2020年03月13日

道灌の足柄越え・駿河遠征

現在、箱根越えと言えば誰でも、あの有名な箱根駅伝のコースとなっている国道1号線を思い浮かべます。ところが実は、古代の箱根越えのメインルートは、金太郎伝説で有名な足柄峠越えルートでした。800年の富士山延暦噴火で御殿場側の道が不通となり、現在の箱根峠越えの道が開発されました。その後、足柄峠越えの道は復旧したものの今では脇街道となっています。太田道灌は生涯で二度、足柄峠越えをしたので、その足跡をたどります。
伊勢原市から車で国道246号線を西へ向かい、秦野市、大井町を経て255線に入り、さらに神奈川県道78号御殿場大井線へ入ります。この道が昔の足柄峠越えの道で、まっすぐ西へ向かうと標高759メートルの足柄峠へ着きます。もちろん途中は、急坂やピンカーブがたくさんある難路です。
足柄万葉公園からの富士.JPG
(万葉足軽公園からの富士山)
万葉集の歌碑.JPG  
(万葉歌碑)
峠の県境の神奈川県側には万葉足柄公園があり、樹間から急に大きな富士が見えるのであっと驚きます。万葉集の防人の歌の碑があり、碑にいう「足柄の御坂に立して袖ふらば 家なる妹(いも)は清(さや)に見もかも」と。これは、出征する兵士の歌です。
足柄峠説明版.JPG
(足柄峠の説明版)
標高759メートルの足柄峠の標柱には、この峠での主要史が年表状に記されています。文明八年(一四七六)の欄に「太田道灌今川氏の内紛につき氏親に合力せんと足柄を越える」と明記されています。
足柄峠.JPG
(足柄峠の標柱と主要史年表)
足柄峠の静岡県側には足柄城址があり、その城山に立てば、富士山の全容が視野いっぱいに迫ってきます。
足柄城址碑.JPG
(足柄城址の碑)
足柄城址の碑.JPG
(城山の碑)
1465年(寛正6年)太田道灌は、足柄峠を通って上洛した可能性があります。そのとき道灌は、足利義政と会見して江戸城の事を問われ「わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」と詠みました。道灌は江戸城静勝軒の軒端に見える富士の遠景と、足軽峠から見えた富士の全容を比べて、感に堪えたことでありましょう。

『太田道灌状』には、次のように記されています。「翌年(文明八年)三月道灌は駿州へ向かい、今河新五郎殿合力として相州を罷り立ち六月足柄に越し、九月末本意の如くして豆州北条に参上致し、十月末帰宅せしめそのまま出頭に及ばず候」。
1476年(文明8年)6月太田道灌は、主命を受けて今川氏の跡目争いを解決するために、駿河へむかいました。道灌はその日、騎馬武者と足軽等約300人を率いて、早朝に相模国伊勢原の上杉氏守護所を発ち、第一日はこの足柄城で幕営したと思われます。一行は途中、難所で大いに汗を流したものの、峠から見えた富士の雄姿にしばし疲れを忘れたことでありましょう。
足柄城址の富士.JPG
(足柄城址からの富士全容)
足柄城の築城者は、一説によれば太田家の盟友大森氏ですが、詳細は詳らかではありません。いずれにしても、伊勢原からここまで約35キロであるので、騎馬隊や健脚の足軽隊にとっては、難路を考慮しても一日の行程としてちょうどよい距離です。
翌日、道灌一行は峠を駆け下り、一気に駿河の八幡山城まで走ったと思われます。駿河で太田道灌は、伊勢新九郎(北条早雲)と談合し、今川家の嫡男竜王丸が成人するまでの間だけ、上杉家縁者今川範満が駿河守護職を代行する、という妥協案で一応の決着を見ました。

