさんでてきたので塚を作った」といことです。池田氏は、その場所に私を案内してくれ、地図に印をつけてくれました。その場所は、八高線と関越道が接近するあたりの相当広い範囲です。古老の話は、用土が原の合戦で道灌軍の足軽隊が、景春軍の騎馬隊の馬を多く倒したことの証言と思われます。
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(用土が原古戦場・推定) 
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(境根原古戦場の塚)
1478年(文明10年)千葉孝胤は猪鼻城(千葉市)を出て、国府台城(市川市)に入った道灌軍攻撃に向かいました。両軍は境根原(柏市)で遭遇し、激戦の末に千葉軍は臼井城(佐倉市)へ敗走しました。そのときのことは「太田道灌状」に「12月10日、下総境根原で合戦せしめ勝利を得、翌年臼井城へ向かって陣を寄せら得候」と簡潔に記されているだけです。しかし、地図上で見ると、境根原は不自然に迂回したコース上にあり、千葉軍は太田軍におびき出されたと思われます。境根原で千葉軍は太田軍に馬を返えされ、足軽隊の攻撃を受けて敗走したに違いありません。今日、境根原古戦場の塚は2基にまとめられて保存され、教育委員会が管理しています。この塚からは、多分馬の骨が出ると思います。
○「梅花無尽蔵」
先に取り上げた万里集九の「梅花無尽蔵」で「(道灌は)数百騎を率いて数万騎を凌ぐ」としるされています。周辺の土豪たちは、わずかな兵力(騎馬)で勝ち続ける道灌軍を見て、マジックを見ているような思いに取りつかれたに違いありません。
また、道灌没後の1488年(長享2年)、両上杉氏が菅谷原で戦ったことを、万里集九が「梅花無尽蔵」に記しています。その中で万里は「六月一八日、須賀谷にて両上杉の戦あり、死者七百余り、馬また数百疋、両家分かれて戦うもその雌雄を決せず」と記しているので、両上杉家は足軽戦法の馬を倒す戦術で戦ったものと思われます。
当時の足軽は、鎌倉街道を一日に約50キロは駆け抜けたと思われます。おおよその距離として、江戸城から岩槻城まで30キロ、川越城、佐倉城まで40キロ、越生、伊勢原まで50キロであったので、江戸城から関八州の中原まで道灌の足軽隊は1日で移動できたと思われます。
また道灌軍は5年間で30数回も出撃しているけれども、その出撃日時をしらべてみると、麦の収穫期を考慮してか8月、9月には、一度も出撃していません。従って道灌の足軽軍団は、完璧な兵農分離ではなく兵農両立の軍団でありました。
道灌が足軽戦法を編み出した背景には、扇谷上杉家と太田家の経済力の弱さがありました。太田道灌は、自軍の少ない騎馬を補うために、農民を取り立てて足軽軍団を訓練し、騎馬隊に立ち向かわざるを得なかったのです。道灌は、敵将の性格や心理を読み、巧みに敵軍を平原に誘き出し、伏せていた足軽隊に弓や槍で騎馬隊の馬を攻撃させ、落馬した武者を打ち取りました。
足軽戦法は、伝統的な馬上の一騎打ちから集団戦法への先駆けとなり、兵農両立への体制が進行しました。道灌は経済的劣弱という不利な条件を足軽軍法という有利な条件へ転換し、マジックをつかうようにして30数回の戦で勝ち続けたのでした。ゆえに万里集九は、道灌没後二七(ふたなのか)に捧げた祭文の中で「(道灌は)羽扇を揮って戦い」と称え、諸葛孔明に例えているのです。 
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2011年03月05日

祝儀山

西武新宿線の上石神井駅から徒歩10分のところに、祝儀山という風変わりな名前を持った高台があります。その場所は雑木林であったけれども、今は「祝儀山ちびっこ広場」となり、ブランコなどの遊具が並んでいます。
1477年(文明9年)4月、太田道灌が豊島氏を攻めるため愛宕山(早稲田高等学院の敷地)に陣を敷きました。伝承によれば、戦勝後に道灌は、城攻めに協力した地元の農民に対して、ご祝儀として土地を与えたので、その土地は祝儀山と呼ばれるようになりました。祝儀山は愛宕山から約500メートルのところにあります。    
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(祝儀山ちびっこ広場の看板)
祝儀山に隣接するところに居住する高橋氏は、この辺に多い尾崎家、田中家などの旧家とともにご祝儀をもらった家の子孫なので、昔は「祝儀山」という屋号でよばれていました。高橋家には系図などないけれども、祝儀山のことは先祖からの伝承として伝わっているそうです。今では高橋さんを屋号で呼ぶ人もいなくなり、祝儀山のいわれを知る人もだんだんすくなくなってきたそうです。また祝儀山を下ったところには、「グレードハイツ祝儀山」というマンションが建っています。
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(ちびっこ広場)
太田道灌は、戦で味方した者には必ず論功行賞をしました。太田道灌状の冒頭で道灌は、寝返って道灌軍に味方し豪族たちへの所領安堵を管領の上杉顕定に懇願しています。祝儀山の伝承は、道灌が民百姓であっても味方したものには、きちんと褒美を取らせたことを伝えています。このことにより道灌は諸人の信頼を増し、道灌軍は急速に勢力を強めたものと思われます。
祝儀山ちびっこ広場=東京都練馬区上石神井4丁目20番8号
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2011年02月02日

