2020年02月21日

養竹院と密厳院そして叔悦禅懌と資家

鎌倉の円覚寺の第150世住持であった叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)は、太田道灌の弟(太田潮田系図)とも甥(太田資武状)ともいわれています。叔悦は、1525年(大永5年)に86歳で示寂したといわれているので、生まれは1439年(永享11年)で道灌より7歳年下でありました。
道灌の詩友万里集九は、道灌没後に叔悦に宛てた書簡(梅花無尽蔵)で、道灌や叔悦との「文騒」(文学談義)が懐かしい、と記しています。口角泡を飛ばす文学論争をした三人は、年齢があまり離れてはいなかったのです。私はここで、埼玉県教育委員会の弟説に従っておきます。
埼玉県川越市の養竹院(ようちくいん)と上尾市の密厳院(みつごんいん)は、両寺とも叔悦禅懌が開山となり、道灌の養子太田資家が開基となった臨済宗の寺です。最初に養竹院を訪れ、そのあと、そこから約4キロ東にある密厳院へ向かいました。両寺とも駅から離れているので、車で行かねばなりません。

養竹院
川越城址から国道254号線を少し北上し、宮元町で県道12号線へ入ります。表(おもて)というところを過ぎてから右折するとすぐ左手に養竹院の山門が見えます。
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(養竹院の山門)
山門の近くに「太田道灌陣屋跡」の碑があり、左右に水濠の遺構があります。
『太田資武状』の第2の書状の第3段にいう。「叔悦和尚の兄是も甥に候故、家督を与奪致され、川越西門の屋敷へ相い移られ、股肱の臣なりと謂われた人に御座候」と。
また第7段にいう、「河越西門に之有は養竹院殿義芳賢公庵主、その次智楽道可庵主、さて亡父をは智正院殿岳雲道端庵主と申候、仮名ニハ源の字伝リ申候、戒名ニハ道ノ字備リ申候由候事」と。
ここでいう河越城の西門の屋敷とは現在の養竹院で、太田資家はここに居住したことがあり、資頼、資正の位牌もここにあると思われます。
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(太田道灌陣屋跡の碑)
山門を入ると説明版があり、叔悦禅師頂相(ちんぞう)のことが記されています。説明版にいう。
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(叔悦禅師頂相の表示)
県指定有形文化財 紙本着色叔悦禅師頂相
        比企郡川島町大字表常楽山養竹院(埼玉県立博物館蔵)
養竹院は明応の頃(1492〜1500)太田道灌の養子の岩槻城主太田信濃守資家が道灌の菩提を弔うために建て、道灌の弟の叔悦(1525年寂)が鎌倉の円覚寺から招かれて開山となりました。
叔悦禅師頂相とは、禅宗の坊さんである叔悦が、曲ろくという椅子にかけた縦83センチメートル、横37.5センチメートルの肖像画のことです。
 叔悦のあとをついだ奇文という坊さんが描かせたもので、絵の上部には、建長寺の賜谷という人が賛(たたえたことば)をしています。この賛には、叔悦が相模地方で生まれ、若いころから円覚寺で学問や修行をした立派な坊さんであることが記されています。
 絵の色がだいぶ薄くなってしまい、下絵の線が見えていることところもありますが、叔悦がまだ生きていつ頃の姿がわかるのみならず、室町時代の坊さんの様子がわかるので県内ではたいへん貴重なものです。
 なお養竹院には、資康の子資頼の姿を画いた画像やその他のものもあります。 
 昭和57年3月27日 埼玉県教育委員会 川島町教育委員会

養竹院横の墓所には、「資」の付く名前の墓石がならび、それらの中央に、太田資家夫妻の二つの宝篋印塔が並んでいます。 
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(太田家の墓石と資家夫妻の宝篋印塔・後列左)

密厳院
養竹院を出て、県道12号線をさらに東のほうへ約4キロ走ります。桶川西高という交差点で右折し、上尾市藤波に入ると密厳院があります。
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(密厳院の山門)
本堂の左側の墓所の奥に歴代住職の卵塔が並んでいます。一番右側の碑だけが角形の墓碑で、よく見ると「淑」の字だけが判読できます。それが叔悦禅師の墓碑と思われます。
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(叔悦禅師の墓碑か)
墓域の西南端に、後年の建立と思われる開山塔があります。
『新編武蔵風土記稿』には、密厳院の縁起として「本尊正観音を安ず、腹籠りに運慶の刻める長一寸八分の尊像を収む、其の正しきことを知らず、文書二通を蔵す、一つは大道寺駿河守政繁より與へし制札なり」と記されています。
運慶作の尊像と大道寺政繁の制札は、現在行方不明です。叔悦禅師筆の紺紙金泥(こんしきんでい)の法華経が当寺に伝えられています。

密厳院の本堂脇には、黒御影石の立派な戦没者慰霊碑が建っています。大東亜戦争の悲惨な結果が記され、この地区から出征して戦死した22名全員のフルネームと位階が記されています。同じ苗字の人たちも何組かいて、位階はみな陸軍上等兵や兵長です。武勲を示して散華したといわれながら、残された人々のやりきれない悲しみがひしひしと伝わってくる慰霊碑です。
叔悦禅師も、兄弟である太田資忠や六郎を戦で失い、やがては道灌をも失いました。太田道真は河越城での「川越千句」で、「西よりも来ぬる 仏の法の道」と、また「争えることなく 国ものどけきに」と非戦の句を詠んでいます。叔悦禅懌はその思いを継いで、のどけき国を願い仏道に励み86歳の天寿を全うしました。
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2020年01月07日