この間のことについて、司馬遼太郎は小説「箱根の坂」の一節「太田道灌」に書いています。また、御殿場へ下る峠道の途中に、富士眺望日本一を誇る「誓いの丘」があります。『強力伝』『芙蓉の人』『富士山頂』など富士にかかわる小説をたくさん書いた新田次郎の文学碑と誓いの鐘がそこにあります。
誓いの鐘.JPG
(日本一の富士眺望と誓いの鐘)
道灌は駿河で任務をはたし、八幡山城から江戸城へ帰る途中、伊豆の北条(伊豆の国市)へ寄って堀越公方足利政知に一部始終を報告し、また足柄峠を越えて武蔵へ帰りました。道灌にとって、事前の段取り等をふくめて約七か月の骨折りでありました。
道灌の駿河遠征の最中に、武蔵では長尾景春の乱が勃発し、関八州は急を告げていました。道灌はこのあと、30数回の戦に突入していきます。
posted by 道灌紀行 at 10:40| Comment(0) | 道灌の足柄越え・駿河遠征

2020年02月21日

養竹院と密厳院そして叔悦禅懌と資家

鎌倉の円覚寺の第150世住持であった叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)は、太田道灌の弟(太田潮田系図)とも甥(太田資武状)ともいわれています。叔悦は、1525年(大永5年)に86歳で示寂したといわれているので、生まれは1439年(永享11年)で道灌より7歳年下でありました。
道灌の詩友万里集九は、道灌没後に叔悦に宛てた書簡(梅花無尽蔵)で、道灌や叔悦との「文騒」(文学談義)が懐かしい、と記しています。口角泡を飛ばす文学論争をした三人は、年齢があまり離れてはいなかったのです。私はここで、埼玉県教育委員会の弟説に従っておきます。
埼玉県川越市の養竹院(ようちくいん)と上尾市の密厳院(みつごんいん)は、両寺とも叔悦禅懌が開山となり、道灌の養子太田資家が開基となった臨済宗の寺です。最初に養竹院を訪れ、そのあと、そこから約4キロ東にある密厳院へ向かいました。両寺とも駅から離れているので、車で行かねばなりません。

養竹院
川越城址から国道254号線を少し北上し、宮元町で県道12号線へ入ります。表(おもて)というところを過ぎてから右折するとすぐ左手に養竹院の山門が見えます。
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(養竹院の山門)
山門の近くに「太田道灌陣屋跡」の碑があり、左右に水濠の遺構があります。
『太田資武状』の第2の書状の第3段にいう。「叔悦和尚の兄是も甥に候故、家督を与奪致され、川越西門の屋敷へ相い移られ、股肱の臣なりと謂われた人に御座候」と。
また第7段にいう、「河越西門に之有は養竹院殿義芳賢公庵主、その次智楽道可庵主、さて亡父をは智正院殿岳雲道端庵主と申候、仮名ニハ源の字伝リ申候、戒名ニハ道ノ字備リ申候由候事」と。
ここでいう河越城の西門の屋敷とは現在の養竹院で、太田資家はここに居住したことがあり、資頼、資正の位牌もここにあると思われます。
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(太田道灌陣屋跡の碑)
山門を入ると説明版があり、叔悦禅師頂相(ちんぞう)のことが記されています。説明版にいう。
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(叔悦禅師頂相の表示)
県指定有形文化財 紙本着色叔悦禅師頂相
        比企郡川島町大字表常楽山養竹院(埼玉県立博物館蔵)
養竹院は明応の頃(1492〜1500)太田道灌の養子の岩槻城主太田信濃守資家が道灌の菩提を弔うために建て、道灌の弟の叔悦(1525年寂)が鎌倉の円覚寺から招かれて開山となりました。
叔悦禅師頂相とは、禅宗の坊さんである叔悦が、曲ろくという椅子にかけた縦83センチメートル、横37.5センチメートルの肖像画のことです。
 叔悦のあとをついだ奇文という坊さんが描かせたもので、絵の上部には、建長寺の賜谷という人が賛(たたえたことば)をしています。この賛には、叔悦が相模地方で生まれ、若いころから円覚寺で学問や修行をした立派な坊さんであることが記されています。
 絵の色がだいぶ薄くなってしまい、下絵の線が見えていることところもありますが、叔悦がまだ生きていつ頃の姿がわかるのみならず、室町時代の坊さんの様子がわかるので県内ではたいへん貴重なものです。
 なお養竹院には、資康の子資頼の姿を画いた画像やその他のものもあります。 
 昭和57年3月27日 埼玉県教育委員会 川島町教育委員会

