2010年01月10日

道灌本隊の甲州への道と開光院

ひょんなことから、東京都あきる野市五日市に太田道灌ゆかりの寺があると聞いたので、冬の晴れた日に車を飛ばして訪ねてみました。JR五日市線の終点五日市駅から檜原街道へ入ってすぐ右側に都立五日市高校があります。その背後の丘陵地域に、臨済宗建長寺派の幽遠山開光院があります。由緒ありげな山門と本堂の屋根には、太田家と同じ細桔梗の寺紋があり、早速胸騒ぎがしてきました。山門の横にあきる野市教育委員会の説明板があり、この寺が1448年(文安5年)の開創であり、あきる野市指定文化財であると記されています。
本堂へ入ると住職がいましたので太田道灌のことを尋ねました。住職は心安く対応してくれ、私が詳しく質問すると、奥の方から秘蔵の住職手製の太田道灌覚書帳を持ってきて見せてくれました。それには次のように記されています。
「開光院に伝わる慶安5年5月の文書によると、開創間もない頃太田道灌公が、この地で取り合いがあったとき開光院に滞在し、ご運が開けたご褒美に寺領十六石の寄進を取り計らい、そのため寺では道灌公の位牌を立て置き、朝夕茶湯を献じてきたとある。今も寺では、道灌公の位牌をまつっている」

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(開光院の山門)
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(本堂の屋根に太田細桔梗の寺紋)         
 
この地は、「太田道灌状」に記されているあきる野市二宮から約3キロも離れた山裾の小高い所です。「道灌は一体何のためにここへ来たのですか」と私は聞きました。住職は「多分檜原を通って峠を越え、上野原へ行ったのでしょう」と言いながらも「寺の文書は江戸時代のものですから」と自信なさそうでした。私は逆に、これは何か曰く因縁があるのではないかと心に引っかかってきました。

私は家に帰ってから「太田道灌状」を舐めるようにして読み、地図を見ながら考えると、重大なことに思い至ったのです。それは、1478年(文明10年)太田道灌が長尾景春の与党を掃討するため、村山の陣から甲州へ向かったとき、道灌の本隊がほんとうに開光院で戦勝祈願(休憩)をし、檜原街道を通って人里(へんぼり)のあたりから峠を一つ(今は武甲トンネル)越えて上野原へ入ったのではないかということです。その理由は三つあります。
(1)「太田道灌状」によると、1478年(文明10年)6月、道灌の本隊は村山の陣(武蔵村山市)に留まり、大田資忠、六郎等の先遣隊が奥(おくの)三保(さんほ)(神奈川県津久井方面)で長尾景春与党の本間氏、海老名氏、加藤氏等を打ち破りました。続いて次のように記されています。
「夜中村山の陣へ告げ来たり候間、未明に罷り立ち、同16日甲州境を越え、加藤の要害へ差し寄せ打ち散らし、鶴河の所を始めとして放火せしめ候間、其の儘甲州東西静謐仕り候」
「太田道灌状」に「甲州境を越え」とあるからには、道灌の本隊は檜原から峠を越えて上野原へ向かったに違いありません。峠を越えるとすぐ加藤氏の本拠地上野原城が桂川の岸壁の上にあり、近くに鶴河宿もあります。奥三保ルート(八王子、津久井経由相模川沿い)では、敢えて越えるような峠も山もありません。
(2)道灌軍が16日未明に村山を出発してその日のうちに上野原の鶴河を攻撃したとすると、奥三保ルートではいかに健脚の足軽隊でも距離が遠すぎます。私はかつて両ルートとも車で走ったことがありますが、檜原ルートは約50キロと思われ、奥三保ルートの約三分の二の距離です。
(3)苦林(にがばやし)の戦でもその後の総州攻略でも、道灌と資忠とは本隊、別動隊となることがよくありました。両方向から加藤氏要害を攻めることは、道灌の作戦上考えられることであります。
以上のような理由で私は、道灌の本隊は、村山から秋川沿いに五日市へ至り、中間地点の開光院で休憩をとり、檜原街道に入って峠越えをしたと推定いたします。五日市辺りの人は今も、上野原をすぐ隣村のような言い方をします。檜原から上野原への峠道は、当時の幹線道路であったと思います。

