2010年03月06日

扇谷上杉定正の最期を追う

1486年(文明16年)7月26日、上杉定正は太田道灌を相模国の糟屋館に招き謀殺しました。時に道灌55歳、今はの際に道灌は「当方滅亡」と叫んだということです。理不尽な道灌謀殺により、道灌の子資康をはじめ多くの家臣・重臣が扇谷上杉家を離反し、山内上杉家へつきました。
両上杉家の緊張は高まりついに1488年(長享2年、)戦端が開かれました。(長享の乱) 定正は道灌の軍師であった斎藤加賀守安元を重用して実蒔原(伊勢原市)の戦い、菅谷原(嵐山町)の戦い、高見原(寄居町)の戦いで優位を保ち続けました。
1494年(明応3年)10月、定正は北条早雲の援軍を得て意気揚々と4度目の高見原の戦に出陣し、山内上杉顕定と対戦しました。定正は、荒川を渡河しようとして落馬し、濁流に流されて死去しました。道灌没後8年、時に定正は49歳あるいは52歳ともいわれています。

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(荒川の川越岩)

小田急線の伊勢原駅から七沢方面へ車を15分も走らせて伊勢原市と厚木市の境目のあたりに来ると、実蒔原古戦場があり、大山がよい具合に見えます。厚木よりの民家の近くに古戦場碑と伊勢原市教育委員会の説明板があります。そこから県道64号線を車で5分も走ると、小高い所に上杉定正の居城であった七沢城址があります。城址の高台全体に今、七沢リハビリ病院が建っていて構内に七沢城址の碑があります。
城址を降りて、また坂道を少し登ると、臨済宗の吉祥山徳雲寺があり、隣接する墓地に上杉定正夫妻の五輪塔があります。
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(七沢城址)
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(上杉定正の墓)

実蒔原古戦場=神奈川県厚木市七沢
高見原古戦場(推定)=埼玉県寄居町今市
菅谷原古戦場=埼玉県嵐山町大字菅谷
七沢城址=神奈川県厚木市七沢
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2010年02月05日

道灌有縁の社寺(続き)

私は「道灌紀行」(平成21年10月発刊)で、道灌ゆかりの社寺について書きました。最近、先に記したあきる野市の開光院の他に、さらに二か所の道灌有縁の社寺がわかったので訪問しました。誠に、「道灌紀行は限りなく」であります。

(1)渓照山光岳寺・太田道灌稲荷
国道20号線(甲州街道)で調布市に入り、東京電気通信大学の交差点を北へ曲がると富士見町の石原小学校があり、そのすぐ近くに浄土宗の渓照山光岳寺があります。山門を入るとすぐ右側に太田道灌稲荷が祀られています。このいわれを住職から詳しく聞きました。
この寺は、徳川家康の母であった於大の方の法名に由来する旗本寺で、寺紋は葵紋です。当初小石川(東京都文京区)にあり、明治初年、先々代の住職の頃、近くの一口坂(いもあらいざか)(神田駿河台)にあった一口稲荷(いもあらいいなり)が、さびれていたので引き取ったということです。当時は、神仏習合の時代だったので気にもしなかたそうです。
その後、この寺は寺域が狭くなったので昭和9年に調布の飛田給に移転し、さらに先の大戦の最中昭和19年に、陸軍の調布飛行場拡大のため現在地に移転したそうです。その都度、道灌稲荷も一緒に移転したそうです。

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(光岳寺の太田道灌稲荷)

太田道灌の娘が天然痘に罹ったとき、京都の山城の国一口稲荷(いもあらいいなり)に人を遣わして祈って全快したそうです。1457年(長禄元年)、道灌の枕元に白狐が現れて「われ城の鬼門を守るべし」と言ったので、道灌はこの神を江戸城の鬼門(北東)に祀ったということです。この一口稲荷は、江戸城の東北地域を3回遷座しました。1590年(天正18年)に家康入城で神田錦町へ、1606年(慶長11年)に江戸城拡張で神田の聖橋の袂へ、そして1931年(昭和6年)に総武線建設で現在地の神田駿河台へ移転しました。
1866年(慶応2年)大火により御神体を除き社殿を全焼し、1872年(明治5年)に太田姫稲荷神社と改称し、大正12年には震災で類焼しました。
一口坂(ひとくちざか・いもあらいざか)は各地にありますが、聖橋の袂の坂も一口稲荷に因み、一口坂(いもあらいざか)と呼ばれていました。

以上の史実と先の光岳寺の住職の話を照らし合わせて推測すると、明治初年、火災で焼けた一口稲荷の社殿がまだ復興しないときに、稲荷が小石川の光岳寺の寺域にいうなれば仮住まいをし、そのまま調布の飛田給に分社・移転して太田道灌稲荷と改称したのではないかと思います。光岳寺の住職が先々代(祖父)から聞かされていた「一口坂(いもあらいざか)の稲荷」という一言がキーワードになります。一方神田では、その後本社が社殿を復興し、「太田姫稲荷神社」と改称し、さらに現在地に移転したのだと思います。
一口(いもあらい)は「穢(え)もあらい」とよみ疱瘡快癒に通じ、太田姫は一口稲荷のご神体である「太田姫の命(みこと)」の意味ではあるけれども、一般民衆は道灌の娘の意味に受け取って親しんだのかもしれません。
光岳寺=東京都調布市富士見町1-36‐2