養竹院横の墓所には、「資」の付く名前の墓石がならび、それらの中央に、太田資家夫妻の二つの宝篋印塔が並んでいます。 
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(太田家の墓石と資家夫妻の宝篋印塔・後列左)

密厳院
養竹院を出て、県道12号線をさらに東のほうへ約4キロ走ります。桶川西高という交差点で右折し、上尾市藤波に入ると密厳院があります。
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(密厳院の山門)
本堂の左側の墓所の奥に歴代住職の卵塔が並んでいます。一番右側の碑だけが角形の墓碑で、よく見ると「淑」の字だけが判読できます。それが叔悦禅師の墓碑と思われます。
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(叔悦禅師の墓碑か)
墓域の西南端に、後年の建立と思われる開山塔があります。
『新編武蔵風土記稿』には、密厳院の縁起として「本尊正観音を安ず、腹籠りに運慶の刻める長一寸八分の尊像を収む、其の正しきことを知らず、文書二通を蔵す、一つは大道寺駿河守政繁より與へし制札なり」と記されています。
運慶作の尊像と大道寺政繁の制札は、現在行方不明です。叔悦禅師筆の紺紙金泥(こんしきんでい)の法華経が当寺に伝えられています。

密厳院の本堂脇には、黒御影石の立派な戦没者慰霊碑が建っています。大東亜戦争の悲惨な結果が記され、この地区から出征して戦死した22名全員のフルネームと位階が記されています。同じ苗字の人たちも何組かいて、位階はみな陸軍上等兵や兵長です。武勲を示して散華したといわれながら、残された人々のやりきれない悲しみがひしひしと伝わってくる慰霊碑です。
叔悦禅師も、兄弟である太田資忠や六郎を戦で失い、やがては道灌をも失いました。太田道真は河越城での「川越千句」で、「西よりも来ぬる 仏の法の道」と、また「争えることなく 国ものどけきに」と非戦の句を詠んでいます。叔悦禅懌はその思いを継いで、のどけき国を願い仏道に励み86歳の天寿を全うしました。

養竹院と密厳院そして叔悦禅懌と資家

鎌倉の円覚寺の第150世住持であった叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)は、太田道灌の弟(太田潮田系図)とも甥(太田資武状)ともいわれています。叔悦は、1525年(大永5年)に86歳で示寂したといわれているので、生まれは1439年(永享11年)で道灌より7歳年下でありました。
道灌の詩友万里集九は、道灌没後に叔悦に宛てた書簡(梅花無尽蔵)で、道灌や叔悦との「文騒」(文学談義)が懐かしい、と記しています。口角泡を飛ばす文学論争をした三人は、年齢があまり離れてはいなかったのです。私はここで、埼玉県教育委員会の弟説に従っておきます。
埼玉県川越市の養竹院(ようちくいん)と上尾市の密厳院(みつごんいん)は、両寺とも叔悦禅懌が開山となり、道灌の養子太田資家が開基となった臨済宗の寺です。最初に養竹院を訪れ、そのあと、そこから約4キロ東にある密厳院へ向かいました。両寺とも駅から離れているので、車で行かねばなりません。