雉岡城址・児玉の陣と群書類従

JR八高線の児玉駅から西へ500メートルも歩くと、雉岡城(きじがおかじょう)=八幡山城(はちまんやまじょう)址へきます。関越道の本庄児玉で下り、約15分走ってもきます。この城は15世紀に築かれた平山城で当初、山内上杉家の本拠地であったけれども、手狭であったので山内氏は平井城(藤岡市)へ移り、城代として夏目(有田)氏をおきました。
「太田道灌状」には、「(文明12年)正月四日、景春児玉へ蜂起せしめ候の間、(道灌は)同六日塚田へ罷り越し、其の儘諸勢を相集め(中略)その後景春を飯塚陣へ夜懸け致すべく儀定まり候所、(景春は)其の儘秩父へ退散せしめ候」と記されています。
雉岡城址.JPG    
(雉岡城址入口) 
土塁と堀.JPG      
(水堀と土塁)
このとき、長尾景春が蜂起した児玉の陣とは、どこを指すか明確ではないものの、前島康彦氏によると、それは雉岡城かもしれないということです。この辺りは、鎌倉街道の上道と上杉道が分岐する交通の要衝にある小丘陵でした。景春が蜂起した日の2日後には、道灌軍が塚田(寄居町)へ進軍しました。上杉方は、景春が駐屯する荒川の向うの飯塚(寄居町)へ夜襲をかけようと打ち合わせをしていたところ、景春軍は素早く秩父へ退散しました。
その2週間後の1月20日、景春軍は越生を急襲して太田道真に押し返され、さらにその数日後、利根川沿いの長井城(熊谷市)へ移動しています。その動きの素早さと激しさを考えると、景春軍は騎馬隊であったとしか考えられません。長尾家の菩提寺双林寺(渋川市)に伝わる「双林寺本系図」には「伊玄入道(景春)従壮年有乗馬術頗得精妙」と記され、景春が優れた騎馬武者であったことを示しています。また秩父には昔から牧が多く、強盛な秩父駒を多く生み出していました。長尾景春は騎馬隊を率い、秩父の峠を越えて出撃したり撤退したりしていたのです。

塙保己一記念館入口、保己一座像.JPG 
(塙保己一記念館入口の保己一坐像)
城址の中に、この地に生まれた盲目の国学者塙保己一(はなわほきいち)の記念館があり、保己一が集大成した和綴じの「群書類従」666冊の複製等が展示してあります。寒い冬の日のせいか他に来訪者もなく、館長は私のために約30分も展示物と保己一について説明してくれました。保己一は、膨大な文献を弟子に読ませて全て暗記し、41年かけて1819年(文政2年)に「群書類従」として集大成しました。保己一の凄まじいばかりの記憶力と情熱と労苦に畏れかつ圧倒されて、私は深く頭を垂れて一言も発することができませんでした。
太田道灌が文明6年6月17日に江戸城で催した「武州江戸歌合せ」の作品も、保己一のおかげで「群書類従」に収録されました。私は早速、資料室で「群書類従」をひもときました。この本は、ちょっとした図書館であればどこにでもある本であるけれども、編者保己一の生地で読むと、その感慨もまたひとしおであります。
 海原や水まくたつの雲のなみはやくもかえす夕立の雨   道灌
 夏の日をよそにみやまのから衣たもとすずしき瀧の音かな 資忠
心敬判で、資常、資俊、資雄など太田家の面々も登場して、見事な歌を詠んでいます。太田道真、道灌はもちろん太田一族はみな、優れた歌人であったと思われます。
雉岡城は、その後北条氏邦の支配下となり、1590年(天正18年)には豊臣軍に攻略されました。徳川時代には松平清宗が入り、関が原合戦後には廃城となりました。現在は、城址の二の丸に本荘市立児玉中学校が、三の丸には埼玉県立児玉高等学校が建っています。雉岡城址は、埼玉県指定文化財です。
雉岡城址の近くに、保己一の生家(国指定史跡)が保存されています。
雉岡城(八幡山城)址・塙保己一記念館=埼玉県本庄市児玉八幡山446

2011年01月20日

長井城址・西条本丸跡


東京から関越道または国道17号線を小一時間走ると熊谷市へいたり、さらに国道407号線を北上すると道の駅「めぬま」があります。この駅の名物は、世にも珍しい細長い稲荷寿司で、たいへん美味です。この駅の近くに、西城(にしじょう)という地名の田園地帯があり、その一角に、長井城址すなわち西城の「史跡・西城本丸跡」の碑があります。碑の裏面に、詳細な由緒が記されています。それによると、前九年の役で武功をあげた斎藤実遠が源頼朝から長井庄を与えられ、西城を築き長井斎藤氏の祖となりました。往時は、本丸の周囲は福川と沼で囲まれ、水城となっていたようです。碑文の最後は「そよ風に稲穂がゆれる西城跡」という「妻沼カルタ」の一句で結ばれています。
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(田園の中の「西城本丸跡碑」)
「旧妻沼町史」に次のように記されています。「1478年(文明10年)7月17日、長尾景春は鉢形城を捨てて敗走、各地を転々とした後、長井城(西城)に移った。足利成氏に属していた関係から、(長井斎藤)利家は景春を迎え入れたが、1480年(文明12年)1月20日太田道灌に攻められて落城、かくして平安時代、横山覚所属の藤原道宗が築いた長井城も、幾多の変遷を経て廃城となった。」
「太田道灌状」にも、この間の込み入った経緯が記されています。とにかく長尾景春は、長井城で太田道灌に敗れてからは秩父へ移動し、秩父の景春与党を率いて最後の低抗をすることになりました。
現在西城は完全に区画整理された広大な耕作地なので、この碑を探すのに少々苦労します。私は、10分間ほど車で走りまわりましたが尋ねる人もいなかったので、勘を働かせて発見しました。慶安寺という寺の看板があるところから、約200メートル耕作地にはいり猿田彦大神という小社を見つけると、その近くに碑を発見できます。

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(手鏡を見て墨で白髪を染める斎藤実盛)
国道407号線を利根川沿いまで北上すると、妻沼聖天山(めぬましょうてんざん)という古刹があり、その境内に、長井斎藤氏の先祖斎藤別当実盛の見事な銅像があります。平家物語にも登場する実盛は、白髪を墨で染めて73歳で出陣し、木曽義仲と勇敢に戦って果てたということです。
西城本丸跡之碑=埼玉県熊谷市西城
妻沼聖天山=埼玉県熊谷市妻沼1627
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2010年12月23日