 (2)鷲嶽山大円寺・道灌愛用の茶釜
東武野田線の七里駅から徒歩5分で、曹洞宗の鷲嶽山大円寺に来ます。大円寺は、1525年(大永5年)岩槻城主太田資高の夫人・陽光院が開基となり創建されました。この寺には、太田道灌が茶の湯で愛用したという「古天明霰釜(こてんみょうあられがま)」があります。寄贈者は陽光院です。天明は現在の栃木県佐野市あたりの地名で、茶の湯釜の生産地として「西の芦屋、東の天明」と言われました。

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(道灌が愛用した古天明霰釜の説明板)

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(大円寺本堂)

陽光院は、この寺に参詣すると「古天明霰釜」で茶をたて、道灌の位牌に供えたということです。この霰釜は、通常は観覧できません。
大円寺の「古天明霰釜」は大宮市指定文化財工芸品です。(大宮市は現在さいたま市に属しますが、説明板の通り記します)
大円寺=埼玉県さいたま市見沼区風渡野335
 
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2010年01月10日

道灌本隊の甲州への道と開光院

ひょんなことから、東京都あきる野市五日市に太田道灌ゆかりの寺があると聞いたので、冬の晴れた日に車を飛ばして訪ねてみました。JR五日市線の終点五日市駅から檜原街道へ入ってすぐ右側に都立五日市高校があります。その背後の丘陵地域に、臨済宗建長寺派の幽遠山開光院があります。由緒ありげな山門と本堂の屋根には、太田家と同じ細桔梗の寺紋があり、早速胸騒ぎがしてきました。山門の横にあきる野市教育委員会の説明板があり、この寺が1448年(文安5年)の開創であり、あきる野市指定文化財であると記されています。
本堂へ入ると住職がいましたので太田道灌のことを尋ねました。住職は心安く対応してくれ、私が詳しく質問すると、奥の方から秘蔵の住職手製の太田道灌覚書帳を持ってきて見せてくれました。それには次のように記されています。
「開光院に伝わる慶安5年5月の文書によると、開創間もない頃太田道灌公が、この地で取り合いがあったとき開光院に滞在し、ご運が開けたご褒美に寺領十六石の寄進を取り計らい、そのため寺では道灌公の位牌を立て置き、朝夕茶湯を献じてきたとある。今も寺では、道灌公の位牌をまつっている」

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(開光院の山門)
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(本堂の屋根に太田細桔梗の寺紋)         
 
この地は、「太田道灌状」に記されているあきる野市二宮から約3キロも離れた山裾の小高い所です。「道灌は一体何のためにここへ来たのですか」と私は聞きました。住職は「多分檜原を通って峠を越え、上野原へ行ったのでしょう」と言いながらも「寺の文書は江戸時代のものですから」と自信なさそうでした。私は逆に、これは何か曰く因縁があるのではないかと心に引っかかってきました。

私は家に帰ってから「太田道灌状」を舐めるようにして読み、地図を見ながら考えると、重大なことに思い至ったのです。それは、1478年(文明10年)太田道灌が長尾景春の与党を掃討するため、村山の陣から甲州へ向かったとき、道灌の本隊がほんとうに開光院で戦勝祈願(休憩)をし、檜原街道を通って人里(へんぼり)のあたりから峠を一つ(今は武甲トンネル)越えて上野原へ入ったのではないかということです。その理由は三つあります。
(1)「太田道灌状」によると、1478年(文明10年)6月、道灌の本隊は村山の陣(武蔵村山市)に留まり、大田資忠、六郎等の先遣隊が奥(おくの)三保(さんほ)(神奈川県津久井方面)で長尾景春与党の本間氏、海老名氏、加藤氏等を打ち破りました。続いて次のように記されています。
「夜中村山の陣へ告げ来たり候間、未明に罷り立ち、同16日甲州境を越え、加藤の要害へ差し寄せ打ち散らし、鶴河の所を始めとして放火せしめ候間、其の儘甲州東西静謐仕り候」
「太田道灌状」に「甲州境を越え」とあるからには、道灌の本隊は檜原から峠を越えて上野原へ向かったに違いありません。峠を越えるとすぐ加藤氏の本拠地上野原城が桂川の岸壁の上にあり、近くに鶴河宿もあります。奥三保ルート(八王子、津久井経由相模川沿い)では、敢えて越えるような峠も山もありません。
(2)道灌軍が16日未明に村山を出発してその日のうちに上野原の鶴河を攻撃したとすると、奥三保ルートではいかに健脚の足軽隊でも距離が遠すぎます。私はかつて両ルートとも車で走ったことがありますが、檜原ルートは約50キロと思われ、奥三保ルートの約三分の二の距離です。
(3)苦林(にがばやし)の戦でもその後の総州攻略でも、道灌と資忠とは本隊、別動隊となることがよくありました。両方向から加藤氏要害を攻めることは、道灌の作戦上考えられることであります。
以上のような理由で私は、道灌の本隊は、村山から秋川沿いに五日市へ至り、中間地点の開光院で休憩をとり、檜原街道に入って峠越えをしたと推定いたします。五日市辺りの人は今も、上野原をすぐ隣村のような言い方をします。檜原から上野原への峠道は、当時の幹線道路であったと思います。