養竹院
川越城址から国道254号線を少し北上し、宮元町で県道12号線へ入ります。表(おもて)というところを過ぎてから右折するとすぐ左手に養竹院の山門が見えます。
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(養竹院の山門)
山門の近くに「太田道灌陣屋跡」の碑があり、左右に水濠の遺構があります。
『太田資武状』の第2の書状の第3段にいう。「叔悦和尚の兄是も甥に候故、家督を与奪致され、川越西門の屋敷へ相い移られ、股肱の臣なりと謂われた人に御座候」と。
また第7段にいう、「河越西門に之有は養竹院殿義芳賢公庵主、その次智楽道可庵主、さて亡父をは智正院殿岳雲道端庵主と申候、仮名ニハ源の字伝リ申候、戒名ニハ道ノ字備リ申候由候事」と。
ここでいう河越城の西門の屋敷とは現在の養竹院で、太田資家はここに居住したことがあり、資頼、資正の位牌もここにあると思われます。
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(太田道灌陣屋跡の碑)
山門を入ると説明版があり、叔悦禅師頂相(ちんぞう)のことが記されています。説明版にいう。
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(叔悦禅師頂相の表示)
県指定有形文化財 紙本着色叔悦禅師頂相
        比企郡川島町大字表常楽山養竹院(埼玉県立博物館蔵)
養竹院は明応の頃(1492〜1500)太田道灌の養子の岩槻城主太田信濃守資家が道灌の菩提を弔うために建て、道灌の弟の叔悦(1525年寂)が鎌倉の円覚寺から招かれて開山となりました。
叔悦禅師頂相とは、禅宗の坊さんである叔悦が、曲ろくという椅子にかけた縦83センチメートル、横37.5センチメートルの肖像画のことです。
 叔悦のあとをついだ奇文という坊さんが描かせたもので、絵の上部には、建長寺の賜谷という人が賛(たたえたことば)をしています。この賛には、叔悦が相模地方で生まれ、若いころから円覚寺で学問や修行をした立派な坊さんであることが記されています。
 絵の色がだいぶ薄くなってしまい、下絵の線が見えていることところもありますが、叔悦がまだ生きていつ頃の姿がわかるのみならず、室町時代の坊さんの様子がわかるので県内ではたいへん貴重なものです。
 なお養竹院には、資康の子資頼の姿を画いた画像やその他のものもあります。 
 昭和57年3月27日 埼玉県教育委員会 川島町教育委員会

養竹院横の墓所には、「資」の付く名前の墓石がならび、それらの中央に、太田資家夫妻の二つの宝篋印塔が並んでいます。 
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(太田家の墓石と資家夫妻の宝篋印塔・後列左)

密厳院
養竹院を出て、県道12号線をさらに東のほうへ約4キロ走ります。桶川西高という交差点で右折し、上尾市藤波に入ると密厳院があります。
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(密厳院の山門)
本堂の左側の墓所の奥に歴代住職の卵塔が並んでいます。一番右側の碑だけが角形の墓碑で、よく見ると「淑」の字だけが判読できます。それが叔悦禅師の墓碑と思われます。
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(叔悦禅師の墓碑か)
墓域の西南端に、後年の建立と思われる開山塔があります。
『新編武蔵風土記稿』には、密厳院の縁起として「本尊正観音を安ず、腹籠りに運慶の刻める長一寸八分の尊像を収む、其の正しきことを知らず、文書二通を蔵す、一つは大道寺駿河守政繁より與へし制札なり」と記されています。
運慶作の尊像と大道寺政繁の制札は、現在行方不明です。叔悦禅師筆の紺紙金泥(こんしきんでい)の法華経が当寺に伝えられています。

密厳院の本堂脇には、黒御影石の立派な戦没者慰霊碑が建っています。大東亜戦争の悲惨な結果が記され、この地区から出征して戦死した22名全員のフルネームと位階が記されています。同じ苗字の人たちも何組かいて、位階はみな陸軍上等兵や兵長です。武勲を示して散華したといわれながら、残された人々のやりきれない悲しみがひしひしと伝わってくる慰霊碑です。
叔悦禅師も、兄弟である太田資忠や六郎を戦で失い、やがては道灌をも失いました。太田道真は河越城での「川越千句」で、「西よりも来ぬる 仏の法の道」と、また「争えることなく 国ものどけきに」と非戦の句を詠んでいます。叔悦禅懌はその思いを継いで、のどけき国を願い仏道に励み86歳の天寿を全うしました。