再び調布へ・深大寺城の連郭式縄張り

調布市郷土博物館で何気なく手に入れた「調布の文化財第42号」と云う冊子に、少々気になることが書いてありました。それは、(深大寺城は)「三つ郭が直線状に配置された連郭式縄張りの中世城郭です」という一節で、それだけならば江戸城の「道灌がかり」の説明にもなります。この城が太田道灌の主君筋にあたる扇谷上杉氏が道灌没後約50年頃に、後北条氏から江戸城奪還のための前進基地として築城したということを知ると、益々気になってきます。しかも都心近郊にありながら、城の遺構が良好な状態で残っているということですから、行って見ることにしました。
国道20号線を調布市で北へ曲がり武蔵境通りへ入るとすぐに、有名な観光地である深大寺のそば屋通りにきます。通りの外れに都立神代植物公園水生植物園があり、その中の高台が深大寺城址です。水生植物が茂っている沼沢地の端の約10メートルの崖の上が第一郭で土塁に囲まれています。第一郭と第二郭の間の空掘りは、平地に掘ったもので幅約8メートルあって土橋がかかっています。第二郭は芝生広場となって堀と土塁で囲まれ、虎口が三カ所と馬出しが一カ所あります。第三郭はほとんど住宅地になっています。
 
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(第一郭の深大寺城址碑)
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(第二郭の土塁と空掘)
1486年(文明18年)太田道灌が上杉定正に謀殺されると後北条氏が勢いを増し、扇谷上杉方の江戸城を奪いました。定正から四代目の上杉朝定が1537年(天文6年)、江戸城を奪還しようとして深大寺城を築きました。深大寺城は、天嶮に拠る江戸城に比べるとはるかに小振りではあるけれども、舌状台地の平地を空掘りと土塁により三つの郭に区切った縄張りは、城郭研究家の西ヶ谷恭弘氏が描いた道灌の江戸城想像図と似たところがあります。江戸城にこだわる朝定は、江戸城の「道灌がかり」をまねて深大寺城の縄張りをしたと思われます。
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(深大寺城縄張り図)
1537年(天文6年)の7月、北条氏綱は深大寺城を無視して素通りし、上杉朝定が籠る川越城を攻略しました。かくて深大寺城はその役目をはたさないまま廃城となりました。結果的には、扇谷上杉氏は全く役立たない城を、大々的に築城したことになりました。道灌没後、気の利いた家臣や優秀な軍師は扇谷上杉氏を去り、トンチン漢な鈍物が幅を利かしていたからそういうことになったのでしょう。今日で云えば、無駄な函モノ行政で市民の税金を浪費したようなことです。
しかし今では、この城址は国の史跡に指定されて都民の憩いの場となっているので、扇谷朝定の怪我の功名というべきであります。それにしても、城址のどこにもこの城の歴史的いわく因縁が記されている説明板などがないのは、しかたのないことです。
深大寺城址=東京都調布市深大寺元町二丁目

2010年11月17日

石原太田氏(リニューアル版)

2010年10月19日から11月28日まで、調布市郷土博物館で「企画展・武州多摩郡下石原村」が開催され、石原太田氏関連の虫に食われた文書や絵図等がたくさん展示されています。この博物館は、京王多摩川駅から徒歩4分、あるいは20号線(甲州街道)の小島町交差点からすぐのところですが、意外とわかりにくい場所にあります。この企画展を見て、拙著「道灌紀行」の石原太田氏の項をリニューアルしたので改めて掲載させていただきます。
    
東京都調布市下石原3丁目の「品川通り」という風変わりな名前の道に「太田塚」と地名標識が架かる信号があり、そのすぐそばにこんもりと茂った木立に囲まれた「太田塚」があります。木立の中に入ると、石原太田氏の先祖代々の墓が四基あります。石原太田氏の先祖は、下総臼井城の激戦で戦死した太田図書之助資忠です。道灌の弟・資忠が、おそらくは相模の小机城、小沢城などの長尾景春与党の動きに備えて、武蔵府中に滞陣した際、地元の石原出雲守の娘をめとり、生まれた男子が太田新六郎を名乗りました。1579年(天正7年)資忠から3代目の太田対馬守盛久が開基となり、甲州街道沿いに太田家の菩提寺として臨済宗建長寺派源正寺を建立しました。そして太田家の鬼門の方には八幡神社が建立されました。その後太田氏の子孫は下石原村で、代々善右衛門を名乗って名主を務めました。
かつて私が石原太田氏のことを調べるため源正寺を訪れたとき、住職は私の質問を聞いたあと「太田さんはうちの檀家だからよく知っているけれども、直接太田家へ行って聞いた方がいいですよ」と言って、石原太田氏20代目の太田家をていねいに教えてくれました。それが機縁となり、私はその後、太田道灌の子孫の方々と親しく交流するようになりました。
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(調布市品川通りの太田塚)
16世紀中葉にこの辺りは後北条氏の支配下となり、太田新六郎康資(道灌の曾孫)の所領となり、石原地域は大いに栄えました。平成7年11月に、太田塚からほど遠くない所の道路工事現場から、壺に入った約一万枚の古銭が発見されました。古銭の7割は当時一般に流通していた「開元通宝」など唐銭であり、壺の生産年代は1550年から1600年と推定されています。私は調布市郷土博物館のショウケースの中に展示されているその古銭の山を見て「あっ」と腰が抜けるほど驚きました。その壺と大金の所有者は一体誰なのでしょうか。博物館の学芸員に尋ねると「出土物により証明されてはいないけれども、付近から屋敷の溝跡が発見されているので、太田家の所有物であった可能性はあります」と説明してくれました。こんな大金を持っていたのは一般庶民であるはずがありません。当時この辺りには太田氏以外の豪族はいなかったので、壺の大金は太田家の軍資金であったことは間違いありません。なぜ太田氏は壺の埋蔵金を忘れてしまったのか、あたらしい謎が深まります。
太田塚のある品川通りは、その名のごとくかつて道灌も住んでいた品川の御殿山(東京都品川区)のあたりまで通じていました。今も断片的に当時の古道が確認されます。当時品川は、陸海通商の結節地点であったので、「品川通り」の名がかつての石原地域の繁栄を伝えています。現在は太田資忠から21代目の太田盛明氏が石原太田家を継ぎ、太田道灌顕彰会専務理事として活躍されています。
太田塚=東京都調布市下石原3