開光院の住職の道灌覚書帳には11か所7種類の道灌の戒名が記されてありました。戒名は、それぞれの寺の住職が思いを込めて作るものなので、七種類有っても特段の歴史的意味があることではない、と住職は語っていました。一番驚いているのは、生涯に鶴千代・資長・持資・道灌と名前を変え、没後に7種類も名前をつけられた道灌自身だと思います。これも道灌の人気のなせることであります。7種類の戒名は次の通りです。
@大慈寺殿心園道灌大居士 (あきる野市開光院・伊勢原市大慈寺
 三島市妙法華寺・太田三楽斎家系図) 
A春苑道灌禅定門 (梅花無尽蔵)
B春苑静勝居士 (本国寺年譜)
C香月院殿春苑静勝道灌大居士 (東京都北区静勝寺)
D蓮乗院殿道灌日恩大居士 (東京都墨田区法恩寺)
E洞昌院殿道灌大居士 (伊勢原市洞昌院)
F香月院殿春苑道灌大居士 (さいたま市芳林寺・川島町養竹院)
私の知るところでは、鎌倉市の太田道灌出生地と言われる英勝寺の奥山にある供養墓に「太田道灌斎大居士」と彫ってあります。これをカウントすると、道灌の戒名は8種類ということになると思います。

私が開光院を訪れた日が五の日であったので、五日市駅近くの広場で、文字通り五日市ふるもの市が開催されていました。近在の旧家に伝わった陶器や道具などがたくさん並べられていましたが、骨董に目が利かない私には残念なことでありました。
開光院=東京都あきる野市五日市691
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2009年03月04日

自性院の道灌招き猫

地下鉄都営大江戸線の落合南長崎駅で下車して、新青梅街道を3分も歩くと小判を持った大きな招き猫のある門柱に気づきます。そこを左折すると通称猫寺こと自性院です。赤い山門のそばに立派な猫地蔵堂があります。
1477年(文明9年)の江古田が原の戦いの際、日暮れて道に迷った太田道灌の前に一匹の黒猫が現れて一行を自性院へ案内しました。道灌はそこで一夜を過ごすことができたため戦に勝利したということです。
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(自性院門柱の招き猫)

このお手柄猫は猫地蔵となり、毎年節分のとき猫地蔵堂で参詣者を迎えてくれます。会った人の話では、猫の顔は道灌にあやかる江戸の庶民になでられ続けたため磨り減って丸くなっているということです。
自性院から江古田はすぐ近くであるから、江古田が原へ向かった道灌は確かにこのあたりを通った可能性があります。このような伝承ができたということは、道灌が民衆の支持を受けていたため、随所で名もなき人々の支援を受けて苦境を脱したということです。
伝承はともかく私がもっと注目したものは、この寺にあるという私(し)年号(ねんごう)の板碑です。新宿区教育委員会の説明板によると、道灌が駆け抜けた混乱の時代には、室町幕府の力が弱ったため、関東の豪族や寺社は勝手に年号を決めました。この寺の板碑に記された私年号「福徳元年」は「延徳2年=1490年」のことです。この「福徳」という私年号には混乱のなかで現世安穏をひたすら願った民衆の思いが込められています。この板碑は新宿区指定有形民俗文化財です。
自性院=東京都新宿区西落合1-11-23

2018年01月19日

新宿の玉ちゃん

さて、東京都庁の近くの通称「三角ビル」こと新宿住友ビルデングの前の広場に黒猫の石像があります。台座の説明版に曰く、

  ひとにいのちあれば ねこにもいのちあり
  江戸の里をひらきし太田道灌
  この地の北でいくさに敗れ
  あわやいのちを失わん時
  一匹のねこあらわれにげ道をあんない
  いのちをとりとめ江戸を開いた
  なれどこのかくれた江戸の恩猫も
  ねこなるゆえに名ものこらぬはふびん
  江戸のいゝたま玉ちゃんと名づけ
  のちのちまでの江戸のまもりとす
        つくりびと  流 政之
         ねこの生まれ 文明狂年

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(写真は新宿三角ビル前の黒猫玉ちゃん)
  
丸の内の旧都庁舎の前に立っていた太田道灌の銅像は、現在東京フォーラムの中に立ち江戸城を見つめています。私は、新都庁舎の前にも太田道灌の銅像が欲しいなあと残念がっていたら、都庁横の広場で黒猫の玉ちゃんに出会い慰められました。今もやはりひそかに黒猫が道灌を助けています。玉ちゃんが両手でしっかり抱いている大きな玉は、いったい何の玉なのでしょうか。
新宿住友ビル=東京都新宿区西新宿2―6―1