2020年10月02日

『太田道灌状』第25段の「大谷」とはどこか。

『太田道灌状』第25段には、長尾景春が太田道灌に敗れ、武蔵で最後の抵抗を試みてから秩父の峠を越える直前の、各勢力の複雑な動きが記されています。その中に次のような一節があります。
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(秩父の峠のポピー)
本文
正月四日、景春児玉へ令蜂起候之間、同六日塚田へ罷越、其儘諸勢お相集、修理太夫大谷へ寄陣、同十三日沓掛へ相進。
読み下し文
正月四日、景春は児玉へ蜂起せし候の間、同六日塚田へ罷り越し、其の儘諸勢を相い集め、修理太夫は大谷へ陣を寄せ、同十三日沓掛へ相い進む。
現代語訳
(文明十二年)正月四日、景春は児玉で蜂起したので、(道灌は)同六日塚田へ出陣し、其のまま諸勢を結集し、修理太夫(しゅりだいぶ)は大谷(おおや)へ陣を寄せ、同十三日沓掛(くつかけ)へ進軍しました。
*修理大夫=上杉定正

『太田道灌状』には遠征や野戦が多く記されているため、「参陣(7回)」「張陣(6回)」「寄陣(6回)」「取陣(5回)」「着陣(4回)」「出陣、立陣、払陣、逃陣(各1回)」という具合に陣にかかわる言葉が多く、それぞれ使い分けられています。
そのうち「寄陣」という言葉は、移動先の陣所のようなところに自軍の軍勢を寄せる、という意味で使われています。
第20段では二宮城に寄陣、また砦のような村山の真福寺に寄陣、第21段では青鳥城へ寄陣、第22段では臼井城に寄陣、第24段では久下氏の館に寄陣と記されています。さて第25段には「修理太夫大谷へ寄陣」と記されいます。修理太夫・上杉定正が道灌と行動を共にするため、陣を寄せた「大谷(おおや)」とは一体どこの陣所でしょうか。「大谷」という地名は現在、深谷市と東松山市にあります。

1.深谷市の大谷
深谷市役所教育委員会で尋ねると、『深谷中世文書集』第2集(深谷上杉・郷土史研究会編集)により、深谷市大谷の堀之内を教えてくれました。
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 (深谷市大谷の堀之内)
早速に深谷市大谷396番地の堀之内へ行ってみました。深谷市の「大谷」は、現在広大な畑地で民家が点在しています。農作業をしていた人に尋ねると、近所の古老の家まで車で案内してくれました。古老は87歳で、深谷・上杉の郷土史研究に携わり、このあたりでの太田道灌と長尾景春との戦について熟知していました。古老は身辺から文献を引っ張り出しながら、次のように話してくれました。
『このあたりには「堀之内」「館野」という小字が残っていますが、土塁や堀の跡は認められません。地名から考えて、ここに領主が居住したことは間違いないが、その人物の名前はわかりません。
そして結論として『太田道灌状』に記されている「大谷」は、「塚田(寄居町の赤濱)」「大谷(深谷市の堀之内)」「沓掛(深谷市)」「児玉(本庄市)」と、鎌倉街道上道の支道で結ばれるので、深谷市であったと考えられます。
しかし定正が、なにかの事情で東松山市の「大谷」へ陣を寄せた可能性も否定はできません。』
 この古老の話は、深谷市教育委員会で示された『深谷中世文書集』157頁の内容と一致しています。
<122-3 川越岩と渡河地点.JPG
(塚田の赤濱・荒川の獅子岩)
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(児玉・雉が岡城址)      
*後日わかりましたが、私がたまたま「堀之内」でお会いした古老は、『深谷中世文書集』の編集委員のお一人、吉橋孝治氏でした。

2.東松山市の大谷
『新編 埼玉県史』(2)431頁には、次のように記されています。
「道灌は、六日、塚田(寄居町赤濱)を通り兵を集め定正のいる大谷の陣(東松山市大谷)に合流した。」
『埼玉県史』では、「修理太夫大谷へ寄陣」を「(道灌は)定正のいる大谷の陣へ合流した)と解釈しています。また、「大谷」を東松山市としながらも、その陣所がどこか具体的には記していません。
東松山市の大谷も畑作地帯ですが、隣接する森林公園(滑川町)に山田城址があります。私は、国営武蔵丘陵森林公園の中にある山田城址と鎌倉街道を訪ねました。
東松山市大谷.JPG     
(東松山市大谷)         
  