2010年10月14日

消えゆく道灌史跡・太田道灌塁等

都市の宅地化や農村の土地区画整備・土地改良事業などで多くの史跡が消滅し、その位置さえ定かでなくなることは珍しくありません。太田道灌の関連史跡もまたその例外ではなく、今ではその史跡が他に利用されて、その位置が正確にはわからなくなっていることがよくあります。私はそのような場所にも出かけてかすかな痕跡を探し、その土地の気配を嗅ぎまわりました。地名が残っているだけでもうれしいことです。消えゆく史跡をいくつか記します。

(1) 太田道灌塁 東京都港区虎ノ門5丁目付近
東京メトロ日比谷線神谷町で下車すると、眼の前にオランダヒルズが見え、虎ノ門五丁目の坂を登ると仙石山があり、その高台はホテルオークラのあたりまで続いています。ここは小諸藩の初代藩主仙石秀久の江戸屋敷があったところです。「日本城郭体系」(1979年)によると最近までここに、太田道灌が江戸城の出城として築いた番神山城の跡すなわち太田道灌塁がありました。この城址は江戸時代から土の取り場となり、近年のバブル景気の頃にさらに開発され、今は高層ビルが林立してその遺構は消えました。近くの西久保八幡神社の由緒に「(当社は)石清水八幡宮の神霊を請じて、霞が関のあたりに創建したという。太田道灌が江戸城を築いたとき、現在地に遷された」と記されています。
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(仙石山に林立する高層ビル)

(2) 丸子陣場 神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町2丁目付近
JR南武線武蔵小杉で下車して北へ十分も歩くと、西明寺という古刹があり、その近くに小杉陣屋跡の碑があり、さらに少し歩くと西丸子小学校と等々力緑地があります。
1478年(文明10年)1月25日に、太田道灌は平塚城から逃走した豊島泰経を追い「翌朝丸子に陣張り候」(太田道灌状)とあります。新編武蔵風土記稿(1830年)には、丸子陣場について「今村内を尋ねるにその旧地をえず」とあります。行政当局も丸子陣場の位置を比定することはできず、小杉陣屋跡か多摩川べりの西丸子小学校と等々力緑地のあたりにあったのではないかと推定しています。
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(等々力緑地)

 長井城址(埼玉県熊谷市)、羽生古戦場(埼玉県羽生市)、浅羽古戦場(埼玉県坂戸市)などは地名が残っていても、その場所が正確にはわからなくなっています。
 道灌畑(神奈川県横浜市)、那波城址(群馬県伊勢崎市)などは、その土地が他に転用されて原形をとどめていません。
 勝原古戦場(埼玉県坂戸市)、用土が原古戦場(埼玉県寄居町)などは、史跡として行政当局が認識していませんので甚だ残念です。
 JR南武線の溝の口駅近くに川崎市立地名資料館・日本地名研究所という面白い資料館があります。消えゆく地名の調査や紀行の資料を探すにはもってこいの施設です。

2010年09月06日

長野県の太田道灌

(1)佐久の「久遠の像」
長野県に太田道灌が行ったという記録は見えませんが、佐久市に道灌の銅像が1体あります。JR小海線北中込駅から約15分歩くか長野新幹線の佐久平駅から車で10分も走ると、駒場公園内の佐久市立近代美術館に至り、そこに太田道灌の銅像に会えます。実際に銅像が建っているところは、すぐ近くの佐久市立図書館の前庭です。その銅像は、東京都の新宿中央公園にある山本豊一氏制作の「久遠の像」と同じものです。ちょっと見ると配置も背景も違うので気づきませんが、よく見ると確かに道灌と山吹を捧げる少女の像です。
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(久遠の像)
なぜここに「久遠の像」があるのでしょうか。その縁起を理解するためには、佐久市出身の実業家で美術年鑑社社長であった油井一二(ゆいいちじ)氏のことを知らなければなりません。油井氏は1909年(明治42年)に佐久市に生まれ、上京して絵画販売会社の出張販売員になりました。やがてふろしき画商として成功し、昭和40年に美術年鑑社社長となりました。着想の人、行動の人であった油井氏は、業績を飛躍的に拡大するとともに、45年をかけて400点に及ぶ美術作品を収集しました。1975年(昭和50年)、油井氏は全コレクションを郷里の佐久市に寄贈し、コレクションは佐久市立近代美術館(油井一二記念館)に収蔵されました。収蔵品の中には、横山大観、平山郁夫、奥村土牛、平櫛田中などの傑作とともに、山吹の里の彫刻「久遠の像」がありました。油井氏は武者小路実篤に私淑して、自分の人生訓を実篤の次の言葉で語っています。
   この道より 我を生かす道なし
   この道を行く
ちなみに太田道灌の銅像は、東京都に3体、埼玉県に5体、神奈川県に1体、静岡県に1体、長野県に1体、合計11体あります。
久遠の像・佐久市立近代美術館・図書館=長野県佐久市猿久保35‐5 

(2)苅谷原の道灌子孫
佐久市から国道18号線で小諸へ移動し、さらに国道143号線で青木峠を越えると松本市へ来ます。刈谷原トンネル手前のわき道を入ると真言宗の性徳山洞光寺があります。この寺に、道灌の二男、三男と思われる太田資行、中澤資盛の子孫の墓があります。寺の裏の墓域へ行ってみると、太田家と中澤家の墓所が何十も連なり壮観であります。しかし長年月風雨にさらされた碑文は、ほとんど判読できません。住職は、土地の旧家の蔵を開いて文書を調べると、この寺の墓の主である太田家、中澤家の先祖関係がわかるでしょうと語っていました。これが解明されれば、歴史上の大発見になります。
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(太田家、中澤家の墓所)
寺の斜め後ろの山が、資行の子資忠が城主を勤めた刈谷原城の址です。私は、またの来訪調査を期して、洞光寺をあとにしました。
性徳山洞光寺=長野県松本市苅谷原町692
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2010年09月04日