開光院の住職の道灌覚書帳には11か所7種類の道灌の戒名が記されてありました。戒名は、それぞれの寺の住職が思いを込めて作るものなので、七種類有っても特段の歴史的意味があることではない、と住職は語っていました。一番驚いているのは、生涯に鶴千代・資長・持資・道灌と名前を変え、没後に7種類も名前をつけられた道灌自身だと思います。これも道灌の人気のなせることであります。7種類の戒名は次の通りです。
@大慈寺殿心園道灌大居士 (あきる野市開光院・伊勢原市大慈寺
 三島市妙法華寺・太田三楽斎家系図) 
A春苑道灌禅定門 (梅花無尽蔵)
B春苑静勝居士 (本国寺年譜)
C香月院殿春苑静勝道灌大居士 (東京都北区静勝寺)
D蓮乗院殿道灌日恩大居士 (東京都墨田区法恩寺)
E洞昌院殿道灌大居士 (伊勢原市洞昌院)
F香月院殿春苑道灌大居士 (さいたま市芳林寺・川島町養竹院)
私の知るところでは、鎌倉市の太田道灌出生地と言われる英勝寺の奥山にある供養墓に「太田道灌斎大居士」と彫ってあります。これをカウントすると、道灌の戒名は8種類ということになると思います。

私が開光院を訪れた日が五の日であったので、五日市駅近くの広場で、文字通り五日市ふるもの市が開催されていました。近在の旧家に伝わった陶器や道具などがたくさん並べられていましたが、骨董に目が利かない私には残念なことでありました。
開光院=東京都あきる野市五日市691
posted by otadoukan at 13:44| Comment(0) | 道灌紀行は限りなく

2009年03月04日

自性院の道灌招き猫

地下鉄都営大江戸線の落合南長崎駅で下車して、新青梅街道を3分も歩くと小判を持った大きな招き猫のある門柱に気づきます。そこを左折すると通称猫寺こと自性院です。赤い山門のそばに立派な猫地蔵堂があります。
1477年(文明9年)の江古田が原の戦いの際、日暮れて道に迷った太田道灌の前に一匹の黒猫が現れて一行を自性院へ案内しました。道灌はそこで一夜を過ごすことができたため戦に勝利したということです。
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(自性院門柱の招き猫)

このお手柄猫は猫地蔵となり、毎年節分のとき猫地蔵堂で参詣者を迎えてくれます。会った人の話では、猫の顔は道灌にあやかる江戸の庶民になでられ続けたため磨り減って丸くなっているということです。
自性院から江古田はすぐ近くであるから、江古田が原へ向かった道灌は確かにこのあたりを通った可能性があります。このような伝承ができたということは、道灌が民衆の支持を受けていたため、随所で名もなき人々の支援を受けて苦境を脱したということです。
伝承はともかく私がもっと注目したものは、この寺にあるという私(し)年号(ねんごう)の板碑です。新宿区教育委員会の説明板によると、道灌が駆け抜けた混乱の時代には、室町幕府の力が弱ったため、関東の豪族や寺社は勝手に年号を決めました。この寺の板碑に記された私年号「福徳元年」は「延徳2年=1490年」のことです。この「福徳」という私年号には混乱のなかで現世安穏をひたすら願った民衆の思いが込められています。この板碑は新宿区指定有形民俗文化財です。
自性院=東京都新宿区西落合1-11-23

2017年10月24日

新宿の玉ちゃん

さて、東京都庁の近くの通称「三角ビル」こと新宿住友ビルデングの前の広場に黒猫の石像があります。台座の説明版に曰く、

  ひとにいのちあれば ねこにもいのちあり
  江戸の里をひらきし太田道灌
  この地の北でいくさに敗れ
  あわやいのちを失わん時
  一匹のねこあらわれにげ道をあんない
  いのちをとりとめ江戸を開いた
  なれどこのかくれた江戸の恩猫も
  ねこなるゆえに名ものこらぬはふびん
  江戸のいゝたま玉ちゃんと名づけ
  のちのちまでの江戸のまもりとす
        つくりびと  流 政之
         ねこの生まれ 文明狂年

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(写真は新宿三角ビル前の黒猫玉ちゃん)
  
丸の内の旧都庁舎の前に立っていた太田道灌の銅像は、現在東京フォーラムの中に立ち江戸城を見つめています。私は、新都庁舎の前にも太田道灌の銅像が欲しいなあと残念がっていたら、都庁横の広場で黒猫の玉ちゃんに出会い慰められました。今もやはりひそかに黒猫が道灌を助けています。玉ちゃんが両手でしっかり抱いている大きな玉は、いったい何の玉なのでしょうか。
新宿住友ビル=東京都新宿区西新宿2―6―1