鎌倉街道.JPG  
 (山田城址近くの鎌倉街道)
森林公園南口の右手の丘陵が山田城址です。南口から入り土塁を一気に登ると、9100平米の広大な廓が広がります。小学校のグラウンドくらいの廓の周囲の土塁と空堀は、ほぼ原形のまま保存されています。これだけの広さがあると相当数の軍勢が寄陣できます。

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  (山田城址の空堀)     
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  (山田城址説明版)
城跡の説明版には伝承記録として「創築年代は不明ですが、忍の成田氏の被官、小高大和守父子及び贄田摂津守等が居住し、平山城として城郭を整えていたものと思われます。(後略)」とあります。
『太田道灌状』第24段には、文明11年末、太田道灌は急遽久下へ行き、成田下総守に会い激励した旨記されています。それにより、定正の山田城すなわち大谷の陣への寄陣が安泰になったと考えることができます。
山田城址の近くに、踏み固められた鎌倉街道がまっすぐに通り、昔日のにぎわいを伝えています。
私が訪問した夏の終わりには、コロナ騒動のためか人影もまばらなので、城址入口で大ぶりのヤマカガシに出会ってしまいました。森林公園の職員にそのことを告げると「また出ましたか、今日の日報に書いておきます」と語っていました。

3.私の推測
深谷市の「大谷」から「沓掛」へは、直線距離で約8キロしかなく、少し迂回しても約10キロ程度です。
一方東松山市の「大谷」近くの山田城跡から「沓掛」までは、直線距離で約24キロあり、少し迂回しても約30キロとなり、一日で行軍できる距離です。
また、川越城から東松山市の「大谷」までは、直線距離で約24キロで一日の移動距離です。
私も深谷市堀之内の古老と同じように、『太田道灌状』の「大谷」が深谷市か東松山市か大いに迷うところですが、敢えて推測してみます。
深谷市の堀之内には、土塁や堀跡の遺構が全くありません。そのことから推測すると、そこに居住した領主の館は小規模なもので、厳寒の頃、定正の軍勢数百名が寄陣するのは無理だったかもしれません。
定正が河越城から移動した可能性と陣所(山田城)の遺構の規模を考慮すると、私は、『埼玉県史』の「大谷」東松山市説の方がやや蓋然性が高いと考えます。
それにしても『太田道灌状』の中にただ一度だけでてくる「大谷」という地名に、私はずいぶんとこだわり、方々駆けずり回ってしまったものです。

2020年09月03日

その後の岩槻の道灌さん

さいたま市の旧岩槻区役所前にはかつて、岩槻城の築城者とさていた太田道灌の銅像が立っていました。その後、岩槻城築城者について、太田氏、渋江氏、成田氏がエントリーされ、岩槻城築城者の最終決定はペンディング状態となりました。
さらにその後、岩槻市とさいたま市が合併され、岩槻区役所が取り壊されると、太田道灌像は、あと地の駐車場脇にさみしく仮り置きされました。 
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(歩道にある太田道灌のカルタ絵)
その後、岩槻の道灌さんはどうなったのか気になり、久しぶりに岩槻を訪ねました。岩槻駅を降りて、日光御成街道をのんびり歩くと途中の歩道に「道灌の歴史を残す城下町」というカルタ絵がありました。程なく旧岩槻区役所跡地につきます。
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(岩槻人形博物館)
ここに2020年(令和2年)2月22日、さいたま市岩槻人形博物館と交流会館がオープンしました。かつては、岩槻区役所玄関で来る人を迎えてくれた道灌さんは今、博物館の脇にしずかに立って、訪れる人々を見つめています。
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(人形博物館の脇の太田道灌像)
ここの道灌さんもまた、笠をかぶり弓矢と太刀を持っています。他の像と違って右手に、たたんだ扇子を持っています。
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(道灌像シルエット)
 岩槻の道灌さんは、他の道灌像に比べてややふっくらした顔つきをしています。この道灌像は、1985年(昭和60年)岩槻ライオンズクラブが寄贈したものであり、制作者は京都市の作島栄治氏です。
最近岩槻では、大田道灌の曽孫である岩槻城主太田資正をクローズアップしようという話があります。資正は、道灌の再来といわれる名将で、上杉謙信の先鋒として後北条氏等と戦い続け、関八州で波乱万丈の活躍をしました。
posted by 道灌紀行 at 17:07| Comment(0) | その後の岩槻の道灌さん