嬉野太田氏の先祖祭り

リクエストにより、「嬉野太田氏の先祖祭り」を再度増補版として掲載いたします。

福岡市で九州自動車道に入り、さらに長崎自動車道を少し走ると左手に吉野ヶ里遺跡があります。それから30分も車を走らせると、温泉とお茶と焼物のふるさと佐賀県嬉野市へ到着します。
嬉野市では、毎年9月18日に下岩屋で太田一族が先祖祭りを行っています。今年(2009年)の先祖祭りには、太田資暁氏等とともに、私も参加させていただきました。
9月18日朝、嬉野太田家本家11代の太田資信(すけのぶ)さんのお宅を訪問し、ご先祖の話を聞きました。資信さんは50年間もの間、自らのルーツを調べ続けたと語っていました。それによると、松山衆であった太田資政は相模の戦で戦死し、その息子資長、資重の二人が、1589年(天正17年)ゆえあって、肥前の国大村へ来ました。大村で志を得なかった二人は、嬉野に住みついて土着し、嬉野太田氏の始祖となりました。その後、太田氏は築堤の功績により鍋島藩に召抱えられ、1763年(宝暦13年)より始祖太田資長の命日9月18日に、先祖祭りを行い続けています。 現在嬉野太田氏は、下岩屋地区だけでも97世帯、約450人となりました。
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(太田資信氏・右と太田資暁氏・左  机上の刀の鍔に桔梗紋)
資信さんは、床の間に飾ってあった、先祖伝来の大小の刀と認定書を見せてくれました。その刀の鍔には桔梗紋がくりぬいてあります。ふんかん園といわれている広い庭を案内していただいたあと、先祖まつりの会場へ向かいました。
下岩屋には、地名のとおり石垣で囲まれた家がたくさんあります。太田家の先祖墓の墓域も石垣で囲まれた高みにあり、登り口の横に嬉野太田家の由来を刻んだ石碑があります。午前11時には、中央の大きな太田家先祖墓の碑の前に一族の人々約50人が並び、婦人が御詠歌を詠い、浄土宗宋運寺の住職が読経しました。その後別会場で祝宴があり、太田道灌公についての講演がありました。
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(太田家先祖墓) 
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(嬉野太田氏の由来説明碑)
太田資信さんは87歳の高齢ですが、太田道灌公墓前祭実行委員長である太田資暁氏の初訪問を大いに喜び、終始溢れるような笑みを満面にたたえて一行を迎え、なにくれとなく心配りをしてくれました。製茶工場を経営する太田重喜氏が、この地の太田一族の活躍をいろいろ説明してくれました。太田一族と会い、語り合った太田資暁氏は思わず「太田の一族は、どこでも真面目な働き者ばかりだ」とつぶやきました。
私はその言葉を聞いて、太田道灌の人柄について、ある確信的な考えがふと浮かんできました。万里集九が、道灌追悼の祭文の中で、道灌の人柄がかもしだす雰囲気について「曖然たる和気」と述べています。確かに戦をしてないときの道灌は、おだやかで包容力深い人柄の人であったと思います。しかし戦っているときの道灌の人間像は「鋭い真面目人間」の権化であったという気がしてきました。「鋭い」から隙(すき)がない。真面目だから部下の信頼が厚い。鋭い真面目人間の軍勢が、疾風怒涛のごとく攻め込んだのだから、長尾景春はさぞかし怖かったに違いない。景春とて人望があり、長尾家の地盤と人脈は太田家のそれに比べて圧倒的に大きかったけれども、するどい真面目人間の軍団には敵わなかった。それゆえ景春は、秩父の山に逃れて神出鬼没のゲリラ戦を展開せざるをえなかったのです。道灌のDNAを持った人たちの話を聞いて、私はそんな確信的な思いにとらわれてきたのでありました。
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(先祖祭りの参列者)
太田資信氏等一族の方々と懇談し、興味深い話をたくさん聞きました。資信氏は39歳の頃より嬉野太田家の調査を始めました。そしてついに次のような後北条氏の文書を発見しました。
「永禄二年(一五五九年)二月十二日『小田原衆所領役帳』なる。太田を称する者次の如く。
江戸衆に
太田新六郎  一千四百十九貫百文 (康資)
太田大膳亮  五百四十四貫五文  (左京亮)
太田源七郎  三十六貫五百文   (資康弟)
太田四郎兵尉 八十五貫文     (資康弟)
太田新次郎  二十二貫九十四文    
松山衆(岩槻系)
太田豊後守  三百七十六貫二十二文 (資政)
                   三楽別人」
この文書によると、岩槻系の太田資政は江戸系の太田康資等とともに後北条方に属していたので、1560年(永禄3年)に太田資正が上杉謙信の先鋒として小田原城を攻めたとき、太田一族は敵味方に分かれて戦ったかもしれません。
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(先祖祭りで婦人たちが御詠歌を詠う)
資長・資重兄弟が秀吉の朝鮮出兵に応じて肥前へ来たとか、どこかの大将に呼ばれてここへ来たが志を得ず土着したと言う人もいます。
豊臣秀吉は1590年(天正18年)に後北条氏を滅ぼしたあと、肥前の名護屋より朝鮮出兵を断行しました。やがて秀吉は没して関が原の戦いとなったわけですから、この疾風怒涛の時代の全貌を知っていた人も記録した人もいないのは仕方のないことです。
資長・資重兄弟がなぜ嬉野に来たかは、嬉野の太田資信氏にとって依然として謎です。資信氏は「私は50年間余りもそのことを調べ続けてきたけれども、まだわからないのです」と頭を抱えていました。
「いずれにしてもご先祖は勇敢に戦って戦死したのだから、勇者であったことは間違いありません」と私は資信さんに申しあげました。
私の勘ではこの謎の底に、戦国の複雑で非情なしがらみによる言うに言われぬ深い苦渋があったように思います。その深い事情と資政の熱い思いは、資政とともに太田家先祖墓に秘められていて、資政はそれを決して語ることはないでありましょう。
各地に桔梗紋の太田氏はたくさんいるけれども、家系図を遡ると、戦国時代の部分が欠落している場合がよくあります。そのことは、その時代の生活が不安定で流動的であったことにもよりますが、身の安全のため移住して敢えて出自を隠し続けたこともあったと思います。 
太田資信氏は、2010年(平成22年)に、「嬉野太田家先祖祭り二四七回年忌」と題する立派な記録集を発刊し、自宅の庭には「太田道灌公之像」を設置しました。