狭山の天女稲荷・道灌有縁

私が住んでいる東大和市の尾ア市長は、郷土史による町おこしに熱心です。先日市長に会い、郷土史の情報を提供した際、市長は自らのスマホの画面を開いて、地元の多摩湖近くにある道灌有縁の天女稲荷を教えてくれました。
西武新宿線あるいは西武池袋線で西へ向かい、所沢で乗り換えると西武球場にきます。西武球場の正面に、西武球団が必勝祈願をする狭山山不動寺があり、その入り口に例の「太田道灌御神木」があります。
不動寺に向かって左折してちょっと坂を登ると山口観音があります。ここは狭山33所の一番です。山口観音の境内は広く、あちこちに拝むところがたくさんあり、弘法大師の銅像や新田義貞公の霊馬もあり迷います。
新田義貞公霊馬.jpg
(新田義貞公の霊馬)
『狭山の栞』という地元の地誌の山口村の項に言う、「往古太田左衛門佐道灌、文明十八年、讒者のために相州粕谷の舘に亡ぼされ、家臣日暮里玄蕃(にっぽりげんば)当地に移住せしが、後豊島郡に移り彼の地を日暮の里(ひぐらしのさと)と云いこの地を日暮里(にっぽり)と言いしを何時のころよりから新堀(にっぽり)といい傳ふ」。
境内左方の中腹に天女稲荷という小社があります。「狭山の栞」の山口観音の項にいう、「天女稲荷は日暮里玄蕃の勧請にして当山の鎮守とす。元は太田道灌所持の霊像なりといふ」。
天女稲荷の小社.JPG
(天女稲荷の小社)
天女稲荷説明板.JPG
(天女稲荷の説明板)
天女稲荷の説明板にいう、「太田道灌の家臣により奉納され、五穀豊穣・万民豊楽を祈念す。農業・衣料・水に関わる商人に霊験あらたか」。御開扉していないので、残念ながら天女稲荷を拝見するとてはできません。
首都圏に太田道灌有縁の稲荷社はたくさんあります。もっとも有名なのは、千代田区の太田姫稲荷神社です。道灌は娘の病気平癒のため京都山城の国の一口(いもあらい)稲荷に代人を送って祈願し、病気平癒後に稲荷を江戸城の鬼門(東北)に勧請しました。日暮里玄蕃はおそらくこの稲荷を勧請したのでしょう。なぜなら「姫」と「天女」はイメージが通じます。
山口観音に天女稲荷を勧請した、道灌の家臣日暮里玄蕃という人物については、今後の研究課題です。
「狭山の栞」は1939年(昭和14年)杉本林志により刊行された地誌です。
posted by 道灌紀行 at 20:47| Comment(0) | 狭山の天女稲荷・道灌有縁

狭山の天女稲荷・道灌有縁

私が住んでいる東大和市の尾ア市長は、郷土史による町おこしに熱心です。先日市長に会い、郷土史の情報を提供した際、市長は自らのスマホの画面を開いて、地元の多摩湖近くにある道灌有縁の天女稲荷を教えてくれました。
西武新宿線あるいは西武池袋線で西へ向かい、所沢で乗り換えると西武球場にきます。西武球場の正面に、西武球団が必勝祈願をする狭山山不動寺があり、その入り口に例の「太田道灌御神木」があります。
不動寺に向かって左折してちょっと坂を登ると山口観音があります。ここは狭山33所の一番です。山口観音の境内は広く、あちこちに拝むところがたくさんあり、弘法大師の銅像や新田義貞公の霊馬もあり迷います。
新田義貞公霊馬.jpg
(新田義貞公の霊馬)
『狭山の栞』という地元の地誌の山口村の項に言う、「往古太田左衛門佐道灌、文明十八年、讒者のために相州粕谷の舘に亡ぼされ、家臣日暮里玄蕃(にっぽりげんば)当地に移住せしが、後豊島郡に移り彼の地を日暮の里(ひぐらしのさと)と云いこの地を日暮里(にっぽり)と言いしを何時のころよりから新堀(にっぽり)といい傳ふ」。
境内左方の中腹に天女稲荷という小社があります。「狭山の栞」の山口観音の項にいう、「天女稲荷は日暮里玄蕃の勧請にして当山の鎮守とす。元は太田道灌所持の霊像なりといふ」。
天女稲荷の小社.JPG
(天女稲荷の小社)
天女稲荷説明板.JPG
(天女稲荷の説明板)
天女稲荷の説明板にいう、「太田道灌の家臣により奉納され、五穀豊穣・万民豊楽を祈念す。農業・衣料・水に関わる商人に霊験あらたか」。御開扉していないので、残念ながら天女稲荷を拝見するとてはできません。
首都圏に太田道灌有縁の稲荷社はたくさんあります。もっとも有名なのは、千代田区の太田姫稲荷神社です。道灌は娘の病気平癒のため京都山城の国の一口(いもあらい)稲荷に代人を送って祈願し、病気平癒後に稲荷を江戸城の鬼門(東北)に勧請しました。日暮里玄蕃はおそらくこの稲荷を勧請したのでしょう。なぜなら「姫」と「天女」はイメージが通じます。
山口観音に天女稲荷を勧請した、道灌の家臣日暮里玄蕃という人物については、今後の研究課題です。
「狭山の栞」は1939年(昭和14年)杉本林志により刊行された地誌です。
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