2020年03月13日

道灌の足柄越え・駿河遠征

現在、箱根越えと言えば誰でも、あの有名な箱根駅伝のコースとなっている国道1号線を思い浮かべます。ところが実は、古代の箱根越えのメインルートは、金太郎伝説で有名な足柄峠越えルートでした。800年の富士山延暦噴火で御殿場側の道が不通となり、現在の箱根峠越えの道が開発されました。その後、足柄峠越えの道は復旧したものの今では脇街道となっています。太田道灌は生涯で二度、足柄峠越えをしたので、その足跡をたどります。
伊勢原市から車で国道246号線を西へ向かい、秦野市、大井町を経て255線に入り、さらに神奈川県道78号御殿場大井線へ入ります。この道が昔の足柄峠越えの道で、まっすぐ西へ向かうと標高759メートルの足柄峠へ着きます。もちろん途中は、急坂やピンカーブがたくさんある難路です。
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(万葉足軽公園からの富士山)
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(万葉歌碑)
峠の県境の神奈川県側には万葉足柄公園があり、樹間から急に大きな富士が見えるのであっと驚きます。万葉集の防人の歌の碑があり、碑にいう「足柄の御坂に立して袖ふらば 家なる妹(いも)は清(さや)に見もかも」と。これは、出征する兵士の歌です。
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(足柄峠の説明版)
標高759メートルの足柄峠の標柱には、この峠での主要史が年表状に記されています。文明八年(一四七六)の欄に「太田道灌今川氏の内紛につき氏親に合力せんと足柄を越える」と明記されています。
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(足柄峠の標柱と主要史年表)
足柄峠の静岡県側には足柄城址があり、その城山に立てば、富士山の全容が視野いっぱいに迫ってきます。
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(足柄城址の碑)
足柄城址の碑.JPG
(城山の碑)
1465年(寛正6年)太田道灌は、足柄峠を通って上洛した可能性があります。そのとき道灌は、足利義政と会見して江戸城の事を問われ「わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」と詠みました。道灌は江戸城静勝軒の軒端に見える富士の遠景と、足軽峠から見えた富士の全容を比べて、感に堪えたことでありましょう。

『太田道灌状』には、次のように記されています。「翌年(文明八年)三月道灌は駿州へ向かい、今河新五郎殿合力として相州を罷り立ち六月足柄に越し、九月末本意の如くして豆州北条に参上致し、十月末帰宅せしめそのまま出頭に及ばず候」。
1476年(文明8年)6月太田道灌は、主命を受けて今川氏の跡目争いを解決するために、駿河へむかいました。道灌はその日、騎馬武者と足軽等約300人を率いて、早朝に相模国伊勢原の上杉氏守護所を発ち、第一日はこの足柄城で幕営したと思われます。一行は途中、難所で大いに汗を流したものの、峠から見えた富士の雄姿にしばし疲れを忘れたことでありましょう。
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(足柄城址からの富士全容)
足柄城の築城者は、一説によれば太田家の盟友大森氏ですが、詳細は詳らかではありません。いずれにしても、伊勢原からここまで約35キロであるので、騎馬隊や健脚の足軽隊にとっては、難路を考慮しても一日の行程としてちょうどよい距離です。
翌日、道灌一行は峠を駆け下り、一気に駿河の八幡山城まで走ったと思われます。駿河で太田道灌は、伊勢新九郎(北条早雲)と談合し、今川家の嫡男竜王丸が成人するまでの間だけ、上杉家縁者今川範満が駿河守護職を代行する、という妥協案で一応の決着を見ました。

この間のことについて、司馬遼太郎は小説「箱根の坂」の一節「太田道灌」に書いています。また、御殿場へ下る峠道の途中に、富士眺望日本一を誇る「誓いの丘」があります。『強力伝』『芙蓉の人』『富士山頂』など富士にかかわる小説をたくさん書いた新田次郎の文学碑と誓いの鐘がそこにあります。
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(日本一の富士眺望と誓いの鐘)
道灌は駿河で任務をはたし、八幡山城から江戸城へ帰る途中、伊豆の北条(伊豆の国市)へ寄って堀越公方足利政知に一部始終を報告し、また足柄峠を越えて武蔵へ帰りました。道灌にとって、事前の段取り等をふくめて約七か月の骨折りでありました。
道灌の駿河遠征の最中に、武蔵では長尾景春の乱が勃発し、関八州は急を告げていました。道灌はこのあと、30数回の戦に突入していきます。
posted by 道灌紀行 at 10:40| Comment(0) | 道灌の足柄越え・駿河遠征