   

 
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2010年08月15日

太田資正終焉の地・片野城址

茨城県の石岡市が太田資正終焉(しゅうえん)の地です。東京都のJR日暮里駅で常磐線に乗ると約2時間で石岡市へきます。茨城県に入ると、車窓からレンコン畑が見えてきて、夏の朝には見事な花を咲かせています。
太田道灌の曾孫太田資正三楽斎道誉は、道灌の再来といわれたほどの名将であったけれども、長男の氏資と仲違をし、1565年(永禄8年)岩槻城を追われました。資正は常陸の佐竹氏の客将となって片野城に拠り、息子の梶原政景は柿岡城に入りました。
片野城址がある石岡市根小屋地域へのアクセスはやや難儀で、車で行くか石岡駅から途中までバスで行き三キロほど歩くしかありません。城址への道標など全くないので、地元の人に尋ねるか地元の詳細な地図を持参する必要があります。集落の中の小山が片野城址です。入口に「片野城址」という石碑と石岡市教育委員会の説明板が立っています。
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(片野城址碑)
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(土塁跡)
説明板によると、1566年(永禄9年)ごろ太田資正がこの城を築き、柿岡城の梶原政景と協力して、佐竹氏に対立した国人領主・小田氏を国外に追い払いました。資正は三男資武とともにこの城に居住し、1591年(天正19年)秋に、その豪勇かつ多彩な生涯を終えました。時に資正69歳でありました。
城址の入り口を登ると本丸らしい空間があり、今は畑となっています。周囲に土塁と思われる遺構が数か所あります。城址入口に至る深く切り込んだ道路も、空掘りの跡と思われます。城址に立つと、はるかに筑波山がよい具合に見えて一幅の絵のようであります。晩年の太田資正は、朝夕にここに立って筑波山を眺め、自らの来し方を振り返ったことでありましょう。
この城址に隣接している佐久山も片野城の一部分で、その小山の向うに太田資正の墓所があります。城址の登り口から佐久山を小さく巻くと、真言宗豊山派浄瑠璃光山と称する無人の堂があります。その墓域の奥に、「太田資正公之墓所」と彫られた石柱と五輪塔が三基あります。波乱万丈の生涯を駆け抜けた太田資正は、田んぼやハス畑に囲まれた静かな里の小山で永遠の眠りに就いたわけです。
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(太田資正墓所)
片野城址から恋瀬川に沿って約3キロ北へ移動すると、丘の上に石岡市立柿岡小学校があり、そこが柿岡城址です。校門への登り道の側面が土塁の遺構と思われます。学校の敷地全体が小高い丘の上にあり、かつての城山は想像するしかありません。この城には、太田資正の次男梶原政景が拠り、父とともにその存在感を発揮し続けました。
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(柿岡城城址) 
石岡駅から歴史コースを10分も歩くと、常陸国総社神社があります。この神社はその名のようにいろいろな神社の総代の役目を果たした由緒ある古社です。この神社に太田道灌遺愛の軍配が伝っていました。神社の説明板には次のように記されています。
県指定有形文化財(工芸品)漆皮軍配 伝太田道灌奉納
小型の軍配と長い柄の形式は古く、室町時代の作と推定されている。総長48・9センチメートル、最大幅19・1センチメ ートル、柄幅2.6センチメートル、なめし革製黒漆の軍配。表には朱漆で種子を描いている。
寛文8年(1668年)太田資宗、資次の寄進銘のある箱に収められてあり、保存状態も良好である。
太田道灌が石岡まで来た記録はないので、岩槻城に伝わっていた道灌の軍配を岩槻城主太田資正が所持し続け、資正が晩年になってから総社神社へ奉納したのではないかと私は推測しています。太田資宗、資次は江戸時代の掛川藩太田家の初代と2代です。
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(総社神社)
片野城址と柿岡城址は石岡市指定史跡です。
太田道灌遺愛の漆皮軍配は、レプリカが埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市)で展示されています。
片野城址=茨城県石岡市根小屋
太田資正墓所=茨城県石岡市根小屋
柿岡城址・柿岡小学校=茨城県石岡市柿岡2151
常陸国総社神社=茨城県石岡市総社2
*この記事に関連して、先に掲載して引き揚げた「武州松山城と太田資正」を再度掲載します。

 太田資正と武州松山城址                            
武州松山城の城主であった太田美濃守資正入道三楽斎道誉は、道灌の曾孫に当たり、道灌の再来といわれた名将でありました。この勇猛果敢でやや不遇な智将のことを、私は深い感慨を持って述べなければなりません。
埼玉県東松山市から吉見町に入ると、すぐに吉見百穴(よしみひゃくあな)という有名な国指定史跡の観光スポットがあります。東武東上線の東松山駅から、徒歩25分です。この百穴のとなりの城山が松山城址です。百穴の観光案内所の人に松山城址の登り口を尋ねると、親切に教えてくれて「本丸までは道がありますが、その先はけもの道です」と言い、意味ありげににやりと笑いました。登ってみてその意味がわかりました。本丸から先では次第に道が消えて、やがて深い空堀の底に迷い込んだりします。城域がけもの道になっているということは、極めて良好に保存されているということです。
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(吉見百穴)
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(松山城の深く広い空堀)
松山城は1399年(応永6年)この地の国人領主上田氏により築城されたといわれていますが、武蔵国中原の要衝であったため、常に諸勢力の争奪戦の的となって城主は度々変わりました。城の構造は梯郭(ていかく)式平山城とされ、舌状の城山の先端を市野川が半円状に囲み、本丸、二の丸、春日丸、三の丸などを中心に段差を持った多くの腰郭と深く広い空堀をもっている堂々たる山城です。
1561年(永禄4年)から3年間、太田資正は松山城の城主として上杉謙信に忠誠を尽くし、後北条氏と武田氏に対抗して道灌譲りの奇抜な戦法で戦い続けました。  
「三楽犬の入れ替え」として面白い挿話が伝えられています。資正は岩槻城と松山城で各50匹の犬を飼って、土地になれた頃に犬たちを他方の城に移しました。資正は後北条軍の急襲を受けて城を包囲されると、直ちに10匹の犬の首に文を入れた竹筒を結わえて放ちました。犬の帰郷本能を活用した緊急通信システムであり、日本軍用犬の起源です。犬たちは包囲網をかいくぐって約29キロの道をおそらく小一時間で走ったから、すぐに後詰めが押し寄せて来ました。後北条方はこの不思議を訝り、大いに恐れたということです。現代で言えば、太田資正は暗号による情報戦で勝っていたということです。
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(三の丸跡)
1560年(永禄3年)2月に、上杉謙信が小田原を攻めたとき、資正は先鋒として兵3500名を率いて小田原城に迫り、後北条軍の心胆を脅かしました。「北条記」という軍記ものには「太田資正は一騎当千の兵なり」と伝えています。
1590年(天正18年)、今を時めく天下人豊臣秀吉がその総力を結集して関東に攻め込み、小田原城を包囲しました。秀吉から小田原城攻撃の戦術を問われた資正は、並みいる宿将の前で城の無血開城の策を進言しました。このようなときに非戦論を唱えると宿将の嘲笑に合い、まかり間違うと自らの命運も危なくなるのが戦陣の常であります。しかしこのとき、後北条軍の精強さと小田原城の堅固さを知り尽くしていた太田資正の一言は重く、諸将に強いインパクトを与えました。秀吉はこのとき、自分の腹の中の図星をさされたので敢えて不快そうな顔をつくり、着ていた陣羽織を資正に与えて退出させたということです。結局は資正の進言通り、主戦派の北条氏政、氏照と数名の重臣の切腹で小田原城は明け渡されました。
太田資正の唯一つの失敗は、二男の梶原政景を溺愛して長男氏資と仲違いをし、岩槻城を追われたことです。その後、氏資は後北条氏に取り込まれてさらに謀略にはまり、上総三船山合戦で戦死しました。時に氏資は26才の若さでありました。
資正は客将として常陸の片野城に移ってからも、佐竹氏を補佐してその存在感を発揮し続け、1591年(天正19年)その波乱万丈の生涯を終えました。太田資正の三男資武の子資信が祖父三楽斎資正の戦歴を次のように記しています。
  出陣数  79度
  一番槍  23度
  組み打ち 34度
  太刀打ち 覚え申し候はず
太田資正ほどの勇将・智将であっても、時と所に利がなければやや不遇の生涯を送らねばならなかったのです。このように無情な時と厳しい境遇の中で、戦い続けて燃え尽きた太田資正は巷間、「日本13大将」に列せられてその名を後世に伝えています。
松山城址は埼玉県指定史跡であり、かつ比企郡城跡群として国指定史跡です。
片野城址は石岡市指定有形文化財(史跡)です。
武州松山城址=埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山
片野城址=茨城県石岡市根古屋


posted by otadoukan at 15:13| Comment(0) | 道灌紀行は限りなく

2010年06月30日

秩父の長尾城址と景春の墓

秩父高佐須城(塩沢城址)から再度、秩父の長尾景春の足跡を追います。従って今回は、道灌紀行から脱線して景春紀行となります。秩父市のお花畑駅から秩父鉄道に乗ると、三つ目で日本通貨発祥地である和銅黒谷(わどうくろや)駅につきます。駅のプラットホームに巨大な和銅開珎(わどうかいちん)のモニュメントがあります。このあたりに来ると、電車は30分に1本ぐらいしかないので、駅の待合室でおしゃべりをして電車を待つ里人や通学生徒の話を聞いていると、急に時間が止まったような気がしてきます。昔懐かしい里山の電車に乗りたければ、秩父鉄道がお勧めです。運が良ければ、俳句展示の電車に出会います。私がたまたま座った座席の上に記す。
 山澄みて馬がまどろむ草の海
 錦秋の秩父路夫とひもすがら
車で秩父市駅から国道140号線を走ればすぐに黒谷へきます。
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(和銅黒谷駅のモニュメント)
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(長尾城址にある和銅遺跡)
和銅黒谷駅から観光用の道標に従い、梅雨の晴れ間にふるさと歩道を歩きました。民家と畑が点在し、山の方から鶯の谷渡りがまことに心地よく聞こえてきます。のんびり歩いて10分おきぐらいに法雲寺、和銅遺跡入口、瑞岩寺があります。法雲寺には長尾景春の墓があり、和銅遺跡の奥山である美の山公園から瑞岩寺の奥の岩山あたりが長尾城であったと伝えられています。
私は先ず法雲寺こと曹洞宗の正永山法雲禅寺へ行き、寺の庫裏を訪ねると無人でした。墓域で伝・長尾景春の墓を探したけれどもそれらしきものが見つかりません。思い余って、寺の近くで仕事をしていた地元の逸見さんに尋ねました。逸見さんは快く「案内しましょう」と言って、自宅へ戻り長くつを履いて鎌をかつぎ「ときどき蛇やイノシシが出ます」と言って歩き出しました。逸見さんは寺の奥山を、雑草を切り払いながら登り始めました。立派な坂道があるけれども雑草や灌木ですっかり覆われています。息を切らしながら10分も登ると、山の中腹の50メートル四方ほどの平場に着きました。逸見さんは「昔はここに法雲寺があったと伝えられています」と言って、灌木や雑草をかきわけ、平場の中ほどに立つ苔むした一つの五輪塔へ案内してくれました。
林の中のちょっと開けた所に立つ五輪塔、いや下二段は崩れて約六〇センチメートルの三輪塔になっている石塔が、伝・長尾景春の墓です。訪ねる人もなく山の中腹で雑草と灌木に埋もれてひっそりと立っています。私は、胸騒ぎを覚えながら石塔の文字を探しました。木漏れ日が当った部分にかすかに文字の痕跡様のものを認めたものの判読できません。これが長尾景春の墓だとすると、景春没後、約500年も経っているので石塔の磨滅もしかたありません。
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(永正山法雲禅寺・奥山に景春の墓)
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(伝・長尾景春の墓)
この平場の上の稜線を東へ行けば美の森公園と和銅遺跡があり、さらに行けば瑞岩寺へ至ります。「秩父志」によるとそのあたりは長尾城址と伝えられていますが、遺構は見つかっていません。
ふるさと歩道の東の端の絶壁の下に瑞岩寺こと曹洞宗の融興山瑞岩寺(ゆうこうざんずいがんじ)があります。瑞岩寺の縁起によると、この寺は、1528年(亨録元年)長尾四郎左衛門昭国が開基となり創建されました。そしてこの寺の住職の話によると、長尾四郎左衛門昭国とは長尾景春その人であり、かつて瑞岩寺にも長尾景春の墓があったそうです。長尾景春は、1514年(永正11年)72歳で没したと伝えられています。そうすると瑞岩寺開基の年代が十数年ずれて整合しません。
ところが、瑞岩寺住職の話では、法雲寺の方が瑞岩寺より少し早く創建されたということです。法雲寺はちょうど景春が没した永正年間に恐らくは景春により創建され、年号をとって永正山と号されたのであろうと私は推測いたします。そうすると、法雲寺の奥山の五輪塔は、景春そのひとの供養墓であるという信憑性がぐっと強くなります。景春没後、秩父の人たちが景春の不運を憐れみ、景春とその家族が最期を過ごした長尾城のふもとに、景春の供養塔を立てたのだと私は推測しています。
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(瑞岩寺)

ふるさと歩道の西の端には、聖(ひじり)神社があり、その境内に「長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑」があります。長尾景春にはたくさんの名前があり、威玄(いげん)入道とは長尾景春の法名です。
また「増補秩父風土記」の黒谷村の項には、長尾城址が意玄入道の子烏坊丸と奥方ほか27人が隠れ住んだ場所であるとの伝承が記されています。
太田道灌状には、長尾城についての記述がありません。それゆえ、長尾城堀之内跡と伝えられているあたりは、戦闘用の砦ではなくいわゆる根小屋と称されるところで、景春の家族と少数の従者が住んでいた所ではないかと私は推測しています。
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(聖神社・長尾威玄入道昭国奥方戦死の碑)
長尾景春と秩父の因縁はまことに深いものがあります。景春の属していた白井長尾氏と秩父の薄地域(小鹿野町)を領していた犬懸長尾氏(鎌倉長尾氏の系列)とは縁戚関係があり、景春の妻も犬懸長尾の出身でありました。薄地域は秩父でも有数の平野で水田地帯であったため、犬懸長尾氏とその地域の国人衆の経済力は強大でありました。秩父の国人衆は一揆と称する横の連携を結ぶことによって管領から独立する傾向があり、なおかつ敗れて落ちてきた人物を支援する気風が強かったといわれています。犬懸長尾氏の当主長尾景利は、景春与党として戦って秩父で戦死しています。
1476年(文明8年)景春が鉢形城に拠って上杉顕定に叛旗を翻したとき、彼はその地の戦略的利点とともに背後の秩父の人脈を頼りにしていたことは間違いありません。その後も景春は、敗れるといつも妻の里である秩父へ移動し、勢力を盛り返して山岳ゲリラ隊のように道灌軍に奇襲をかけてきたのです。そして景春が、道灌軍に追われて最後にたてこもったは秩父の高佐須城(塩沢城)と日野城(熊倉城)でした。

太田道灌の妻の甥が長尾景春で、道灌と景春は互いに熟知していた仲でした。それゆえ、景春は道灌に反乱に加わるよう頼み、道灌は加勢をことわったけれども景春の面子を立てるよう種々骨を折りました。二人はおそらく互いに親愛の情を持ちながらも、戦国のしがらみに縛られて30数回も戦い続けたのでありましょう。道灌は関東御静謐を夢見て戦い、勝ち続けたけれども道半ばの55歳で凶刃に倒れました。景春は白井長尾家再興を夢見て戦い、逃げ続けた(否、それは単に秩父へ移動したという予定の行動であったかもしれない)けれども、上杉顕定への反抗をつづけ、72歳まで生きながらえました。
二人が抱いた戦の大義は異なれども、二人に共通しているところは、人倫を踏みつけて権謀術数を振り回して戦国大名になろうという野望を持たなかったことです。そのことが後の世の人々に物足りなさを与えるともに、親愛の情を呼び起こしています。

長尾景春は幼名を孫四郎といい、長じて様々の名前を使いました。主なものは、長尾四郎右衛門尉、長尾景春、長尾左衛門昭国、長尾伊(威・意・以)玄入道ですが、種々の組合せによるバリエーションが約20種もあります。群馬県渋川市上白井の空恵寺(くえいじ)に白井長尾家累代の供養塔があり、その中の一つに景春の最後の名前すなわち戒名が「涼峯院殿大雄伊玄大居士」と刻まれています。
瑞岩寺の裏の絶壁のツツジは秩父市の天然記念物です。
聖神社は秩父市指定の有形文化財です。
伝・長尾景春の墓・法雲寺=埼玉県秩父市黒谷665
瑞岩寺=埼玉県秩父市黒谷1633
長尾城址=埼玉県秩父市黒谷
聖神社=埼玉県秩父市黒谷2191











posted by otadoukan at 21:35| Comment(0) | 道灌紀行は限りなく